平成29年15日(金)
歌声サロン、昭和文化小劇場
昭和文化小劇場は、昨年12月にオープンしたばかりの
真新しいホールです。
名古屋市の各区に在る文化小劇場がまた一つ誕生。
各席300席に車椅子席10席があり、場内各所はバリア
フリー化され、とても心地良い施設です。
名古屋市営地下鉄「上前津」で、鶴舞線に乗換え、、
4区間、家(名古屋港)から僅か30分程で到着。
10時会場と伴に、長蛇の列が進み、、、。
先ずは、ドリンクコーナー(お茶とお菓子が無料)へ、
屋外にウッドデッキが敷設され、其処がお茶の場所。
秋風が漂い始め、、とても心地良い空間が在りました。
ロビーが少し狭いための配慮です、、が、夏、冬には?
場内に入ると、既に8割程の方が着席されています。
10時30分、開演です。
ソングリーダー(栗田さかゑさん)の案内で、
最初の曲「高原列車は行く」が始まり、次々に、、
「小さい秋」「真赤な秋」「少年時代」「四季の歌」
「いい日旅立ち」と季節(秋)の歌が続きます。
今回初めての曲「白い街」のリクエストが在りました。
白い街、石原裕次郎
石原裕次郎が名古屋の街を唄ったご当地ソングです。
全国ではいざ知らず名古屋では大ヒットしました。
「坊がつる賛歌」を唄い、今回も一番リクエストの
多かった山口百恵の「秋桜」のピアノ伴奏が始まり、
唄の途中ソングリーダーの方が感極まり、涙溢れ、
こんな光景は「歌声ひろば」始まって以来、、、
会場から、万雷の拍手、、、、、。
気を取り直し、、、(謝りつつ)次の「桜貝の唄」
「真夜中のギター」を唄い、前半最後の曲「野に咲く
花のように」で15分間の休憩。
真夜中のギター、千賀かおる
トイレ、お茶タイム、、
ウッドデッキは超満員、止む無く自販機へ進み、、
後半の始まりは「夏の思い出」から、「思い出の渚」
「赤とんぼ」「里の秋」「蜜柑の花咲く丘」「ニコラ
イの鐘」「シクラメンのかおり「涙そうそう」「忘れ
な草を貴方に」
シクラメンのかおり、布施明
ここで、会場の本日(9月13日)の誕生日の方、
2名が居られ、お名前を入れ「ハッピーバースデイ」
を全員で大合唱、、、。
「青い山脈」「小さな木の実」「見上げてご覧夜の
星を」「ひまわり」「ラストソング」を唄い、本当の
ラストソング、「あの素晴らしい愛をもう一度」を
唄い、、大きな拍手が続き、フィナーレです。
本日の1曲
「赤とんぼ」
作詞 : 三木露風、 作曲 : 山田耕作、
1921年(大正10年)、三木露風は故郷の兵庫県
で過ごした幼年期の思い出を「赤とんぼ」として発表
当初は「夕焼け小焼けの山の空、負われて見たのは
幻か」とした。その後一部を修正した。
1927年(昭和2年)山田耕作が曲を付ける。
1955年(昭和30年)映画「ここに泉あり」の
挿入歌として、1961年(昭和36年)の映画
「夕焼け小焼けの赤とんぼ」の挿入歌として用いる。
1965年(昭和40年)NHKみんなのうた」で
紹介され全国に広まる。
赤とんぼ
夕焼け小焼けの赤とんぼ
負われて見たのはいつの日か
山の畑の桑の実を
小籠につんだはまぼろしか
十五で姐(ねい)やは嫁にゆき
お里のたよりもたえはてた
夕焼け小焼けの赤とんぼ
とまっているよ竿の先
この歌は三木露風が幼少の頃、優しかった母親を思い
詞に書いたようです。
母親は俳句や短歌を詠み新聞等へ投句する様な人で、
露風が幼い頃、万葉集の歌を読み聞かせてをり、、
その影響が後の彼の作詞へと、、、。
そんな両親は、彼が7歳の時に離婚をし、その後は
祖父に引き取られ、子守りの姐やが母親代わりに育て
ます。
その頃の想いを、1番の歌詞では母親に背負われた
のはいつ頃だったろうか、、、。
3番では、母親代わりの姐やが十五で嫁に行って、、
それきり故郷の便りが判らなくなって、、、
余談
1964年(昭和39年)12月29日、三木露風は
自宅近くで交通事故で死亡。
翌年の1965年(昭和40年)12月29日、作曲
家の山田耕作が他界して居ます。
今日の1句(俳人の名句)
から松は淋しき木なり赤蜻蛉 河東碧梧桐
歌声サロン、昭和文化小劇場
昭和文化小劇場は、昨年12月にオープンしたばかりの
真新しいホールです。
名古屋市の各区に在る文化小劇場がまた一つ誕生。
各席300席に車椅子席10席があり、場内各所はバリア
フリー化され、とても心地良い施設です。
名古屋市営地下鉄「上前津」で、鶴舞線に乗換え、、
4区間、家(名古屋港)から僅か30分程で到着。
10時会場と伴に、長蛇の列が進み、、、。
先ずは、ドリンクコーナー(お茶とお菓子が無料)へ、
屋外にウッドデッキが敷設され、其処がお茶の場所。
秋風が漂い始め、、とても心地良い空間が在りました。
ロビーが少し狭いための配慮です、、が、夏、冬には?
場内に入ると、既に8割程の方が着席されています。
10時30分、開演です。
ソングリーダー(栗田さかゑさん)の案内で、
最初の曲「高原列車は行く」が始まり、次々に、、
「小さい秋」「真赤な秋」「少年時代」「四季の歌」
「いい日旅立ち」と季節(秋)の歌が続きます。
今回初めての曲「白い街」のリクエストが在りました。
白い街、石原裕次郎
石原裕次郎が名古屋の街を唄ったご当地ソングです。
全国ではいざ知らず名古屋では大ヒットしました。
「坊がつる賛歌」を唄い、今回も一番リクエストの
多かった山口百恵の「秋桜」のピアノ伴奏が始まり、
唄の途中ソングリーダーの方が感極まり、涙溢れ、
こんな光景は「歌声ひろば」始まって以来、、、
会場から、万雷の拍手、、、、、。
気を取り直し、、、(謝りつつ)次の「桜貝の唄」
「真夜中のギター」を唄い、前半最後の曲「野に咲く
花のように」で15分間の休憩。
真夜中のギター、千賀かおる
トイレ、お茶タイム、、
ウッドデッキは超満員、止む無く自販機へ進み、、
後半の始まりは「夏の思い出」から、「思い出の渚」
「赤とんぼ」「里の秋」「蜜柑の花咲く丘」「ニコラ
イの鐘」「シクラメンのかおり「涙そうそう」「忘れ
な草を貴方に」
シクラメンのかおり、布施明
ここで、会場の本日(9月13日)の誕生日の方、
2名が居られ、お名前を入れ「ハッピーバースデイ」
を全員で大合唱、、、。
「青い山脈」「小さな木の実」「見上げてご覧夜の
星を」「ひまわり」「ラストソング」を唄い、本当の
ラストソング、「あの素晴らしい愛をもう一度」を
唄い、、大きな拍手が続き、フィナーレです。
本日の1曲
「赤とんぼ」
作詞 : 三木露風、 作曲 : 山田耕作、
1921年(大正10年)、三木露風は故郷の兵庫県
で過ごした幼年期の思い出を「赤とんぼ」として発表
当初は「夕焼け小焼けの山の空、負われて見たのは
幻か」とした。その後一部を修正した。
1927年(昭和2年)山田耕作が曲を付ける。
1955年(昭和30年)映画「ここに泉あり」の
挿入歌として、1961年(昭和36年)の映画
「夕焼け小焼けの赤とんぼ」の挿入歌として用いる。
1965年(昭和40年)NHKみんなのうた」で
紹介され全国に広まる。
赤とんぼ
夕焼け小焼けの赤とんぼ
負われて見たのはいつの日か
山の畑の桑の実を
小籠につんだはまぼろしか
十五で姐(ねい)やは嫁にゆき
お里のたよりもたえはてた
夕焼け小焼けの赤とんぼ
とまっているよ竿の先
この歌は三木露風が幼少の頃、優しかった母親を思い
詞に書いたようです。
母親は俳句や短歌を詠み新聞等へ投句する様な人で、
露風が幼い頃、万葉集の歌を読み聞かせてをり、、
その影響が後の彼の作詞へと、、、。
そんな両親は、彼が7歳の時に離婚をし、その後は
祖父に引き取られ、子守りの姐やが母親代わりに育て
ます。
その頃の想いを、1番の歌詞では母親に背負われた
のはいつ頃だったろうか、、、。
3番では、母親代わりの姐やが十五で嫁に行って、、
それきり故郷の便りが判らなくなって、、、
余談
1964年(昭和39年)12月29日、三木露風は
自宅近くで交通事故で死亡。
翌年の1965年(昭和40年)12月29日、作曲
家の山田耕作が他界して居ます。
今日の1句(俳人の名句)
から松は淋しき木なり赤蜻蛉 河東碧梧桐
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