12345・・・無限大  一粒の砂

「一粒の砂」の、たわごと。
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シニョーリア広場

2008年06月07日 06時43分08秒 | Weblog

中世のイタリアでは、街は石造りの建物と道路と広場で構成されていた。都市国家毎にその政治の中心部に当たる場所にシニョーリア広場と呼ばれる政治の広場或いは民衆の集会を行う広場があった。

   

 ここではフィレンツェにあるシニョーリア広場を取り上げてみる事にした。当時の様子を塩野七生氏の「わが友マキャヴェッリ(フィレンツェ存亡)」から紐解いて見た。

   

アルノ川に架かる、必ず連れて行かれる観光名所で橋の上に2階建ての家があるポンテ・ヴェッキオ橋(古い橋の意)を超えて南に1分ほど歩いたところの平民の家にマキャヴェッリは、生まれた。

(第二次大戦中、ドイツ軍はこの橋のみ破壊せずに残した。その他の歴史的芸術的価値の高い建物なども連合軍・ドイツ軍共に破壊しなかった。)

   

その橋から5分ほど北に歩くとフィレンツェ共和国第二書記官を29歳(1499年)から15年間勤めてきたマキャヴェッリが足繁く通勤した政庁の建物パラッツオ・ヴェッキオ(古い宮殿の意)がある。

その前の広場が、当時は現在のような石畳ではなくて赤レンガ舗装だったが、フィレンツェで起きる殆どの大事件の舞台になったシニョーリア広場である。
(この間に幾つかの観光名所があるが、本文では省略し他の機会に譲る) また、この広場からさらに北へ2分ほど歩くと、サンタ・マリア・デル・フィオーレ教会(花の聖母教会)の広場に着く。

 マキャヴェッリが過ごした時期は、メディチ家が裏で実質的にフィレンツェの政治を行った時代から、短期間メディチ家が追放され、そして、トスカーナ大公として返り咲いた時期にまたがっている。

また、ルネッサンスの最後の輝きの時期と一致しており、ミケランジェロ・ダヴィンチなど超一流の芸術家が活躍した時期でもあった。 ダビデ像(ミケランジェロ作、現在本物は美術館に保管、写真はレプリカ)は、1504年完成だから当然マキャヴェッリは見たはずである。

しかし、トスカーナ大公国初代大公コシモ・デイ・メディチの騎馬像やネプチューンとニンフたちの群像はマキャヴェッリの時代にはまだなかった。

   

   

   

 また、ロッジアと呼ばれる屋根付きの集会所の中にも沢山の彫刻があるのだが、これらもまだマキャヴェッリの時代にはなかった。(沢山の彫刻の名前を調べようとしているが、思いのほか進捗しないので困っている)

   

赤いあやめを描いた盾に前脚をかけた獅子の像が政庁の正面入り口左にある。野生の赤いあやめは都市国家フィレンツェの紋章であり、有名なサッカーチームのマークとなっていると言うが、サッカー音痴の小生にはよく判らなかった。

この日は日曜日で、また旗のアトラクションもあった関係か沢山の観光客がいて、何時までも見飽きない広場だったが、駆け歩きの旅なのでしかたなく次のピサに向かったのである。

旅行社は、満腹にさせるのではなくて、もう少し食べたい思う所でうまい具合に打ち切るつぼを心得ているようである。