今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

『マダム・バタフライ(蝶々夫人)』がミラノ・スカラ座で初演 された日

2008-02-17 | 歴史
1904年の今日(2月17日)日本を舞台にしたオペラ『マダム・バタフライ(蝶々夫人)』が ミラノスカラ座で初演された。
イタリア人作曲家ジャコモ・プッチーニの作品で、原作は米の作家ジョン・ルーサー・ロングの短編小説、『蝶々夫人(Madama Butterfly)』であり、同小説は1898年にアメリカのセンチュリー・マガジン(1930年に廃刊)1月号に発表されたものである。このロング原作『蝶々夫人』にアメリカの劇作家デーヴィッド・ベラスコが制作した同名の戯曲を更に歌劇台本化したものだとされている。しかし、1904年2月17日、ミラノのスカラ座で初演されたそれは大失敗だったようで、同年5月28日ブレシアで上演された改訂版の成功以来、標準的なレパートリー作品となったと言われている。プッチーニは、「「マノン・レスコー」「ラ・ポエーム」「トスカ」に続く、この「マダム・バタフライ」でジュゼッペ・ヴェルディ以降のイタリア・オペラの伝統を受け継ぐ地位と名声を確立。時にヴェルディの『椿姫』、ビゼーの『カルメン』と合わせて、「マダム・バラフライ(蝶々夫人)」を世界三大オペラに数える説もある。
「マダム・バタフライ」がミラノ・スカラ座で初演 されたこの年(1904年)、東京音楽学校(現・東京芸大)を卒業した三浦環(20歳)は1913年に医師の三浦政太郎と結婚した後、夫とともに1914年にドイツに留学する。しかし第1次世界大戦の戦火を逃れてイギリスに移動。当時イギリスとは日英同盟を結んでいた中であり、友好国民として歓迎され、そのような時代背景が幸いした部分もあったようだが、この年10月にロイヤルアルバート・ホールで開催された「愛国大音楽会」に出演する機会に恵まれた。このコンサートでの成功したことが翌1915年ロンドン劇場で上演された「マダム・バタフライ(蝶々夫人)」のプリマドンナを日本人として初めて務めるきっかけとなった。しかし、「マダム・バタフライ」は初演されてからまだ10年ほどしか経っていなかったため、環はそれまで、このオペラを歌ったことがなく、「マダム・バタフライ」の楽譜を4月中旬に購入し、ほぼ1ヵ月余の間に蝶々夫人のパートを暗譜し、舞台上での動きなどについても考えをまとめた。そして、5月31日にロンドン歌劇場でおこなわれた「マダム・バタフライ(蝶々夫人)」の公演は、日本人のプリマドンナが日本人をヒロインにしたオペラに出演するということでおおいに話題になった。当初、新聞の批評も概ね好評だったこともあり、当初5回が予定されていた出演回数は15回にふやされたという。(朝日クロニクル{週刊20世紀」)その後は蝶々夫人は彼女の最大の当たり役となりで世界中を飛び回り、アメリカのメトロポリタン歌劇場では名テノール歌手、エンリコ・カルーソと共演。ローマでは作曲者プッチーニは彼女の公演を見て感激、「夢に描いていた蝶々さんを現実に見ることができた」と賞賛したされるなど、生涯に2,000回もこの役柄を演じたという。帰国後も、彼女自身による日本語訳歌詞で蝶々夫人を歌い続け、精力的に活動した。日本人最初の国際的なプリマドンナとして三浦環の名前は今もオペラの歴史に刻まれている。長崎のグラバー園にはその功績を称える三浦の像がある。
以下の「ある晴れた日に 歌劇『蝶々夫人』(プッチーニ)」では、You Tubeで舞台の動画が見れるよ。
ある晴れた日に → http://www.worldfolksong.com/songbook/opera/onefine.htm
♪ある晴れた日 海の遥か彼方に 煙がひとすじ見え 船の姿が現れる・・・♪
一時の浮気心で蝶々さんと結婚し、そのままアメリカへ帰ってしまったピンカートンを信じて、帰りを待ち続ける蝶々さんが歌うのが有名なアリア「ある晴れた日に」。
3年後、ピンカートンはアメリカで正式に結婚した妻を連れて再び日本に帰って来る。すべてを察した蝶々さんは、ピンカートンとの間に生まれた子供を彼らに託し、父から譲り受けた守り刀で自らの命を絶つ。
「蝶々夫人」の中でも特に代表されるアリアであり、単独で歌われることの多いものである。伝説のソプラノ歌手、故マリア・カラスもこのアリアを十八番としており、現在出回っている彼女のベスト盤の多くにこのアリアが収められている。
舞台ではなく映画では1955(昭和30)年東宝の日伊合作となった「蝶々夫人」ではタイトルロールを当時、宝塚歌劇団在団中だった八千草薫が演じ、日本だけでなくイタリアでも大評判をとった。
しかし、オペラを作ったプッチーニも、その元になった戯曲を書いたベラスコも、その元になった小説を著したロングも、長崎はおろか日本を訪れたことはないそうだ。ロングの姉サラ・コーレルが、東山手の現・活水女子大学の付近にあったカブリー英和学校(後の鎮西学院)の校長をしていた夫とともに、1891(明治24)年から1895(明治28)年まで長崎の居留地に住んでいたという。ロングは、姉サラから長崎の話を聞き、小説「マダム・バタフライ」を書いた(1897年)とされている。ただ、以下参考に記載の「あっと九州」によると、”その姉によれば、東山手の反対側に住んでいた「料亭で働く少女」ということだったが、具体的な名前などはない。一方、戦後、アメリカ軍が長崎に駐留していた頃、軍将校の住居として使われていたグラバー邸は「マダム・バタフライハウス」という愛称で呼ばれていた”という。有力視されていたのは、幕末に活躍したグラバーの妻、ツルである。ツルの位牌や墓にアゲハチョウの紋があり、ツルがモンシロチョウの紋の入った着物を着ていたことなどから「蝶々夫人のモデルはツルではないかというのである。
しかし、ちょっと、「蝶々夫人」の第1幕を思い出してみよう。アメリカ海軍の戦艦アブラハム・リンカーン所属の海軍士官ピンカートンは日本人の少女と結婚することになった。結婚斡旋屋のゴローが、長崎にきたピンカートンに、結婚後に暮らす丘の麓の家や、下女のスズキや下男を紹介して機嫌を取っている。そこへ駐長崎領事のシャープレスがやってくる。ピンカートンはここでアリア「ヤンキーは世界のどこへ行っても」を歌う。シャープレスは優しい心の男であり、ゴローが紹介した少女がこの結婚が永久の縁と堅く信じていることを思い出し戸惑う。だがピンカートンは、この結婚も一時の愛だとシャープレスの危惧を一笑に付すた。そこへ蝶々さんが芸者仲間とともに現れる。シャープレスが可憐なこの15歳の少女に身の上を問うと、実家は没落士族の家であると答え、父から頂いた切腹のための刀の入った箱を披露している。第2幕、結婚式から3年が過ぎた。ピンカートンは任務が終わり、アメリカ合衆国に帰ってしまった。彼は蝶々さんに「コマドリが巣を作る頃には帰ってくる」と約束していた。蝶々さんの忠実な下女スズキは彼は既にそれらを反故にしたのではと疑うが、ピンカートンを信頼する蝶々さんにとがめられる。 きっと夫は帰ってくると信じてやまぬ蝶々さんは、ここでアリア「ある晴れた日に」を歌うのであるが・・・。結局、ピンカートンは、アメリカ本国でアメリカ人女性と結婚。アメリカ人妻ケイトに自分の産んだ子供を渡すことを約束し、「名誉のために生けることかなわざりし時は、名誉のために死なん」と父の遺品の刀で自刃しようとするが、そこへ子供が走ってくる。蝶々さんは子供を抱きしめアリア「さよなら坊や」を歌い、子供に目隠しをし、日米の国旗を持たせ、そして、刀を喉に突き立てるのである。
当時の長崎では、洋妾(ラシャメン)として、日本に駐在する外国人の軍人や商人と婚姻し、現地妻となった女性が多く存在していたという。何もしらない蝶々さんは、自分がそんな慰み者の一時的な妻ではなく、ピンカートンの本当の嫁にしてもらったものと思っていたのであろうか?。
このブログの字数制限上、これ以上書けないので、この続きは以下をクリックしてください。参考もそこにあります。
クリック→ 続:『マダム・バタフライ(蝶々夫人)』がミラノ・スカラ座で初演 された日
(画像は、蝶々夫人を演じる三浦環 。写真は、1930年代のものという。アサヒクロニクル「週刊20世紀」)


続:『マダム・バタフライ(蝶々夫人)』がミラノ・スカラ座で初演 された日

2008-02-17 | 歴史
明治の長崎でそのような悲しい愛に生きた「蝶々さん」は誰か?。
先に、グラバーの妻、ツルさんがモデルではないかという説があることを書いたが、実は、「お菊さん」のモデルは「お兼さん」さんだという説が有力のようである。以下参考に記載の「歴史散歩/歌劇「蝶々婦人」のモデルは竹田の人」によると、実は「ツルさん」も「お兼さん」も大分県竹田の出だという。幕末から明治に入り西南の役のあった時代戦火で何もかも失った武家育ちの女性が生きてゆくことは大変なことだったろうが、お兼さんも家を焼かれ住む所もなにもなくして悲惨な運命をたどった人のようだ。同じ竹田出身でグラバーの妻となっていたツルさんの世話でお兼さんが7歳頃母おきんさんと長崎に行く事になったそうだが、長崎の生活は思うようにいかず、その後は男相手の商売だったのではないかと想像され、やがて母おきんさんは置き屋の女将になったと言う。そして、1885(明治18)年7~12月に、フランス海軍士官、ピエール・ロテイが「トリファント号」の艦長として来日。その間7月から8月約1ヶ月ほど長崎に滞在していたが、その時一緒に生活していた女性が、当時15歳とか18歳とか言われるお兼さんだったといわれているそうだ。言うところの一時的な日本人現地妻である。母おきんが置き屋の女将なら娘のお兼にそのようなことをさせても不思議は無いだろう。ロチがお菊さんと一緒に生活した家(長崎市十人町8-2)は、第二次大戦中の建物疎開で取りこわされたという。また、ロチの記念碑が長崎市諏訪神社の月見茶屋そばに建っているそうだ。
ピエール・ロチはペンネームであり、本名は、フランスの自然主義作家で、本名をルイス・マリー・ジュリアン・ヴィオー(Louis Marie Julien Viaud)というそうだ。 ロチは長崎の街で過ごした経験をもとに、日本体験記『お菊さん(マダム クリザンテエム)』を書いたのは1887(明治20)年のこと。アメリカ人ロングがこのオペラ「蝶々夫人」の基になった戯曲「マダマ バタフライ」を発表(1898年)した実に、11年も前のことである。「お菊さん」は小説発表の10年後にアンドレ・メサジェによって同名のオペラ「お菊さん」 になりパリで初演されているという。ロチは長崎の仕事を済ませた後帰国。その後1900(明治33)年12月8日に再び長崎にきて4月1日まで滞在し、この時の模様を基に、『お梅が三度目の春』を著しているそうだ。しかし、この時お兼さんとは再会していないようだ。
ロチ36歳のときに、いかに退屈なひと夏を、長崎の郊外で、一人の憐れむべき日本の娘と過ごしたかをありのままに描いたのが『お菊さん』さんだという。その彼が同年11月、天皇誕生日を祝う鹿鳴館の夜会にも招かれている。その時の経験をもとに『江戸の舞踏会』を書いている。またこの2作を元に、芥川龍之介が、『舞踏会』(以下参考に記載の青空文庫舞踏会参照)を書いていることは、は前のブログ11月28『鹿鳴館落成の日』で書いたが、ロティにとって鹿鳴館の夜会は「公のどえらい笑劇」であり、きらびやかに着飾った女性たちはそこに「異国的美しいおどけを投げこむ」可愛い女であった。小説の『お菊さん』が、どんな内容ののものかはよく知らないが、長崎で1ヶ月あまり暮らした西欧先進国フランス人のロチの眼には鎖国を解いたばかりの日本人は「尾無し猿のやうな長い着物を着た」人間に映っていたようだ。当時の日本女性は小柄で顔がぼっちやりしたのが美人とされていたことを想像して考えると、西洋の洋服をきた彼女たちは、外国人の目からは不思議で滑稽な日本女性に映ったのは当然だろう。
19世紀後半の欧米で注目された日本美術は決して浮世絵だけではなく、浮世絵に継いで重要な制作上の多大なヒントを秘めたものとして陶芸と水墨画があってマネやロートレック、ゴーガンやマチス、マルケなどはそれぞれ異なる理由でこれらに強い関心を寄せていたという。中でも、ヴィンセント・バン・ゴッホは400枚以上の浮世絵を所有し、浮世絵を通じて日本を愛し、日本に旅行しようとさえ考えた。その彼が失望したのはピエール・ロチの『お菊さん』を読んで、東京はもはや江戸ではないと知った結果であるという。このことは、欧米の画家や文化人一般が19世紀後半に抱いた日本観と富国強兵にいとまのなかった明治期の日本との落差の大きさを示す象徴的な判断と言えそうだ。(週間朝日百科「日本の歴史)。しかし、日本人を猿視したロチであるが、欧米人の生活水準に匹敵する生活を日本人が過していることを印象づけることも鹿鳴館の夜会の目的の一つであったとするならば、そこでの衣装・物ごし・儀礼・ダンスなどが皇室や政府高官の命によつて、恐らく心にもなく、速成的に教へ込まれたものであろうと見透かしていたのであろう、それを必死に演じている鹿鳴館の女性たちにはかなり好感を示しているようだ。長崎で、一人の憐れむべき日本のムスメとどのように過ごしたかをありのままに描いた体験記『お菊さん』。以下参考に記載の「岡村喬生のオペラとちょっとした話・国際改訂版「マダマ バタフライ」顛末記」などを引用させてもらうと、当時の長崎は、”各国の船が入り乱れ、乗組員相手の商売のために黄色い小人たちが、籠や小箱などに靴、石鹸、急須、生きた蝉、厚紙を回す小鼠、いかがわし写真、などを売りに乗り込んで来るところからこの体験記は始まり、水兵たちは面白がって物売り女の顎をつまんで白い銀貨を撒き散らし、何でも買ってやるのである。「それにしても、まあ、この人間たちはいかに醜く、卑しく、グロテスクなことだろう! 私(ロチ)はせっかく結婚の計画までたてたけれども、だんだんと考えこんで興ざめてきた」。”そうだ。そして、”ロチが異国船乗り向け女性の周旋所・百花園でフランス語を話す洋服を着た勘五郎に女性の注文を出す前に、いち早く勘五郎は何人かの候補者たちの条件を並べ立てる)8日も後頃に来る下関の二人の年頃の娘を持つ男を待つか、一昨日ロシアの士官に取られてしまった可愛い子、月百円――当時の百円は凄い大金であるーーで教養のある金持ちの娘だが器量の悪い子。そして隣室で三味線を弾き客前で歌っていた子をロテイが所望すると、勘五郎はとんでもない、あれは芸者だと言って拒否する。””そして結局ロチは勘五郎が急に思い出したジャスミンという15歳の月18-20ピアストル(1ピアストルは2円だから36-40 円)の15歳の非常に可愛いらしい娘の所にその夜交渉に行かせることで満足する。”・・・ことになったそうだ。”ロチが雇った人力車の1時間の料金が10スウ/20銭だから、月40円のジャスミンの値段は人力車200時間分ということになり、今の日本の値段だとハイヤー1台を1ヶ月間契約するくらいのものだろう”・・という。今でもそうだが芸者は芸を売るのが仕事、体は売らないものである。ロチにとっては、お菊さんもまた、日本の風景や文化の一つに過ぎなかったし、お菊さん(お兼さん)もロチに対して、後にジョン・ルーサー・ロングによって著された『お蝶夫人』のような熱烈な恋心を持ち得なかったことだろう。
何でも、Tragedia Giapponese=日本の悲劇”。これがオペラ「マダマ バタフライ」に原作者がつけた副題であったそうだ。これは、“蝶々夫人の悲劇”・・というよりも、“一日本婦人の悲劇”と夫に裏切られ自殺して果てる主人公・日本女性の悲劇ではなく「日本の悲劇」と副題にしているようなのだという。1904年2月17日、ミラノのスカラ座で初演されたオペラ「マダム・バラフライ(蝶々夫人)」が、大失敗だったものを書き直して大成功したというが、それは、プッチーニがロチの書いた『お菊さん』を読み、長すぎた第一幕の日本を後進国として扱った侮蔑部分を削除したからだろうという。
(画像2枚中の最初のもの:、蝶々夫人を演じる三浦環 。写真は』1930年代のものという。アサヒクロニクル「週刊20世紀」。このページ続のもの:映画「蝶々夫人」〔1955年〕のパンフレット。画像の女優は、蝶々夫人役の八千草薫 )
参考
蝶々夫人 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9D%B6%E3%80%85%E5%A4%AB%E4%BA%BA
三浦環 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E7%92%B0
エンリコ・カルーソー - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%83%BC
ある晴れた日に 歌劇『蝶々夫人』(プッチーニ)
http://www.worldfolksong.com/songbook/opera/onefine.htm
蝶々夫人 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD24317/
長崎歴史散歩⑤ピエール・ロチと長崎
http://www.geocities.jp/kohithugi/history-05.htm
asahi.com:蝶々さんとピンカートン - トラベル「愛の旅人」
http://www.asahi.com/travel/traveler/TKY200711090290.html 
あっと九州
http://www.atkyushu.com/InfoApp?LISTID=202&SCD=m199605
発祥の地コレクション/鎮西学院発祥の地
http://hamad.web.infoseek.co.jp/hass-col/school/TinzeiGakuin.htm
「舞踏会」論―「海軍将校」が「ロティ」でない理由―
http://www.hum.u-tokai.ac.jp/nichibun/computer2005/index/butoukai_nao.htm
岡村喬生のオペラとちょっとした話・国際改訂版「マダマ バタフライ」顛末記
http://blog.livedoor.jp/opera_okamura/
歴史散歩/歌劇「蝶々婦人」のモデルは竹田の人
http://www.h3.dion.ne.jp/~n_taketa/18901fu.html
「舞踏会」芥川龍之介(青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/28_15270.html
アンドレ・メサジェ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AC%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%82%B5%E3%82%B8%E3%82%A7
プッチーニ:蝶々夫人
http://homepage2.nifty.com/pietro/storia/puccini_madama_butterfly.html
【第204号】 ピエール・ロチと長崎
http://www.mirokuya.co.jp/mlmag/archive/vol204.html
フィンセント・ファン・ゴッホ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%83%E3%83%9B
YAMAHA音楽ひめくり・日本人初の世界的ソプラノ、三浦環誕生(1884~1946)
http://www.yamaha.co.jp/himekuri/view.php?ymd=19990222
[PDF] 文学を通して垣間見る日本の近代化
http://kite.meikai.ac.jp/japanese/meikainihongo/8/yun.pdf