二十代後半(S47年)の頃、ノールウエイ向けの15万トンタンカー三隻の省エネ設備を担当した頃の話。三隻共引渡し後半年くらいで、蒸気発生器から漏れに悩まされ始めた。
事故の原因究明と応急処置を行うために、小生が派遣された。工事要員は、とび職十名、溶接士十名、仕上げ士十名、総員三十数名編成であった。
タンカーは、陸から数km沖に作られたピアと呼ばれる油送用パイプの接続口のみが海上に突き出したコンクリート製の構造物に係留される。そして、積荷の原油をここで数日間内に陸揚げし、再びペルシャ湾に向かって出航する。
与えられた時間は、72時間(3昼夜)であった。何が何でも、この時間内に総ての作業を完了させ、船を出航させなくはならないのであった。
玉野から夜行列車で、京葉工業地帯の港からタグボートに乗り沖の船に向かった。トラック便で別送しておいた、足場材料、溶接機、切断機、各種工具など機材も沢山積み込んだ。
食事は船の厨房からノールウエイ風の食事が支給さ、寝るのは廊下や空いている場所の床にごろ寝、三交代で72時間のタイムリミット内に突貫工事無事完了。
深夜、無線電話でタグボートを呼び上陸、タクシーに分乗し宿探し。ホテル・旅館を何軒もタクシーで乗り付け交渉するが、真っ黒な油にまみれ煤けた人相の悪いおっさん連中を気味悪がったのか、本当に満室だったのか分からないが全て断られた。
殆ど不眠不休の作業を続けたので、皆の疲労は極限状態である、タクシー運転手の機転で1軒のラブホテルに行ったら、即OKと返事、借り切る事にし、やっと寝る事が出来た。夜食の段取りもスムーズに出来、皆ゆっくり休めた。
読者の中に、この種のホテルを経験した方が居られるかどうか分からないが、鏡張りの真っ赤な円形ベッドやその他必要な設備が完備していた。
小生の持参したお金では、ホテル1軒分の借切り料金など払えるはずが無い。名刺を渡し、会社に請求するように言って帰った。
後日、会社はとんでもない所からの請求に面食らったはずであるが、小生の知った事ではなかった。
日本人の労苦をいとわぬクレイジーな作業姿勢は、彼らにとって驚きだったようで、随分船長と機関長から感謝された。
今でも有難く思い出すのは、非常に過酷な作業環境の中で、誰一人一言の文句を言わず、懸命に働いてくれたことである。