12345・・・無限大  一粒の砂

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メディチ家のロレンツォ

2008年06月13日 06時35分48秒 | Weblog

 

写真は、メディチ家の紋章である。丸いものが幾つか付いているのだが、メディチ家の起こりは薬屋だったようで、これは丸薬だといわれている。

イタリアに言及するときにフィレンツェは欠かせないし、15cのフィレンツェを語るときメディチ家が欠かせないというのは、塩野七生氏の言である。

当時のヴェネツィア共和国は、一個人一家族の力量で国家の命運が左右されない体制(寡頭政)が完成されていたのだが、花の都フィレンツェでは性格の完全に違う二人の人間のように全く反対であった。
(裏から実質的にメディチ家が単独支配した都市国家がフィレンツェであった)

金融業者組合の一員だったメディチ家は、曽祖父からロレンツォまでの4代が中心である。

曽祖父 ジョヴァンニの良質・善良 
- 法王庁の財政に参加し急成長(イタリア第一の銀行家となる)

祖父  コシモの賢明       
- 銀行業をヨーロッパ規模に拡大、 (祖国の父)
         フィレンツェ共和国を実質的に支配し始めた                         
             学問・芸術育成に多大の貢献

父   ピエロの人間性      - ロレンツォに無難に相続させた

本人  ロレンツォの偉大・華麗、慎重・冷静             
- マキャベリが評したロレンツォに対する簡潔かつ適切な評価                         
      「幸運から、神から、最大限に愛された男」      

ロレンツォが有した幸運を列記する。

1. メディチ財閥の強大な経済力
2. フィレンツェ市民からの信頼と好感情
3. メディチに対する他国のリーダー達の、敬意に基づいた信頼感

4. 最高の教育(学歴でなく、実質的な最高の教育を受けた)
5. 完璧な帝王学

こんなロレンツォが、フィレンツェを最大に開花させそして最盛期としたが、彼の死とともにメディチ家は急速に衰えたのであった。
(フィレンツェから子の代に追放されたが、この後、トスカーナ大公として再び返り咲くのであるが)

精舎必衰の理のごとく、すばらしい芸術・建造物などを多数遺したが、メディチ家が儚く消えたことも事実である。

このロレンツォを覚えておかれると、かなりのイタリア通になれると思うのである。

補足;
イタリアでは、祖父・子・孫と同じ名前が命名されることが多かったのか、メディチ家の家系図にも繰り返し同名が出てくる。

このため、ロレンツォであれコシモであれ何時の時代の何をした人かよく確認する事が大切である。

Wikipediaよりの追記:

その1:ロレンツォ・デ・メディチ(Lorenzo de' Medici, 1449年1月1日 - 1492年4月8日)は、イタリアフィレンツェのルネサンス期におけるメディチ家最盛時の当主。公的な肩書きはなかったが、当時のフィレンツェ共和国を実質的に統治した。

メディチ家の他のロレンツォと区別する意味もあって、ロレンツォ・イル・マニーフィコ (Lorenzo il Magnifico) とも呼ばれる。イル・マニーフィコは「偉大な」の意味でしばしば君主などに使われた称号であるが、「イル・マニーフィコ」だけでも通るのはロレンツォのみである。

よく「ロレンツォ豪華王」とも訳されているが、王ではないので適切でない。 優れた政治・外交能力を持っており、イタリア各国の利害を調整する立場として大きな影響力を振るい、信頼を得ていた。

また、一般市民には気前良く振舞い、絶大な支持を得た。学問や芸術(ことに文学)のパトロンとしても知られ、彼のもとでルネサンス文化は最盛期を迎える。

その2: パトロンとしての活動
ボッティチェリ、リッピなどの芸術家やフィチーノ、ミランドラら人文主義者を多数保護し、芸術・学芸のパトロンとして、祖父コジモと並んで、後世まで模範と仰がれた。

古典の教養も豊かで祖父コジモの代に創立されたプラトン・アカデミーを主宰。自ら詩作や批評を行い、その文才は現代でも評価されている。青春の美しさとはかなさを歌った「謝肉祭の歌」の一節が知られる。

美術のみならず、建築、彫刻においてもパトロンとして知られ、イタリア中に芸術・学問の庇護者メチェナーテ(古代ローマのマエケナスに由来する)として名声を博した。

また、ロレンツォの特異な点として、美術家の国外派遣が挙げられる。彼はフィレンツェの主要な美術家を、ローマ、ヴェネツィア、ナポリ、ミラノに積極的に派遣した。これはロレンツォの外交政策の一端ではあったが、これにより、フィレンツェのルネサンス美術は、イタリア中に広まったと言える。

 ロレンツォの時代は、ルネサンスが正に華開いた「盛期ルネサンス」と重なる。しかし、ロレンツォ後のフィレンツェは衰退し、ルネサンスの中心は、ローマへと移っていく事となる。 若き日のミケランジェロに彫刻の才能を見出し、自宅に住まわせて面倒をみた。