1位 S.ベッテル レッドブル・ルノー
2位 M.ウェーバー レッドブル・ルノー
3位 F.アロンソ フェラーリ
4位 J.バトン マクラーレン・メルセデス
5位 L.ハミルトン マクラーレン・メルセデス
6位 M.シューマッハ メルセデスGP
7位 小林可夢偉 BMWザウバー・フェラーリ
8位 N.ハイドフェルド BMWザウバー・フェラーリ
9位 R.バリチェロ ウイリアムズ・コスワース
10位 S.ブエミ トロロッソ・フェラーリ
日本GPですが何か?といつになく挑戦的な言葉で始めてみました。別に何か怒っている訳ではないんですけどね(笑)。さて、F1が鈴鹿に帰ってきて2年目です。富士はトヨタがF1から手を引いたので、今後開催されることはまずないでしょう。ちなみに、日本で初めてF1を開催したのが1976年の富士スピードウェイ。まあ、昔からのF1ファンの方には「んなもん知ってるよ!」と言われてしまいそうですが。さて、その頃は日本におけるF1の認知度も低く、お祭り騒ぎをしに来た感覚の人達もいた様ですね。サーキットの敷地内では、若い男女が草むらで何やらやっていたり(汗)、ビニール袋を口に当てて「頭の中が音速を超えて」しまっている人たちがいたりして(滝汗)。ちなみに、この情報は当時実際に行った人から聞いたことなので、かなりの信憑性だと思いますよ?ていうか、んなもんわざわざサーキットに来てすんな!と言いいたくなってしまうのですが。まあ、当時は現代と違って大らかな世相だったのでしょう(笑)。さてさてしかし、せっかく根付きそうだった日本でのF1文化も、観客を巻き添えにした死亡事故(ジル・ビルヌーブがコースアウトして立ち入り禁止の場所にいた観客に突っ込みました)、そして採算面での失敗が祟り1977年限りで打ち切りとなってしまいました。その後、1987年の鈴鹿まで実に10年間の空白が生じることになるのです。さて鈴鹿にF1がやってきた1987年、その当時はロータス・ホンダからフル参戦を果たした中嶋悟がギターヒーローとして登場!、じゃなくてハイウェイスター…、でもなく日本期待の星として登場!当時、日本国内では敵無しの中嶋悟がどんな活躍をするのか興味津々。デビュー戦のブラジルGPでは7位完走と、さすが中嶋悟!と言うべきか、中嶋悟でも7位なのかと世界の壁の厚さを痛感するべきか悩んでいたのも懐かしい思い出。そして、中嶋悟の登場から数えて二十数星霜、今年の鈴鹿を賑わせるのはそう、小林可”撃墜王”夢偉です。予選14番手ながら果敢なオーバーテイクを魅せつけて7位入賞、鈴鹿に来た観客を大いに沸かせてくれました。あまり鈴鹿を走ったことが無いのに大したものです。日本人ドライバーなのに鈴鹿をあまり走ったことが無い?と、聞いて首を傾げる方も多いと思いますが、可夢偉は17歳でイタリアに武者修行に行ってしまったので、四輪レースの経験は海外の方が多いのですよ(国内での四輪のレース活動は2002~03年のフォーミュラ・トヨタのみ)。国内でのレースはレーシングカートがメインでした。全日本選手権のリザルトに可夢偉の名前が載っていたのはよく覚えていますよ?何しろ珍しい名前でしたからね。さすがにその時は、まさか可夢偉がF1まで登りつめてくるとは思っていませんでしたが(汗)。さて、日本GPの主役をかっさらってしまった可夢偉、肝心の決勝レースのリザルトの方はベッテルが優勝、2位がウェーバーのレッドブルのワンツーフィニッシュ。レッドブルの完璧な勝利も、すっかり色褪せてしまいましたね。関係者にとってはそうでなくとも、その場にいた観客は間違い無くそう思っている筈です。過去の日本人ドライバーと比べて、あまりにも突出した存在感を発する小林可夢偉。こんなにワクワクさせてくれる日本人ドライバーは久し振りです。何しろ、世界中のプレスが注目しているぐらいですからね。円高不況でショボーンとなっている日本国内ですが、可夢偉の活躍の様な希望を持てるニュースを聞けば少しは明るい気持ちになれるのではないでしょうか(と、綺麗にまとめてみたりして。笑)。
2位 M.ウェーバー レッドブル・ルノー
3位 F.アロンソ フェラーリ
4位 J.バトン マクラーレン・メルセデス
5位 L.ハミルトン マクラーレン・メルセデス
6位 M.シューマッハ メルセデスGP
7位 小林可夢偉 BMWザウバー・フェラーリ
8位 N.ハイドフェルド BMWザウバー・フェラーリ
9位 R.バリチェロ ウイリアムズ・コスワース
10位 S.ブエミ トロロッソ・フェラーリ
日本GPですが何か?といつになく挑戦的な言葉で始めてみました。別に何か怒っている訳ではないんですけどね(笑)。さて、F1が鈴鹿に帰ってきて2年目です。富士はトヨタがF1から手を引いたので、今後開催されることはまずないでしょう。ちなみに、日本で初めてF1を開催したのが1976年の富士スピードウェイ。まあ、昔からのF1ファンの方には「んなもん知ってるよ!」と言われてしまいそうですが。さて、その頃は日本におけるF1の認知度も低く、お祭り騒ぎをしに来た感覚の人達もいた様ですね。サーキットの敷地内では、若い男女が草むらで何やらやっていたり(汗)、ビニール袋を口に当てて「頭の中が音速を超えて」しまっている人たちがいたりして(滝汗)。ちなみに、この情報は当時実際に行った人から聞いたことなので、かなりの信憑性だと思いますよ?ていうか、んなもんわざわざサーキットに来てすんな!と言いいたくなってしまうのですが。まあ、当時は現代と違って大らかな世相だったのでしょう(笑)。さてさてしかし、せっかく根付きそうだった日本でのF1文化も、観客を巻き添えにした死亡事故(ジル・ビルヌーブがコースアウトして立ち入り禁止の場所にいた観客に突っ込みました)、そして採算面での失敗が祟り1977年限りで打ち切りとなってしまいました。その後、1987年の鈴鹿まで実に10年間の空白が生じることになるのです。さて鈴鹿にF1がやってきた1987年、その当時はロータス・ホンダからフル参戦を果たした中嶋悟がギターヒーローとして登場!、じゃなくてハイウェイスター…、でもなく日本期待の星として登場!当時、日本国内では敵無しの中嶋悟がどんな活躍をするのか興味津々。デビュー戦のブラジルGPでは7位完走と、さすが中嶋悟!と言うべきか、中嶋悟でも7位なのかと世界の壁の厚さを痛感するべきか悩んでいたのも懐かしい思い出。そして、中嶋悟の登場から数えて二十数星霜、今年の鈴鹿を賑わせるのはそう、小林可”撃墜王”夢偉です。予選14番手ながら果敢なオーバーテイクを魅せつけて7位入賞、鈴鹿に来た観客を大いに沸かせてくれました。あまり鈴鹿を走ったことが無いのに大したものです。日本人ドライバーなのに鈴鹿をあまり走ったことが無い?と、聞いて首を傾げる方も多いと思いますが、可夢偉は17歳でイタリアに武者修行に行ってしまったので、四輪レースの経験は海外の方が多いのですよ(国内での四輪のレース活動は2002~03年のフォーミュラ・トヨタのみ)。国内でのレースはレーシングカートがメインでした。全日本選手権のリザルトに可夢偉の名前が載っていたのはよく覚えていますよ?何しろ珍しい名前でしたからね。さすがにその時は、まさか可夢偉がF1まで登りつめてくるとは思っていませんでしたが(汗)。さて、日本GPの主役をかっさらってしまった可夢偉、肝心の決勝レースのリザルトの方はベッテルが優勝、2位がウェーバーのレッドブルのワンツーフィニッシュ。レッドブルの完璧な勝利も、すっかり色褪せてしまいましたね。関係者にとってはそうでなくとも、その場にいた観客は間違い無くそう思っている筈です。過去の日本人ドライバーと比べて、あまりにも突出した存在感を発する小林可夢偉。こんなにワクワクさせてくれる日本人ドライバーは久し振りです。何しろ、世界中のプレスが注目しているぐらいですからね。円高不況でショボーンとなっている日本国内ですが、可夢偉の活躍の様な希望を持てるニュースを聞けば少しは明るい気持ちになれるのではないでしょうか(と、綺麗にまとめてみたりして。笑)。