村爺のなんでもいいべ

南相馬市の馬事公苑を中心に活動しているディスクゴルフの話題や南相馬の出来事や思いついたことを書いていきます。

地井武男さん死去に思う

2012年06月30日 09時22分43秒 | 日記

「ちい散歩」の地井武男さんが昨日亡くなった。死因は心不全。地井さんは2月に体調不良を訴え病院で検査を受けた。心不全を起こす恐れがあると診断されて長期休養して治療に専念してきた。最近では週刊誌でジョギングする写真が掲載されたと言われ回復していると思われたが、昨日の朝70歳で亡くなった。

心不全とは、何らかの原因で心臓の血液排出が不十分になり、全身が必要とする血液の循環量を保てなくなった症状、つまり心臓の収縮力が低下した状態をいうそうです。

私も心臓に疾患を持っているのでいつどうなるかわからない。思わず昔を思い出してしまった。

小学生の頃は健康診断でも症状は確認されませんでしたが、中学時代に激しい運動をすると心臓の動悸が激しくなり動けなくなることがあった。でも健康診断で症状が出ないので気にもしないで激しい運動を繰り返していた。

高校に入り陸上部に入部し長距離ランナーを目指した。駅伝で全国を目指している高校だったので練習は厳しかった。でもそれに耐えて練習することはできた。高校1年でハーフマラソンまで経験し記録もそれなりに良いものを残すことができた。駅伝でも1年からメンバー入りした。地元の高校駅伝予選会に向けての試走では区間新記録を出すことができた。しかし、その頃から突然走ることができなくなることがあった。原因はわからなかった。高校駅伝の予選会でそれが起こってしまった。中継所の400m手前で突然走れなくなり目の前が真っ暗になってしまった。チームは独走状態だったので歩いてもトップでタスキを渡すことができた。でも一歩も歩くことができなかった。周りに人が集まり頑張れと言われても、どこか遠くで声がする感じだった。ここで棄権することはできない。必死に踏ん張り何とか400mを歩いた。走れば1分程度の距離だが長い400mだった。何とかトップでタスキを渡すことができチームも優勝を果たすことができた。チームのみんなからは感謝されたが俺とては不甲斐無い思いでみんなに顔向けができなかった。

翌日、病院に行き心臓の診察を受けた。心電図では軽度の不整脈が見られると診断された。みんなに迷惑をかけられないのでその翌日に退部届を出した。練習にも参加しなかった。

でも自分自身の身体に納得できなくて密かに走った。やはり12分を超えると心臓の心拍数が激しくなり走れなかった。ちょっと前まで20km以上走れたのにどうして? 自分自身の身体に納得できなかった。みんなにも信用されなかった。悔しかった。何に当たればいいのかわからず荒れた。でも密かに走り続けた。俺にはこれしか残っていなかった。

これが最初の挫折だった。

高校2年になり何もしていない俺の姿を見て陸上部の顧問の先生が声をかけてきた。「跳躍や投てきだったら走ることがないからできないか」と言われた。そういえば合宿の時など遊びに長距離以外の種目を遊びでやることがあり、ハイジャンプでそこそこ飛べたのを覚えていたらしい。何もやることがないのでチャレンジすることにした。高校にはハイジャンプをやる人がいないのでセーフティマットがなかった。先生が俺のために学校と交渉して買ってくれた。それで俺は絶対にやめられない状態になってしまった。先生を裏切ることはできない。そこから必死に頑張った。みんなの走る姿を見て無性に走りたかったので短距離にもチャレンジした。心臓に負担のかからないようにぎりぎりまで鍛え続けた。高校2年の地区新人大会でハイジャンプと砲丸投げで優勝、400mで2位に入ることができた。これで何とか先生に面目が立った。でも、もともと長距離中心の陸上部なので他の選手はいなかった。したがって練習はいつも俺一人だった。高校3年になり5種競技にチャレンジすることにした。走ることができないため持久力を鍛えることはできないので筋力を徹底的に鍛えることにした。おかけで高校一番の力持ちになってしまった。インターハイ予選ではハイジャンプと砲丸、400mが1位、100mが2位で5種競技はダントツ優勝と思われたが、110mハードルでこけてしまった。なんか俺らしいな。そんなに順調にいくわけないだろうよ!!

その頃から足にしびれを感じるようになった。病院でレントゲンを撮ったら右足の膝裏に軟骨の突起が見られそれが神経を圧迫していると診断を受けた。手術が必要と言われたが、高校最後の大会である国体予選が終わってからすることにした。

国体予選はハイジャンプと400mにしぼり出場したが、県予選で敗退してしまった。

足のしびれが取れないので、その冬休みに手術を決意した。膝裏は神経が多く通っているので難しい手術になると言われたが、その当時外科では名医と言われていた先生だったのであまり不安は感じなかった。手術は全身麻酔で行われるはずだった。しかし、麻酔をかけただけで終わってしまった。麻酔をかけたら心停止を起こしてしまったのだ。そういえばなんかすごく明るいところで誰かが俺を呼んでいたような気がする。麻酔から覚めた時に親から手術はできなかったと言われた。何で? 信じられなかった。「お前は一度死んだんだよ。もうやめような」と母親に泣かれてしまった。そのまま入院して精密検査を繰り返した。今みたいにルームランナーが無い時代だから負荷心電図を取るのにはひたすら踏み台昇降運動を繰り返した。1週間かけて検査した結果が期外収縮による不整脈だった。通常の生活では問題ないが心臓に負荷がかかると期外収縮が起こるというものだった。その当時の医学では治療方法がないので、激しい運動は控えるようにということだった。またやることがなくなった。担任の先生が入院中にクラスのみんなに内容を説明したらしい。学校に行くとツッパリから「かたわ」と言われ激怒した。気づいたら思いっきりぶん殴っていたらしい。みんなに抑えられながら血だらけになった殴った相手を見ても申し訳ない気持ちは起きなかった。先生にもとがめられなかった。先生はずいぶん長いこと気にしていたらしい。申し訳ないことをしたと思っている。

それが第2の挫折だった。

運動を止められても走り続けた。ぐれてもしょうがない何かにぶつけなければならなかった。そこから俺と俺の心臓の付き合いが始まった。

心臓に欠陥があるんだからそれに相談しながらやればいいじゃん的な考えだったかもしれない。

高校を卒業しても陸上は続けた。会社に行きながら暇さえあれば走った。おかげで高校を卒業して1年目で国立競技場で走ることができた。陸上人生で一度は国立競技場で走りたいが実現したので悔いはない。それで俺の陸上人生が終わってしまった。

高校を卒業してから中学時代にやっていたバドミントンを始めたくなり友人とチームを作った。陸上は孤独なスポーツだったのでみんなでやるバドミントンは楽しかった。やっぱりのめりこんだ。何でも完璧にしなければならない性格なので必死に練習した。必死に練習すればするほど強くなってしまった。強くなれば大会で勝ち進むことになる。バドミントンは激しすぎるスポーツなので本当に不安だった。でもなんとなく自分の心臓の状態と相談しながらできるようになった。ダブルスとシングルスの2種目参加し両方決勝まで進むと約9試合になる。やはり心臓がもたなく決勝になると試合にならないことがあった。相手に負けるよりも自分の心臓に負けてしまったのだ。俺の心臓も欠陥品なのに酷使されて迷惑だったろうな。

体育指導委員を市から任命されていろいろなスポーツにも取り組んだ。その中にディスクゴルフがあった。南相馬市馬事公苑にディスクゴルフコースが設置されるとその普及活動を任されてしまった。当初は市の担当者が中心に活動するはずだったがいつしかみんな離れてしまい俺一人に押し付けられてしまった。でも、ディスクゴルフだと心臓に負担がかからず適度に運動になるので俺には向いているかもしれない。

数年前、風邪で病院に行き診察を受けると不整脈が激しいと言われそのまま病院に監禁されてしまった。回復室という看護婦が常について監視している病室で24時間心電図を取り付けられ監視された。自分の心臓の音が常に聞こえるのには参りましたね。それに周りにいる患者はみんな亡くなりそうな方ばかりだし。そんな病室に閉じ込められていたらストレスでかえって悪くなるだろうよと常に思ってた。そこに一週間監禁された挙句に何もできないと言うことで違う病院を紹介された。最初からそっちに行った方がよかったべよと怒りを感じた。紹介された病院で精密検査をうけた。思えばこれまでの30年間かなりの精密検査を受け続けてきたが、決まって結果は治療の方法がないだった。でも今回は違った。今の医学は進んでいて不整脈を起こす部分までわかると言うのだ。今まで心臓に負荷をかけると心拍数が一気に上昇し目の前が真っ暗になることがあったが、それは心臓がけいれんを起こしているつまり除細動を起こしている状態なんだと言われた。けいれんを起こすと血液の流れが止まり頭に血液が流れなくなるので失神するそうです。今まで知らなかったことがはっきり分かるようになりました。今まで通っていた病院はすべて俗にいうやぶ医者だったんですね。治療にはカテーテルを心臓に挿入して不整脈を起こしている神経を焼切る手術と薬物治療があるそうです。手術をするとすぐに治るように思われますが、神経に命中する確率は低いようで命中するまで何回も繰り返さないとならないそうです。薬物も合ったものを探すのに長期間の治療が必要ということでした。どうする?と言われたのでもう少し様子をみて悪くなってきたら治療することにした。

年と共に体が衰え心臓に負担がかかるようになってきたのかもしれない。そんなこともあって30年間続けてきたバドミントンをやめることにした。チームをまとめる立場にありちょっと申し訳なかったのでが、やはり体育館に行くとバドミントンをやりたくなってしまう。やると体に負担がかかり心臓を弱めてしまう。仕方がないのできっぱりと見切りをつけた。でも、ちょっとつらかった。

これが第3の挫折?

これまで自分の心臓のために多くの挫折を繰り返してきた。でもその挫折と戦うことで多くのものを勉強し経験できてきたと思う。なにもない人生を送るよりこれまでの50数年は俺にとって充実していたのかもしれない。

今はディスクゴルフ単独になってしまった。

それでも震災と原発事故が起こる前は、ディスクゴルフの練習をすることで適度な運動になっていた。それがあの日を境に失われてしまった。家に閉じこもることも多くなった。運動をやれないこともないがやる気がなくなってしまった。このままでは体力が失われて心臓も悪くなってしまうなと思っていたところに、地井さんの死亡がテレビに映った。なんか他人事に思えないへんな気持ちになりました。

これではダメだ動かなければ!!

あまり無理なことはできなくなってしまったが、地井さんのように早死にしないためにも自分の心臓をいたわりながら大事に生きなければ!!

頑張ろう!! 俺の心臓よ!!