写真は水墨画教室の一場面である。このような教室で学んでいるのである。
今となっては、いい格好をする必要はさらさら無い、恥を忍んで白状すれば、小学・中学時代は、習字・音楽・図画・国語などの時間は、速やかにトンずらし校庭の片隅で独り遊ぶという問題児で、母親からは父兄会に行くのは地獄だとよくぼやかれたものだった。
その後、中学では音楽の先生から美空ひばりを教えられ、友人達からはポップスを教えられたが、生来の音痴で聞き役に徹した。
国語は、高校時代古文と漢詩を先生から教えられ興味を持ち始めたが、時すでに遅く、理科系に進んでしまい、これらと縁遠くなってしまった。
四十代半ば、ある人から絵画の面白さを教えられ美術館めぐりを始めたが、そもそも描くなどという事は全く念頭になかった。
ひと歳とった現在、全てに大変な損をしたと心底後悔しているのである。 それで今までの大損を取り戻そうと自己の才能などは無視して始めたのが、源氏物語講座であり、俳句であり、そして水墨画教室となったのである。
才能の有無は無視、とにかくやってみる・経験するのみと割り切って続けている。 恥を忘れ自分の才能に失望する事を忘れ去った結果、有難い事に投げ出すこともなく、だらだらと続いて今日に至っているのが現状である。
マキャッヴェリ語録の中から適当なものを見つける事が出来なかったので、
カエサルの「人は自分が見たいと欲する現実だけを見ようとする」と言う言葉を引用したい。
黒沢監督の有名な「羅生門」は、対立する複数の視点から同じ出来事を全く違う風に回想し、真実がどうだったのか観客を混乱させると言う、判り難食い変わった作品であるが、翻ってみると、見たいと思わねば何も見えないと言うことを暗示していると思っている。
上手下手ではなく、自分で体験しなくては判らないことが沢山あるのである。
我々に遺された時間を有効に用いて、見えなかったことを知ろうという生き方があっても良いのではないだろうか。