今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

政治家、明治維新三傑の一人木戸孝允(桂小五郎) の忌日

2008-05-26 | 人物
明治10年(1877年)の今日(5月26日)は、政治家、明治維新三傑の一人木戸孝允(桂小五郎) の忌日 <43歳>
木戸 孝允(きど たかよし)は、江戸時代末期(幕末)には、桂小五郎(かつらこごろう)として知られていた尊皇攘夷派の中心人物で薩摩の西郷隆盛大久保利通とともに「維新の三傑」として並び称せられる。
またある時は、坂本龍馬 と並び称されることも多い勤皇の志士、桂小五郎は、天保4年6月26日(1833年8月11日)、長門国萩呉服町(今の山口県萩市)萩藩医 和田昌景の長男として生まれる。和田家は毛利元就の七男毛利元政の血を引くというが、母はその後妻だという。幼少の頃は、病弱で長生きしないと思われていたためかどうか、長男でありながら、前妻の長姉に婿養子文讓が入り、また長姉が死んだ後は次姉がその婿養子の後添えとなっていたため、天保11年(1840年)、8歳で近隣の長州藩士・桂九郎兵衛の養子となり家督を継ぐ。
嘉永2年(1849年)、17歳のときに藩校明倫館へ入門し吉田松陰より、兵学を学ぶ。また、弘化3年(1846年)からは、長州藩の剣術師範代より、新陰流を学を学ぶ、嘉永元年(1848年)、元服して和田小五郎から(以下参考に記載の「※山口県の近世・近代史」・藩士の家格・・ 無給帳掲載者 参照)大組士桂小五郎となり、嘉永5年(1852年)には、剣術修行の為、江戸に出て「技の千葉」(玄武館、北辰一刀流剣術)、「位の桃井」(士学館、鏡新明智流剣術)と並び、「力の斎藤」と称される、江戸三大道場の一つ神道無念流斎藤弥九郎に入門し、21歳で、練兵館の免許皆伝を得て塾頭になる。桂と同時期に免許皆伝を得た人物大村藩の渡邊昇(後に、長州藩と坂本龍馬を長崎で結びつけた人物。以下参考に記載の「※大村観光ナビ|大村の歴史|偉人の街|渡邉 昇」参照)とともに、練兵館の双璧と称えられていたという。又、ほぼ同時期に、「位の桃井」(桃井春蔵)の士学館塾頭を務めた武市半平太 、「技の千葉」(千葉定吉)」の桶町千葉道場塾頭を務めた坂本龍馬も免許皆伝を得ていたそうだ。
何でも、桂は、当時としては長身の大男で身長6尺(174センチメートル以上)あったという。そして、剣の道・武術にも優れた剣豪でありながら、志士時代にはその剣を血で染めることはなく、徹底的に闘争を避け「逃げの小五郎」と呼ばれていたという。
ちょっと、話がそれるが、今年(2008年)の5月16日、朝日新聞朝刊に「幕末の志士、坂本龍馬の妻お龍(おりょう)か否かを巡って論議が続く若い女性の写真を、警察庁の科学警察研究所(千葉県柏市)が鑑定した結果、本人の晩年の写真と比較して「同一人の可能性がある」と結論づけた」ことを、鑑定を依頼した高知県立坂本龍馬記念館が15日発表した。・・として、お龍の可能性があるとされる写真(井桜直美氏蔵)が掲載されていた。この写真を見ると確かに、お龍の写真とよく似ている。
慶応元年(1866年)、薩長同盟の成立を悟った新撰組によって寺田屋が包囲されたとき、お龍は風呂に入っていたが裸のままで風呂から出て龍馬に危機を知らせて救出(寺田屋事件)。その後に龍馬の妻となった。現在の寺田屋の建物には事件当時の「弾痕」「刀傷」と称するものや「お龍が入っていた風呂」なるものがあり、当時そのままの建物であるかのような説明がされているようだが、事件当時の建物は鳥羽・伏見の戦いの兵火で焼失しており、現在ある建物は当時の敷地の西隣に建てられたものだそうである(明治38年〔1905年〕に登記されているという)事は、最近このブログ 4月23日 寺田屋事件のあった日 でも書いた。
今は亡き沢田正二郎のために、行友李風が書き下した 新国劇月形半平太」。この戯曲は、新国劇の当り狂言として一世を風靡し、幾たびとなく映画やテレビドラマ化されている。
中で、雛菊の「月さま、雨が・・・」に、半平太の「春雨じゃ、濡れて行こう」の名台詞はよく知られているところである。本作は土佐藩士・武市半平太こと武市瑞山(坂本龍馬とは遠縁にあたるようだ)をモデルにした作品という。武市は上洛後、藩の他藩応接役として、他藩の志士たちと関わる一方で、幕府に対して攘夷実行を命じる勅使を江戸に派遣するための朝廷工作に奔走するが、京では数々の佐幕派暗殺に関与し、天誅、斬奸(ざんかん=悪人をきること)と称して、刺客を放ち、政敵を暗殺させた。(武市の下で動いた人物には、岡田以蔵、薩摩藩の田中新兵衛が有名)。そのような冷徹、かつ非情な都の独裁者としての武市の姿は五社英雄監督による時代劇映画「人斬」りの中で仲代達矢が見事に演じている。彼が京の都にいた時には既に独り身ではなく、1歳年下の妻(富子)が居たようであり、新国劇の「月形半平太と雛菊」は、「桂小五郎と幾松」の方があたっているかも知れないね~。
幾松は、京都三本木(現、京都市上京区三本木通)の芸者で、後述する桂が、京にに出た文久元年(1861年)頃に出会ったとされ、 以来桂小五郎が命の危険に晒されていたもっとも困難な時代に彼を庇護し、必死に支えつづけたといい、維新後、桂の正妻となり、木戸松子と名乗ったという。
19世紀の前半期になると多くの藩は深刻な課題に直面していた。それは藩財政の窮乏と農業人口の減少と都市への流入であった。これらは、藩政の基盤にかかわる問題であり、天保の改革後に台頭したのはこうした課題を、まがりなりにも解決し軍備を充実した薩摩、長州などの西南雄藩であった。これらの雄藩は、嘉永6年(1853年)にペリーが来航した後混迷の度を深める中央政局に次第に影響力を持つようになる。薩摩や長州藩が藩力を蓄える上では、ともに交易や密貿易の果たした役割が大きかった。交易の推進により、蓄財をすすめ、反射炉・溶鉱炉などを導入し、大砲・軍艦などの製造といった軍事力の強化に努めた。また、薩長をはじめとする西南諸藩は嘉永から安政に西洋技術の導入と藩内軍政改革を意図的にすすめた。これに対して、幕府は株仲間再興、五品江戸廻令(ごひんえどまわしれい)などを発して市場統制を試みながら後退を余儀なくされた。政治的にもいち早く開国に踏み切りながら、大老井伊直弼が朝廷・水戸藩をはじめ反対派を強引に抑圧した安政の大獄を引き起こし、そのため憤激した水戸脱藩士らによって、桜田門外で暗殺されるという結果を招く(桜田門外の変)。その後の藩政は、朝廷の伝統的権威と結びついて幕藩体制の再強化をはかる公武合体路線をとるにいたった。幕府のとった公武合体路線は、藩雄の中央政局への進出を促すことなった。長州藩は長井雅楽(ながい・うた)が開国策(航海遠略策=朝廷は公武合体を推進した上、幕府に命じて艦船をつくらせ、遠く海外への進出をめざすべきという開国論)を携えて中央に乗り出した。薩摩藩は島津久光が兵士およそ千人を率いて上京、勅使を報じて江戸に下り、 公武合体路線に沿った幕政改革の実行を迫った。幕府は徳川慶喜を将軍後見職に、松平慶永を政治総裁職に任命すると共に親藩会津の藩主松平容保を新設の京都守護職に任命した。目的を達した島津久光一行は帰途横浜郊外の生麦事件を引き起こした(結果として翌年の薩英戦争や長州藩の外国艦船に対する砲撃事件を引き起こす)。そして、京都に戻った久光は公武合体を超えた尊王攘夷の高揚に迎えられて驚く。
尊皇攘夷への反論の転換は長州藩が早く、藩政において次第に重きを成すようになった桂は、長井雅楽が唱える航海遠略策を批判し、重臣・周布政之助を説きこれまで公武合体に基づく開国論(航海遠略策)をかかげていた長州藩の藩論を倒幕攘夷へ大転換させ、桂や高杉晋作らが表舞台に現れて活動し、土佐藩では武市瑞山らが進出し、朝廷を動かして京都政局の主導権をにぎり、幕府に攘夷の実行を迫っていった。その背後では、文久2年(1862年)の半ばから、京都・江戸を中心に尊王攘夷派によるテロの嵐が吹き荒れていた。
そして、文久3年(1863年)5月、桂や高杉たちの兼ねてからの慎重論(無謀論)にもかかわらず、朝廷からの攘夷要求を受けた江戸幕府による攘夷決行の宣言どおりに、久坂玄瑞率いる長州軍が下関で関門海峡を通過中の外国艦船に対し攘夷戦争を始めた。(この後、これに対する報復として行われた四国連合艦隊下関砲撃事件(下関戦争)の敗北によって長州藩は洋式軍備の必要を悟り、攘夷論を掲げながら実質的に開国論へ転換し、イギリスに接近していった。)
そのようなことから、文久3年(1863年)の「八月十八日の政変」によって尊攘派は政界から一掃され、桂も京都から追放されてしまう。
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続:政治家、明治維新三傑の一人木戸孝允(桂小五郎) の忌日

2008-05-26 | 人物
元治元年(1864年)、会津藩お預かり新選組が、勤皇の志士を襲撃した池田屋事件では、本来なら桂もその場にいたはずだったが、到着が早すぎたのでまだ同志が集まっていなかったため、一度もどり対馬藩内の派閥抗争の解決のため対馬藩邸に赴いており、奇跡的に難を逃れた。が、桂は危険を顧みず京都に潜伏し続け、長州および長州派公卿たちの復権のため活動をし続ける。池田屋事件で新選組に藩士を殺された報せが長州にもたらされると、八月十八日の政変以来、挙兵を訴えていた長州藩の急進派を刺激する結果となる。慎重派(桂や高杉など)の意見を無視した長州勢が、禁門の変を起こすが、包囲している間に薩摩・土佐・会津らの軍が集結、1日で撃退されてしまった。この時、桂は芸者の幾松などの手助けを得て、辛くも逃げ切り、潜伏生活に入るが、会津藩などによる長州藩士の残党狩りが盛んになり京都での潜伏生活すら無理となり、但馬出石に潜伏する。
禁門の変後、朝敵となって敗走した長州藩に対し幕府の第一次長州征討を受けるが、藩庁は幕府の圧力に屈する。それに対して、高杉と奇兵隊など諸隊が反乱をおこして、藩論は倒幕の方向に転換した(元治の内乱)。この後、桂がどこかに潜伏しているらしいことを察知した高杉・大村益次郎たちによって桂は長州正義派政権の統率者として迎えられる。こうして、幕末の政局は、土佐藩の動きも絡みながら、薩長の討幕同盟側と幕府佐幕藩側のとの抗争へと進んでいった。
薩長主導による武力倒幕を成し遂げ、新政府を樹立。新政府では総裁局顧問、外国事務係、参与となり、「五箇条の御誓文」の起草に参画し、大久保利通らとともに版籍奉還の実現に尽力する。
明治4年(1871年)、西郷隆盛とともに参議となると、廃藩置県を断行している。その後、岩倉使節団の副使として欧米に歴訪、近代国家の基礎を身につけるが、征韓論敗北による西郷の職辞や、大久保らの独裁的な政局運営などに不満を抱き、次第に政府中枢から遠ざかっていき、明治10年5月26日の今日、西南戦争の最中、病没。享年45歳であった。どうも、長年の心労から来る今で言ううつ状態にあったらしい。死に際には、朦朧状態の中、大久保の手を握り締め、「西郷もいいかげんにしないか」と明治政府と西郷の両方を案じる言葉を発したのを最後にこの世を去ったという。
長くなったが最後に1つ。京都の木屋町通り沿い、鴨川に面する料亭旅館「幾松」のホームページを見ると、”幾松」は、幕末の頃倒幕運動に大きな役割を果たした木戸孝允(桂小五郎)と、幾松(のちの松子夫人)の寓居跡”・・・と記載されており(幾松歴史のページ参照)、登録有形文化財にも指定されているそうだ。しかし、桂小五郎を助けたとの逸話のある幾松は、京都三本木にあった料亭吉田屋でのことだとする説も多いようで当ブログもその説を採用しているが、それは、東三本木通沿いにある「立命館草創の地」の碑にはその旨が書かれているからである。(以下参考に記載の「発祥の地コレクション/立命館学園発祥之地」参照)。
吉田屋は、後に清輝楼(せいきろう)という料亭になり、ここに明治33(1900)年、立命館大学の前身である京都法政学校が設立されたが、清輝楼は、料理旅館・大和屋と名を変え、平成8(1997)年まで存続していたそうだ。
それと、密会中に新選組に急襲された桂は、幾松の機転で裏階段から地下道に降り、鴨川の河原に逃れたといっわれておりようだが、石造りの地下道が大和屋にも残っていたといい、この近くの民家にはそのような地下道が今でも残っているところがあるらしい(以下参考に記載の「☆asahi.com:三本木通(上京区)-マイタウン京都」参照)。
寺田屋事件で新撰組が襲撃した時竜馬を助けたといわれる寺田屋の建物にも事件当時の「弾痕」「刀傷」と称するものあるというがそれが、どうも後の建てられた建物に後から付けられたものであるらしいが、この鴨川に面する料亭「幾松」もどうも観光を意識してのもののようだ。世の中には観光用の確たる証拠もない登録有形文化財 が結構多いのだろうね~。
興味のある人は、以下参考に記載の☆印のあるものなどを見られると良い。
そう言えば三本木の芸者幾松の妹分に、新撰組・近藤勇の妾となり子供までつくっていた駒野とかいう芸者が居たのではないかな・・・・?。
(画像は、向かって右:木戸孝允。左:木戸松子〔幾松〕。フリー百科事典Wikipediaより)
参考:
Category:幕末維新側人物
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E5%B9%95%E6%9C%AB%E7%B6%AD%E6%96%B0%E5%81%B4%E4%BA%BA%E7%89%A9
松菊庵・桂小五郎HP
http://www21.big.or.jp/~kirin/
1月21日「ライバルが手を結ぶ日」
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/4b996bbb8d907e2501fb7ec5decc5d42
4月23日 寺田屋事件のあった日
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/d/20080423
上木屋町料亭「幾松」(登録有形文化財)ホームページ
http://www.ikumatsu.com/
月形半平太 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E5%BD%A2%E5%8D%8A%E5%B9%B3%E5%A4%AA
※寺田屋(京都市観光文化情報システム)
http://kaiwai.city.kyoto.jp/search/view_sight.php?InforKindCode=1&ManageCode=6000126
木戸孝允館
http://www13.ocn.ne.jp/~dawn/index.html
やっぱりお龍さん? 写真の女性、龍馬の妻の「可能性」
http://news.goo.ne.jp/article/asahi/nation/K2008051500991.html?fr=rk
※山口県の近世・近代史
http://www.geocities.jp/furi_316/index.html
※大村観光ナビ|大村の歴史|偉人の街|渡邉 昇
http://www.omuranavi.jp/02history/history05_03.html
天保の改革
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%BF%9D%E3%81%AE%E6%94%B9%E9%9D%A9
公武合体 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E6%AD%A6%E5%90%88%E4%BD%93
下関戦争 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E9%96%A2%E6%88%A6%E4%BA%89
月形半平太
http://www.raizofan.net/link4/movie2/tsuki.htm
登録有形文化財 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BB%E9%8C%B2%E6%9C%89%E5%BD%A2%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B2%A1発祥の地コレクション/立命館学園発祥之地
http://hamad.web.infoseek.co.jp/hass-col/school/ritumeikan.htm
☆桂小五郎もびっくり!? 歴史“捏造”旅館にご用心(前編) : 日刊サイゾー
http://www.cyzo.com/2007/10/post_83.html
☆asahi.com:三本木通(上京区)-マイタウン京都
http://mytown.asahi.com/kyoto/news.php?k_id=27000180612190001
☆維新の嵐・第伍章 京都に於ける生活1)京都市中案内
http://page.freett.com/sukechika/ishin/kyooto/set16-1.html
都っくす・相関図・近藤勇
http://www.kyotox.com/sinsengumi/so/so_kondou.htm
幕末維新新選組・ 新選組大事典(駒野のこと記載あり)
http://www.bakusin.com/jiten22.html