1904年の今日(2月17日)日本を舞台にしたオペラ『マダム・バタフライ(蝶々夫人)』が ミラノ・スカラ座で初演された。
イタリア人作曲家ジャコモ・プッチーニの作品で、原作は米の作家ジョン・ルーサー・ロングの短編小説、『蝶々夫人(Madama Butterfly)』であり、同小説は1898年にアメリカのセンチュリー・マガジン(1930年に廃刊)1月号に発表されたものである。このロング原作『蝶々夫人』にアメリカの劇作家デーヴィッド・ベラスコが制作した同名の戯曲を更に歌劇台本化したものだとされている。しかし、1904年2月17日、ミラノのスカラ座で初演されたそれは大失敗だったようで、同年5月28日ブレシアで上演された改訂版の成功以来、標準的なレパートリー作品となったと言われている。プッチーニは、「「マノン・レスコー」「ラ・ポエーム」「トスカ」に続く、この「マダム・バタフライ」でジュゼッペ・ヴェルディ以降のイタリア・オペラの伝統を受け継ぐ地位と名声を確立。時にヴェルディの『椿姫』、ビゼーの『カルメン』と合わせて、「マダム・バラフライ(蝶々夫人)」を世界三大オペラに数える説もある。
「マダム・バタフライ」がミラノ・スカラ座で初演 されたこの年(1904年)、東京音楽学校(現・東京芸大)を卒業した三浦環(20歳)は1913年に医師の三浦政太郎と結婚した後、夫とともに1914年にドイツに留学する。しかし第1次世界大戦の戦火を逃れてイギリスに移動。当時イギリスとは日英同盟を結んでいた中であり、友好国民として歓迎され、そのような時代背景が幸いした部分もあったようだが、この年10月にロイヤルアルバート・ホールで開催された「愛国大音楽会」に出演する機会に恵まれた。このコンサートでの成功したことが翌1915年ロンドン劇場で上演された「マダム・バタフライ(蝶々夫人)」のプリマドンナを日本人として初めて務めるきっかけとなった。しかし、「マダム・バタフライ」は初演されてからまだ10年ほどしか経っていなかったため、環はそれまで、このオペラを歌ったことがなく、「マダム・バタフライ」の楽譜を4月中旬に購入し、ほぼ1ヵ月余の間に蝶々夫人のパートを暗譜し、舞台上での動きなどについても考えをまとめた。そして、5月31日にロンドン歌劇場でおこなわれた「マダム・バタフライ(蝶々夫人)」の公演は、日本人のプリマドンナが日本人をヒロインにしたオペラに出演するということでおおいに話題になった。当初、新聞の批評も概ね好評だったこともあり、当初5回が予定されていた出演回数は15回にふやされたという。(朝日クロニクル{週刊20世紀」)その後は蝶々夫人は彼女の最大の当たり役となりで世界中を飛び回り、アメリカのメトロポリタン歌劇場では名テノール歌手、エンリコ・カルーソと共演。ローマでは作曲者プッチーニは彼女の公演を見て感激、「夢に描いていた蝶々さんを現実に見ることができた」と賞賛したされるなど、生涯に2,000回もこの役柄を演じたという。帰国後も、彼女自身による日本語訳歌詞で蝶々夫人を歌い続け、精力的に活動した。日本人最初の国際的なプリマドンナとして三浦環の名前は今もオペラの歴史に刻まれている。長崎のグラバー園にはその功績を称える三浦の像がある。
以下の「ある晴れた日に 歌劇『蝶々夫人』(プッチーニ)」では、You Tubeで舞台の動画が見れるよ。
ある晴れた日に → http://www.worldfolksong.com/songbook/opera/onefine.htm
♪ある晴れた日 海の遥か彼方に 煙がひとすじ見え 船の姿が現れる・・・♪
一時の浮気心で蝶々さんと結婚し、そのままアメリカへ帰ってしまったピンカートンを信じて、帰りを待ち続ける蝶々さんが歌うのが有名なアリア「ある晴れた日に」。
3年後、ピンカートンはアメリカで正式に結婚した妻を連れて再び日本に帰って来る。すべてを察した蝶々さんは、ピンカートンとの間に生まれた子供を彼らに託し、父から譲り受けた守り刀で自らの命を絶つ。
「蝶々夫人」の中でも特に代表されるアリアであり、単独で歌われることの多いものである。伝説のソプラノ歌手、故マリア・カラスもこのアリアを十八番としており、現在出回っている彼女のベスト盤の多くにこのアリアが収められている。
舞台ではなく映画では1955(昭和30)年東宝の日伊合作となった「蝶々夫人」ではタイトルロールを当時、宝塚歌劇団在団中だった八千草薫が演じ、日本だけでなくイタリアでも大評判をとった。
しかし、オペラを作ったプッチーニも、その元になった戯曲を書いたベラスコも、その元になった小説を著したロングも、長崎はおろか日本を訪れたことはないそうだ。ロングの姉サラ・コーレルが、東山手の現・活水女子大学の付近にあったカブリー英和学校(後の鎮西学院)の校長をしていた夫とともに、1891(明治24)年から1895(明治28)年まで長崎の居留地に住んでいたという。ロングは、姉サラから長崎の話を聞き、小説「マダム・バタフライ」を書いた(1897年)とされている。ただ、以下参考に記載の「あっと九州」によると、”その姉によれば、東山手の反対側に住んでいた「料亭で働く少女」ということだったが、具体的な名前などはない。一方、戦後、アメリカ軍が長崎に駐留していた頃、軍将校の住居として使われていたグラバー邸は「マダム・バタフライハウス」という愛称で呼ばれていた”という。有力視されていたのは、幕末に活躍したグラバーの妻、ツルである。ツルの位牌や墓にアゲハチョウの紋があり、ツルがモンシロチョウの紋の入った着物を着ていたことなどから「蝶々夫人のモデルはツルではないかというのである。
しかし、ちょっと、「蝶々夫人」の第1幕を思い出してみよう。アメリカ海軍の戦艦アブラハム・リンカーン所属の海軍士官ピンカートンは日本人の少女と結婚することになった。結婚斡旋屋のゴローが、長崎にきたピンカートンに、結婚後に暮らす丘の麓の家や、下女のスズキや下男を紹介して機嫌を取っている。そこへ駐長崎領事のシャープレスがやってくる。ピンカートンはここでアリア「ヤンキーは世界のどこへ行っても」を歌う。シャープレスは優しい心の男であり、ゴローが紹介した少女がこの結婚が永久の縁と堅く信じていることを思い出し戸惑う。だがピンカートンは、この結婚も一時の愛だとシャープレスの危惧を一笑に付すた。そこへ蝶々さんが芸者仲間とともに現れる。シャープレスが可憐なこの15歳の少女に身の上を問うと、実家は没落士族の家であると答え、父から頂いた切腹のための刀の入った箱を披露している。第2幕、結婚式から3年が過ぎた。ピンカートンは任務が終わり、アメリカ合衆国に帰ってしまった。彼は蝶々さんに「コマドリが巣を作る頃には帰ってくる」と約束していた。蝶々さんの忠実な下女スズキは彼は既にそれらを反故にしたのではと疑うが、ピンカートンを信頼する蝶々さんにとがめられる。 きっと夫は帰ってくると信じてやまぬ蝶々さんは、ここでアリア「ある晴れた日に」を歌うのであるが・・・。結局、ピンカートンは、アメリカ本国でアメリカ人女性と結婚。アメリカ人妻ケイトに自分の産んだ子供を渡すことを約束し、「名誉のために生けることかなわざりし時は、名誉のために死なん」と父の遺品の刀で自刃しようとするが、そこへ子供が走ってくる。蝶々さんは子供を抱きしめアリア「さよなら坊や」を歌い、子供に目隠しをし、日米の国旗を持たせ、そして、刀を喉に突き立てるのである。
当時の長崎では、洋妾(ラシャメン)として、日本に駐在する外国人の軍人や商人と婚姻し、現地妻となった女性が多く存在していたという。何もしらない蝶々さんは、自分がそんな慰み者の一時的な妻ではなく、ピンカートンの本当の嫁にしてもらったものと思っていたのであろうか?。
このブログの字数制限上、これ以上書けないので、この続きは以下をクリックしてください。参考もそこにあります。
クリック→ 続:『マダム・バタフライ(蝶々夫人)』がミラノ・スカラ座で初演 された日
(画像は、蝶々夫人を演じる三浦環 。写真は、1930年代のものという。アサヒクロニクル「週刊20世紀」)
イタリア人作曲家ジャコモ・プッチーニの作品で、原作は米の作家ジョン・ルーサー・ロングの短編小説、『蝶々夫人(Madama Butterfly)』であり、同小説は1898年にアメリカのセンチュリー・マガジン(1930年に廃刊)1月号に発表されたものである。このロング原作『蝶々夫人』にアメリカの劇作家デーヴィッド・ベラスコが制作した同名の戯曲を更に歌劇台本化したものだとされている。しかし、1904年2月17日、ミラノのスカラ座で初演されたそれは大失敗だったようで、同年5月28日ブレシアで上演された改訂版の成功以来、標準的なレパートリー作品となったと言われている。プッチーニは、「「マノン・レスコー」「ラ・ポエーム」「トスカ」に続く、この「マダム・バタフライ」でジュゼッペ・ヴェルディ以降のイタリア・オペラの伝統を受け継ぐ地位と名声を確立。時にヴェルディの『椿姫』、ビゼーの『カルメン』と合わせて、「マダム・バラフライ(蝶々夫人)」を世界三大オペラに数える説もある。
「マダム・バタフライ」がミラノ・スカラ座で初演 されたこの年(1904年)、東京音楽学校(現・東京芸大)を卒業した三浦環(20歳)は1913年に医師の三浦政太郎と結婚した後、夫とともに1914年にドイツに留学する。しかし第1次世界大戦の戦火を逃れてイギリスに移動。当時イギリスとは日英同盟を結んでいた中であり、友好国民として歓迎され、そのような時代背景が幸いした部分もあったようだが、この年10月にロイヤルアルバート・ホールで開催された「愛国大音楽会」に出演する機会に恵まれた。このコンサートでの成功したことが翌1915年ロンドン劇場で上演された「マダム・バタフライ(蝶々夫人)」のプリマドンナを日本人として初めて務めるきっかけとなった。しかし、「マダム・バタフライ」は初演されてからまだ10年ほどしか経っていなかったため、環はそれまで、このオペラを歌ったことがなく、「マダム・バタフライ」の楽譜を4月中旬に購入し、ほぼ1ヵ月余の間に蝶々夫人のパートを暗譜し、舞台上での動きなどについても考えをまとめた。そして、5月31日にロンドン歌劇場でおこなわれた「マダム・バタフライ(蝶々夫人)」の公演は、日本人のプリマドンナが日本人をヒロインにしたオペラに出演するということでおおいに話題になった。当初、新聞の批評も概ね好評だったこともあり、当初5回が予定されていた出演回数は15回にふやされたという。(朝日クロニクル{週刊20世紀」)その後は蝶々夫人は彼女の最大の当たり役となりで世界中を飛び回り、アメリカのメトロポリタン歌劇場では名テノール歌手、エンリコ・カルーソと共演。ローマでは作曲者プッチーニは彼女の公演を見て感激、「夢に描いていた蝶々さんを現実に見ることができた」と賞賛したされるなど、生涯に2,000回もこの役柄を演じたという。帰国後も、彼女自身による日本語訳歌詞で蝶々夫人を歌い続け、精力的に活動した。日本人最初の国際的なプリマドンナとして三浦環の名前は今もオペラの歴史に刻まれている。長崎のグラバー園にはその功績を称える三浦の像がある。
以下の「ある晴れた日に 歌劇『蝶々夫人』(プッチーニ)」では、You Tubeで舞台の動画が見れるよ。
ある晴れた日に → http://www.worldfolksong.com/songbook/opera/onefine.htm
♪ある晴れた日 海の遥か彼方に 煙がひとすじ見え 船の姿が現れる・・・♪
一時の浮気心で蝶々さんと結婚し、そのままアメリカへ帰ってしまったピンカートンを信じて、帰りを待ち続ける蝶々さんが歌うのが有名なアリア「ある晴れた日に」。
3年後、ピンカートンはアメリカで正式に結婚した妻を連れて再び日本に帰って来る。すべてを察した蝶々さんは、ピンカートンとの間に生まれた子供を彼らに託し、父から譲り受けた守り刀で自らの命を絶つ。
「蝶々夫人」の中でも特に代表されるアリアであり、単独で歌われることの多いものである。伝説のソプラノ歌手、故マリア・カラスもこのアリアを十八番としており、現在出回っている彼女のベスト盤の多くにこのアリアが収められている。
舞台ではなく映画では1955(昭和30)年東宝の日伊合作となった「蝶々夫人」ではタイトルロールを当時、宝塚歌劇団在団中だった八千草薫が演じ、日本だけでなくイタリアでも大評判をとった。
しかし、オペラを作ったプッチーニも、その元になった戯曲を書いたベラスコも、その元になった小説を著したロングも、長崎はおろか日本を訪れたことはないそうだ。ロングの姉サラ・コーレルが、東山手の現・活水女子大学の付近にあったカブリー英和学校(後の鎮西学院)の校長をしていた夫とともに、1891(明治24)年から1895(明治28)年まで長崎の居留地に住んでいたという。ロングは、姉サラから長崎の話を聞き、小説「マダム・バタフライ」を書いた(1897年)とされている。ただ、以下参考に記載の「あっと九州」によると、”その姉によれば、東山手の反対側に住んでいた「料亭で働く少女」ということだったが、具体的な名前などはない。一方、戦後、アメリカ軍が長崎に駐留していた頃、軍将校の住居として使われていたグラバー邸は「マダム・バタフライハウス」という愛称で呼ばれていた”という。有力視されていたのは、幕末に活躍したグラバーの妻、ツルである。ツルの位牌や墓にアゲハチョウの紋があり、ツルがモンシロチョウの紋の入った着物を着ていたことなどから「蝶々夫人のモデルはツルではないかというのである。
しかし、ちょっと、「蝶々夫人」の第1幕を思い出してみよう。アメリカ海軍の戦艦アブラハム・リンカーン所属の海軍士官ピンカートンは日本人の少女と結婚することになった。結婚斡旋屋のゴローが、長崎にきたピンカートンに、結婚後に暮らす丘の麓の家や、下女のスズキや下男を紹介して機嫌を取っている。そこへ駐長崎領事のシャープレスがやってくる。ピンカートンはここでアリア「ヤンキーは世界のどこへ行っても」を歌う。シャープレスは優しい心の男であり、ゴローが紹介した少女がこの結婚が永久の縁と堅く信じていることを思い出し戸惑う。だがピンカートンは、この結婚も一時の愛だとシャープレスの危惧を一笑に付すた。そこへ蝶々さんが芸者仲間とともに現れる。シャープレスが可憐なこの15歳の少女に身の上を問うと、実家は没落士族の家であると答え、父から頂いた切腹のための刀の入った箱を披露している。第2幕、結婚式から3年が過ぎた。ピンカートンは任務が終わり、アメリカ合衆国に帰ってしまった。彼は蝶々さんに「コマドリが巣を作る頃には帰ってくる」と約束していた。蝶々さんの忠実な下女スズキは彼は既にそれらを反故にしたのではと疑うが、ピンカートンを信頼する蝶々さんにとがめられる。 きっと夫は帰ってくると信じてやまぬ蝶々さんは、ここでアリア「ある晴れた日に」を歌うのであるが・・・。結局、ピンカートンは、アメリカ本国でアメリカ人女性と結婚。アメリカ人妻ケイトに自分の産んだ子供を渡すことを約束し、「名誉のために生けることかなわざりし時は、名誉のために死なん」と父の遺品の刀で自刃しようとするが、そこへ子供が走ってくる。蝶々さんは子供を抱きしめアリア「さよなら坊や」を歌い、子供に目隠しをし、日米の国旗を持たせ、そして、刀を喉に突き立てるのである。
当時の長崎では、洋妾(ラシャメン)として、日本に駐在する外国人の軍人や商人と婚姻し、現地妻となった女性が多く存在していたという。何もしらない蝶々さんは、自分がそんな慰み者の一時的な妻ではなく、ピンカートンの本当の嫁にしてもらったものと思っていたのであろうか?。
このブログの字数制限上、これ以上書けないので、この続きは以下をクリックしてください。参考もそこにあります。
クリック→ 続:『マダム・バタフライ(蝶々夫人)』がミラノ・スカラ座で初演 された日
(画像は、蝶々夫人を演じる三浦環 。写真は、1930年代のものという。アサヒクロニクル「週刊20世紀」)