旧館の自室から~
保科館のことを書きましょう
当ブログに“保科館”を検索キーワードにして辿り着く方は結構いらっしゃいます。ZUYAさんは毎年GWと年末年始などの繁忙期に働いていた言わば、“季節従業員”でしたから、その時期になると思い出さずにいられないわけです
常連のお客さんであったり青春の思い出であったり、はたまた元従業員がこちらに来て頂き、ともに懐かしんでいただけることは実に嬉しい限りです
初めて保科館の募集広告を見たのは今ではその存在も薄くなりつつある 『 アルバイト情報誌 』 でしたね( 『 an 』 ではなくもう一つ定番誌でしたが、その名はもう思い出せないですね... )
当時のアルバイト先であった印刷工場が大型連休が年に2回あり、その間の収入確保と当時の女性関係のトラブルからしばらく東京から離れたいと言う条件が一致し 「 リゾート・バイト 」 のページをめくっていて見つけた
数多くある信州のホテル・旅館のバイトの中から選んだのは確か 『 秘湯の宿・一日3食・交通費支給・温泉入りたい放題 』 みたいな広告だったような気がするが...何せもう10年ほど前の話ですからねぇ
初めての“リゾート・バイト”と言うこともありどんなことになるのだろうと期待に胸を膨らませ降り立ったのは中央本線・茅野駅。八ヶ岳登山や蓼科への入り口となる駅だ。東京ではGWの時期になると既に夏のような暑さになることがありますが、信州は涼しいどころか寒く感じる時もありました。実際山には多くの雪が残っていますからね
でも。ホームに降り立ち信州の“匂い”を感じると素敵な気分でしたね(逆に東京に帰って来て新宿駅で列車のドアが開くと怖ろしい“臭い”を感じる...)
ここから1日4往復ほどしか走っていない通称“メルヘン・バス”に乗り旅館へ向かうわけです。何度乗ってもガラガラのバスでしたね。まぁ(バイト)後期は若女将に駅まで送ってもらうことが多くなりましたが
市街地を抜けるとグングンと高度を上げて行き素晴らしい景観が観られる。確か夏と冬ではバスが行けるところが違うんですよね。夏は麦草峠まで行くのだが、あれ、冬はどこだったっけ?(笑)。とにかく大雪で進めないんですよねぇ~
とにかく駅からの道のりはかなり大変なわけですがある時、女子大生2人組のバイトが来て“想像と違った”らしく(何を思い描いて来たのだろうか...)夜中のうちに荷物をまとめて逃げ出したことがあったのだが、どうやって真夜中に駅まで行ったのだろうか
ZUYAさんが働きだした当時(10年ほど前)で、もう見るからにピークは過ぎたような感じで玄関を入ってすぐのロビー・喫茶コーナーともに閉鎖。ZUYAさんは保科館で働くまで温泉と言うものに興味がなかったので、温泉宿と言うのはみんなこういう雰囲気なんだろうと思ったわけです(後年それは“寂れている”とわかるのですが...)
短期間のバイトなんて相部屋になるものだと思ってたら、意外にも一人一部屋ずつ与えてくれましてね。もっとも昔は本当に相部屋だったそうですが。
ZUYAさんは山歩きが好きでしたから休憩時間とかもしっかり歩いたりしていましたが、他のみんなは何をしていたのでしょうね。コンビニどころか商店も何もないですからね。ZUYAさんは2回目以降は毎回ギターとウィスキー持参でしたから
これは最後の写真かな
ちなみに保科館での一日はこんな感じ
起床すると旧館に寝床のある我々は共同洗面台に向かう。ZUYAさんはだいたい洗面台の前の部屋でしたね。そう従業員の寝泊りするのは旧館で、部屋の中は恐ろしく寒く枕元に干してある洗濯物が凍るほどでした
エプロンを身につけて厨房に向かう。宿泊客の朝食には温泉を使った湯豆腐とお粥が付く。この温泉は夜お風呂に入るときに交代で誰かが汲んでくるんですよね。
お客が食べてる間に2名から4名(宿泊客数による)で各部屋の布団を上げに行きます。これがなかなかの重労働で朝ご飯が進むわけです(笑)。我々従業員の朝食には味噌汁と納豆におかみさんが作った佃煮類、卵焼きの端なんてのもありました
朝食後には洗い物、食堂の掃除、夕食のためのセッティングなど行う。そうそう曜日を決めて温泉の掃除なんてものもあった。各部屋にお出迎えのお茶のセットも置きに行くわけです。すっかり顔見知りになったリネン業者のおばちゃん達。まだ元気なのかなぁ
そうこうしているうちにお昼になる。パスタや蕎麦とか麺類が多かったような。そうだ、ZUYAさんが焼き飯を作った時もあった。さっと済ませて夕方まで休憩だ。これが泊り客が多いとわずか数時間後に再集合となるわけだ
この間の時間の潰し方は人それぞれ。おかみさんたちは日帰り入浴の客が来るのでそうそう休んでいる間もなかったはず。車を持っている従業員は買い出しに行ったり。都会からのアルバイトはひとっぷろ浴びてお昼寝タイムって感じだったかな。
夕方からは茶碗蒸しを作ったり、メインの料理の鍋の準備をする。茶碗蒸しは意外と器用そうなアルバイトにも作ってもらってましたね。ZUYAさんは究極で“鍋作り”、“刺身”まで到達しましたが(笑)。しかし揚げ物、焼き物はベテランのおじさんやおかみさんが自ら調理
お客さんが入り始めるとさぁたいへん(笑)。食堂に来る時間はバラバラ。中には予約だけしてあって到着していない家族もある(なぜか保科館はキャンセル料を取らなかったのでドタキャンが本当に多かった気がする)。天麩羅などは出来たてを提供するのでタイミングを見計らう。でもこの間に朝とは逆に布団を敷きに行くわけだ。しかも交換用のお茶セットを持って
予約がいっぱいの時はもう毎晩“てんてこ舞い”でしたね(笑)。新館と旧新館(部屋が足りない時には旧館も使用)を走り回るわけだ。そして戻ってきたら洗い物の山...
それらを片づけて朝の準備が終わると夕食。早くて8時ごろ遅い時は10時を過ぎるのもざらでしたね。それでも乗り切った時の気分は爽快でこれまたご飯が進むわけです(笑)。
当時のZUYAさんはもちろんまだ60キロ台でしたが食いまくってましたね。そうそうZUYAさんはおかみさん特製の 『 ふき味噌 』 が大好きでね。これさえあればご飯が何倍でも食えたわけ。その内“東京に持って帰りな”と多めに作ってくれて瓶詰してくれたりしました
夜は“賄”とは思えないぐらい豪華で、魚も肉も何でも出た上に忙しかった夜には飲み物(飲める人はアルコール)までおかみさんはつけてくれたね
そうそうカラオケ・セットを広間から持って来てみんなで厨房でカラオケもやったなぁ
保科館トレーナー
出会った従業員について書きたいのですが、いろいろ問題があるので差しさわりのない程度に。
とにかくそれはそれは個性的な人々の集まりでしたね(笑)。いかにも事情のありそうな人間もいれば、いかにも少しズれてるヤツもいた。おかみさんの話によれば長い年月、完全にイってしまっているやつもたくさんいたとか。
そんな中でもZUYAさんが忘れられないお世話になった人は当時の板さんのN村さん、配膳の段取りを教えてくれたH間さん。この二人がもうこの世にいないというのは信じられない。まぁZUYAさんなりに後から入ったアルバイト達にこの2人の教えをしっかり伝えたつもりですが。
あとは昨年久々に再会した勤続の長かった老夫婦。近くなので誰よりもよく手伝いに来ていたと思います。いったい何度この夫婦と新しい年を迎えたことか。この夫婦は本当に素敵な夫婦ですね。
後年、O形さんと言う人懐っこいおじさんも現れたが、最終的にごたごたしたようだ(笑)
色々な人がいましたが今となっては全て良い思い出です。写真も探せばまだまだ一杯あるはずなのですが見つからないですねぇ。もう保科館の再開はありえないでしょうが、ずっと心に留めておきたい思い出ですね
小さくて見えない...
<この場を借りて(その1)>
女将さん、社長、若女将お元気ですか? 私はこの通りですよ~
<この場を借りて(その2)>
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