日本記念日協会の今日・7月3日の記念日を見ると「みたらしだんごの日」があった。
「みたらしだんご」とは3-5個の団子を串に刺して砂糖醤油の葛餡(くずあん。葛粉・片栗粉などを加えてとろみをつけた汁。)をかけた串団子のこと。スーパーマーケットやコンビニエンスストアなどで幅広く販売されている「みたらしだんご」を、手軽なおやつとしてもっと食べてもらうのが目的で、この商品を製造する山崎製パン株式会社が制定したそうだ。日付は「み」(3日)たら「し」(4日)だん「ご」(5日)の語呂合わせからとか。何か苦しい語呂合わせだが、最近は、実に、このような企業の販促的記念日が多くなったが、御蔭で、私も「今日のこといろいろ・・・」と書く材料が出来て重宝はしている・・・(^0^)。
「みたらし団子」の発祥は、京都市左京区下鴨松ノ木町53にあると言われる「加茂みたらし茶屋」だと言われている。この店の近く、つまり、店の前の下鴨本通沿いに少し南側へ3分ほど歩くと下鴨神社の西門側にたどり着く。
この下鴨神社の境内(糺の森〔河合の森ともいう〕)に御手洗川の源泉となる霊水が沸き神の池とされている御手洗池(みたらしのいけ)の上に建つ・井上社(通称:御手洗社)に祀られている瀬織津比売命は祓神かつ水神で、罪、穢を祓い除く神であることから、井上社の夏越の例祭として、土用の丑の日に、御手洗祭(みたらしまつり)が行なわれ、御手洗川に足を浸し無病息災を祈願してきた。これは、「足つけ神事」とも称されている(詳しくは以下参考の※1参照)。京都三大祭りの一つ葵祭の斎王代(さいおうだい)が上賀茂神社と隔年で行われる厳粛な禊ぎの儀式も、ここで執り行われる。(葵祭り〔賀茂祭〕については、前にこのブログで書いたので、ここで見てください)。
みたらし団子は、もともとは、下鴨神社の葵祭や御手洗祭のときの神饌菓子であり、氏子の家庭などで作られたものが神前にお供えされ、祈念されたものを家に持ち帰って、醤油を付けて火にあぶって食べ厄除けにしていたものが始まりだというのを聞いたことがある。
下鴨神社の門前に店を構えた和菓子司「亀屋栗義」が御手洗池に沸き立つ水泡を模して、1本の竹串に5つの団子を通して作ったものが評判になり、いつしか「みたらし茶屋」の名で人々に親しまれるようになったという。「みたらし団子」は、竹串に刺した小さな5個の団子の中の1個だけが、他の4個の団子より少し離して串の先の方に刺してあるが、これは、人の五体を表したもので、少し離れている一個は頭に相当するそうだ。現在のような串に指した団子に甘ダレをつけるようになったのは大正時代になってからのようである。
昔は、祭の際に「みたらし団子の店」がたくさん並んでいたというが、現在ではこの亀屋栗義の店のみとなっている。ここからは、余り団子とは直接は関係ない話になるので、興味のある人だけ見てください。
少し、古い話になるが、天照大神が、天の岩屋戸にこもり、高天原が暗黒になったとき、八百万の神々は、光明をとりもどそうとして、天安(あめのやす)の河原に続々と集まり、天の岩屋戸から神を引き出す相談を始めた。記紀神話の中で、広く知られるこの物語は、河原に集まった神々が実行に移したのは、マツリであった。天安の河原は、祭りが行われる場所であり、そこに集まった神々はそれぞれに役割を分担して祭りの準備を進めてゆく。
神を祭るために清められた場所は、ユニハ(斎庭〔ゆにわ〕)といった。「斎庭」とは神を祭るために斎(い)み浄めた場所のこと。人々は心身を清めてそこに集まり、迎えた神々と酒食をともにし、歌い舞う。祭りの規模と場所はさまざまであったが、集落で神を祀る場所がはっきりした形をとるようになると、人々はそこに垣をめぐらして、穢れの侵入を防ぎ、やがて囲いの中に建物を建てるようになった。
一般に神社の中心となる殿舎は本殿と呼ばれ、そこに神の依り代となるものが祭られるが、祭式はその前の広場で行なわれ、それを取り囲む垣は玉垣・などと呼ばれた。後に神社には、人々が潔斎するために集まる建物から発展した拝殿・幣殿・神に奉る食物を調理する御饌殿(みけでん)、神前に進む人が身を清める御手洗をはじめ、種々の施設が加えられ、神を祭る人は心身を清めるために定められた場所で潔斎の生活をしたし、禊を行なう場所も、みそぎ川、みたらし川と呼ばれて新鮮な場所とされるようになった。
「みたらし団子」は漢字で「御手洗団子」と書く。広辞には、「御手洗」のミは敬意を表す接頭語であり、①神社の社頭にあって、参詣者が手や口を清めるところ。『徒然草』(つれづれぐさ)の一文②手水(手水)を使うこと。③御手洗川の略。④御手洗祭りの略。とある。そして、兼好法師(吉田兼好)の『徒然草』(つれづれぐさ)の一文(第67段の冒頭)にある「御手洗(みたらし)に影の映りける所と侍れば・・・」を紹介している。(この引用文については、以下参考に記載の※2の『徒然草』解説の第67段を参照)。
これで、先に書いた下賀茂神社の「みたらし団子」の曰(いわ)くも漢字のことも納得・・・と思うかもしれないが、実は、ここに出てくる藤原実方の舞の妙なる姿を、水に映したのは上賀茂神社の御手洗川である。上賀茂の摂末社で、「橋本の社」は御手洗川にかかる小さな橋の傍らにあり、衣通姫と共に藤原実方をも祀っていたらしい(以下参考の※3、※4参照)。
御手洗とはもとは神社に詣でる際、浄める泉であることは広辞苑にもある通りで、『源氏物語』20帖「 朝顔」で、光源氏の叔父である桃園式部卿宮が死去したので、その娘、朝顔は賀茂斎院を退いて邸にこもっていたが、若い頃から朝顔に執着していた源氏が、桃園邸を訪ね女王と直接会見することを強要する中で、間に立った女房の宣旨(せんじ)が、『古今集』恋一-501の
「恋せじとみたらし川にせしみそぎ神はうけずぞなりにけらしも」(読人しらず)
の歌を踏まえて「禊の神はいかがはべりけん」(この御禊(みそぎ)を神はお受けになりませんそうですねと、戯談ながらも、源氏に同情する場面も出てくる。源氏物語については以下参考の※5、※6を、古今集恋一-501の歌の解説は、以下参考の※7:「千人万首」の中古 よみ人しらず歌を参照)
「千人万首」の歌の解説に、この歌にある“みたらし川は、身を清める川であるが、王朝和歌では賀茂神社境内を流れる御手洗川と解するのが普通だが、この歌では特定の川と考えるべき理由はない。”としている。
京都市街の東部を流れる賀茂川は、高野川と合流する三角州あたりで、鴨(かも)川と名前を変える。この賀茂(鴨)川沿いに、京都きっての古社つまり、賀茂川にかかる御園橋の東に上賀茂神社と、鴨川の葵橋の東にある下鴨神社がある。上賀茂神社(正式名称:<賀茂別雷神社)に対して下鴨神社の正式名称が「賀茂御祖神社」・・・、”御祖”と呼ばれるのは、東殿の祭神・玉依媛(たまよりひめ。『山城国風土記』に登場する玉依比売とされる)命が、上賀茂神社の祭神・賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)の母親とされていることによる。さらに、西殿に祀られている賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)は、玉依媛の父であり、賀茂別雷神にとっては祖父にあたる。
こうした加茂神社の関係を表すために”御祖”を名称の一部にしているが、両社とも古代豪族・鴨氏の氏神を祀る神社であり、賀茂神社(賀茂社)と総称され、上・下賀茂神社に分かれたのは、奈良時代かららしい。以来両社をもって一社のような扱いをされてきたが鴨族は実に謎の多い氏族ではある。
みたらしだんごの日 (Ⅱ)へ
みたらしだんごの日 参考へ
「みたらしだんご」とは3-5個の団子を串に刺して砂糖醤油の葛餡(くずあん。葛粉・片栗粉などを加えてとろみをつけた汁。)をかけた串団子のこと。スーパーマーケットやコンビニエンスストアなどで幅広く販売されている「みたらしだんご」を、手軽なおやつとしてもっと食べてもらうのが目的で、この商品を製造する山崎製パン株式会社が制定したそうだ。日付は「み」(3日)たら「し」(4日)だん「ご」(5日)の語呂合わせからとか。何か苦しい語呂合わせだが、最近は、実に、このような企業の販促的記念日が多くなったが、御蔭で、私も「今日のこといろいろ・・・」と書く材料が出来て重宝はしている・・・(^0^)。
「みたらし団子」の発祥は、京都市左京区下鴨松ノ木町53にあると言われる「加茂みたらし茶屋」だと言われている。この店の近く、つまり、店の前の下鴨本通沿いに少し南側へ3分ほど歩くと下鴨神社の西門側にたどり着く。
この下鴨神社の境内(糺の森〔河合の森ともいう〕)に御手洗川の源泉となる霊水が沸き神の池とされている御手洗池(みたらしのいけ)の上に建つ・井上社(通称:御手洗社)に祀られている瀬織津比売命は祓神かつ水神で、罪、穢を祓い除く神であることから、井上社の夏越の例祭として、土用の丑の日に、御手洗祭(みたらしまつり)が行なわれ、御手洗川に足を浸し無病息災を祈願してきた。これは、「足つけ神事」とも称されている(詳しくは以下参考の※1参照)。京都三大祭りの一つ葵祭の斎王代(さいおうだい)が上賀茂神社と隔年で行われる厳粛な禊ぎの儀式も、ここで執り行われる。(葵祭り〔賀茂祭〕については、前にこのブログで書いたので、ここで見てください)。
みたらし団子は、もともとは、下鴨神社の葵祭や御手洗祭のときの神饌菓子であり、氏子の家庭などで作られたものが神前にお供えされ、祈念されたものを家に持ち帰って、醤油を付けて火にあぶって食べ厄除けにしていたものが始まりだというのを聞いたことがある。
下鴨神社の門前に店を構えた和菓子司「亀屋栗義」が御手洗池に沸き立つ水泡を模して、1本の竹串に5つの団子を通して作ったものが評判になり、いつしか「みたらし茶屋」の名で人々に親しまれるようになったという。「みたらし団子」は、竹串に刺した小さな5個の団子の中の1個だけが、他の4個の団子より少し離して串の先の方に刺してあるが、これは、人の五体を表したもので、少し離れている一個は頭に相当するそうだ。現在のような串に指した団子に甘ダレをつけるようになったのは大正時代になってからのようである。
昔は、祭の際に「みたらし団子の店」がたくさん並んでいたというが、現在ではこの亀屋栗義の店のみとなっている。ここからは、余り団子とは直接は関係ない話になるので、興味のある人だけ見てください。
少し、古い話になるが、天照大神が、天の岩屋戸にこもり、高天原が暗黒になったとき、八百万の神々は、光明をとりもどそうとして、天安(あめのやす)の河原に続々と集まり、天の岩屋戸から神を引き出す相談を始めた。記紀神話の中で、広く知られるこの物語は、河原に集まった神々が実行に移したのは、マツリであった。天安の河原は、祭りが行われる場所であり、そこに集まった神々はそれぞれに役割を分担して祭りの準備を進めてゆく。
神を祭るために清められた場所は、ユニハ(斎庭〔ゆにわ〕)といった。「斎庭」とは神を祭るために斎(い)み浄めた場所のこと。人々は心身を清めてそこに集まり、迎えた神々と酒食をともにし、歌い舞う。祭りの規模と場所はさまざまであったが、集落で神を祀る場所がはっきりした形をとるようになると、人々はそこに垣をめぐらして、穢れの侵入を防ぎ、やがて囲いの中に建物を建てるようになった。
一般に神社の中心となる殿舎は本殿と呼ばれ、そこに神の依り代となるものが祭られるが、祭式はその前の広場で行なわれ、それを取り囲む垣は玉垣・などと呼ばれた。後に神社には、人々が潔斎するために集まる建物から発展した拝殿・幣殿・神に奉る食物を調理する御饌殿(みけでん)、神前に進む人が身を清める御手洗をはじめ、種々の施設が加えられ、神を祭る人は心身を清めるために定められた場所で潔斎の生活をしたし、禊を行なう場所も、みそぎ川、みたらし川と呼ばれて新鮮な場所とされるようになった。
「みたらし団子」は漢字で「御手洗団子」と書く。広辞には、「御手洗」のミは敬意を表す接頭語であり、①神社の社頭にあって、参詣者が手や口を清めるところ。『徒然草』(つれづれぐさ)の一文②手水(手水)を使うこと。③御手洗川の略。④御手洗祭りの略。とある。そして、兼好法師(吉田兼好)の『徒然草』(つれづれぐさ)の一文(第67段の冒頭)にある「御手洗(みたらし)に影の映りける所と侍れば・・・」を紹介している。(この引用文については、以下参考に記載の※2の『徒然草』解説の第67段を参照)。
これで、先に書いた下賀茂神社の「みたらし団子」の曰(いわ)くも漢字のことも納得・・・と思うかもしれないが、実は、ここに出てくる藤原実方の舞の妙なる姿を、水に映したのは上賀茂神社の御手洗川である。上賀茂の摂末社で、「橋本の社」は御手洗川にかかる小さな橋の傍らにあり、衣通姫と共に藤原実方をも祀っていたらしい(以下参考の※3、※4参照)。
御手洗とはもとは神社に詣でる際、浄める泉であることは広辞苑にもある通りで、『源氏物語』20帖「 朝顔」で、光源氏の叔父である桃園式部卿宮が死去したので、その娘、朝顔は賀茂斎院を退いて邸にこもっていたが、若い頃から朝顔に執着していた源氏が、桃園邸を訪ね女王と直接会見することを強要する中で、間に立った女房の宣旨(せんじ)が、『古今集』恋一-501の
「恋せじとみたらし川にせしみそぎ神はうけずぞなりにけらしも」(読人しらず)
の歌を踏まえて「禊の神はいかがはべりけん」(この御禊(みそぎ)を神はお受けになりませんそうですねと、戯談ながらも、源氏に同情する場面も出てくる。源氏物語については以下参考の※5、※6を、古今集恋一-501の歌の解説は、以下参考の※7:「千人万首」の中古 よみ人しらず歌を参照)
「千人万首」の歌の解説に、この歌にある“みたらし川は、身を清める川であるが、王朝和歌では賀茂神社境内を流れる御手洗川と解するのが普通だが、この歌では特定の川と考えるべき理由はない。”としている。
京都市街の東部を流れる賀茂川は、高野川と合流する三角州あたりで、鴨(かも)川と名前を変える。この賀茂(鴨)川沿いに、京都きっての古社つまり、賀茂川にかかる御園橋の東に上賀茂神社と、鴨川の葵橋の東にある下鴨神社がある。上賀茂神社(正式名称:<賀茂別雷神社)に対して下鴨神社の正式名称が「賀茂御祖神社」・・・、”御祖”と呼ばれるのは、東殿の祭神・玉依媛(たまよりひめ。『山城国風土記』に登場する玉依比売とされる)命が、上賀茂神社の祭神・賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)の母親とされていることによる。さらに、西殿に祀られている賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)は、玉依媛の父であり、賀茂別雷神にとっては祖父にあたる。
こうした加茂神社の関係を表すために”御祖”を名称の一部にしているが、両社とも古代豪族・鴨氏の氏神を祀る神社であり、賀茂神社(賀茂社)と総称され、上・下賀茂神社に分かれたのは、奈良時代かららしい。以来両社をもって一社のような扱いをされてきたが鴨族は実に謎の多い氏族ではある。
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