12345・・・無限大  一粒の砂

「一粒の砂」の、たわごと。
無責任結構・ 中途半端・ちゃらんぽらん・ 出たとこ勝負、で参りましょう!

側近考

2008年06月22日 07時23分25秒 | Weblog

マキャッヴェリは、かくの如く言うのである。
「側近が有能で、彼に対して忠実であれば、その君主は聡明だと評価してまちがいない」(『君主論』第22章)

解説すれば、「無能で不実な側近を持つ指導者は、指導者としての力量を疑われても仕方がない。なぜなら、側近の選択という最も初歩的な事において誤りを犯した事になるからである」

それぞれ読者の皆さんには側近となるべき人が、「居る」か、或いは「居た」か、である。

現在「居る」方の側近は、「連れ合い」と呼ばれる者か、或いは、さらに「愛人」と呼ばれる者まで含まれるのであろう。

そして、側近を持つ人達は、必ずしも男性とは限らない、女性であっても同じである。

またまた、マキャッヴェリは、かくの如く言うのである。
「しっかりとあなたと結びついていて、しかも強欲でない人であれば、賞揚し大切にすべきである」(『君主論』第9章)

「人間はその本性において、恩恵を受けても恩恵をほどこしても、やはり義務を感じるものである」(『君主論』第10章)

今更、現役時代の側近について言及することの意味はないので、子作りや下半身にも関係があった方の側近について考えてみる事にした。

 どちらが指導者であったのか、どちらが側近であったのかも定かではないし、それぞれが優秀なのか、そうでないかもはっきりとはしていない。

ただ、男や女として存在した事自体は、それなりに世間並みだったように思っている。こういう形の運命共同体では、さしたる波風は立ちようがなく、平々凡々たる毎日が過ぎたように思っている。

側近に先立たれた今となっては、人生の味を増すために、有能且つ誠実な愛人を求めるのが解決策と思えるのだが、

残念ながら、有能且つ誠実な愛人などが小生を相手に選ぶなどと言うことは夢のまた夢であることも明白である。

となれば、結論はこれで決まりである、独り凡々と毎日を過すしか無いのである。 それも、今となっては至って気楽で快適なのである。