2010(平成22)年7月19日の今日で、二千円札が発行されて10年になる。二千円券発行の趣旨等については、以下参考に記載の※1:「財務省(旧大蔵省)のホームページ」、中程の右列の「その他」>一覧表の中の「二千円日本銀行券の円滑な流通について」で詳しく書かれている。
二千円札は、2000(平成12)年がミレニアム(千年紀)に当たり、「九州・沖縄サミット」(G8サミット)開催の年でもあることを勘案して、その前年・2009(平成11)年10月に故小渕恵三内閣総理大臣の指示により発行が決定され、一万円札、五千円札、千円札に続き、42年ぶりに日本銀行から4種類目の新額面紙幣として、2000(平成12)年7月19日より発行された。また、欧米諸国では、「二」の付く単位の紙幣が発行され、円換算で二千円前後となる紙幣(例えば、米国の20ドル紙幣)が幅広く流通しており、我が国においても、二千円券が円滑に流通すれば、従来より少ない枚数で現金の支払い・受取りができるようになるなど、国民の利便性も一層向上するものと考えられる・・といったことも発行の要因としている。
冒頭掲載の二千円札は、自分が持っている紙幣のコピーを撮ろうかと思ったが、何かお札のコピーは問題もありそうなので、財務省のホームページ「二千円日本銀行券の主な様式等について」に掲載されているものを使わせてもらった。図柄はこれを見られると判るが、
表面は、左側に「弐千円」の文字等を、右側には、沖縄の首里城歓会門外にある守礼門を配している。
透(す)かしは、表のものとは違った角度から見た守礼門を使っている。
裏面は、約1000年前に書かれた、源氏物語にちなみ左側に、「源氏物語絵巻」第三十八帖(じょう)「鈴虫」その二の絵の一部分(<光源氏と冷泉院対座場面。☆1)に、同帖の詞書(ことばがき)の冒頭部分(ここ参照)を重ね合わせたものを配し、右側に、源氏物語の作者・紫式部の絵(「紫式部日記絵巻」の一場面。五島本第一段の宮の内侍と紫式部を二人の公卿〔藤原実成と藤原斉信〕が訪ねる場面☆2。)に描かれている紫式部を配している(☆1及び☆2の画像および説明は以下参考の※2:「五島美術館の名品」の源氏物語絵巻及び紫式部日記絵巻のところを見られると良い)。ただし、『紫式部日記絵巻』(五島本第一段)には、寛弘5年(1008年)10月17日、紫式部が、同僚の女房である宮の内侍(=橘良芸子)の局(つぼね)に来ている時に2人の公達が訪ねてきたわけだが、描かれている格子から顔を出している女房装束姿“十二単姿”の女性は紫式部ではなく宮の内侍ではないかとする説もあるようだが・・・(以下参考の※3:「源氏の部屋・土御門殿邸への行幸翌日、渡殿の局にて」参照)。
過去には2銭、20銭、2円、20円、200円の硬貨や紙幣が存在したことはある。特に知られているのは、世界恐慌の2年前の、1927(昭和2)年に発生した昭和金融恐慌で取り付け騒ぎが発生した。これに対して、高橋是清蔵相はモラトルム(支払猶予措置)を行い、片面印刷の二百円券を臨時に増刷して現金の供給に手を尽くし、銀行もこれを店頭に積み上げるなどして預金者の不安の解消に努め、金融不安が収まったというようなことがあった。この時の二百円券は、あまりに粗悪だったことから、恐慌が鎮静化したあとで、まともな二百円券を製造して日銀に保管されていたようだ。その日銀の金庫に保管されていた二百円券が再度登場したのは、戦後のことであった。戦後のインフレ(戦後のインフレがどんなものであったかは以下参考の※8:「日本の戦時債券 戦後のハイパーインフレ」を参照)を克服するために金融緊急措置令によって預貯金、金銭信託などを封鎖し、新旧銀行券の切換え時に、証紙貼付で新円の代用に、日銀金庫に18年も眠り続けていた昭和2年発行の二百円券が旧円券との引換用として登場した(詳しくは以下参考の※4:「中山編集事務所>日本の紙幣」の”昭和2年 乙二百円券(裏白) ”又、”昭和20年 証紙貼付丙二百円券”を参照)。
しかし、それ以外、戦後では初の「1」と「5」以外の単位の通貨であること、公表された表面のデザイン(守礼門)が人物でないこと(建築物は戦後の国会議事堂以来)、また、裏面には、約1000年前に書かれた源氏物語にちなみ「源氏物語絵巻」から親子の対面(光源氏と冷泉院)場面が採用され、「鈴虫」の物語本文を基にした詞書も重ね合わせたり、又、女性の肖像が用いられたのは、明治初期の「政府紙幣」に神功皇后<が描かれて以来で、日銀券となってからは初めてのこと(以下参考の※5:「日本銀行金融研究所・貨幣博物館」のわが国の貨幣史/明治初期の政府紙幣参照)。
さらに、当時偽札が横行していたこともあり、かつてなかった最新の偽造防止技術を多数盛り込んだ二千円札には、目の不自由な人が触れただけで通貨を認識するための識別対策も施されているなどにより、発行前から注目を浴びていた(この二千円札の偽造対策は平成16年に発行された、千円・五千円・一万円の各券にも採用された。以下参考の※6:政府広報オンライン:日本の通貨偽造防止技術は世界トップクラス参照)。
諸外国では2のつく単位の紙幣が広く流通しており、日本でも、流通すれば、「国民の利便性も一層向上するものと考えられる」として発行された二千円札は、珍しさから、私なども発行時に10枚ほど、銀行で両替してもらい保管はしているものの、発行当時に使えた銀行のATM、駅の券売機、自動販売機などがない状況や、戦後に五百円札が発行されて以降、「5」の倍数で、種類分けをするといった方式に慣れきっている日本人には、使いやすいどころか買物などの利用時に千円札と間違えそうになると嫌われるなど不人気であり、殆ど使用されるのを見たことがない。その後、使用してもらうためのキャンペーンなども行われているが、効果はない。
二千円札発行の動機には、、2000(平成12)年がミレニアム(千年紀)に当たること、「、九州・沖縄サミット」(G8サミット)開催の年でもあることを勘案してといった政治的な要因からだけではなく、もし、思惑通り、流通すれば、銀行のATMや、駅の券売機、自動販売機などの改良や製造に関連する企業の業績にも好影響を与え、当時の低成長経済化にあって相当の経済効果をあげ、少なからぬJDPアップに繋がるとの期待も当然あっただろうが、これは、絵に描いた餅となったわけだ。
ただ、サミットの行なわれた沖縄の琉球銀行では、二千円札の入出金に対応したATMを保有しており、二千円札の流通枚数が堅調に伸びているという。沖縄県民にとっては、沖縄サミットを記念して発行された二千円札には守礼門が描かれていることに意義があり、このお札を普及させたいとの思い入れが大きいからであろうと思う。現在の「守礼門」は戦後、復元されたものだが、この「守礼門」と呼ばれているのは、そこに掲げられた扁額(へんがく=門戸などに掲げる横に長い額)である「守禮之邦」からきているいわば俗称であり、本来の名称は「上の綾門(沖縄の言葉でウィーヌアイジョウ)」というのだそうだ。創建年代の確定はできていないが、琉球王国の第二尚氏王朝4代目の尚清王(在位1527~1555)のときに建てられていることはわかっているという。そのときの扁額は「待賢」であったが、後に「首里」の扁額が掲げられるようになり、その後6代尚永王(在位1573年~1588年)の時に「守禮之邦」の扁額が作られ、中国から冊封使が来ている間は「守禮之邦」の扁額を掲げていたが、常時この扁額を掲げるようになったのは、9代尚質王〔在位1648~1668〕の時からのようである。扁額となった「守禮之邦」という言葉は、尚永の冊封のさいの中国皇帝(このときは万暦帝)からの詔勅にあった文言で、「琉球は守礼の邦と称するに足りる」というくだりからきているのだそうだ。礼を守る国・冊封国の君主は冊封された領域内で基本的に自治あるいは自立を認められていたことを示している。つまり、この扁額は、かっての琉球国が自治或いは自立を認められていた国であったことのシンボルなのであろう。だからこそ、「守礼門」の描かれた二千円札への思い入れが大きいものとオムのだが・・・。
小渕恵三と言えば、官房長官時代に昭和天皇が崩御。元号変更にあたり、記者会見で「平成」と書かれた額を掲げて、「新しい元号は「平成」であります」と平成を公表し注目を集めたことから、人の良さそうな「平成おじさん」として広く知られていた。
思い起こせば、1998(平成10)年の第18回参議院選挙では、前年の国民負担増(村山内閣で内定していた消費税率3%から5%への引上げを橋本内閣で実施)等、それに伴う景気の後退、失業率の上昇などの要因で、自民党が追加公認を含め45議席と大敗したことから、橋本内閣が総辞職に追い込まれたことから、当時外相であった小渕氏が、橋本氏からの政権禅譲が期待されたていたが、前官房長官梶山静六と現職厚相の小泉純一郎とが総裁選に出馬。3人の激しい選挙戦が展開され、対抗馬の2人を破り党総裁に就任した。そして、7月30日、国会で首班指名を受け第84代内閣総理大臣に就任した。しかし、与野党が逆転していた参議院では民主党代表の菅直人が首班指名され、日本国憲法第67条の衆議院の優越規定により辛くも小渕が指名されるなど、当初の政権基盤は不安定だった。加えて、マスコミからの小渕批判も強く、新聞誌上に「無視された国民の声」などという見出しが並び、就任早々から「一刻も早く退陣を」と書きたてた新聞もあった(小渕恵三-Wikipediaより)。
衆参ねじれ国会のそんな状況の中で、ニューヨーク・タイムズには「冷めたピザ」ほどの魅力しかないと形容された小渕氏ではあったが、総理大臣に就任後、自由党、公明党と連立政権(自自連立、自自公連立)を樹立し、その巨大与党をバックに内外政にわたり多くの懸案を処理してる。
特に、前年(2009年)の第45回衆議院議員総選挙における民主党の圧勝により、非自民勢力(民社国の3党連立)による政権奪取をした民主党代表・鳩山由紀夫が、自民党政権時代の日米合意をくつがえし基地の県外移設を追求めたが実現できず、ほぼ自民党の原案に近い状態での日米合意で決着させたものの、その間に沖縄の情勢が変わり、沖縄県民の猛反発を受けるようになり、いまだ、解決の目処の立たない大問題として民主党・菅直人政権に引き継がれている普天間基地移設問題 。この普天間基地代替施設移設問題については、地元への説得工作も含めて上手く行い辺野古沖移設を閣議決定したのが小渕氏である(この閣議決定はその後、小泉純一郎が米国と自治体の要求を飲む形で沿岸部移設を決定した)。沖縄への手厚い振興策や、2000(平成12)年、九州・沖縄サミット(G8首脳会議)開催を、沖縄に対する並々ならぬ熱い想いから、歴史的決断によって、万国津梁館での会合を実現させたとの功績により、2001(平成13)年4月には、小渕恵三のメモリアル像が、九州・沖縄メモリアル建立委員会によって建立されている(小渕氏の沖縄に対する熱い思いは、以下参考の※9:「首相官邸「歴代内閣ホームページ情報」小渕敬三内閣総理大臣」の中にある、2000(平成12 )年3月、沖縄県那覇市での沖縄訪問に伴う小渕総理大臣記者会見の記録でも窺える)。
このような、日米関係を無難に推し進める一方で、中国の江沢民主席(当時)来日時の過去の歴史に基づいた謝罪要求や、北朝鮮の不審船問題に対しては、節度を保ちながらも一定の強い対応を示すなど、外交手腕にも長けていた。このような沖縄問題に寄せる小渕氏の強い思いや政権運営能力は今再評価されている。
2000(平成12)年のミレニアム(千年紀)に当たることや、「九州・沖縄サミット」開催の年でもあることを勘案して選ばれた守礼門の図柄採用には、日本における沖縄の歴史上の複雑な事情も勘案されているのだが、裏面に描かれた「源氏物語絵巻」鈴虫の場面も、なかなか意味深である。
八月十五日の夕暮れ、六条院での月見の宴に招かれた光源氏と、冷泉院との対座場面が描かれているが、源氏の弟とされている冷泉院は、実は源氏と継母藤壺との不義の子であった。顔かたちも源氏に似てきた冷泉帝は、自分が源氏の息子だとわかってから、源氏に対して格別な思いを持っていたが、位を譲り自由の身になった今も、「秘密の関係」にあり、気軽には逢うことも出来ないもどかしさ。そのような複雑な関係にある実の親子・光源氏と冷泉院が対座し、しみじみと語っているこの原画には、そのそばで夕霧(光源氏の子)らしい人物が庭に向かって笛を吹く秋の情景が描かれている。なにか、この画を見ていても今の沖縄の複雑にしてもどかしい状況とダブってくるような感じがしはしないだろうか・・・。
(画像は、新円切替の風景。Wikipediaより)
二千円札が発行されて10年:参考 へ
二千円札は、2000(平成12)年がミレニアム(千年紀)に当たり、「九州・沖縄サミット」(G8サミット)開催の年でもあることを勘案して、その前年・2009(平成11)年10月に故小渕恵三内閣総理大臣の指示により発行が決定され、一万円札、五千円札、千円札に続き、42年ぶりに日本銀行から4種類目の新額面紙幣として、2000(平成12)年7月19日より発行された。また、欧米諸国では、「二」の付く単位の紙幣が発行され、円換算で二千円前後となる紙幣(例えば、米国の20ドル紙幣)が幅広く流通しており、我が国においても、二千円券が円滑に流通すれば、従来より少ない枚数で現金の支払い・受取りができるようになるなど、国民の利便性も一層向上するものと考えられる・・といったことも発行の要因としている。
冒頭掲載の二千円札は、自分が持っている紙幣のコピーを撮ろうかと思ったが、何かお札のコピーは問題もありそうなので、財務省のホームページ「二千円日本銀行券の主な様式等について」に掲載されているものを使わせてもらった。図柄はこれを見られると判るが、
表面は、左側に「弐千円」の文字等を、右側には、沖縄の首里城歓会門外にある守礼門を配している。
透(す)かしは、表のものとは違った角度から見た守礼門を使っている。
裏面は、約1000年前に書かれた、源氏物語にちなみ左側に、「源氏物語絵巻」第三十八帖(じょう)「鈴虫」その二の絵の一部分(<光源氏と冷泉院対座場面。☆1)に、同帖の詞書(ことばがき)の冒頭部分(ここ参照)を重ね合わせたものを配し、右側に、源氏物語の作者・紫式部の絵(「紫式部日記絵巻」の一場面。五島本第一段の宮の内侍と紫式部を二人の公卿〔藤原実成と藤原斉信〕が訪ねる場面☆2。)に描かれている紫式部を配している(☆1及び☆2の画像および説明は以下参考の※2:「五島美術館の名品」の源氏物語絵巻及び紫式部日記絵巻のところを見られると良い)。ただし、『紫式部日記絵巻』(五島本第一段)には、寛弘5年(1008年)10月17日、紫式部が、同僚の女房である宮の内侍(=橘良芸子)の局(つぼね)に来ている時に2人の公達が訪ねてきたわけだが、描かれている格子から顔を出している女房装束姿“十二単姿”の女性は紫式部ではなく宮の内侍ではないかとする説もあるようだが・・・(以下参考の※3:「源氏の部屋・土御門殿邸への行幸翌日、渡殿の局にて」参照)。
過去には2銭、20銭、2円、20円、200円の硬貨や紙幣が存在したことはある。特に知られているのは、世界恐慌の2年前の、1927(昭和2)年に発生した昭和金融恐慌で取り付け騒ぎが発生した。これに対して、高橋是清蔵相はモラトルム(支払猶予措置)を行い、片面印刷の二百円券を臨時に増刷して現金の供給に手を尽くし、銀行もこれを店頭に積み上げるなどして預金者の不安の解消に努め、金融不安が収まったというようなことがあった。この時の二百円券は、あまりに粗悪だったことから、恐慌が鎮静化したあとで、まともな二百円券を製造して日銀に保管されていたようだ。その日銀の金庫に保管されていた二百円券が再度登場したのは、戦後のことであった。戦後のインフレ(戦後のインフレがどんなものであったかは以下参考の※8:「日本の戦時債券 戦後のハイパーインフレ」を参照)を克服するために金融緊急措置令によって預貯金、金銭信託などを封鎖し、新旧銀行券の切換え時に、証紙貼付で新円の代用に、日銀金庫に18年も眠り続けていた昭和2年発行の二百円券が旧円券との引換用として登場した(詳しくは以下参考の※4:「中山編集事務所>日本の紙幣」の”昭和2年 乙二百円券(裏白) ”又、”昭和20年 証紙貼付丙二百円券”を参照)。
しかし、それ以外、戦後では初の「1」と「5」以外の単位の通貨であること、公表された表面のデザイン(守礼門)が人物でないこと(建築物は戦後の国会議事堂以来)、また、裏面には、約1000年前に書かれた源氏物語にちなみ「源氏物語絵巻」から親子の対面(光源氏と冷泉院)場面が採用され、「鈴虫」の物語本文を基にした詞書も重ね合わせたり、又、女性の肖像が用いられたのは、明治初期の「政府紙幣」に神功皇后<が描かれて以来で、日銀券となってからは初めてのこと(以下参考の※5:「日本銀行金融研究所・貨幣博物館」のわが国の貨幣史/明治初期の政府紙幣参照)。
さらに、当時偽札が横行していたこともあり、かつてなかった最新の偽造防止技術を多数盛り込んだ二千円札には、目の不自由な人が触れただけで通貨を認識するための識別対策も施されているなどにより、発行前から注目を浴びていた(この二千円札の偽造対策は平成16年に発行された、千円・五千円・一万円の各券にも採用された。以下参考の※6:政府広報オンライン:日本の通貨偽造防止技術は世界トップクラス参照)。
諸外国では2のつく単位の紙幣が広く流通しており、日本でも、流通すれば、「国民の利便性も一層向上するものと考えられる」として発行された二千円札は、珍しさから、私なども発行時に10枚ほど、銀行で両替してもらい保管はしているものの、発行当時に使えた銀行のATM、駅の券売機、自動販売機などがない状況や、戦後に五百円札が発行されて以降、「5」の倍数で、種類分けをするといった方式に慣れきっている日本人には、使いやすいどころか買物などの利用時に千円札と間違えそうになると嫌われるなど不人気であり、殆ど使用されるのを見たことがない。その後、使用してもらうためのキャンペーンなども行われているが、効果はない。
二千円札発行の動機には、、2000(平成12)年がミレニアム(千年紀)に当たること、「、九州・沖縄サミット」(G8サミット)開催の年でもあることを勘案してといった政治的な要因からだけではなく、もし、思惑通り、流通すれば、銀行のATMや、駅の券売機、自動販売機などの改良や製造に関連する企業の業績にも好影響を与え、当時の低成長経済化にあって相当の経済効果をあげ、少なからぬJDPアップに繋がるとの期待も当然あっただろうが、これは、絵に描いた餅となったわけだ。
ただ、サミットの行なわれた沖縄の琉球銀行では、二千円札の入出金に対応したATMを保有しており、二千円札の流通枚数が堅調に伸びているという。沖縄県民にとっては、沖縄サミットを記念して発行された二千円札には守礼門が描かれていることに意義があり、このお札を普及させたいとの思い入れが大きいからであろうと思う。現在の「守礼門」は戦後、復元されたものだが、この「守礼門」と呼ばれているのは、そこに掲げられた扁額(へんがく=門戸などに掲げる横に長い額)である「守禮之邦」からきているいわば俗称であり、本来の名称は「上の綾門(沖縄の言葉でウィーヌアイジョウ)」というのだそうだ。創建年代の確定はできていないが、琉球王国の第二尚氏王朝4代目の尚清王(在位1527~1555)のときに建てられていることはわかっているという。そのときの扁額は「待賢」であったが、後に「首里」の扁額が掲げられるようになり、その後6代尚永王(在位1573年~1588年)の時に「守禮之邦」の扁額が作られ、中国から冊封使が来ている間は「守禮之邦」の扁額を掲げていたが、常時この扁額を掲げるようになったのは、9代尚質王〔在位1648~1668〕の時からのようである。扁額となった「守禮之邦」という言葉は、尚永の冊封のさいの中国皇帝(このときは万暦帝)からの詔勅にあった文言で、「琉球は守礼の邦と称するに足りる」というくだりからきているのだそうだ。礼を守る国・冊封国の君主は冊封された領域内で基本的に自治あるいは自立を認められていたことを示している。つまり、この扁額は、かっての琉球国が自治或いは自立を認められていた国であったことのシンボルなのであろう。だからこそ、「守礼門」の描かれた二千円札への思い入れが大きいものとオムのだが・・・。
小渕恵三と言えば、官房長官時代に昭和天皇が崩御。元号変更にあたり、記者会見で「平成」と書かれた額を掲げて、「新しい元号は「平成」であります」と平成を公表し注目を集めたことから、人の良さそうな「平成おじさん」として広く知られていた。
思い起こせば、1998(平成10)年の第18回参議院選挙では、前年の国民負担増(村山内閣で内定していた消費税率3%から5%への引上げを橋本内閣で実施)等、それに伴う景気の後退、失業率の上昇などの要因で、自民党が追加公認を含め45議席と大敗したことから、橋本内閣が総辞職に追い込まれたことから、当時外相であった小渕氏が、橋本氏からの政権禅譲が期待されたていたが、前官房長官梶山静六と現職厚相の小泉純一郎とが総裁選に出馬。3人の激しい選挙戦が展開され、対抗馬の2人を破り党総裁に就任した。そして、7月30日、国会で首班指名を受け第84代内閣総理大臣に就任した。しかし、与野党が逆転していた参議院では民主党代表の菅直人が首班指名され、日本国憲法第67条の衆議院の優越規定により辛くも小渕が指名されるなど、当初の政権基盤は不安定だった。加えて、マスコミからの小渕批判も強く、新聞誌上に「無視された国民の声」などという見出しが並び、就任早々から「一刻も早く退陣を」と書きたてた新聞もあった(小渕恵三-Wikipediaより)。
衆参ねじれ国会のそんな状況の中で、ニューヨーク・タイムズには「冷めたピザ」ほどの魅力しかないと形容された小渕氏ではあったが、総理大臣に就任後、自由党、公明党と連立政権(自自連立、自自公連立)を樹立し、その巨大与党をバックに内外政にわたり多くの懸案を処理してる。
特に、前年(2009年)の第45回衆議院議員総選挙における民主党の圧勝により、非自民勢力(民社国の3党連立)による政権奪取をした民主党代表・鳩山由紀夫が、自民党政権時代の日米合意をくつがえし基地の県外移設を追求めたが実現できず、ほぼ自民党の原案に近い状態での日米合意で決着させたものの、その間に沖縄の情勢が変わり、沖縄県民の猛反発を受けるようになり、いまだ、解決の目処の立たない大問題として民主党・菅直人政権に引き継がれている普天間基地移設問題 。この普天間基地代替施設移設問題については、地元への説得工作も含めて上手く行い辺野古沖移設を閣議決定したのが小渕氏である(この閣議決定はその後、小泉純一郎が米国と自治体の要求を飲む形で沿岸部移設を決定した)。沖縄への手厚い振興策や、2000(平成12)年、九州・沖縄サミット(G8首脳会議)開催を、沖縄に対する並々ならぬ熱い想いから、歴史的決断によって、万国津梁館での会合を実現させたとの功績により、2001(平成13)年4月には、小渕恵三のメモリアル像が、九州・沖縄メモリアル建立委員会によって建立されている(小渕氏の沖縄に対する熱い思いは、以下参考の※9:「首相官邸「歴代内閣ホームページ情報」小渕敬三内閣総理大臣」の中にある、2000(平成12 )年3月、沖縄県那覇市での沖縄訪問に伴う小渕総理大臣記者会見の記録でも窺える)。
このような、日米関係を無難に推し進める一方で、中国の江沢民主席(当時)来日時の過去の歴史に基づいた謝罪要求や、北朝鮮の不審船問題に対しては、節度を保ちながらも一定の強い対応を示すなど、外交手腕にも長けていた。このような沖縄問題に寄せる小渕氏の強い思いや政権運営能力は今再評価されている。
2000(平成12)年のミレニアム(千年紀)に当たることや、「九州・沖縄サミット」開催の年でもあることを勘案して選ばれた守礼門の図柄採用には、日本における沖縄の歴史上の複雑な事情も勘案されているのだが、裏面に描かれた「源氏物語絵巻」鈴虫の場面も、なかなか意味深である。
八月十五日の夕暮れ、六条院での月見の宴に招かれた光源氏と、冷泉院との対座場面が描かれているが、源氏の弟とされている冷泉院は、実は源氏と継母藤壺との不義の子であった。顔かたちも源氏に似てきた冷泉帝は、自分が源氏の息子だとわかってから、源氏に対して格別な思いを持っていたが、位を譲り自由の身になった今も、「秘密の関係」にあり、気軽には逢うことも出来ないもどかしさ。そのような複雑な関係にある実の親子・光源氏と冷泉院が対座し、しみじみと語っているこの原画には、そのそばで夕霧(光源氏の子)らしい人物が庭に向かって笛を吹く秋の情景が描かれている。なにか、この画を見ていても今の沖縄の複雑にしてもどかしい状況とダブってくるような感じがしはしないだろうか・・・。
(画像は、新円切替の風景。Wikipediaより)
二千円札が発行されて10年:参考 へ