令和5年3月1日(水)
雛飾り
雛祭りは元々、中国の古俗に「三月上巳または重三に水辺で禊を
行った」ことからきている。
現在の様に3月3日の「雛祭り」が盛んに行われる様になったの
は近世以降で、徳川五代将軍綱吉の時代(1615~1709年)
頃といわれる。それ以前には元和寛永(1615~1644年)
の頃で、後水尾天皇が座右に人形を置いて愛好したことが、公家
の間に広まり「寛永雛」という美しい雛が造られた。
この頃の雛は現在も名古屋市徳川美術館に保存されて居り、雛祭
の頃の1カ月程の期間展示される。
尾張御三家の雛飾り、徳川美術館
雛は女の子の成長を願い「穢れを祓う」という習俗となって現在
にも伝わり、地方に依っては雛祭りの後で古い人形や紙雛を近く
の川へ流す「雛流し」が行われている。
我が家では娘の誕生を祝い、実家から七段飾りが贈られてきた。
娘が小学生の頃迄は、毎年狭い我が家の六畳一間を占領し飾り
付けて居た。その出し入れは大変な作業で在ったが楽しい一時
でもあった。ご近所の娘らを呼び節供を行った。
子供にかこつけて大人の飲み会の場でもあった、、、、、。
娘が中学生になる頃には見向きもせぬようになり、閉じた。
やがてその娘が嫁ぎ、長女が生まれ「七段飾り」を引き継ぐと
思っていたが、「そんな大層な飾りは要らない、私は飾り付け
が出来ない」と、「内裏雛」を所望した。
孫の内裏雛、
その七段飾りは、娘が世話になった幼稚園に寄付するつもりで
在ったが、園には既に沢山の雛飾りが在り丁寧に断れれる。
今ではカミさんがクラフトで出入りしている「工房兼食事処」
に飾られている。
此処でも七段は場所を取るので内裏雛と三人官女のみが飾られ
ている。
時折、高山等の古民家を訪れると大きな御座敷に立派な年代
物の雛段が飾られて居り、あの頃の娘の飾りを思い出す、、。
今では、我が家には紙の雛が年中飾られ(置かれ)ている。
今日の1句
共白髪愛想なき目の紙雛(ひいな) ヤギ爺
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