今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

国際親善デー

2008-05-18 | 記念日
日本記念日協会の今日の記念日を見ると5月18日の今日は「国際親善デー」とある。
1899(明治32)年の今日、オランダのハーグで、ロシア皇帝ニコライ2世の主唱により26カ国が参加した第1回平和会議が開催。国際紛争平和的処理条約が結ばれたのを記念して、この日を「国際親善デー」とした。日本では1931年から実施され、国際交流を通して平和を実現するという目的のもと、さまざまな催しが行われている。 ・・・とあった。
しかし、どのようなことが行われているのか蔵書の朝日クロニクル「週刊20世紀」や「毎日ムック・戦後50年などを見ても特に何も行事があったようなことは掲載されていない。一体誰が?どんな機関が記念日登録したのであろうか?先ず、ロシア皇帝ニコライ2世と第1回平和会議について、見てみよう。
ロシア帝国皇帝ニコライ2世は1894年11月1日、父アレクサンドル3世の突然の死去にともない、26歳でロシア皇帝に即位した。彼は、民主主義を否定するコンスタンチン・ポベドノスツェフの教育に多大な影響を受けていた。ロシア帝国はまだ産業革命の以前にあったが、絶対君主制に反対する勢力は根強く、この反体制運動に対し彼は常に弾圧策で臨んだ。彼は初め、父の政策を受け継いで蔵相セルゲイ・ヴィッテを重用した。ヴィッテは1892年に運輸大臣、翌年には蔵相に就任(1903年まで)し、国家が市場に積極的に介入する経済政策を採用。フランス資本を中心とする外資の積極導入を図るなどし、工業化を推進してロシア経済の近代化につとめた。なかでも鉄道網の拡大には熱心で、シベリア鉄道における彼の功績は大きかった。ニコライ2世は、ヨーロッパにおいては友好政策をとり、1891年にフランスと結んだ協力関係を1894年露仏同盟として発展させるとともに、オーストリア・ハンガリー帝国フランツ・ヨーゼフ1世や従兄のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世とも友好関係を保ち、万国平和会議の開催をみずから提唱した。万国平和会議は、オランダのハーグで2度開かれ、第1回会議は1899年に、26ヵ国が参加して開催された。この会議ではハーグ陸戦条約が採択され、国際仲裁裁判を行う常設の機関である常設仲裁裁判所の設置などに関する条約(国際紛争平和的処理条約)も締結された。ダムダム弾使用禁止も決められた。
当時の日本は幕末の動乱をへて、江戸から明治(1868年=明治元年)の時代へと移る。薩長倒幕派を主力とする維新政府は天皇が国家の根軸であり、権力の主体であることを説き、万邦に対峙しうる独立国日本に基盤を固めて行く。そして、明治2年には東京へ実質的な遷都をし、ヨーロッパの諸制度に学び改革を進めてゆく。そんな中で征韓論で下野した西郷隆盛との西南戦争で反政府士族を一掃、西郷自刃によって1877(明治10年)年9月内戦が終了し、万国に対峙しうる政府の起立を目指す。1881(明治14)年の明治14年の政変で基盤を固めなおした政府は、内閣制度を発足させ、1889(明治22)年2月11日には大日本帝国憲法を発布して近代化を実現させた。当時、欧米列強にとっては、他国領土の切り取りは思うがままであった。そんな中で、重工業の発展、富国強兵への道は止むを得ない面もあった。そんな中、1884(明治17)年12月李氏朝鮮京城でクーデター。日本と同じように国王を頂点とする近代立憲君主制国家の樹立を狙う、親日派の改革派が挙兵するが事件はの介入で失敗。金玉均が日本に亡命(甲申事変参照)。翌1885(明治18)年4月清国に特派の伊藤博文全権大使が中国の天津において天津条約を調印。日本、清国双方とも軍事顧問の派遣中止、軍隊駐留の禁止、止むを得ず朝鮮に派兵する場合の事前通告義務などが取り決められた。これから10年後、この事前通告に基づき清に続いて日本が朝鮮に派兵し、日清戦争(1894年7月~1895年4月)の火蓋が切られることとなる。この戦争で勝利した日本は日清戦争の講和条約である下関条約で清から割譲させた遼東半島をめぐって、ロシアはドイツ・フランスと手を組み日本に圧力をかけ、遼東半島獲得を日本に断念させた。
ロシアは極東進出のためにどうしても不凍港が必要であり、南下政策を取り満州における権益拡大をはかっていた。ロシアは遼東半島を日本に奪われることで南満州の海への出口を失うことを恐れ、日本の極東進出阻止を目論んだのである。当初、日本が朝鮮の独立を尊重するならば日本が中国を占領してもよいと考えたが、ヴィッテは極東に艦隊を派遣するなど干渉に乗り出した。そして、同じく中国の分割に関心をもつイギリス、フランス、ドイツの3国に提唱し、仏・独の賛成を得て3国による勧告を行い、日本に遼東半島の返還をさせたのである。(三国干渉)。
この三国干渉は、近代日本が外交的にうけた最大の屈辱であった。日本の世論においてはロシアとの戦争も辞さずという強硬な意見も出たが、当時の日本には列強諸国と戦えるだけの力は無かった。この苦い経験が、早く一等国の仲間入りをし、この屈辱をなんとしてでもはらそうと考え、富国強兵に拍車をかけることとなった。「臥薪嘗胆」をスローガンに耐え忍び、やがて来るであろうロシアとの戦いに備え国力を蓄えたのである。
1902(明治35)年、日英同盟が締結され、日本は外交的孤立から脱出。しかし、1900(明治33)年に起きた義和団の乱(北清事変ともいう)以来、ロシアは東清鉄道(東支鉄道)と長春旅順を結ぶ南満州支線(後の南満州鉄道)を完成させ、軍隊を満州東三省に永駐させる形勢を示していた。
そこで発生したのが龍岩浦事件である(以下参考に記載の「第一次大戦」の龍岩浦事件参照)。この事件に対応して、無隣庵会議(以下参考に記載の「第一次大戦」の無隣庵会議参照〕が開催され、ロシアが満韓交換論(以下参考に記載の「近代日本戦争史概説」の日露戦争 概説1参照)に応じることなく、朝鮮に軍事的地歩を占めるとすれば、日本は開戦を辞さないことが決められた。
そして、日露戦争(1904年〔明治37年〕2月6日 - 1905年〔明治38年〕9月5日〕)が勃発。ロシアでは、相次ぐ敗北と、それを含めた帝政に対する民衆の不満が増大。1905(明治38)年1月9日には血の日曜日事件が起きる。これは、日本軍の明石元二郎による内部工作が発端となったといわれている。
工業化を推進し、ロシア経済の近代化につとめたヴィッテ自身は、専制政治を志向してはいたが、一方で現実的な保守主義者でもあり、故にあくまで王権神授説を奉ずるニコライ2世やその側近と齟齬(そご)をきたしていた。ニコライはそんなヴィッテを退け、ベゾブラーゾフという軍人を取り立てて極東政策を推進した。首相となっていたヴィッテは、ニコライ2世らが日本との戦争によって国内の不満をそらそうとしたことに対し、反対した。しかし、政敵であった内相プレーヴェや強硬派のベゾブラーゾフらの策動によってこの主張は退けられ日露戦争を招いた。
日本は、日本海海戦で勝利したとはいえ、当時の乏しい国力を戦争で使い果たしていた。日露戦争が実質的に日本の勝利に終わると、ヴィッテは、講和のためアメリカのポーツマスにロシア側全権として赴き、交渉に当たった。両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、1905(明治38)年10月に締結されたポーツマス条約により正式に講和した(日露講和条約の締結)。この時、ヴィッテは外交官としても手腕を発揮して日本側を翻弄、賠償を最小限に留めることに成功している。
万国平和会議はオランダのハーグで2度開かれている。1度目は先に書いたが、第2回会議はジョン・ヘイアメリカ合衆国国務長官が提唱して1907(明治40)年に開かれた。ハーグ陸戦協定が改定され、中立法規なども決められた。
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2008-05-18 | 記念日
そもそもこの会議の唱者者はロシアのニコライ2世によって、はじめられたが、拡張主義を押し進めたロシアが、このような平和会議の積極的な推進者であったということは、軍拡競争による財政負担に苦しんでいたことを示しており、これは他の列強各国も同様の事情があったからであった。
ハーグでの万国平和会議によって採択された陸戦条約は、交戦者の定義や、宣戦布告、戦闘員・非戦闘員の定義、捕虜・傷病者の扱い、使用してはならない戦術、降服・休戦などが規定されている。現在では各分野においてより細かな別の条約にその役割を譲っているものも多いが、最も根源的な戦時国際法として、基本ルールに則って正々堂々と戦争を行うよう規定している。云わば「戦争のルール」で、日露戦争等のごく限られた戦争ではルールに沿って整然と行われていたものの、第3回会議を8年以内に開くことが勧告され、1915(大正 4)年に開催の予定だったが、第一次世界大戦の勃発を阻止することもできず会議は実現せず以降開催されていない。
また、その後、スペイン内戦(1936年7月 - 1939年3月)から第二次世界大戦、ゲリラ戦術や途上国の戦闘などで凄惨な戦争が生じ、その精神は破られて、一向に遵守される様子もなかったが、これらの経験は国際連盟などの平和的機関に受け継がれることにはなった。
日本に関連するものとしては、ハーグでの第2回目の会議中に起きたハーグ密使事件がよく知られている。
日露戦争勃発後、日本は、戦局が優位に進む中、1905年4月に韓国保護権確立を閣議決定、7月29日には、アメリカとの間で、桂-タフト協定を結び、アメリカのフィリピンでの権益を認める代わりに朝鮮での権益を認めさせ、8月には第2回日英同盟を締結し、ロシアの南下に対抗する拠点として朝鮮支配の確約を得た。列強の支持を取り付けた日本は、日露戦争勝利後、11月17日第二次日韓協約を締結し、大韓帝国の外交権を剥奪し、日本の実質的な保護国としていた。一方、これらの動きの中で朝鮮国王・高宗が秘密裏に特使を派遣し、1905年に締結された日韓保護条約の無効を会議場で訴えることを計画したが、列国は既に日本の権益を認めていたために大韓帝国はすでに外交権を接収されていたとの理由で参加を認めなかった。この事件により、日本の意を受けた李完用などの勢力が、高宗の退位へと動いた。そして、第3次日韓協約を締結して韓国軍を解散させた。
前近代の東アジアの世界の中心は中華帝国であった。その中で、独立を保ってきた日本とは異なり、1392年に建国された李氏朝鮮王国は一貫して中国を中心とする国債システムの中に組み込まれ「本家」にたいする従属する関係を強いられていた。しかし、こうした関係が、日清戦争を機に大きく変った。朝鮮の独立が名実共に認められたからである。そして、東アジア世界には、中華帝国、大日本帝国、大韓帝国の3つの「帝国」が出現し、互いに独立を主張しあう状況が生まれた。しかし、めまぐるしく動く世界情勢の中で、東アジアに3つの帝国が共存しあう時代は10年と続かなかった。1910年に日本の韓国併合、1911年の辛亥革命による中華帝国の滅亡は、生き残った日本が、東洋に押し寄せてくる西洋列国に飲み込まれないためにも、文字通り、唯一アジアの帝国として、西洋列国に対抗するためにも、大陸に向かって領域を拡大してゆかざるを得なかった面もあったように思われる。それが、結果的に以後の第二次大戦の悲劇に巻き込まれることになるのだが・・・。
肝心の表題の「国際親善デー」について、日本では1931年から実施され、国際交流を通して平和を実現するという目的のもと、さまざまな催しが行われている・・・といったことについてはよくわからなかった。
(画像は、1864〔元治元〕年9月〔旧暦8月〕英、米、仏、オランダの4国連合艦隊が、長州の赤間ケ関〔馬関=下関〕砲台を攻撃。上陸して砲台を占領したイギリス兵。前年、薩摩や長州が主張してきた攘夷の実行は、先ず不可能と判明する。列強に追いつくにはどうすればようのか。朝日クロニクル「週刊20世紀」より)
参考:
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
ニコライ2世-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A42%E4%B8%96
陸戰ノ法規慣例ニ關スル條約(ハーグ陸戦条約)
http://homepage1.nifty.com/SENSHI/data/haug.htm
国際紛争 - naow
http://www.wikiroom.com/naow/index.php?%B9%F1%BA%DD%CA%B6%C1%E8
国際法を学ぼう
http://www4.ocn.ne.jp/~tishiki/kokusaihou.html
王権神授説
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E6%A8%A9%E7%A5%9E%E6%8E%88%E8%AA%AC
第一次大戦
http://ww1.m78.com/
近代日本戦争史概説
http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/kindai/kindai-annai.html?
坂の上の雲 > 秋山好古 > 第六章 > 第二 平和会議
http://sakanouenokumo.hp.infoseek.co.jp/yosihuru_denki6_2.htm
甲申政変 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E7%94%B3%E6%94%BF%E5%A4%89
征韓論-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E9%9F%93%E8%AB%96
極東 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%B5%E6%9D%B1
日露戦争 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9C%B2%E6%88%A6%E4%BA%89
義和団の乱 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E5%92%8C%E5%9B%A3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
国際連盟 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%80%A3%E7%9B%9F
日露戦争と日韓保護条約(乙巳条約)
http://toron.pepper.jp/jp/kr/textbook/nichiro.html
押し付け憲法論 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%BC%E3%81%97%E4%BB%98%E3%81%91%E6%86%B2%E6%B3%95%E8%AB%96
一進会 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E9%80%B2%E4%BC%9A
社会奉仕(ロータリー財団)
http://www.kamojima-rc.jp/r_2/rotary2_3aaa.html