令和元年7月5日(金)
鐘の鳴る丘
今朝、ラジオを聴いていると、「今日は何の日」
1947年(昭和22年)、NHKラジオ放送で
連続放送劇「金の鳴る丘」の放送が開始された
日、との事。
戦後間も無く、路頭に迷う戦災孤児は12万人
にのぼる。肉親を失い、行く場所のなくなった
彼らは「浮浪児」と呼ばれ、駅の地下道、ガード
下を塒に、靴磨き等をし、時にはカッパライ等
をして、その日一日を生き延びる、、、、。
巷に溢れる孤児達を収容する施設は少なく、、
そんな頃、戦後処理をするGHQは、この惨状
を重く見て、祖国米国で青少年問題を対応して
居た、ブラナガン神父を日本へ呼び寄せた。
ブラナガン神父と日本の現状を相談したGHQ
は、NHKに対し「戦災孤児の問題をテーマに
したドラマの制作を依頼した。
劇作家の菊田一夫さんは、生い立ちを孤児と同
様な体験をして居り、これに賛同した、、、。
毎日、ガード下等を訪れて孤児等に生い立ちや
体験を聞き、ドラマの構想を練り「鐘の鳴る丘」
を執筆した。
そして自らの詞に加え、作曲を古関裕而さんに
依頼、「とんがり帽子」の主題歌が完成。
(川田正子とゆりかご合唱団の歌)
当初、一話15分で、土、日の放送で在ったが
大きな反響を呼び、毎週月~金の放送となった。
テレビは基より何の娯楽のない時代、
子供達(私も)は夕方になるとラジオの前に
集った。
半年間の予定が数年間も続く事となった。
翌年(昭和23年)松竹で映画化(佐田啓二
主演)され、大ヒットし、3部作となる。
4部(完結編)の予告編を出しながら未完
となった。
このラジオドラマに感動した、ラバウルから
の復員兵の品川博さんは、菊田一夫氏を訪ね
「是非、お手伝いさせて下さい」と願うが、
「これはドラマで、実話ではない」と言われ、
自分で故郷の群馬県前橋市に「鐘の鳴る丘、
子供の家」を建てた。
後に、子供達と伴に働き、その収益で、
とんがり帽子の在る子供の家を完成した。
(昭和28年12月に完成)
「とんがり帽子」の歌は、我々の年代の者は
誰しもが耳にし、よく口ずさんだ歌で、、
明るい歌なのに、なぜか郷愁のある切なさ
を感じる、「昭和の歌」である。
今日の1句
サイダー瓶透かし昭和の蘇る ヤギ爺
鐘の鳴る丘
今朝、ラジオを聴いていると、「今日は何の日」
1947年(昭和22年)、NHKラジオ放送で
連続放送劇「金の鳴る丘」の放送が開始された
日、との事。
戦後間も無く、路頭に迷う戦災孤児は12万人
にのぼる。肉親を失い、行く場所のなくなった
彼らは「浮浪児」と呼ばれ、駅の地下道、ガード
下を塒に、靴磨き等をし、時にはカッパライ等
をして、その日一日を生き延びる、、、、。
巷に溢れる孤児達を収容する施設は少なく、、
そんな頃、戦後処理をするGHQは、この惨状
を重く見て、祖国米国で青少年問題を対応して
居た、ブラナガン神父を日本へ呼び寄せた。
ブラナガン神父と日本の現状を相談したGHQ
は、NHKに対し「戦災孤児の問題をテーマに
したドラマの制作を依頼した。
劇作家の菊田一夫さんは、生い立ちを孤児と同
様な体験をして居り、これに賛同した、、、。
毎日、ガード下等を訪れて孤児等に生い立ちや
体験を聞き、ドラマの構想を練り「鐘の鳴る丘」
を執筆した。
そして自らの詞に加え、作曲を古関裕而さんに
依頼、「とんがり帽子」の主題歌が完成。
(川田正子とゆりかご合唱団の歌)
当初、一話15分で、土、日の放送で在ったが
大きな反響を呼び、毎週月~金の放送となった。
テレビは基より何の娯楽のない時代、
子供達(私も)は夕方になるとラジオの前に
集った。
半年間の予定が数年間も続く事となった。
翌年(昭和23年)松竹で映画化(佐田啓二
主演)され、大ヒットし、3部作となる。
4部(完結編)の予告編を出しながら未完
となった。
このラジオドラマに感動した、ラバウルから
の復員兵の品川博さんは、菊田一夫氏を訪ね
「是非、お手伝いさせて下さい」と願うが、
「これはドラマで、実話ではない」と言われ、
自分で故郷の群馬県前橋市に「鐘の鳴る丘、
子供の家」を建てた。
後に、子供達と伴に働き、その収益で、
とんがり帽子の在る子供の家を完成した。
(昭和28年12月に完成)
「とんがり帽子」の歌は、我々の年代の者は
誰しもが耳にし、よく口ずさんだ歌で、、
明るい歌なのに、なぜか郷愁のある切なさ
を感じる、「昭和の歌」である。
今日の1句
サイダー瓶透かし昭和の蘇る ヤギ爺
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