12345・・・無限大  一粒の砂

「一粒の砂」の、たわごと。
無責任結構・ 中途半端・ちゃらんぽらん・ 出たとこ勝負、で参りましょう!

メディチ家のロレンツォ

2008年06月13日 06時35分48秒 | Weblog

 

写真は、メディチ家の紋章である。丸いものが幾つか付いているのだが、メディチ家の起こりは薬屋だったようで、これは丸薬だといわれている。

イタリアに言及するときにフィレンツェは欠かせないし、15cのフィレンツェを語るときメディチ家が欠かせないというのは、塩野七生氏の言である。

当時のヴェネツィア共和国は、一個人一家族の力量で国家の命運が左右されない体制(寡頭政)が完成されていたのだが、花の都フィレンツェでは性格の完全に違う二人の人間のように全く反対であった。
(裏から実質的にメディチ家が単独支配した都市国家がフィレンツェであった)

金融業者組合の一員だったメディチ家は、曽祖父からロレンツォまでの4代が中心である。

曽祖父 ジョヴァンニの良質・善良 
- 法王庁の財政に参加し急成長(イタリア第一の銀行家となる)

祖父  コシモの賢明       
- 銀行業をヨーロッパ規模に拡大、 (祖国の父)
         フィレンツェ共和国を実質的に支配し始めた                         
             学問・芸術育成に多大の貢献

父   ピエロの人間性      - ロレンツォに無難に相続させた

本人  ロレンツォの偉大・華麗、慎重・冷静             
- マキャベリが評したロレンツォに対する簡潔かつ適切な評価                         
      「幸運から、神から、最大限に愛された男」      

ロレンツォが有した幸運を列記する。

1. メディチ財閥の強大な経済力
2. フィレンツェ市民からの信頼と好感情
3. メディチに対する他国のリーダー達の、敬意に基づいた信頼感

4. 最高の教育(学歴でなく、実質的な最高の教育を受けた)
5. 完璧な帝王学

こんなロレンツォが、フィレンツェを最大に開花させそして最盛期としたが、彼の死とともにメディチ家は急速に衰えたのであった。
(フィレンツェから子の代に追放されたが、この後、トスカーナ大公として再び返り咲くのであるが)

精舎必衰の理のごとく、すばらしい芸術・建造物などを多数遺したが、メディチ家が儚く消えたことも事実である。

このロレンツォを覚えておかれると、かなりのイタリア通になれると思うのである。

補足;
イタリアでは、祖父・子・孫と同じ名前が命名されることが多かったのか、メディチ家の家系図にも繰り返し同名が出てくる。

このため、ロレンツォであれコシモであれ何時の時代の何をした人かよく確認する事が大切である。

Wikipediaよりの追記:

その1:ロレンツォ・デ・メディチ(Lorenzo de' Medici, 1449年1月1日 - 1492年4月8日)は、イタリアフィレンツェのルネサンス期におけるメディチ家最盛時の当主。公的な肩書きはなかったが、当時のフィレンツェ共和国を実質的に統治した。

メディチ家の他のロレンツォと区別する意味もあって、ロレンツォ・イル・マニーフィコ (Lorenzo il Magnifico) とも呼ばれる。イル・マニーフィコは「偉大な」の意味でしばしば君主などに使われた称号であるが、「イル・マニーフィコ」だけでも通るのはロレンツォのみである。

よく「ロレンツォ豪華王」とも訳されているが、王ではないので適切でない。 優れた政治・外交能力を持っており、イタリア各国の利害を調整する立場として大きな影響力を振るい、信頼を得ていた。

また、一般市民には気前良く振舞い、絶大な支持を得た。学問や芸術(ことに文学)のパトロンとしても知られ、彼のもとでルネサンス文化は最盛期を迎える。

その2: パトロンとしての活動
ボッティチェリ、リッピなどの芸術家やフィチーノ、ミランドラら人文主義者を多数保護し、芸術・学芸のパトロンとして、祖父コジモと並んで、後世まで模範と仰がれた。

古典の教養も豊かで祖父コジモの代に創立されたプラトン・アカデミーを主宰。自ら詩作や批評を行い、その文才は現代でも評価されている。青春の美しさとはかなさを歌った「謝肉祭の歌」の一節が知られる。

美術のみならず、建築、彫刻においてもパトロンとして知られ、イタリア中に芸術・学問の庇護者メチェナーテ(古代ローマのマエケナスに由来する)として名声を博した。

また、ロレンツォの特異な点として、美術家の国外派遣が挙げられる。彼はフィレンツェの主要な美術家を、ローマ、ヴェネツィア、ナポリ、ミラノに積極的に派遣した。これはロレンツォの外交政策の一端ではあったが、これにより、フィレンツェのルネサンス美術は、イタリア中に広まったと言える。

 ロレンツォの時代は、ルネサンスが正に華開いた「盛期ルネサンス」と重なる。しかし、ロレンツォ後のフィレンツェは衰退し、ルネサンスの中心は、ローマへと移っていく事となる。 若き日のミケランジェロに彫刻の才能を見出し、自宅に住まわせて面倒をみた。


燃費

2008年06月12日 06時56分39秒 | Weblog

自動車販売会社のダイレクトメールに、
「こんなに燃費が良くなりました 22.0km」とあった。
比較として、10年前の燃費が16.4km車の値も載せてあった。

34%も改善されたのか、すばらしい事と思ったのだが、10年前の車は1300cc、こんなに燃費が良くなったのは、1000ccの車である。比較しているベースが統一されていない。

そこで、別ページにある1300ccの新型車の燃費を確認したところ、18kmと書いてあった。これでも12%の改善である、技術の進歩だと言えるのであろう。

さらに、エンジンの動力としての熱効率を調べてみた。
(次の効率の値は、殆ど極限値まで高められたもので、これ以上の改善は、理論的・技術的に不可能とされているようである)

 「ガソリンエンジンは30%」、「ディーゼルエンジンは35-38%」と出てきた。 燃料のエネルギーの僅か3割から4割弱しか動力に出来ないのが厳しい現実である。

さらに、到達可能な最高効率を示したもので、実際の走行では遥かに低い効率で使用していると思われる。 昨今の急激な石油の値上がりや環境への配慮として、

第一番に、不要不急の乗車を止め、計画的・効率的な使用を心掛ける。(徒歩と自転車へ転換も)

第二番目に、我々年金生活者は、20年 or 20万km達成を目指して長く愛車を乗り続ける事が、財布にも環境にも優しいベストな生き方ではないだろうか、と思うのである。

(新しい車に代替するのは、安全上の問題発生や、故障多発や余りにも快適性が衰えた時) 但し、車マニアの方はご自由にご自身お好きなように。

さて、これらがどれほど守れるか見ものである。


主婦の年俸1200万円

2008年06月11日 07時19分48秒 | Weblog

その1:5月8日付のYahoo!ニュースによると、
米人材情報会社サラリー・ドット・コムは11日の「母の日」に合わせ、子供がいる専業主婦がこなす家事や育児は合計で年俸11万6805ドル(約1200 万円)に相当するとの試算を発表した、という記事があった。

先ず主婦約1万8000人の作業時間を集計し分類した後、料理を「コック」、子供の世話を「保育士」、車での送迎を「運転手」などにそれぞれ依頼したと仮定して外注費用を積算した模様。

専業主婦の母親の作業時間は平均で毎日13.5時間に上ったため、超過勤務手当がかさみ、年俸が膨らんだという事である。

その2:母親が行う家事、1千万超の給与に相当=カナダ調査 [トロント 9日 ロイター] 

母親が行った料理や掃除などに対して賃金が支払われた場合、年収1千万円を容易に超えるとの試算結果がカナダで発表された。  

母親1万8000人に対して、家事や育児など一般的な仕事内容のリストアップを依頼。その内容やかかる時間など、それぞれの労働に対する給与額について民間会社Salary.comが試算を行った。  

カナダではリスト上位10位の仕事について、家事に対する給与額は
主婦で12万5000カナダドル(残業代込み、約1280万円)、
仕事を持つ母親では、実際の所得を除き7万5000カナダドル(約770万円)だった。  

給与が高い理由として残業時間の多さが挙げられており、主婦は90時間以上、仕事を持つ母親でも仕事以外に54.6時間残業しているという。

母親の仕事の価値は金銭で測れるものではないですが、その会社は「ママの仕事の重大さを認識してもらうきっかけに」と期待し試算をまとめたとの事。

その3:ある日本人主婦のブログより
私が仕事でご夫婦に保険の話しをした時に、何人ものご主人様が「嫁さんの保険はイランわ」と言う言葉を聞きました。

その方々の言い分は、奥様が居なくなっても働いてないから金銭的には今と変わらんし困らないからでした。 その話しを聞く度に私は心の中で「甘いし、この人は、いつか奥様に捨てられるか、定年離婚や」と思っていました。

家事労働の価格の高さが分からん連中は、これからの世の中で生きていくのは難しいでしょうね? まっ、そんな人は、その前に自分の会社での給料が会社から高いと思われてないかを真剣に考えてみた方が良い様な気がしますね。

私が見る限り給料分、働いてないサラリーマン多いですからね。会社からも奥様からも見捨てられたら可哀想ですね。

これら3つの話は、小生にとって非常に耳の痛い話であった。 最近の若いご夫婦達では、男性の家事への協力は見るべきものがあり、

「なんにも船長」「言う事を機関長」であった小生が物申すにはおこがまし過ぎるのであるが、同世代の人には一言申し上げたい。

 「一緒に過ごせる時間はもうそれほど長くはない、せいぜい奥さん孝行に邁進頂きたい」と。

小生の主夫業も五年目に突入、そろそろ、主夫の待遇改善策すなわち[残業放棄」、「週休二日制」と「有給休暇制」が行えないものかと思いはじめた。


2008年06月10日 06時22分11秒 | Weblog

        

  この写真は、ご近所のカメラ好きのご主人から頂いたもの。
    小生の最初のジョイントブログとなった。
  撮影場所は同じ。腕とカメラの相違が一目瞭然となった。

先日の句会で蛍が話題となった。
近くに幾つか蛍の見える所があるが、その一つを訪れてみた。

まず明るいうちに下見と昼間の情景の撮影をした。

    

夜間再度訪れたが、午後8時頃から舞い始め、
暫くぶりに沢山の蛍を楽し
んだ。

(小生のカメラは、長時間露出の夜間撮影には向かない機種であるため、
あまりうまく撮れていません。あしからず)

暗くなると続々と車が詰めかけ沢山の人で賑わったのであった。

 

句会では、次のまさみさんの句を頂いた。

   遠き日の 忘れえぬ人 蛍狩り   

すばらしい蛍狩りの思い出をお持ちなのであろう。


場所の案内;
最近開通した、由加山を経由して児島へ抜ける2車線の山道を北上すると
「早瀬由加トンネル」がある。

ここを出て直ぐ「蛍の里」の看板
(ひどく汚れて見難いので見落とさぬように注意)の所で左に曲がり、
山道を数百メートル進む(1本道)、

途中数件の集落が右の道路沿いにある。
(地図上では、山村神社の下に位置する)

ここは、倉敷市に属し、拙宅から約15km程度である。

(市内には上記以外にもあるので、地元の人に予め確認してみるとよい)

沢山見るための条件;
1. こうこうと明るい満月でなく、出来るだけ月の暗い夜がよい。
2. 雨の日は駄目、雨の日の翌日晴れた日の晩がよい。
3. 午後8時から9時頃が最初のピーク、以降3時間毎にピークがあると言う。

安全対策等;
1. 足ごしらえをしっかり(場所によっては、マムシ対策も)
2. 長袖の着用(冷える場合と蚊の対策)
3. 懐中電灯を持参(但し、蛍が光る所では、懐中電灯は控える=迷惑になる)


2008年06月09日 06時58分51秒 | Weblog

 運には全く縁がないので、あえて運について書くことにした。

まず、運に関する諺を幾つか。

 「人事を尽くして天命を待つ」
Duties are our’s, events are God’s.(義務は人にあり、成否は天にあり)

「富貴は天にあり」
It is fortune, not wisdom, that rules man’s life. (人の一生を左右するのは、知恵でなくて運)

運と言うものが最終的な決定権を持つようである。
塩野七生氏の一文より引用する。


「ナポレオンは、同程度の才能を持つ将軍が二人居れば、運の強い方を抜擢したそうである。

人間が何かをしょうとする場合、如何に優れていても力量だけでは充分ではなく、運と言うものが大きくものを言うことを理解しているものは、マイノリティに過ぎない。

 しかし、マジョリティも人間心理のごく自然な発露として、運の強い方を好む傾向は共有しているのである。」

 小生の経験からすると、運の強さは、ひょっとするとその人の人間的な魅力に左右されるのではないかと思っているのである。

運の強い人が、その人の人間性の魅力につられて別の運の強い人を惹きつけ、一段と強運になりさらに栄えるという道筋のように思えるのである。

最近日本の政治の世界で、強運の政治家といわれる人にお目にかかった記憶がない。 もし、強運の政治家が出現すると、日本の国も遥かに住みやすくなるのではなかろうかと思うのである。


ラブホテル借切る

2008年06月08日 05時32分55秒 | Weblog

二十代後半(S47年)の頃、ノールウエイ向けの15万トンタンカー三隻の省エネ設備を担当した頃の話。三隻共引渡し後半年くらいで、蒸気発生器から漏れに悩まされ始めた。

事故の原因究明と応急処置を行うために、小生が派遣された。工事要員は、とび職十名、溶接士十名、仕上げ士十名、総員三十数名編成であった。

タンカーは、陸から数km沖に作られたピアと呼ばれる油送用パイプの接続口のみが海上に突き出したコンクリート製の構造物に係留される。そして、積荷の原油をここで数日間内に陸揚げし、再びペルシャ湾に向かって出航する。

与えられた時間は、72時間(3昼夜)であった。何が何でも、この時間内に総ての作業を完了させ、船を出航させなくはならないのであった。

玉野から夜行列車で、京葉工業地帯の港からタグボートに乗り沖の船に向かった。トラック便で別送しておいた、足場材料、溶接機、切断機、各種工具など機材も沢山積み込んだ。

食事は船の厨房からノールウエイ風の食事が支給さ、寝るのは廊下や空いている場所の床にごろ寝、三交代で72時間のタイムリミット内に突貫工事無事完了。

深夜、無線電話でタグボートを呼び上陸、タクシーに分乗し宿探し。ホテル・旅館を何軒もタクシーで乗り付け交渉するが、真っ黒な油にまみれ煤けた人相の悪いおっさん連中を気味悪がったのか、本当に満室だったのか分からないが全て断られた。

殆ど不眠不休の作業を続けたので、皆の疲労は極限状態である、タクシー運転手の機転で1軒のラブホテルに行ったら、即OKと返事、借り切る事にし、やっと寝る事が出来た。夜食の段取りもスムーズに出来、皆ゆっくり休めた。

読者の中に、この種のホテルを経験した方が居られるかどうか分からないが、鏡張りの真っ赤な円形ベッドやその他必要な設備が完備していた。

小生の持参したお金では、ホテル1軒分の借切り料金など払えるはずが無い。名刺を渡し、会社に請求するように言って帰った。

後日、会社はとんでもない所からの請求に面食らったはずであるが、小生の知った事ではなかった。

日本人の労苦をいとわぬクレイジーな作業姿勢は、彼らにとって驚きだったようで、随分船長と機関長から感謝された。

今でも有難く思い出すのは、非常に過酷な作業環境の中で、誰一人一言の文句を言わず、懸命に働いてくれたことである。


シニョーリア広場

2008年06月07日 06時43分08秒 | Weblog

中世のイタリアでは、街は石造りの建物と道路と広場で構成されていた。都市国家毎にその政治の中心部に当たる場所にシニョーリア広場と呼ばれる政治の広場或いは民衆の集会を行う広場があった。

   

 ここではフィレンツェにあるシニョーリア広場を取り上げてみる事にした。当時の様子を塩野七生氏の「わが友マキャヴェッリ(フィレンツェ存亡)」から紐解いて見た。

   

アルノ川に架かる、必ず連れて行かれる観光名所で橋の上に2階建ての家があるポンテ・ヴェッキオ橋(古い橋の意)を超えて南に1分ほど歩いたところの平民の家にマキャヴェッリは、生まれた。

(第二次大戦中、ドイツ軍はこの橋のみ破壊せずに残した。その他の歴史的芸術的価値の高い建物なども連合軍・ドイツ軍共に破壊しなかった。)

   

その橋から5分ほど北に歩くとフィレンツェ共和国第二書記官を29歳(1499年)から15年間勤めてきたマキャヴェッリが足繁く通勤した政庁の建物パラッツオ・ヴェッキオ(古い宮殿の意)がある。

その前の広場が、当時は現在のような石畳ではなくて赤レンガ舗装だったが、フィレンツェで起きる殆どの大事件の舞台になったシニョーリア広場である。
(この間に幾つかの観光名所があるが、本文では省略し他の機会に譲る) また、この広場からさらに北へ2分ほど歩くと、サンタ・マリア・デル・フィオーレ教会(花の聖母教会)の広場に着く。

 マキャヴェッリが過ごした時期は、メディチ家が裏で実質的にフィレンツェの政治を行った時代から、短期間メディチ家が追放され、そして、トスカーナ大公として返り咲いた時期にまたがっている。

また、ルネッサンスの最後の輝きの時期と一致しており、ミケランジェロ・ダヴィンチなど超一流の芸術家が活躍した時期でもあった。 ダビデ像(ミケランジェロ作、現在本物は美術館に保管、写真はレプリカ)は、1504年完成だから当然マキャヴェッリは見たはずである。

しかし、トスカーナ大公国初代大公コシモ・デイ・メディチの騎馬像やネプチューンとニンフたちの群像はマキャヴェッリの時代にはまだなかった。

   

   

   

 また、ロッジアと呼ばれる屋根付きの集会所の中にも沢山の彫刻があるのだが、これらもまだマキャヴェッリの時代にはなかった。(沢山の彫刻の名前を調べようとしているが、思いのほか進捗しないので困っている)

   

赤いあやめを描いた盾に前脚をかけた獅子の像が政庁の正面入り口左にある。野生の赤いあやめは都市国家フィレンツェの紋章であり、有名なサッカーチームのマークとなっていると言うが、サッカー音痴の小生にはよく判らなかった。

この日は日曜日で、また旗のアトラクションもあった関係か沢山の観光客がいて、何時までも見飽きない広場だったが、駆け歩きの旅なのでしかたなく次のピサに向かったのである。

旅行社は、満腹にさせるのではなくて、もう少し食べたい思う所でうまい具合に打ち切るつぼを心得ているようである。


小沢 昭一

2008年06月06日 05時47分59秒 | Weblog

最近のTVは面白くない、全く面白くなくなったのである。
(NHKの受信料を払いたくなくなってきた)
仕方がないので、古いVTRテープを探しては見ているのである。

小沢 昭一(おざわ しょういち、1929年4月6日-)は東京都蒲田出身。俳優、エッセイスト、芸能研究者、劇団「しゃぼん玉座」主宰、
廃人いや間違った、立派な俳人、俳号は「変哲」。

まずは、次のYouTubeをご覧頂こう。(1分少々我慢頂きたい) 

黒柳徹子は「徹子の部屋」で「美少女戦士セーラームーン」のコス プレをしたことがあるこのとき、クレヨンシンちゃん役で小沢昭一氏が出演しているのである。

<!-- 黒柳徹子のコスプレ -->

ちょっとびっくりしたところで、氏のインタビュー番組より、まじめにインタービューより幾つか拾い出してみる。

 1. 昭和は、文明と自然が調和していた良い時代、戦争だけが唯一いけなかった。
2. 落語の世界には軍国主義はなかった。戦後自分を取り戻せた場所は落語だった。

3. 貧主(ビンボークラシー=貧乏暮らし)主義者 = 昭和のつつましさ、このつましい生活の再来を願っている。皆でほどほどに貧しく生活しましょう。
4. シャボン玉座 = 自分の思いをストレートにお客に伝えたいので独り芝居を始めた。

5. 老謡 = 今日、童謡は、老人達の歌になってしまった。(若い人達は聞かない)
6. 戦争 = 人殺し大会、やめた方がよろしいんじゃございませんかー。

7. ハーモニカ昭和史 = 懐かしい昭和の歌謡曲 (戦前の藤山一郎などが多い)彼の吹くハーモニカは超一流である。(昭和の懐かしい歌謡曲を演奏してくれた)

この岡山地方にもシャボン玉座を引っさげて、是非来て欲しいものである。

追記:
あいにくとNHKなので、民放の事が語られていない、そこで次は、早稲田大学学生部が発行する学生向け週刊広報紙『早稲田ウィークリー』の記事より。

1929年、東京生まれ。第一文学部卒業後、俳優座養成所を経て51年初舞台。以後、映画、新劇、テレビ、ラジオの出演多数。TBSラジオ系「小沢昭一の小沢昭一的こころ」は放送開始25年目にあたる。著書に「私は・考」他多数。

  僕が早稲田大学に入ったのは演劇の伝統があったからで、学生劇団に入って芝居をしていました。だから、僕の初舞台は大隈講堂なんですよ。

その他にも「寄席の研究」をしたかったんですが、当時は寄席文化というのは今よりも遥かに低く見られていましたから、「寄席文化研究会」では大学に認めてもらえなくて、「庶民文化研究会」という名前で寄席の研究をしていました。

  僕が早稲田にいた頃はまだ戦争が終わって幾らも経っていませんでしたから、学内も殺伐とした雰囲気でしたね。文学部の校舎の窓にはガラスがはまっていませんでした。そんな状況ですから、「苦学」というよりも、その日その日を生きて行くのに必死でしたね。

  僕は大学にいる間に俳優座の養成所に入っていましたから、掛け持ちをしながら生きて行くためにずいぶんいろいろなアルバイトをしました。保険の外交、成人映画の見張り、宝くじ売り、出版社の編集、家庭教師…。家庭教師は一度に7人掛け持ちしたこともあります。

 まだ戦後のどさくさの時代でしたから、アメリカの救援物資の洋服を安く仕入れて、俳優座の養成所で売ったりもしましたね。ただ、洋服が汚れていて、臭くて、これが一番嫌だったな。

  そんな事情でしたから、大学ではほとんど勉強しませんでした。卒論には力を入れたんですけれど、後は代返してもらったり、ノートを借りたりしてね。  それで、40代になって、学問のないことのハンデをとても辛く感じて、また早稲田へ行き直して、6年間大学院へ特殊学生として通いました。

  大学っていうのは、学生の時は遊ぶところだと思っていましたが、学問は大事ですね。学問なんて自分の仕事の役に立たないと思ってましたが、それが大間違いだということに年を取ってから気がつきました。

  20代っていうのは何でも吸収できる時期ですから、その時期に何を吸収するか、ですね。それが40代、50代になった時に、ものすごくいい肥やしになる。学生時代から自分だけの専門、幼いながらもエキスパートになることが必要でしょうね。

 例えば、流行に目配りしながらも、人のやらないことをコツコツやるとかね。「1億総オタク」っていうのか、自分が何のエキスパートになるのかを探すのが大学4年間という時代なんじゃないですか。

  もちろん、遊ぶことも必要ですよ。ただ、20代は恋愛はほどほどにして、人間的にも金銭的にも充実する30代に取っておくのがいいかもしれませんね(笑)
   (1997年4月1日掲載)


トマトジュースがワインに

2008年06月04日 05時55分26秒 | Weblog

今回のイタリア旅行は往復ルフトハンザ、無料飲み放題のまことに呑み助にとっては数少ない貴重な有難い航空会社である。
(おまけにANAのマイレージポイントが加算された、おかげで岡山-東京片道1回分が無料になった。)

帰路隣席の大柄な中年ドイツ人男性がビールを注文したので同じものを要求してみた、さすがにドイツのビールである小生の知らない銘柄だったが実に美味しいものだった。

このドイツ人、オートメーションのエンジニアと言っていたが大変な呑み助、寝ている時以外はビール・ワイン・水・を延々と、またギャレーに行っては盛んに食べ物をねだって食べ際限なし。

11時間ほどの機内で食べた量は測りかねたが、2ダースほどの飲み物を飲み干したのであった。 おそらく、航空運賃の四分の一を取り戻したのではなかったろうかと思った。
(ちなみに、小生たちのツアーでは、往復の航空運賃は基本料金31200円+燃料サーチャージ他、計4万円ほどである)

下戸の小生は、ビール1本とワインをグラス1杯のみ、夜食にサンドイッチとオムスビ二個、これで十分ゆっくり眠ることが出来た。

ただ、ワインは、よほど小生の言い方が悪かったのであろう、トマトジュースを要求したものが化けたものであった、しかしまさに怪我の功名、飛び切り美味しいワインに当たり有難く頂戴した。
(どう間違うとこんなになるのか、見当も付かない)

この種のことは、ローマのホテルでも起きた、それはワインを1/4ボトルで頼んだのだが、クオーターの発音が悪かったのであろう、水(ウオーター)が出てきた。幸いこれはワインに変えてくれたのであるが。

英語から二十数年離れいるため、一番退化したのが発音、パリパリの日本語式発音である。
(パソコンではしゃべる必要が無いため、問題は無い)

次に書き方、発音がおかしいためローマ字式に書いてしまうので莫大な単語ミスが発生する。
(スペルチェック機能があるため、どうにかなる、但し文法間違いは数限りなし、通じたらよしとしよう)

次いでおぼつかなくなったのが読み方、もともと覚えていた単語の数が少なかったものが一段と少なくなった。
(これも最近は自動的に単語を翻訳してくれるので助かっている)

最後にヒアリングであるが「使わなければ衰える」の喩えの如しである、日一日と聞き取れなく無くなってきた。
(これはパソコンには補助してくれる機能が無い、動画などを見るとき大変不便である)

これから益々困ることが多くなりそうである。


チャールトン・ヘストン

2008年06月03日 07時01分42秒 | Weblog

 格調高い演技と精悍なマスク、更に「ミケランジェロの彫刻のように美しい」と称された肉体美を有する小生の大好きな男優の一人だった。

彼の主演作品として印象に強いのは、十戒 ( The Ten Commandments )1956年、ベン・ハー ( Ben-Her )1959年、エル・シド ( El Cid )1961年などである。

  

ミケランジェロに関するVTRテープがあったはずと探したら、
「華麗なる激情」( The Agony and the Ecstasy =激しい苦しみと恍惚 ) 1965年が出てきた。この映画はそれほど評価の高い作品ではなかったようで、さしたる受賞などなかったようである。

ちょっと見た程度では判りにくい難解な作品であるが、システィーナ礼拝堂の天井画(あくまで天井画であって、有名な「最後の審判」の壁画ではない)とミケランジェロの関わりを知りたくて、久しぶりに数回見た。

(これまでも2回ほど見たのだが、一向に分からない映画だった。しかし、今回はそれなりに理解できたような気がした、これは一度でもイタリアを訪問したことが大きく影響しているのである。)

第三の男で有名なキャロル・リード監督が意図した
「戦争に明け暮れた法皇ユリウスⅡ世とミケランジェロの男の友情」や
「ミケランジェロの芸術にかける執心や執念による苦しみ」がうまく描けていなかったのであるが、

有名な絵画や彫刻などが如何にしてこの世に現れたかという一面を楽しむと言う点で数少ない作品であるとも言えそうである。

ミケランジェロは終生「彫刻家」とは自称しているが、一度として「画家」とは自称していない。その彼の才能に惚れ込んだ法皇が、フレスコ画の経験のないミケランジェロを起用して天井画を描かせたのは、当時としては大変な慧眼とも言うべき事だったのであろう。

それ故、この映画の副題は
「 Artist who did not want to paint 」=「強制されて描いた男」となっている事が興味深かった。

この種の古い映画をご紹介しても、読者の皆さんが容易に見る事が可能かどうか分からないことにここまで書いて気が付いた。

しかし、絵画や彫刻のお好きな方なら、DVDレンタル店などで探してでもご覧になるかもしれないと思い、この記事を公開することにした。

今回のイタリア旅行は、不思議な事に、帰ってからの楽しみを、次から次へと提供してくれるのである。


家電火災

2008年06月02日 06時14分45秒 | Weblog

この件について詳しく調べて見た。

結論を真っ先に言えば、家を燃やすと言う大変もったいない事にならないように、しかるべき時期になったら家電製品を買い換えるべきであるが、そのしかるべき時期が何時なのかを決めかねているのである。

耐用年数を調べる方法を模索している。

それでも、思い切って四十年を過ぎたラジオ一台は廃却したが、まだ、これ以上長期に使用している電蓄と称する物が残っているのだが、捨てかねているのである。

参考:
毎日新聞によると、主要な家電4品目(冷暖房機、冷蔵庫、テレビ、洗濯機)が出火原因となった火災が97年から06年の10年間に全国で2158件起こり、計27人が死亡していたことが総務省消防庁の調べで新たに分かりました。

製造物責任法(PL法)では、販売して10年以上たった製品は、メーカーに賠償責任はありません。しかし、経年劣化は、中古品市場の拡大や消費者の高齢化で増える傾向にあり、家庭には多くの危険が潜んでいることになります。

このため三洋電機は、30年以上前に製造した扇風機522機種の使用中止を呼びかける異例の措置を行いました。

家電製品による火災事故は、かなりの件数に上ります。家電機器を安全に使いこなすには、購入時に、よく置き場所を検討することが大切です。

また、耐用年数が大幅に過ぎたものは、使用が可能でも危険です。思い切って買い換えましょう。 「もったいない」精神で、家電製品を使い続けるのは危険 「もったいない」には「けちくさい」というマイナスイメージがありましたが、今や「MOTTAINAI」は、世界の環境運動の公用語になっています。

しかし家電については、「まだ動くから、もったいない」と、いつまでも使い続けるのは、省エネにも貢献せず、火災などのリスクも大きくなります。火災事故の原因となった家電製品を件数順に見ると、エアコン、冷蔵庫、テレビ、洗濯機となっており、電気容量が大きい家電順になっているのが分かります。

 ●家電4品目が出火原因となった火災件数と死傷者数●
                 
           火災件数   死者   負傷者
冷暖房機   779件   8人  100人
冷蔵庫     596件  10人  110人
テレビ      497件   7人   65人
洗濯機     286件   2人   43人
  合 計   2158件  27人  318人
    (注)総務省消防庁調べ、97~06年


YouTube高画質化

2008年06月01日 05時32分31秒 | Weblog

 Stage 6がサービスを止めたので、久しく動画の劣悪な画面で我慢してきたが、多少改善されたYouTube画面を見ることが出来るようになったので、お知らせする。

Stage 6の大きな弱点は「再生までの長時間の待ち時間」だった。(高画質化のためファイルが大きくなり、ダウンロードに長時間を要することが多かった)

 「・・・再生がはじまるのを長い時間待たなくてもすむようにも配慮しつつ、高画質化をすすめていきます」と最後に書いてあるように、画質向上だけでなく待ち時間とのバランスに配慮するためであろう、もう一つ画質には満足が出来ないのである・・・、更なる技術の進歩を待つ必要がある。

 次のURLは、YouTubeの公式ページのサイトである。ざっとご覧になるとよいと思う。

 http://jp.youtube.com/blog?entry=m0qhZ5m34Ok

以下は、その本文をコピーしたものである。

 YouTube 動画を高画質で
YouTube のごく一部の動画ですが、高画質でみられるようになりました。アップロードされた動画ソースに応じて、高画質の動画を段階的に用意しているところです。 まだまだ数は少ないですが、これからより多くの動画を高画質で楽しめるようにしていきます。

高画質再生の対象範囲は、YouTube コミュニティーによって投稿された動画全体を含みますので、誰でもこのアップグレードを楽しむことができます。

では、どうしたら高画質の動画をみられるのでしょうか。
マイアカウントの「動画の再生画質」 の項目から、「利用できる場合は常に動画を高画質で再生する」
「動画を高画質で再生しない」という選択ができるようになりました。

高画質に対応した動画は、動画プレイヤーのすぐ下にあるリンクから、スムーズに見るか、高画質で見るかを選ぶことができます。

みなさんの創る動画が、YouTube を進化させ続けています。多くのクリエイターのみなさんから寄せられた高画質化に対する要望に答えて、高画質化をこれから少しずつ進めていきます。(動画アップロードサイズを1GBまで拡大しました)。

 私たちは、より多くの人が YouTube にアクセスでき、すばやくかつスムーズに動画を再生できるよう努めています。 みなさんにとってより快適なサービスとなるよう、再生がはじまるのを長い時間待たなくてもすむようにも配慮しつつ、高画質化をすすめていきます。
YouTube チーム

お試し用に、小生の公開作品を以下に表示しておきます。

だいぶ見易くなったように思います。

<!-- フッセンとノイシュバンシュタイン城 -->