今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

みたらしだんごの日(Ⅰ)

2010-07-03 | 記念日
日本記念日協会の今日・7月3日の記念日を見ると「みたらしだんごの日」があった。
「みたらしだんご」とは3-5個の団子を串に刺して砂糖醤油の葛餡(くずあん。葛粉・片栗粉などを加えてとろみをつけた汁。)をかけた串団子のこと。スーパーマーケットやコンビニエンスストアなどで幅広く販売されている「みたらしだんご」を、手軽なおやつとしてもっと食べてもらうのが目的で、この商品を製造する山崎製パン株式会社が制定したそうだ。日付は「み」(3日)たら「し」(4日)だん「ご」(5日)の語呂合わせからとか。何か苦しい語呂合わせだが、最近は、実に、このような企業の販促的記念日が多くなったが、御蔭で、私も「今日のこといろいろ・・・」と書く材料が出来て重宝はしている・・・(^0^)。
「みたらし団子」の発祥は、京都市左京区下鴨松ノ木町53にあると言われる「加茂みたらし茶屋」だと言われている。この店の近く、つまり、店の前の下鴨本通沿いに少し南側へ3分ほど歩くと下鴨神社の西門側にたどり着く。
この下鴨神社の境内(糺の森〔河合の森ともいう〕)に御手洗川の源泉となる霊水が沸き神の池とされている御手洗池(みたらしのいけ)の上に建つ・井上社(通称:御手洗社)に祀られている瀬織津比売命祓神かつ水神で、罪、穢を祓い除く神であることから、井上社の夏越の例祭として、土用の丑の日に、御手洗祭(みたらしまつり)が行なわれ、御手洗川に足を浸し無病息災を祈願してきた。これは、「足つけ神事」とも称されている(詳しくは以下参考の※1参照)。京都三大祭りの一つ葵祭の斎王代(さいおうだい)が上賀茂神社と隔年で行われる厳粛な禊ぎの儀式も、ここで執り行われる。(葵祭り〔賀茂祭〕については、前にこのブログで書いたので、ここで見てください)。
みたらし団子は、もともとは、下鴨神社の葵祭や御手洗祭のときの神饌菓子であり、氏子の家庭などで作られたものが神前にお供えされ、祈念されたものを家に持ち帰って、醤油を付けて火にあぶって食べ厄除けにしていたものが始まりだというのを聞いたことがある。
下鴨神社の門前に店を構えた和菓子司「亀屋栗義」が御手洗池に沸き立つ水泡を模して、1本の竹串に5つの団子を通して作ったものが評判になり、いつしか「みたらし茶屋」の名で人々に親しまれるようになったという。「みたらし団子」は、竹串に刺した小さな5個の団子の中の1個だけが、他の4個の団子より少し離して串の先の方に刺してあるが、これは、人の五体を表したもので、少し離れている一個は頭に相当するそうだ。現在のような串に指した団子に甘ダレをつけるようになったのは大正時代になってからのようである。
昔は、祭の際に「みたらし団子の店」がたくさん並んでいたというが、現在ではこの亀屋栗義の店のみとなっている。ここからは、余り団子とは直接は関係ない話になるので、興味のある人だけ見てください。
少し、古い話になるが、天照大神が、天の岩屋戸にこもり、高天原が暗黒になったとき、八百万の神々は、光明をとりもどそうとして、天安(あめのやす)の河原に続々と集まり、天の岩屋戸から神を引き出す相談を始めた。記紀神話の中で、広く知られるこの物語は、河原に集まった神々が実行に移したのは、マツリであった。天安の河原は、祭りが行われる場所であり、そこに集まった神々はそれぞれに役割を分担して祭りの準備を進めてゆく。
神を祭るために清められた場所は、ユニハ(斎庭〔ゆにわ〕)といった。「斎庭」とは神を祭るために斎(い)み浄めた場所のこと。人々は心身を清めてそこに集まり、迎えた神々と酒食をともにし、歌い舞う。祭りの規模と場所はさまざまであったが、集落で神を祀る場所がはっきりした形をとるようになると、人々はそこに垣をめぐらして、穢れの侵入を防ぎ、やがて囲いの中に建物を建てるようになった。
一般に神社の中心となる殿舎は本殿と呼ばれ、そこに神の依り代となるものが祭られるが、祭式はその前の広場で行なわれ、それを取り囲む垣は玉垣・などと呼ばれた。後に神社には、人々が潔斎するために集まる建物から発展した拝殿・幣殿・神に奉る食物を調理する御饌殿(みけでん)、神前に進む人が身を清める御手洗をはじめ、種々の施設が加えられ、神を祭る人は心身を清めるために定められた場所で潔斎の生活をしたし、禊を行なう場所も、みそぎ川、みたらし川と呼ばれて新鮮な場所とされるようになった。
「みたらし団子」は漢字で「御手洗団子」と書く。広辞には、「御手洗」のミは敬意を表す接頭語であり、①神社の社頭にあって、参詣者が手や口を清めるところ。『徒然草』(つれづれぐさ)の一文②手水(手水)を使うこと。③御手洗川の略。④御手洗祭りの略。とある。そして、兼好法師(吉田兼好)の『徒然草』(つれづれぐさ)の一文(第67段の冒頭)にある「御手洗(みたらし)に影の映りける所と侍れば・・・」を紹介している。(この引用文については、以下参考に記載の※2の『徒然草』解説の第67段を参照)。
これで、先に書いた下賀茂神社の「みたらし団子」の曰(いわ)くも漢字のことも納得・・・と思うかもしれないが、実は、ここに出てくる藤原実方の舞の妙なる姿を、水に映したのは上賀茂神社の御手洗川である。上賀茂の摂末社で、「橋本の社」は御手洗川にかかる小さな橋の傍らにあり、衣通姫と共に藤原実方をも祀っていたらしい(以下参考の※3、※4参照)。
御手洗とはもとは神社に詣でる際、浄める泉であることは広辞苑にもある通りで、『源氏物語』20帖「 朝顔」で、光源氏の叔父である桃園式部卿宮が死去したので、その娘、朝顔は賀茂斎院を退いて邸にこもっていたが、若い頃から朝顔に執着していた源氏が、桃園邸を訪ね女王と直接会見することを強要する中で、間に立った女房の宣旨(せんじ)が、『古今集』恋一-501の
「恋せじとみたらし川にせしみそぎ神はうけずぞなりにけらしも」(読人しらず)
の歌を踏まえて「禊の神はいかがはべりけん」(この御禊(みそぎ)を神はお受けになりませんそうですねと、戯談ながらも、源氏に同情する場面も出てくる。源氏物語については以下参考の※5、※6を、古今集恋一-501の歌の解説は、以下参考の※7:「千人万首」の中古 よみ人しらず歌を参照)
「千人万首」の歌の解説に、この歌にある“みたらし川は、身を清める川であるが、王朝和歌では賀茂神社境内を流れる御手洗川と解するのが普通だが、この歌では特定の川と考えるべき理由はない。”としている。
京都市街の東部を流れる賀茂川は、高野川と合流する三角州あたりで、鴨(かも)川と名前を変える。この賀茂(鴨)川沿いに、京都きっての古社つまり、賀茂川にかかる御園橋の東に上賀茂神社と、鴨川の葵橋の東にある下鴨神社がある。上賀茂神社(正式名称:<賀茂別雷神社)に対して下鴨神社の正式名称が「賀茂御祖神社」・・・、”御祖”と呼ばれるのは、東殿の祭神・玉依媛(たまよりひめ。『山城国風土記』に登場する玉依比売とされる)命が、上賀茂神社の祭神・賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)の母親とされていることによる。さらに、西殿に祀られている賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)は、玉依媛の父であり、賀茂別雷神にとっては祖父にあたる。
こうした加茂神社の関係を表すために”御祖”を名称の一部にしているが、両社とも古代豪族・鴨氏の氏神を祀る神社であり、賀茂神社(賀茂社)と総称され、上・下賀茂神社に分かれたのは、奈良時代かららしい。以来両社をもって一社のような扱いをされてきたが鴨族は実に謎の多い氏族ではある。

みたらしだんごの日 (Ⅱ)

みたらしだんごの日  参考

みたらしだんごの日 (Ⅱ)

2010-07-03 | 記念日
糾の森は、今は、賀茂御祖神社(下鴨神社)の境内にある社叢林であり、およそ12万4千平方メートル(東京ドームの約3倍)の面積がある。しかし、かつて京都に平安京が置かれた時代にはその約40倍約495万平方メートルの広さがあったという。それが、応仁の乱(このとき総面積の7割を焼失下と言われる)など京都を舞台とする中世の戦乱や、明治時代初期の上知令による寺社領の没収などを経て、現在の面積まで減少したという。緑深く、水清かった平安遷都以前の山城国は、渡来人である秦氏などが開拓した稔り豊かな盆地あった。しかし、その中にあって、鴨族は八咫烏に化身して神武天皇を導いたとされる賀茂建角身命を始祖とする天神系氏族であるが、その鴨族が今の御所市周辺に移り、葛城川の岸辺に代々賀茂神社に奉斎し(鴨都波神社参照)、やがて、山城国葛野郡愛宕郡を支配した(この辺の事情は、以下参考の※8 が詳しい)。子孫は上賀茂・下鴨の両神社の祠官家(神社に仕える神職)となった。また、賀茂県主は同じ山城国を本拠とする秦氏との関係が深い。
賀茂県主の出自に関しては、大和国葛城の地祇系賀茂氏が、山代の国の岡田の賀茂(岡田鴨神社がある)に至り、さらにその一流が山城川(木津川)を下り、淀川との合流点から葛野川(桂川)を遡り、高野川と賀茂川(鴨川)が合流する地点までやってきて、そこから上流(北方)の賀茂川を望んで「狭くて小さいけれども、この石川は清川(すみかは)だ」と言ったので、鴨川のことを「石川の瀬見の小川」と名付けた。そして更に、賀茂川の上流久我の山基(久我神社がある。神話伝承によれば、賀茂氏の祖神の誕生の地である。かつてこのあたりは久我國を称していた。)に至り、その時から賀茂と呼ばれたことが「山城國風土記」に書かれている。(鴨族のことは以下参考の※8、※9、※10 ※11など参照)。
京都の鴨川は河川法上では、起点よりすべて鴨川の表記であるが、高野川との合流点より上流は、通例賀茂川・下流を鴨川と表記する。平安時代には流域により表記を区別していたわけではないがこれは、「KAMO(鴨・賀茂・加茂)」という言葉と「KAMI(神)」が同じ言葉だからで、もともと氏族名のカモ(賀茂)というカミ(神)が、川をカミ(上)の方へ遡ったことを示し、賀茂・神・上は連続した語であったからだという。
下鴨神社境内の糺の森は賀茂川と高野川の間に挟まれるように広がっていることから、この森は「河合の森」とも呼ばれている。この河合の森に入ると、すぐ左手に河合神社がある。下鴨神社の摂末社で、神武天皇の母・玉依姫命を祭神として祀っているが、この祭神は本宮の東殿に祭られている神武天皇の母・玉依姫命とは「同名異神」(神武天皇の御母神)だとしている。一説に、この神社は、鴨縣主の宗家である泉の館にあったのではないかという説がある。以下参考の※12:「延喜式神社の調査」河合神社の説明にあるように、古代からの社名が「鴨河合坐小社宅(かものかわあいにいますおこそやけ)神社」とあるように、元は小社であつたが、平安時代の『延喜式』では名神社に加わり月次・相嘗新嘗の祭に預るなど朝廷から重視され、次第に大きく造り替えられてきたようだ。只洲社(ただすのやしろ)とも記すが、只洲は賀茂川と高野川の合流点であることからきており、糺の森の糾を意味しており、もともと秦氏の奉祀する河合神社の森であったらしく、鴨氏が秦氏の婿となり、祭祀権を譲られたようだ。
「糺の森」の「ただす」が何に由来するのかという点については、「只洲」の他、「偽りを糺す」の意とするほか、清水の湧き出ることから「直澄」、多多須玉依姫の神名に由来するなど諸説あるが、興味深いのは、通称木嶋神社また蚕の社で広く知られている京都市右京区太秦にある木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)の元糺の池(もとただすのいけ)に由来するとする説である。同社は「木嶋に鎮座する天照御魂神の社」という意味であり、続日本紀の大宝元年(701年)の条に「木嶋神」の名前で登場する。「木嶋」という名前は、秦氏の土地にあった「蚕(こ)の島」からきたものとも、原野に茂る杜(元糺の森)の様が「木の島」のようであったからとされている。境内には本殿の東側に摂社の養蚕神社があるので、通称「蚕の社」の名前で親しまれているが、この神社のある嵯峨野一帯はかって、朝鮮半島から渡来し、日本に養蚕・機織・染色・醸造などの技術を伝えた秦氏ゆかりの地であり、この神社もそうである。本殿の西には「元糺の池」と呼ばれる泉があり、謎の多い三つ柱の石製鳥居が建っている。中央には依り代として円錐形に小石が積み上げられ、中心には御幣が立てられている。この様子は江戸時代の境内の様子を表した1780(安永9)年刊の『都名所図会)』にも描かれており、泉からは蕩々と湧水があったことが窺えるという(以下参考の※13参照)。3つの角(柱)の延長線上には双ヶ丘(秦氏のものと見られる古墳群がある)・松尾山(秦氏創建の松尾大社)・稲荷山(秦氏創建の伏見稲荷大社)があり、それぞれを指しているのだとか。古来この社は雨乞いの神としての信仰があったともいわれており、また禊の行場でもあったそうだ。土用の丑の日にはこの池に手足を浸すと、諸病にかからないという俗信仰もあり、ここでも、毎年、「足つけ神事」が行われている。「元糺の池」と呼ばれるのは、池を囲む森を「糺の森」と呼んでいたが、嵯峨天皇が木島神社から下鴨神社に名を移したので、ここが元祖と言う意味で「元糺の池」と呼ぶようになったと伝承されている。
秦氏は、上賀茂神社・下鴨神社の創建に関係が深いが、以下参考の※17:「葛野大堰」によれば、上賀茂神社の社伝によれば、上賀茂神社に祭られる別雷神の父、すなわち玉依比売の夫は火雷神(ほのいかづちのかみ)とされているが、『古事記』はこの神が秦忌寸都理(はたのいみきとり)が大宝元年(701)に建立した京都の松尾大社に祀られている大山咋神(おおやまくいのかみ)であるとしている。このため、秦氏と賀茂氏とは婚姻関係で結ばれていたこと、上下賀茂神社の神と松尾大社の神とは共通の姻族神であったことが窺えるという。
下鴨神社の摂末社河合神社北側に糾池跡がある。小さな社であるが、本殿は本宮の本殿と同じ三間社、流造、桧皮葺である。
この河合神社の神事を統率する鴨長継の次男として生まれた鴨長明は、いろいろの事情によって、望んでいた河合社(ただすのやしろ)の禰宜(ねぎ)の地位につくことが叶わず強い厭世感を抱くようになり、やがて随筆『方丈記』を書くにいたったといわれている。この神社の境内に、鴨長明が暮らした方丈が復元展示されている。
糺の森の中を流れる小川は4つあり、それぞれ御手洗川・泉川・奈良の小川・瀬見の小川と名付けられている。下鴨神社の御手洗川は、かつては鴨川・高野川・泉川からしみだした自然の池であったという御手洗池を水源としている。糺の森の東側を流れる泉川は高野川の支流である。奈良の小川は御手洗川に泉川の流れの一部が合流したもので、賀茂川の支流である瀬見の小川に取り込まれて糺の森の中央を流れている。
鴨長明ゆかりの社・河合神社から下鴨神社参道に出ると瀬見の小川がある(下鴨神社公式HPの境内地図参照)。
「石川や 瀬見の小川の清ければ 月も流れを たづねてやすむ」
【通釈】石川の瀬見の小川は、水が清いので、賀茂の神がここに鎮座されたように、月もこの流れを求めて射し、澄んだ光を川面に宿している以下参考の※7:千人万首の鴨長明 参照)
この歌は、もともとは、鴨長明が源光行主催の鴨社での歌合で詠んだ神祇歌であるが、ここに書かれて「石川の瀬見の小川」は、現在下鴨神社境内を流れている「瀬見の小川」ではなく、かつては河合神社のそばを流れていた賀茂川の上流の異称であることは先にも書いた通りである。「すむ」は、澄む・住むの掛詞であり、「住む」には神が住む(鎮座する)意が籠ってる。
長明は下賀茂神社の禰宜の家に生まれ当然、瀬見の小川や故事のことを当然知っていて、瀬見の小川の水鏡に映る月光の美しさに、賀茂神社の縁起(神がその流れ遡り加茂の地に鎮座した)を重ねて詠んだものであるが、加茂川の上流が瀬見の小川と呼ばれる事を他の参加者が知らなかったために、歌合の場では負けを喫した。後に長明は賀茂社の縁起にその旨の記述がある事を公にし、神社の秘事を軽々しく開示するとは何事かと賀茂社の神職たちの批判を浴びながらも、自歌が正しかったことを主張。この歌については、『無名抄』の「せみのを川事」に長明自身の詳しい記述がある(以下参考の※13参照)。この歌は人々の人気を博し、後に撰された『新古今和歌集』に収録されるに至っった。
しかし、このような神社の秘事を軽々しく開示する不用意さが災いしたことが、優秀な歌人にして随筆家であるにもかかわらず禰宜になれなかった大きな要因かもしれない。
「御手洗や清き心に澄む水の賀茂の河原にいづるなり 」と歌う能の「 賀茂」では、鴨の民と秦の民との融合が謳われている。以下参考の※:15:「能:賀茂ノ巻」も参照されると良い。
又、参考に記載の※16:「明神川と泉川」を、見ると上・下加茂(鴨)社に流れている小川のことが良く判るが、下鴨神社より北に位置する上賀茂神社を見ると、ここには、加茂川の支流である明神川が、境内に流入している。この明神川も下鴨社に流れる泉川も川と言う名前がついているが、実際は農業用水であり自然河川ではない。
上賀茂神社境内の中を流れる水流は、流れにしたがって名前を変えていくことで知られている。まず、賀茂川の明神井堰から取水された流れは、上賀茂神社本殿のそばでは、御手洗川と呼ばれる。一方、上賀茂神社の北東部、丸山と小丸山の間を通る蟻ヶ池からの流れと、小丸山の東側に位置する小池からの流れは、境内に流れ込む直前で合流し、御物忌(おものい)川という名で本殿前を通過する。これら二つの流れは本殿下流で合流し、橋殿をくぐると今度は楢(なら)の小川と呼ばれるようになる。さらに楢の小川は境内を南に流れ出ると、今度は又、明神川と名前を変え、境内付近に建てられた社家の家々の前を流れる川となる。このように神社の境内に流入した農業用は聖なる川として大きく姿を変え、参拝客などが身を清める禊(みそぎ)の川として古くから大切に扱われてきたという訳だ。又、現在の明神川の流末は暗渠になっていて水の行方が不明瞭になっているが、明治大正期あたりまでは泉川と合流していたそうだ。つまり、上賀茂神社の禊の川と下鴨神社の禊の川が一体となっていたわけだ。
下鴨神社の糺の森は、江戸時代より京の夏の避暑地として知られ、糺の森を流れる川の辺に茶店が建ち並び、船を浮かべた茶会のほか能(糺能)や相撲の催しが行われるなど庶民の納涼場として賑わっていたようだが、明治時代になると、下鴨神社は国の管理する神社となり、庶民の行事も次第に廃絶して納涼市の姿も消えてしまったというが、又、市民の努力で憩いの場として復活してきているようだ。
以下の図は、年代未詳だが、恐らく明治期のものだろうと思われる下鴨糺の森の御手洗池の茶店の光景である。貴重な写真だ。
長崎大学付属図書館:幕末・明治期日本古写真メタデーターベース:下鴨糺の森の御手洗池の茶店(2 )
(掲載の画像:1枚目みたらし団子、2枚目糺の森の清流「瀬見の小川」Wikipediaより)

みたらしだんごの日  (Ⅰ)

みたらしだんごの日  参考

みたらしだんごの日:参考

2010-07-03 | 記念日
参考*
※1:加茂みたらし茶屋
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/peanuts11252/work/meibutsu/mitarasi.html
※2:日本の代表的な古典文学の解説
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/japan/literature.html
※3:橋本の社と藤原実方 京都市 上賀茂神社
http://www.harusan1925.net/1227.html
※4:花林 ~小枝の音色に誘はれて~つれづれに伝え聞くは、橋本の御社
http://doune.blog82.fc2.com/?mode=m&no=424
※5:源氏物語:20 朝顔(大島本)
http://www.genji-monogatari.net/html/Genji/combined20.1.html
※6:青空文庫:作家別作品リスト:No.885与謝野 晶子
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person885.html#sakuhin_list_1
※7:千人万首
http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-YMST/yamatouta/sennin.html
※8:京都に秦氏(はたうじ)の史跡を訪ねる
http://www.bell.jp/pancho/travel/hata/index.htm
※9:古代豪族
http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7.html
※10:賀茂建角身神
http://www.ffortune.net/spirit/zinzya/kami/kamotake.htm
※11:近畿風雲抄
http://www.k4.dion.ne.jp/~kinki/index.html
※12:延喜式神社の調査
http://www.geocities.jp/engisiki/index.html
※13:史跡木嶋坐天照御魂神社 (蚕ノ社) 境内(PDF)
http://www.kyoto-arc.or.jp/houkokusho/2002-15zhonbun.pdf#search='続日本紀 木嶋神'
※14:新古今和歌集と無名抄 せみのを川事
http://home.cilas.net/~jikan314/karon/mumeisho-1.html
※:15:能:賀茂ノ巻
http://www.eonet.ne.jp/~noh-e/page031.html
※16:明神川と泉川
http://waterside.fc2web.com/k4.html
※17:葛野大堰 かどのおおい(PDF)
http://www.yodoriver.org/iken_shuu/bessi/bessi_783.pdf#search='玉依比売 夫 火雷神 ほのいかづちのかみ'
神奈備:久我神社
http://kamnavi.jp/yamasiro/kogawhat.htm
神祇歌 - Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E7%A5%9E%E7%A5%87%E6%AD%8C/
うろちょろ京都散策
http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/index.htm
KyotoTownmap
http://www.kyototownmap.com/index.html
神奈備・京都府の神々
http://kamnavi.jp/ichirankyo.htm
長崎大学付属図書館:幕末・明治期日本古写真メタデーターベース
http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/jp/index.html
万葉集ー地域別5
http://www.ncn-t.net/kunistok/manyoshu5.htm
万葉集 巻6−1052
http://asagasumi.web.infoseek.co.jp/manyou/MK6-1052.htm
賀茂斎院跡, 上京区上御霊前通智恵光院東入(櫟谷七野神社内).
http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/ichiidani_nanano-jinjya.htm
今日のことあれこれと・・葵祭(賀茂祭)
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/2aa262cf1439fe0c8f70a6a8a551978e
賀茂上社神宮寺・賀茂下社神宮寺
http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/kyo_kamosimosya.htm
京都通:京都の神社(じんじゃ)(Jinjya of KYOTO)
http://www.kyototsuu.jp/Contents/Jinjya.html
みたらし団子 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BF%E3%81%9F%E3%82%89%E3%81%97%E5%9B%A3%E5%AD%90
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html
京都おもしろスポット:下鴨神社周辺
http://kyoto.gp1st.com/550/ent24.html#smg_mtrs
京都に秦氏(はたうじ)の史跡を訪ねる
http://www.bell.jp/pancho/travel/hata/
世界遺産・上加茂神社公式HP
http://www.kamigamojinja.jp/index.html
世界遺産・下鴨神社公式HP
http://www.shimogamo-jinja.or.jp/index.html
下鴨神社(=賀茂御祖神社)
http://www.bell.jp/pancho/travel/hata/simo-kamo.htm
賀茂(別雷・御祖)神社
http://www.harimaya.com/o_kamon1/syake/kinki/s_kamo.html

みたらしだんごの日 (Ⅰ)

みたらしだんごの日(Ⅱ)