「歴史が裁く」とか「後世の審判を待つ」と言い、過去の人を評価する。
後世の評価は様々なれど、ある程度判るのであるが、生前の評価については、平民の小生など、それを知るための資料は余りにも少ないようである。
太閤さんの生前と後世の評価の差異がいかようであるのか知りたいのであるが、あまり容易ではないようである。
第一の理由は、後世の評価は、何を基準にするのかで随分その評価は変わるのである。肝心の基準があれこれ結構沢山あるのでは、決定的な評価をすること自体かなり難しいと言うか、不可能になる場合だって多いような気がする。
例えていえば、民主主義や資本主義が未来永劫絶対正しいと言える事がないのと同じ事である。
第二の理由は、生前の時代の評価となると、それが後世の遺されているものは、殆どが、権力者に対する「おべんちゃら」で溢れており。真実の姿ででは到底ありえないような気がするのである。
歴史や後世が裁いたり審判したりする事においては、その評価はどうでも出来ることであり、あまり気にしてもしようのない無意味な事だとも思えるのである。
そんな訳で、超現実主義者のマキャッヴェッリのように、今現在の評価こそ一番優先すべき事と言うのが、正しいのかもしれない。
一介の小市民である小生などにとっては尚更で、後世に他人がいかような評価をしようが知った事ではないのである。
何かを遺すというような、そんなものはむしろ一切ない方が、あの世から未来のこの世を振り返るなどと言う煩わしい事から開放され清々するように思っている。
ただブログなどと言うものは、せいぜい数十年の保存しかされないのであろうから、言いぱなしで、どーと言うこともなさそうである。