1874年(明治7)の今日(2月4日)「佐賀の乱」が起る。
幕末の佐賀藩は燃えていた。名君と謳われた10代藩主鍋島直正は藩財政の建て直しから始めた。特に大がかりなリストラを行い、役人を5分の1に削減するなどで出費を減らし、農民の保護育成、陶磁器(有田焼)・茶。(嬉野茶)・石炭(以下参考に記載の佐賀県の鉱山参照)などの産業育成に力を注いだ。表高(おもてだか)36万石が明治に入って調査したところ、100万石を超していたと言われる。その財力で優秀な藩士を教育するためにの藩校(弘道館)を改革し、医学、軍事、産業などの近代化を図った。藩費で長崎や江戸に多くの人材を送って、各方面の学問を学ばせ、反射炉や蒸気機関といった先進的な科学技術の研究も進め、アームストロング砲など最新式の西洋式大砲や鉄砲の自藩製造に成功した他、軍事面では鉄製の軍艦も完成させ日本でも有数の海軍を生み出していたという(以下参考に記載の※佐賀藩参照)。
佐賀の藩校からは副島種臣、大隈重信、江藤新平、大木喬任、佐野常民、島義勇など多くの明治維新功労者を輩出している。
薩長土肥と言う言葉がある。幕末期、「雄藩」と呼ばれ、かつ、明治維新を推進して明治政府の主要官職に人材を供給した倒幕運動でお馴染みの薩摩藩・長州藩・土佐藩、肥前藩(佐賀藩)4藩の総称である。薩長土は幕末の倒幕運動で多くの士が活躍しているが、肥前・佐賀藩は幕末の動乱期に二重鎖国をひいて志士は居ても藩外での活動をさせず優秀な人材の育成につとめていたため、討幕運動でこれといって活躍をした人物は居ない。しいて言えば江藤新平くらいで、彼は、1857(安政4)年に結婚。藩の洋式砲術、貿易関係の役職を務めていたが、1862(文久2)年に脱藩し京都で活動。長州藩士の桂小五郎(木戸孝允)や公家の姉小路公知らと接触しているが2ヶ月ほどで帰郷し、通常脱藩は死罪であったが、江藤の見識を高く評価した藩主直正の直截裁断により永蟄居(無期謹慎)に罪を軽減されたと言われている。蟄居後は寺子屋師匠などを務め、同士との密かな交流や、幕府による長州征伐(幕長戦争)での出兵問題では藩主直正への献言を行うなど政治的活動は続けていたという。佐賀藩の有能な藩士は倒幕後、薩長土の士と共に明治政府の整備において活躍した。
明治維新後の政府首脳の間では、藩閥間の対立と流動化の動きが続き政局は安定しなかった。新政府反対の民衆一揆も各地で起っていた。
江戸城を無血開城へとつなげた西郷の明治新政府で果たした最大の功績の一つが版籍奉還(1869年7月25日)と廃藩置県(1871年8月29日)であり、特に、封建制度を根本から瓦解させる廃藩置県の断行は、天下に鳴り響いた西郷の武名と信望がなければ実現困難であったとも言われる。先祖伝来の土地と権限を政府に全て返上することになる廃藩置県の断行に成功した明治政府は、急速に集権的な政権基盤を磐石なものとしていく。西郷の征韓論は、韓国(朝鮮半島)を武力で直接的に征服しようとする政策ではなく、日本(新政府)を主権国家として認めない韓国に主権を認めさせ、武力を背景に開国させて貿易や交流をしようとする政策であった。そして、この征韓論の目的には、もう1つ、廃刀令や徴兵令が実施されて武士の特権を奪われ不満と怒りをたぎらせていた士族の意識を、外部(西郷の韓国派遣)に逸らすというガス抜きの意図もあったのである。しかし、新政府の政権基盤が安定するまでは外交の発展よりも内政の充実を優先すべきという岩倉使節団派(岩倉・大久保・木戸など)の意見が通り、明治天皇もその意見を承認したことから、西郷の韓国派遣は無期限延期となったのである。
1873(明治6)年、征韓論をめぐり大久保利通らに敗れた江藤は、西郷隆盛らとともに参議を辞した(詳しくは明治六年政変参照)。
江藤は、その翌・1874(明治7)年1月、同じく征韓論の主張に敗れて下野した板垣退助、後藤象二郎の前参議たちと民選議員を設立せよとの建白書を政府に提出した(内容は以下参考に記載の民撰議院設立建白書参照)。それと同時に外国人ジャーナリストブラックによる新聞、「日新真事誌」(以下参考に記載の外国人ジャーナリスト・ブラック参照)に建白書を掲載し、愛国公党という政党を作り、国民への働きかけの姿勢を示した。民撰議院設立建白書は、天賦人権論に立脚しているものの、当時、困窮を極めた不平士族の不満が形を変えて噴出したものであったと言える。しかし、政府や明六社は時期尚早として反対したが、以後、同様の建白書が続々と提出されることとなる。政府は、新聞紙条例を改悪し讒謗律を発布し、言論を取り締まりを厳しくし、新聞の発行禁止や記者の投獄があいついだ。1875(明治8)年4月立憲政体の詔書が発せられるが、当時の政府としては、立憲政体起立の方針と言っても、官僚の啓蒙・仁慈としてのみ行われる必要があり、在野からの批判と改革の運動は容赦しなかった。江藤の率いる征韓党と島義勇を頭首とする憂国党が連携した佐賀士族の反乱が起ったのはこれより先の1874年(明治7)2月のことであった。
当時追い詰められた士族は各地で士族結社を組織して自己防衛を図った。佐賀もその例外ではなく、佐賀城下も物情騒然としていた。
江藤は、早く議会制度採用を説き、司法卿としてフランスの民法を模した民法典の起草に着手した改革派であり、これに対して、島の憂国党は旧藩主の復帰と家禄の復旧を目指した封建主義者の集まりであった。
帰郷して士族の鎮圧に当ろうという江藤に帰郷を思いとどまるようにとの副島、後藤らの説得にもかかわらず、1874年(明治7)1月13に帰郷したが、直ぐには佐賀城下に入らず郊外の嬉野温泉で滞在して様子を伺い城下に入ったのは25日頃だったという。しかし、もう手が付けられないと思ったのか、2月2日には義弟のいる長崎の郊外に移って静養をしながら様子をみていたのだという。江藤には反乱に加担する気持ちなど毛頭無かったが、彼が離京した翌14日に征韓論者で高知県士族の武市熊一らが右大臣岩倉具視暗殺未遂事件が突発した(詳細は喰違の変参照)。衝撃を受けた政府当局者は神経過敏になり、佐賀県の異常事態と江藤の帰郷に反応した。1月18日新設の内務卿に就任したばかりの大久保利通は、穏健派の岩村通俊に代えて強硬派である実弟の岩村高俊を佐賀県令に任じ、佐賀の治安回復を命じた。
その矢先の2月1日、憂国党に属する士族が官金預かり業者である小野組におしかけ強引に金談、店員らが逃亡するという事件が起り、これが即内務省に電報で通知され、2月4日には、政府は熊本鎮台司令長官谷干城に佐賀士族の鎮圧を命令した。ここに「佐賀の乱」が始まったといえる。岩村高俊は、高慢、無思慮な性格であったとされ佐賀の乱ではどうも不平士族の挑発に利用されたようだ。
よく江藤が、佐賀の乱を引き起こしたというが、彼は、この時、このようなことも知らず佐賀城下から、はるか離れた長崎の郊外で静養していたのである。この時島も東京にいたが、2月4日佐賀への出兵命令が出ているのを知り、また、太政大臣三條実美に、頼まれて鎮撫のために佐賀に向かったが、その時、偶然にも赴任中の岩村新県令と同船し、岩村が鎮台出兵の為下関で下船するのを知って、文官が兵を率いて赴任するのとは何事だと怒ったという。そして、11日長崎に上陸し、たまたま居合わせた江藤と遭遇したことから、国家観や文明観も違い、仲違いしていたこの2人が共同して、佐賀での岩村の暴挙を阻止し、郷土防衛にあたろうと意見が一致し佐賀城下へ入ったという。(週刊朝日百貨「日本の歴史」)
2月15日には熊本鎮台兵半大隊と伴なって佐賀旧城内の県庁に到着した。これを知った、征韓党と憂国党が武器を取って県庁に攻撃。岩村らは18日多数の死傷者をだしながら県外に避難した。19日、政府は佐賀県下の暴徒の征討令を布告、総計1万人に達する政府陸海軍が出動し、22日福岡県境の朝日山激戦の後、佐賀側の防衛陣地を突破した。23日江藤は、これ以上の抵抗は犠牲者と罪人を増やすだけだからと征韓党の解散を宣言したが佐賀側の交戦はなお続き、仕方なく、江藤は西郷隆盛の援軍を仰ごうと征韓党幹部を連れて鹿児島へ脱出。2月27日政府軍、総攻撃開始。2月28日 憂国党幹部の木原隆忠と副島義高が休戦交渉。政府軍は拒絶。島らは鹿児島に脱出。 3月1日、大久保内務卿と政府軍、佐賀城に入城。江藤、宇奈木温泉で西郷隆盛に面会。支援を拒絶される。 同3月7日 島、鹿児島で捕縛される。逃亡中の江藤も3月29日高知県の甲ノ浦で捕縛される。江藤は東京での裁判を望んだが、大久保は急遽設置した佐賀臨時裁判所において、権大判事河野敏鎌に4月9日審議を行わせ、わずか2日間の審議で、 4月13日には江藤・島ら11名に死刑判決が下り、即日処刑、さらし首とされた。この江藤らの裁判は当初から刑が決まっていたようで、答弁や上訴の機会も十分に与えられなかったという。
明治維新の士族の反乱は佐賀の乱において本格的に組織化された武力行使(国内戦争)となった。その兵火はその後、1876年(明治9)には熊本県で神風連の乱、呼応して福岡県で秋月藩士による秋月の乱、10月には山口県で前原一誠らによる萩の乱などの反乱が続き、それぞれ鎮圧される。1877(明治10)年には鹿児島県で私学校生徒ら薩摩士族が西郷を擁立して、最大規模となる西南戦争が起こるが、これも士族側の敗戦に終わり、西郷も自刃した。征韓論論争で、西郷や江藤らと対立し、明治六年政変にて失脚させた大久保は、1878(明治11)年、不平士族に暗殺されている(紀尾井坂の変参照)。四民平等(士農工商参照)を目指していた明治政府は士族特権解消政策を協力に推し進めていたが、その先頭にたった江藤や西郷が、こと志と違って士族反乱(佐賀の乱、西南戦争)の首領に担ぎ上げられたのは歴史の皮肉ともいえるのではないか。
(画像は、佐賀の乱を報じた東京日日新聞の記事。フリー百科事典Wikipediaより)
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幕末の佐賀藩は燃えていた。名君と謳われた10代藩主鍋島直正は藩財政の建て直しから始めた。特に大がかりなリストラを行い、役人を5分の1に削減するなどで出費を減らし、農民の保護育成、陶磁器(有田焼)・茶。(嬉野茶)・石炭(以下参考に記載の佐賀県の鉱山参照)などの産業育成に力を注いだ。表高(おもてだか)36万石が明治に入って調査したところ、100万石を超していたと言われる。その財力で優秀な藩士を教育するためにの藩校(弘道館)を改革し、医学、軍事、産業などの近代化を図った。藩費で長崎や江戸に多くの人材を送って、各方面の学問を学ばせ、反射炉や蒸気機関といった先進的な科学技術の研究も進め、アームストロング砲など最新式の西洋式大砲や鉄砲の自藩製造に成功した他、軍事面では鉄製の軍艦も完成させ日本でも有数の海軍を生み出していたという(以下参考に記載の※佐賀藩参照)。
佐賀の藩校からは副島種臣、大隈重信、江藤新平、大木喬任、佐野常民、島義勇など多くの明治維新功労者を輩出している。
薩長土肥と言う言葉がある。幕末期、「雄藩」と呼ばれ、かつ、明治維新を推進して明治政府の主要官職に人材を供給した倒幕運動でお馴染みの薩摩藩・長州藩・土佐藩、肥前藩(佐賀藩)4藩の総称である。薩長土は幕末の倒幕運動で多くの士が活躍しているが、肥前・佐賀藩は幕末の動乱期に二重鎖国をひいて志士は居ても藩外での活動をさせず優秀な人材の育成につとめていたため、討幕運動でこれといって活躍をした人物は居ない。しいて言えば江藤新平くらいで、彼は、1857(安政4)年に結婚。藩の洋式砲術、貿易関係の役職を務めていたが、1862(文久2)年に脱藩し京都で活動。長州藩士の桂小五郎(木戸孝允)や公家の姉小路公知らと接触しているが2ヶ月ほどで帰郷し、通常脱藩は死罪であったが、江藤の見識を高く評価した藩主直正の直截裁断により永蟄居(無期謹慎)に罪を軽減されたと言われている。蟄居後は寺子屋師匠などを務め、同士との密かな交流や、幕府による長州征伐(幕長戦争)での出兵問題では藩主直正への献言を行うなど政治的活動は続けていたという。佐賀藩の有能な藩士は倒幕後、薩長土の士と共に明治政府の整備において活躍した。
明治維新後の政府首脳の間では、藩閥間の対立と流動化の動きが続き政局は安定しなかった。新政府反対の民衆一揆も各地で起っていた。
江戸城を無血開城へとつなげた西郷の明治新政府で果たした最大の功績の一つが版籍奉還(1869年7月25日)と廃藩置県(1871年8月29日)であり、特に、封建制度を根本から瓦解させる廃藩置県の断行は、天下に鳴り響いた西郷の武名と信望がなければ実現困難であったとも言われる。先祖伝来の土地と権限を政府に全て返上することになる廃藩置県の断行に成功した明治政府は、急速に集権的な政権基盤を磐石なものとしていく。西郷の征韓論は、韓国(朝鮮半島)を武力で直接的に征服しようとする政策ではなく、日本(新政府)を主権国家として認めない韓国に主権を認めさせ、武力を背景に開国させて貿易や交流をしようとする政策であった。そして、この征韓論の目的には、もう1つ、廃刀令や徴兵令が実施されて武士の特権を奪われ不満と怒りをたぎらせていた士族の意識を、外部(西郷の韓国派遣)に逸らすというガス抜きの意図もあったのである。しかし、新政府の政権基盤が安定するまでは外交の発展よりも内政の充実を優先すべきという岩倉使節団派(岩倉・大久保・木戸など)の意見が通り、明治天皇もその意見を承認したことから、西郷の韓国派遣は無期限延期となったのである。
1873(明治6)年、征韓論をめぐり大久保利通らに敗れた江藤は、西郷隆盛らとともに参議を辞した(詳しくは明治六年政変参照)。
江藤は、その翌・1874(明治7)年1月、同じく征韓論の主張に敗れて下野した板垣退助、後藤象二郎の前参議たちと民選議員を設立せよとの建白書を政府に提出した(内容は以下参考に記載の民撰議院設立建白書参照)。それと同時に外国人ジャーナリストブラックによる新聞、「日新真事誌」(以下参考に記載の外国人ジャーナリスト・ブラック参照)に建白書を掲載し、愛国公党という政党を作り、国民への働きかけの姿勢を示した。民撰議院設立建白書は、天賦人権論に立脚しているものの、当時、困窮を極めた不平士族の不満が形を変えて噴出したものであったと言える。しかし、政府や明六社は時期尚早として反対したが、以後、同様の建白書が続々と提出されることとなる。政府は、新聞紙条例を改悪し讒謗律を発布し、言論を取り締まりを厳しくし、新聞の発行禁止や記者の投獄があいついだ。1875(明治8)年4月立憲政体の詔書が発せられるが、当時の政府としては、立憲政体起立の方針と言っても、官僚の啓蒙・仁慈としてのみ行われる必要があり、在野からの批判と改革の運動は容赦しなかった。江藤の率いる征韓党と島義勇を頭首とする憂国党が連携した佐賀士族の反乱が起ったのはこれより先の1874年(明治7)2月のことであった。
当時追い詰められた士族は各地で士族結社を組織して自己防衛を図った。佐賀もその例外ではなく、佐賀城下も物情騒然としていた。
江藤は、早く議会制度採用を説き、司法卿としてフランスの民法を模した民法典の起草に着手した改革派であり、これに対して、島の憂国党は旧藩主の復帰と家禄の復旧を目指した封建主義者の集まりであった。
帰郷して士族の鎮圧に当ろうという江藤に帰郷を思いとどまるようにとの副島、後藤らの説得にもかかわらず、1874年(明治7)1月13に帰郷したが、直ぐには佐賀城下に入らず郊外の嬉野温泉で滞在して様子を伺い城下に入ったのは25日頃だったという。しかし、もう手が付けられないと思ったのか、2月2日には義弟のいる長崎の郊外に移って静養をしながら様子をみていたのだという。江藤には反乱に加担する気持ちなど毛頭無かったが、彼が離京した翌14日に征韓論者で高知県士族の武市熊一らが右大臣岩倉具視暗殺未遂事件が突発した(詳細は喰違の変参照)。衝撃を受けた政府当局者は神経過敏になり、佐賀県の異常事態と江藤の帰郷に反応した。1月18日新設の内務卿に就任したばかりの大久保利通は、穏健派の岩村通俊に代えて強硬派である実弟の岩村高俊を佐賀県令に任じ、佐賀の治安回復を命じた。
その矢先の2月1日、憂国党に属する士族が官金預かり業者である小野組におしかけ強引に金談、店員らが逃亡するという事件が起り、これが即内務省に電報で通知され、2月4日には、政府は熊本鎮台司令長官谷干城に佐賀士族の鎮圧を命令した。ここに「佐賀の乱」が始まったといえる。岩村高俊は、高慢、無思慮な性格であったとされ佐賀の乱ではどうも不平士族の挑発に利用されたようだ。
よく江藤が、佐賀の乱を引き起こしたというが、彼は、この時、このようなことも知らず佐賀城下から、はるか離れた長崎の郊外で静養していたのである。この時島も東京にいたが、2月4日佐賀への出兵命令が出ているのを知り、また、太政大臣三條実美に、頼まれて鎮撫のために佐賀に向かったが、その時、偶然にも赴任中の岩村新県令と同船し、岩村が鎮台出兵の為下関で下船するのを知って、文官が兵を率いて赴任するのとは何事だと怒ったという。そして、11日長崎に上陸し、たまたま居合わせた江藤と遭遇したことから、国家観や文明観も違い、仲違いしていたこの2人が共同して、佐賀での岩村の暴挙を阻止し、郷土防衛にあたろうと意見が一致し佐賀城下へ入ったという。(週刊朝日百貨「日本の歴史」)
2月15日には熊本鎮台兵半大隊と伴なって佐賀旧城内の県庁に到着した。これを知った、征韓党と憂国党が武器を取って県庁に攻撃。岩村らは18日多数の死傷者をだしながら県外に避難した。19日、政府は佐賀県下の暴徒の征討令を布告、総計1万人に達する政府陸海軍が出動し、22日福岡県境の朝日山激戦の後、佐賀側の防衛陣地を突破した。23日江藤は、これ以上の抵抗は犠牲者と罪人を増やすだけだからと征韓党の解散を宣言したが佐賀側の交戦はなお続き、仕方なく、江藤は西郷隆盛の援軍を仰ごうと征韓党幹部を連れて鹿児島へ脱出。2月27日政府軍、総攻撃開始。2月28日 憂国党幹部の木原隆忠と副島義高が休戦交渉。政府軍は拒絶。島らは鹿児島に脱出。 3月1日、大久保内務卿と政府軍、佐賀城に入城。江藤、宇奈木温泉で西郷隆盛に面会。支援を拒絶される。 同3月7日 島、鹿児島で捕縛される。逃亡中の江藤も3月29日高知県の甲ノ浦で捕縛される。江藤は東京での裁判を望んだが、大久保は急遽設置した佐賀臨時裁判所において、権大判事河野敏鎌に4月9日審議を行わせ、わずか2日間の審議で、 4月13日には江藤・島ら11名に死刑判決が下り、即日処刑、さらし首とされた。この江藤らの裁判は当初から刑が決まっていたようで、答弁や上訴の機会も十分に与えられなかったという。
明治維新の士族の反乱は佐賀の乱において本格的に組織化された武力行使(国内戦争)となった。その兵火はその後、1876年(明治9)には熊本県で神風連の乱、呼応して福岡県で秋月藩士による秋月の乱、10月には山口県で前原一誠らによる萩の乱などの反乱が続き、それぞれ鎮圧される。1877(明治10)年には鹿児島県で私学校生徒ら薩摩士族が西郷を擁立して、最大規模となる西南戦争が起こるが、これも士族側の敗戦に終わり、西郷も自刃した。征韓論論争で、西郷や江藤らと対立し、明治六年政変にて失脚させた大久保は、1878(明治11)年、不平士族に暗殺されている(紀尾井坂の変参照)。四民平等(士農工商参照)を目指していた明治政府は士族特権解消政策を協力に推し進めていたが、その先頭にたった江藤や西郷が、こと志と違って士族反乱(佐賀の乱、西南戦争)の首領に担ぎ上げられたのは歴史の皮肉ともいえるのではないか。
(画像は、佐賀の乱を報じた東京日日新聞の記事。フリー百科事典Wikipediaより)
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