5月24日湊川神社が創建された日
明治5年5月24日(グレゴリオ暦:西暦1872年6月29日)の今日、湊川神社が創建された。
湊川神社は、兵庫県神戸市中央区にある楠木正成)を祭る神社であり、地元では湊川神社のことを親しみを込めて「楠公(なんこう)さん」と呼んでいる。
後醍醐天皇による建武の中興(建武の新政)は、それまでの武家中心の社会を天皇中心の社会に戻そうとしたものであった。これは、明治維新によって江戸幕府から実権を取り戻し明治政府を樹立した明治天皇にとって意義深いものであり、明治以降、建武中興(建武の新政)に尽力した南朝側の皇族・武将などを主祭神とする神社がその縁地などに作られた。湊川神社は、それら15の神社(建武中興十五社)の1社で、旧社格は別格官幣社である。
時代は遡るが、後醍醐の建武の新政は、武士層を中心とする不満を招き、河内源氏の有力者であった足利尊氏が離反。そして、延元元/建武3年(1336)年に足利尊氏による光明天皇の践祚、後醍醐天皇の吉野遷幸により朝廷が分裂してから、元中9/明徳3年(1392)年に、明徳の和約によって、南朝(大覚寺統)の後亀山天皇が北朝(持明院統)の後小松天皇に三種の神器を渡し、両朝が合一するまでの間、日本には南朝(大和国吉野行宮)と北朝(山城国平安京)に2つの朝廷が存在し、それぞれ正当性を主張していた(南北朝時代)。しかし、合一が行われたものの、両統迭立(てつりつ=かわるがわる立つこと)の約束が守られることはなく持明院統の皇統が続いたため、南朝の遺臣たちによる皇位の回復を目指しての反抗が15世紀半ばまで続き、後南朝が神璽・宝剣を一時奪還する「禁闕の変」まで起きるが、「嘉吉の乱」で滅亡した赤松氏の再興を目指す赤松遺臣によって、長禄元年(1457年)に南朝後裔の自天王・忠義王なる兄弟が殺害され、神璽が奪還される(長禄の変)ことによって、後南朝は実質的に滅亡した。以降、正式には、北朝系統の天皇が続いていたが、孝明天皇を最後に、「北朝系の天皇は終わり、南朝系統の明治天皇誕生となった。このことは、以前に幕末最後の天皇「孝明天皇 」誕生日 でも延べた通りである。
楠木正成は、河内国石川郡赤坂村(現大阪府南河内郡千早赤阪村)の出生とされているが、河内には楠木姓の由来となるような地名はなく、生年に関しての確実な史料(以下に記載の※参照)は存在せず、 正成の前半生はほとんど不明で、日本史上きわめて有名でありながら出自がこれほど謎に包まれた人物は他にいないといわれる。様々な歴史家による懸命な研究努力にも拘らず、正成が確かな実像として捉えられるのは、元弘元年/元徳3年(1331年)の元弘の乱において下赤坂城での挙兵(赤坂城の戦い)から延元元/建武3年5月25日(ユリウス暦:1336年7月4日、グレゴリオ暦:1336年7月12日)、湊川(兵庫県神戸市)の地で足利尊氏と戦い(湊川の戦い)自刃するまでのわずか6年ほどに過ぎない。
鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇の公家中心の政治に、不満を持つ武士の中に、尊氏もおり、尊氏の反乱によって、各地で戦闘が始まる。鎌倉幕府の北条氏の残党、北条時行が信濃で兵を挙げ鎌倉に攻め込んだ(中先代の乱)のを機に、尊氏は、後醍醐天皇の勅状を得ないまま乱の討伐に向かい、時行を駆逐してそのまま鎌倉へ留まり建武政権から離反し、武家政権を復活しようとした。朝廷は尊氏を反逆者とみなし、新田義貞に討伐を命じ、天下はふたたび戦乱の世に入り、それから約1年間は足利と新田の戦が続いた。
延元元年/建武3年(1336年)足利軍が京都を占拠するが、わずか半月足らずで、新田義貞・楠木正成・北畠顕家らに敗れ、京都を追われ九州へ落ち延びた。ここで、正成が後醍醐天皇に、状況が宮方に有利な今のうちに足利方と和睦する事を進言するが、後醍醐はこれを退け、義貞を総大将とする尊氏追討の軍を西国へ向けて派遣した。この時、正成は和睦を進言した事で朝廷の不信を買い、この追討軍からは外され、国許での謹慎を命じられた。義貞は播磨国の白旗城に篭城する足利方の赤松則村(円心)を攻めている間に時間を空費し、この間に、足利方が九州で軍勢を整えて再び京都へ迫る。尊氏軍の東上に遭い、撤退を始めた新田軍に赤松勢が追撃を仕掛け、新田軍は大量の寝返りや足利軍への投降者を出しながら敗走した。一気に陣営がやせ細ってしまった義貞は、兵庫まで兵を退いて体制の立て直しを図った。正成は同じ官軍であった義貞の武将としての才能を見限っていて、後醍醐天皇に新田義貞を切り捨てて尊氏と和睦するよう進言するが容認されず、次善の策として、一旦天皇の京都からの撤退を進言するがこれも却下される。絶望的な状況下で義貞の麾下での出陣を命じられる。同年5月23日、正成は、足利尊氏の大軍(『太平記』によると、尊氏の軍勢は数十万とされている。)を迎え撃つため、決死の覚悟で兵庫へ向かって出陣し、途中、桜井の駅(大阪府三島郡島本町)で、嫡男正行に対し、「自分は生きて帰らないつもりで戦場に向かうので、お前は故郷の河内に帰って朝廷(ここでは後醍醐天皇)に忠誠を誓え。」と諭したと記されている。この正成・正行(まさつら)父子の「桜井の別れ」のエピソードが、どの程度信憑性があるかは別として、「青葉茂れる桜井の里のわたりの夕まぐれ……」で始まる唱歌(落合直文作詞、奥山朝恭作曲)「桜井の訣別」は有名。
MIDI 「青葉茂れる桜井の」 ↓
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/aobashigereru.html
そして、同・延元元年/建武3年(1336年)5月25日(現在の暦では7月12日)、水軍を用意できなかった新田軍は、本陣を二本松(和田岬と会下山の中間)に置き、和田岬にも新田義貞の弟脇屋義助などの軍勢を配置して水軍の上陸に備えた。楠木軍は湊川の西側、本陣の北西にあたる会下山に手勢700で陣を敷いた。合戦では、足利直義を司令官とする陸上軍の主力は西国街道を進み、少弐頼尚は和田岬の新田軍に側面から攻撃をかけた。また、斯波高経の軍は山の手から会下山に陣する正成の背後に回った。さらに、細川定禅が海路を東進し生田の森から上陸すると、義貞は退路を絶たれる危険を感じて東走したため、楠木軍は孤立してしまった。ここで、誰も居なくなった和田岬から、悠々と尊氏の本隊が上陸。正成は重囲に落ち、奮戦するものの多勢に無勢はいかんともしがたく、楠木軍は壊滅。正成は弟の正季ら一族とともに自害し、義貞は京へ退却した。
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明治5年5月24日(グレゴリオ暦:西暦1872年6月29日)の今日、湊川神社が創建された。
湊川神社は、兵庫県神戸市中央区にある楠木正成)を祭る神社であり、地元では湊川神社のことを親しみを込めて「楠公(なんこう)さん」と呼んでいる。
後醍醐天皇による建武の中興(建武の新政)は、それまでの武家中心の社会を天皇中心の社会に戻そうとしたものであった。これは、明治維新によって江戸幕府から実権を取り戻し明治政府を樹立した明治天皇にとって意義深いものであり、明治以降、建武中興(建武の新政)に尽力した南朝側の皇族・武将などを主祭神とする神社がその縁地などに作られた。湊川神社は、それら15の神社(建武中興十五社)の1社で、旧社格は別格官幣社である。
時代は遡るが、後醍醐の建武の新政は、武士層を中心とする不満を招き、河内源氏の有力者であった足利尊氏が離反。そして、延元元/建武3年(1336)年に足利尊氏による光明天皇の践祚、後醍醐天皇の吉野遷幸により朝廷が分裂してから、元中9/明徳3年(1392)年に、明徳の和約によって、南朝(大覚寺統)の後亀山天皇が北朝(持明院統)の後小松天皇に三種の神器を渡し、両朝が合一するまでの間、日本には南朝(大和国吉野行宮)と北朝(山城国平安京)に2つの朝廷が存在し、それぞれ正当性を主張していた(南北朝時代)。しかし、合一が行われたものの、両統迭立(てつりつ=かわるがわる立つこと)の約束が守られることはなく持明院統の皇統が続いたため、南朝の遺臣たちによる皇位の回復を目指しての反抗が15世紀半ばまで続き、後南朝が神璽・宝剣を一時奪還する「禁闕の変」まで起きるが、「嘉吉の乱」で滅亡した赤松氏の再興を目指す赤松遺臣によって、長禄元年(1457年)に南朝後裔の自天王・忠義王なる兄弟が殺害され、神璽が奪還される(長禄の変)ことによって、後南朝は実質的に滅亡した。以降、正式には、北朝系統の天皇が続いていたが、孝明天皇を最後に、「北朝系の天皇は終わり、南朝系統の明治天皇誕生となった。このことは、以前に幕末最後の天皇「孝明天皇 」誕生日 でも延べた通りである。
楠木正成は、河内国石川郡赤坂村(現大阪府南河内郡千早赤阪村)の出生とされているが、河内には楠木姓の由来となるような地名はなく、生年に関しての確実な史料(以下に記載の※参照)は存在せず、 正成の前半生はほとんど不明で、日本史上きわめて有名でありながら出自がこれほど謎に包まれた人物は他にいないといわれる。様々な歴史家による懸命な研究努力にも拘らず、正成が確かな実像として捉えられるのは、元弘元年/元徳3年(1331年)の元弘の乱において下赤坂城での挙兵(赤坂城の戦い)から延元元/建武3年5月25日(ユリウス暦:1336年7月4日、グレゴリオ暦:1336年7月12日)、湊川(兵庫県神戸市)の地で足利尊氏と戦い(湊川の戦い)自刃するまでのわずか6年ほどに過ぎない。
鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇の公家中心の政治に、不満を持つ武士の中に、尊氏もおり、尊氏の反乱によって、各地で戦闘が始まる。鎌倉幕府の北条氏の残党、北条時行が信濃で兵を挙げ鎌倉に攻め込んだ(中先代の乱)のを機に、尊氏は、後醍醐天皇の勅状を得ないまま乱の討伐に向かい、時行を駆逐してそのまま鎌倉へ留まり建武政権から離反し、武家政権を復活しようとした。朝廷は尊氏を反逆者とみなし、新田義貞に討伐を命じ、天下はふたたび戦乱の世に入り、それから約1年間は足利と新田の戦が続いた。
延元元年/建武3年(1336年)足利軍が京都を占拠するが、わずか半月足らずで、新田義貞・楠木正成・北畠顕家らに敗れ、京都を追われ九州へ落ち延びた。ここで、正成が後醍醐天皇に、状況が宮方に有利な今のうちに足利方と和睦する事を進言するが、後醍醐はこれを退け、義貞を総大将とする尊氏追討の軍を西国へ向けて派遣した。この時、正成は和睦を進言した事で朝廷の不信を買い、この追討軍からは外され、国許での謹慎を命じられた。義貞は播磨国の白旗城に篭城する足利方の赤松則村(円心)を攻めている間に時間を空費し、この間に、足利方が九州で軍勢を整えて再び京都へ迫る。尊氏軍の東上に遭い、撤退を始めた新田軍に赤松勢が追撃を仕掛け、新田軍は大量の寝返りや足利軍への投降者を出しながら敗走した。一気に陣営がやせ細ってしまった義貞は、兵庫まで兵を退いて体制の立て直しを図った。正成は同じ官軍であった義貞の武将としての才能を見限っていて、後醍醐天皇に新田義貞を切り捨てて尊氏と和睦するよう進言するが容認されず、次善の策として、一旦天皇の京都からの撤退を進言するがこれも却下される。絶望的な状況下で義貞の麾下での出陣を命じられる。同年5月23日、正成は、足利尊氏の大軍(『太平記』によると、尊氏の軍勢は数十万とされている。)を迎え撃つため、決死の覚悟で兵庫へ向かって出陣し、途中、桜井の駅(大阪府三島郡島本町)で、嫡男正行に対し、「自分は生きて帰らないつもりで戦場に向かうので、お前は故郷の河内に帰って朝廷(ここでは後醍醐天皇)に忠誠を誓え。」と諭したと記されている。この正成・正行(まさつら)父子の「桜井の別れ」のエピソードが、どの程度信憑性があるかは別として、「青葉茂れる桜井の里のわたりの夕まぐれ……」で始まる唱歌(落合直文作詞、奥山朝恭作曲)「桜井の訣別」は有名。
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http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/aobashigereru.html
そして、同・延元元年/建武3年(1336年)5月25日(現在の暦では7月12日)、水軍を用意できなかった新田軍は、本陣を二本松(和田岬と会下山の中間)に置き、和田岬にも新田義貞の弟脇屋義助などの軍勢を配置して水軍の上陸に備えた。楠木軍は湊川の西側、本陣の北西にあたる会下山に手勢700で陣を敷いた。合戦では、足利直義を司令官とする陸上軍の主力は西国街道を進み、少弐頼尚は和田岬の新田軍に側面から攻撃をかけた。また、斯波高経の軍は山の手から会下山に陣する正成の背後に回った。さらに、細川定禅が海路を東進し生田の森から上陸すると、義貞は退路を絶たれる危険を感じて東走したため、楠木軍は孤立してしまった。ここで、誰も居なくなった和田岬から、悠々と尊氏の本隊が上陸。正成は重囲に落ち、奮戦するものの多勢に無勢はいかんともしがたく、楠木軍は壊滅。正成は弟の正季ら一族とともに自害し、義貞は京へ退却した。
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