今日「川の日」は、建設省(現在の国土交通省)が、近代河川制度100周年にあたる1996(平成8)年に制定。
7月7日を「川の日」とした理由は、7月7日は七夕伝説の「天の川」のイメージがあること。7月が河川愛護月間であること 。季節的に水に親しみやすいことから。又、「川の日」を定めた趣旨は、(1)近年、都市の発展、治水事業の発展などを契機に、希薄化した人と河川との関係を見直し、河川に対する人々の関心を取り戻すこと 。(2) 地域の良好な環境づくりなどについて流域の住民・自治体が一緒になって考え、取り組む、といった地域の活動を支援すること。・・・としている。
ただ、毎年7月を「河川愛護月間」と定めての、河川愛護運動そのものは、1974(昭和49)年から実施されているきたうだ。
わが国の河川制度は、1896(明治29)年に旧河川法(治水に関するもの)が制定されて以来、幾たびかの改正を経て、1964 (昭和39)年に制定された新河川法において水系一貫管理制度が導入され、治水、利水の体系的な制度の整備が図られ、今日の河川行政の規範としての役割を担ってきた。その後、1997 (平成9)年に改正された河川法では、治水、利水の役割を担うだけではなく、環境についても重要な要素とした川づくりが求められるようになったことから、これらの総合的な河川制度の整備が進められた。そして、地方公共団体、川に関するNPO等に幅広く「川の日を」契機とした河川に関する諸活動の推進を呼びかけ、河川と国民との関わりとその歴史、河川の持つ魅力等について広く国民の理解と関心を深めるような各種行事、活動を実施することにしている。「河川愛護月間」のことの他、河川に関する詳しことは以下参考に記載の※1:「国土交通省HP・河川」を又、改正河川法のことについては※2を参照されると良い。尚、冒頭掲載の画像は、1996(平成8)7月5日発行の「近代河川制度100周年記念」記念切手である。意匠は、小野竹喬画「奥入瀬の渓流」80円、2種連刷ものである。
奥入瀬川は、奥入瀬川水系の本流であり、十和田湖を源流(同湖唯一の流出河川)としている。十和田湖東岸の子ノ口から南八甲田の山々から流れてくる黄瀬川、蔦川などの支川を集めながら奥入瀬渓谷を約14キロ北東に流れて、十和田市(旧十和田湖町)の焼山付近で東に流れを変え、中里川、熊の沢川、後藤川などの支川と合流して、上北郡おいらせ町と八戸市の境界で太平洋に注ぐ二級河川である。奥入瀬川の旧称は「相坂川」(あいさかがわ、おうさかがわ)で、青森県告示や河川法では全流路を相坂川に統一しているようだが、一般的には焼山付近からの下流域を相坂川と呼び、奥入瀬渓流と呼ばれている子の口から焼山辺りまでが奥入瀬川と呼ばれているようだ。この渓流が、奥入瀬と呼ばれるようになったのは、奥に入るほど川の水が浅く人が歩いて渡れる瀬が多くなるからだと聞いている。上流域は、保水力の高いブナ科のブナ、ミズナラなどの広葉樹が広がる山地で、十和田湖、奥入瀬渓流周辺が、十和田八幡平国立公園の一部となっており、ブナ自然林や奥入瀬渓流に代表される全国でも有数の観光地となっている。
奥入瀬渓流沿いにはいくつもの滝が点在し、「瀑布街道」とも呼ばれているが、変化に富んだ流れと、それぞれに異なった姿を見せる数多くの滝に加え、さまざまな奇岩、奇勝と原始の地球から育ってきたブナ原生林の木立とが、優雅にして清冽な渓流の自然美を構成し、新緑や紅葉の季節など 四季折々に衣替えしたみごとな景観を見せてくれる。渓流沿いには車道とともに遊歩道が整備されており私も2度この渓流を歩いたことがあるが、飽きることがない。出切れば何度でも訪れてみたいところである。
又、奥入瀬川には、稲作のための灌漑用水の取水堰(せき)が多く設置されているが、特に三本木原台地の開拓のために幕末頃開削された「稲生川」は著名である(以下参考の※3:参照)。
いや、なにか今日は川の日なので川のことを書くのが趣旨であったが、「近代河川制度100周年記念」切手の画材が、「奥入瀬の渓流」であり、それが私の大好きな渓流であったものだから、この渓流のことをとやかく書きすぎたかな・・・。
明治政府の一大プロジェクトとして1879(明治12)年に編纂がはじまり、1896(明治29)年から1914(大正3)年にかけて出版された類書(一種の百科事典)である『古事類苑』の地部/河〈瀧□附〉 には「我國ノ地勢、幅員狹隘(あいろ=幅が狭い)、加フルニ山脈其脊梁ヲ走リ、殆ド平野ト稱スベキモノナキヲ以テ、大河ノ洋々タルモノヲ見ズ、概ネ半バ溪流ニシテ船舶ヲ進ムルニ便ナラズ、故ヲ以テ大川ト稱スルモノニシテ、猶ホ急流矢ヲ射ルガ如キアリ即チ(以下略。富士川他川の名を列挙)等皆海内ノ巨川ト稱ス、其治水ニ關スル事ハ、政治部水利篇ニ詳ニセリ・・・」・・と記載がある(詳しくは以下参考の※4を参照)。
要するに、地勢的に国土は幅員が狭くて、中央には山脈が走り殆ど平野と称すべきものもない我国にあっては、中国のような大河と言えるものはなく、半ばは船舶も進むことの出来ない渓流であり、だからこれを大川と言い、富士川のような矢を射るような急流は巨川と称している・・というのである。
河と川の字の使い分けについて、「川」を「河」と表記するのは中国だけのようであり、中国では、古くから北部は「河」(黄河の河から)、南部では「江」(長江の江から)と北と南で違った呼び方れているようだ。又、大きさでは、「江」は「川」のおよそ100倍の流域面積で、「河」は「川」のおよそ50倍の規模で使い分けされるよう。中国で「川」は、溝を意味しているとか。「川」のルーツは両岸の間を水が流れる様子を描いた象形文字で、「河」は水を意味する”さんずい”と”曲がる”という意味の「可」を組み合わせたもので、「河」は曲がりくねって流れているという意味になる・・と国土交通省HPに関するQ&Aで書かれていた。いずれにしても、中国の大河に比べたら日本の「川」は溝のようなものに見えるかもしれない。日本では、漢字が中国から入ってきたので古くは「河」の字も使われていたが、奈良時代に書かれた『和名類聚抄』にも「河(か)は川のことで和名は、加波(かは)という」とある。「かは=かわ」の語源についてはいろいろな説があって、水の流れる音「がはがは」という擬音からきたという説が有力なそうである。
川が地上を流れ始めるところを源または水源、その付近の川を源流という。普通の川は地下水が地上に湧き出る場所を水源として一年中水が流れるが、雨の日や雨季だけ一時的に流れる川もあり、これを枯れ川(涸れ川、水無川)という。源流から流れた川は、下流に行くに従って、いくつもの他の川と合流して大きくなり、それは、最終的に、海や湖沼に注ぎ込んで終わる。
国家を維持するための居住地と人口を支えるためには多くの食料と飲料水が必要になる。そのため、治水問題と灌漑問題の解決が重要になる。治水問題では古来、沖積平野のうえに社会を築く日本にとって台風、集中豪雨などの洪水による水害から、人命や財産を守るために築堤(堤防を築く)などの河川整備が不可避の課題であった。又、河川を流れる水は、生活用水、農業用水、それに、工業用水、水力発電、といった用途に利用できる貴重な資源であるため、灌漑問題ではそれら水源確保のための、ため池、堰堤(えんてい)やダムの建設と水源から目的地までの用水路の建設などの整備が相互に関連しながら行われてきた。
奈良時代初期に編纂された播磨国の風土記『播磨国風土記』で播磨の国土造りで活躍する伊和大神(イワノオオカミ)は、葦原志許乎命(大己貴神の別称・葦原醜男)とは同神であると思わせる構成で書かれているが、この神の子である石龍比古命(男神:いわたつひこのみこと)と石龍比売命(女神:いわたつひめのみこと)が、川の水をめぐって争っていたことが、『播磨国風土記』(揖保郡)に、美奈志川命名譚由来として書かれている。以下参考の※5:「神社史料集成・伊和坐大名持御魂神社」には原文があるが、難しいので、※6:「『風土記(播磨国)』に見える「井戸」」から、その部分を抜粋させてもらう(※7、も参照されると良い)。
男神は、北の方の越部村に流したいと思った。
女神は、南の泉村に流したいと思った。
男神は、山の峰を踏んで川の流れを北の方に向けた。
女神は、それを非理無道なことと考え、櫛で水をせき止めて溝を設けて水を南に導いた。
男神は、泉村から川を西に導いて桑原村に流そうとした。
ついに女神は怒り、地下に水を通す密樋(したび:樋=とい)を設けて泉村の田の上に導いた。これにより、地の表面には水は流れていないが、地の中を通って水が流れてくるようになった。故、无水川(みなしがわ=美奈志川)と名づけられた・・・と。美奈志川は現在のたつの市揖保郡新宮町の「中垣内川」のこと。伊和大神は、揖保川の東岸の大きい社叢の中にある伊和神社(兵庫県宍粟市)に祀られている。揖保川は、宍粟市の藤無山(標高1,139m)に源を発し南流。たつの市を貫流し、姫路市余部区付近で中川を西に分け、三角州を形成。姫路市網干区で播磨灘に注いでいる。石龍比古命と石龍比売命は、たつの市揖西町清水にある「祝田神社」に祀られている(以下参考の※8参照)。
因みに英語の「ライバル(rival)」は、 ラテン語の「リウァリス」が語源で、「川」を意味する「リウス」から生まれた言葉だそうだ。昔は、川はその付近に住む人々の共有だったために、「仲間」の事をこう呼ぶようになった。だが、川の水をめぐって争いが絶えなかった事から、現在のような競争者、好敵手といった意味に変化したという。 『播磨国風土記』に見られる兄弟の神の水争いも十分に必要な水を確保することが用意に出来ない地域が多かったことを示している。それを解決するための井戸が開発されるが、『播磨国風土記』には、そんな井戸の名前の由来も多く書かれている。
河川は古くからこのような利水のほか、水運も都市の形成にとって重要な要素であり、物資の運搬に有利な河川沿いに多くの都市が発展している。しかし、水をめぐる争いで、渇水にも増してたいへんだったのは洪水時で、特に約460本もの川が流れ込む全国一の水瓶琵琶湖では、水の流出口は瀬田川一本だけであることから、大雨が降ると琵琶湖の水かさが増し周辺数千ha、時には1万haの農地が何度となく水の底に沈んだという。だからといって、流れを良くするために瀬田川の川底を掘れば、今度は下流の大阪に洪水が押しよせ、推古天皇(623年)以来、明治元年まで、記録に残る淀川の洪水は239回。ほぼ5年に1度の割で起こっているそうで、これも、川の上と下で起る水問題である(以下参考の※9参照。)。
水源に乏しく、農作物を育てるための水確保のため飛鳥時代に当時の大和朝廷によってつくられた灌漑用に616年につくられた狭山池ダムが、日本におけるダムの歴史の始まりだという。以降、731(天平3)年僧・行基により、播磨(現在の伊丹)に昆陽池が、建設されるがこれが、日本における多目的ダム・治水ダムの初見だそうだ。その後時代の変遷と共にダム建設の目的・技術・意義そしてダムを取り巻く様々な事情も変わっていく(詳しくは日本のダムの歴史参照)。1911(明治44)年 電気事業法が施行され。これ以降全国の河川で水力発電事業が着手されるようになると、1918(大正7)年庄川の流木権を巡り庄川水力電気と飛州木材が激しい対立闘争を起こす庄川流木争議(~1933年)が、1924(大正13)年、大井ダム建設に端を発する宮田用水の取水問題で、慣行水利権を巡り大同電力と下流農民が争う宮田用水事件(~1939年)なども起っているが、1935(昭和10)年、当時の内務省、物部長穂の提言を受け全国7河川1湖沼において「河水統制事業」に着手。これが、河川総合開発事業のはしりとなった。
川の日 (Ⅱ)と参考のページへ
7月7日を「川の日」とした理由は、7月7日は七夕伝説の「天の川」のイメージがあること。7月が河川愛護月間であること 。季節的に水に親しみやすいことから。又、「川の日」を定めた趣旨は、(1)近年、都市の発展、治水事業の発展などを契機に、希薄化した人と河川との関係を見直し、河川に対する人々の関心を取り戻すこと 。(2) 地域の良好な環境づくりなどについて流域の住民・自治体が一緒になって考え、取り組む、といった地域の活動を支援すること。・・・としている。
ただ、毎年7月を「河川愛護月間」と定めての、河川愛護運動そのものは、1974(昭和49)年から実施されているきたうだ。
わが国の河川制度は、1896(明治29)年に旧河川法(治水に関するもの)が制定されて以来、幾たびかの改正を経て、1964 (昭和39)年に制定された新河川法において水系一貫管理制度が導入され、治水、利水の体系的な制度の整備が図られ、今日の河川行政の規範としての役割を担ってきた。その後、1997 (平成9)年に改正された河川法では、治水、利水の役割を担うだけではなく、環境についても重要な要素とした川づくりが求められるようになったことから、これらの総合的な河川制度の整備が進められた。そして、地方公共団体、川に関するNPO等に幅広く「川の日を」契機とした河川に関する諸活動の推進を呼びかけ、河川と国民との関わりとその歴史、河川の持つ魅力等について広く国民の理解と関心を深めるような各種行事、活動を実施することにしている。「河川愛護月間」のことの他、河川に関する詳しことは以下参考に記載の※1:「国土交通省HP・河川」を又、改正河川法のことについては※2を参照されると良い。尚、冒頭掲載の画像は、1996(平成8)7月5日発行の「近代河川制度100周年記念」記念切手である。意匠は、小野竹喬画「奥入瀬の渓流」80円、2種連刷ものである。
奥入瀬川は、奥入瀬川水系の本流であり、十和田湖を源流(同湖唯一の流出河川)としている。十和田湖東岸の子ノ口から南八甲田の山々から流れてくる黄瀬川、蔦川などの支川を集めながら奥入瀬渓谷を約14キロ北東に流れて、十和田市(旧十和田湖町)の焼山付近で東に流れを変え、中里川、熊の沢川、後藤川などの支川と合流して、上北郡おいらせ町と八戸市の境界で太平洋に注ぐ二級河川である。奥入瀬川の旧称は「相坂川」(あいさかがわ、おうさかがわ)で、青森県告示や河川法では全流路を相坂川に統一しているようだが、一般的には焼山付近からの下流域を相坂川と呼び、奥入瀬渓流と呼ばれている子の口から焼山辺りまでが奥入瀬川と呼ばれているようだ。この渓流が、奥入瀬と呼ばれるようになったのは、奥に入るほど川の水が浅く人が歩いて渡れる瀬が多くなるからだと聞いている。上流域は、保水力の高いブナ科のブナ、ミズナラなどの広葉樹が広がる山地で、十和田湖、奥入瀬渓流周辺が、十和田八幡平国立公園の一部となっており、ブナ自然林や奥入瀬渓流に代表される全国でも有数の観光地となっている。
奥入瀬渓流沿いにはいくつもの滝が点在し、「瀑布街道」とも呼ばれているが、変化に富んだ流れと、それぞれに異なった姿を見せる数多くの滝に加え、さまざまな奇岩、奇勝と原始の地球から育ってきたブナ原生林の木立とが、優雅にして清冽な渓流の自然美を構成し、新緑や紅葉の季節など 四季折々に衣替えしたみごとな景観を見せてくれる。渓流沿いには車道とともに遊歩道が整備されており私も2度この渓流を歩いたことがあるが、飽きることがない。出切れば何度でも訪れてみたいところである。
又、奥入瀬川には、稲作のための灌漑用水の取水堰(せき)が多く設置されているが、特に三本木原台地の開拓のために幕末頃開削された「稲生川」は著名である(以下参考の※3:参照)。
いや、なにか今日は川の日なので川のことを書くのが趣旨であったが、「近代河川制度100周年記念」切手の画材が、「奥入瀬の渓流」であり、それが私の大好きな渓流であったものだから、この渓流のことをとやかく書きすぎたかな・・・。
明治政府の一大プロジェクトとして1879(明治12)年に編纂がはじまり、1896(明治29)年から1914(大正3)年にかけて出版された類書(一種の百科事典)である『古事類苑』の地部/河〈瀧□附〉 には「我國ノ地勢、幅員狹隘(あいろ=幅が狭い)、加フルニ山脈其脊梁ヲ走リ、殆ド平野ト稱スベキモノナキヲ以テ、大河ノ洋々タルモノヲ見ズ、概ネ半バ溪流ニシテ船舶ヲ進ムルニ便ナラズ、故ヲ以テ大川ト稱スルモノニシテ、猶ホ急流矢ヲ射ルガ如キアリ即チ(以下略。富士川他川の名を列挙)等皆海内ノ巨川ト稱ス、其治水ニ關スル事ハ、政治部水利篇ニ詳ニセリ・・・」・・と記載がある(詳しくは以下参考の※4を参照)。
要するに、地勢的に国土は幅員が狭くて、中央には山脈が走り殆ど平野と称すべきものもない我国にあっては、中国のような大河と言えるものはなく、半ばは船舶も進むことの出来ない渓流であり、だからこれを大川と言い、富士川のような矢を射るような急流は巨川と称している・・というのである。
河と川の字の使い分けについて、「川」を「河」と表記するのは中国だけのようであり、中国では、古くから北部は「河」(黄河の河から)、南部では「江」(長江の江から)と北と南で違った呼び方れているようだ。又、大きさでは、「江」は「川」のおよそ100倍の流域面積で、「河」は「川」のおよそ50倍の規模で使い分けされるよう。中国で「川」は、溝を意味しているとか。「川」のルーツは両岸の間を水が流れる様子を描いた象形文字で、「河」は水を意味する”さんずい”と”曲がる”という意味の「可」を組み合わせたもので、「河」は曲がりくねって流れているという意味になる・・と国土交通省HPに関するQ&Aで書かれていた。いずれにしても、中国の大河に比べたら日本の「川」は溝のようなものに見えるかもしれない。日本では、漢字が中国から入ってきたので古くは「河」の字も使われていたが、奈良時代に書かれた『和名類聚抄』にも「河(か)は川のことで和名は、加波(かは)という」とある。「かは=かわ」の語源についてはいろいろな説があって、水の流れる音「がはがは」という擬音からきたという説が有力なそうである。
川が地上を流れ始めるところを源または水源、その付近の川を源流という。普通の川は地下水が地上に湧き出る場所を水源として一年中水が流れるが、雨の日や雨季だけ一時的に流れる川もあり、これを枯れ川(涸れ川、水無川)という。源流から流れた川は、下流に行くに従って、いくつもの他の川と合流して大きくなり、それは、最終的に、海や湖沼に注ぎ込んで終わる。
国家を維持するための居住地と人口を支えるためには多くの食料と飲料水が必要になる。そのため、治水問題と灌漑問題の解決が重要になる。治水問題では古来、沖積平野のうえに社会を築く日本にとって台風、集中豪雨などの洪水による水害から、人命や財産を守るために築堤(堤防を築く)などの河川整備が不可避の課題であった。又、河川を流れる水は、生活用水、農業用水、それに、工業用水、水力発電、といった用途に利用できる貴重な資源であるため、灌漑問題ではそれら水源確保のための、ため池、堰堤(えんてい)やダムの建設と水源から目的地までの用水路の建設などの整備が相互に関連しながら行われてきた。
奈良時代初期に編纂された播磨国の風土記『播磨国風土記』で播磨の国土造りで活躍する伊和大神(イワノオオカミ)は、葦原志許乎命(大己貴神の別称・葦原醜男)とは同神であると思わせる構成で書かれているが、この神の子である石龍比古命(男神:いわたつひこのみこと)と石龍比売命(女神:いわたつひめのみこと)が、川の水をめぐって争っていたことが、『播磨国風土記』(揖保郡)に、美奈志川命名譚由来として書かれている。以下参考の※5:「神社史料集成・伊和坐大名持御魂神社」には原文があるが、難しいので、※6:「『風土記(播磨国)』に見える「井戸」」から、その部分を抜粋させてもらう(※7、も参照されると良い)。
男神は、北の方の越部村に流したいと思った。
女神は、南の泉村に流したいと思った。
男神は、山の峰を踏んで川の流れを北の方に向けた。
女神は、それを非理無道なことと考え、櫛で水をせき止めて溝を設けて水を南に導いた。
男神は、泉村から川を西に導いて桑原村に流そうとした。
ついに女神は怒り、地下に水を通す密樋(したび:樋=とい)を設けて泉村の田の上に導いた。これにより、地の表面には水は流れていないが、地の中を通って水が流れてくるようになった。故、无水川(みなしがわ=美奈志川)と名づけられた・・・と。美奈志川は現在のたつの市揖保郡新宮町の「中垣内川」のこと。伊和大神は、揖保川の東岸の大きい社叢の中にある伊和神社(兵庫県宍粟市)に祀られている。揖保川は、宍粟市の藤無山(標高1,139m)に源を発し南流。たつの市を貫流し、姫路市余部区付近で中川を西に分け、三角州を形成。姫路市網干区で播磨灘に注いでいる。石龍比古命と石龍比売命は、たつの市揖西町清水にある「祝田神社」に祀られている(以下参考の※8参照)。
因みに英語の「ライバル(rival)」は、 ラテン語の「リウァリス」が語源で、「川」を意味する「リウス」から生まれた言葉だそうだ。昔は、川はその付近に住む人々の共有だったために、「仲間」の事をこう呼ぶようになった。だが、川の水をめぐって争いが絶えなかった事から、現在のような競争者、好敵手といった意味に変化したという。 『播磨国風土記』に見られる兄弟の神の水争いも十分に必要な水を確保することが用意に出来ない地域が多かったことを示している。それを解決するための井戸が開発されるが、『播磨国風土記』には、そんな井戸の名前の由来も多く書かれている。
河川は古くからこのような利水のほか、水運も都市の形成にとって重要な要素であり、物資の運搬に有利な河川沿いに多くの都市が発展している。しかし、水をめぐる争いで、渇水にも増してたいへんだったのは洪水時で、特に約460本もの川が流れ込む全国一の水瓶琵琶湖では、水の流出口は瀬田川一本だけであることから、大雨が降ると琵琶湖の水かさが増し周辺数千ha、時には1万haの農地が何度となく水の底に沈んだという。だからといって、流れを良くするために瀬田川の川底を掘れば、今度は下流の大阪に洪水が押しよせ、推古天皇(623年)以来、明治元年まで、記録に残る淀川の洪水は239回。ほぼ5年に1度の割で起こっているそうで、これも、川の上と下で起る水問題である(以下参考の※9参照。)。
水源に乏しく、農作物を育てるための水確保のため飛鳥時代に当時の大和朝廷によってつくられた灌漑用に616年につくられた狭山池ダムが、日本におけるダムの歴史の始まりだという。以降、731(天平3)年僧・行基により、播磨(現在の伊丹)に昆陽池が、建設されるがこれが、日本における多目的ダム・治水ダムの初見だそうだ。その後時代の変遷と共にダム建設の目的・技術・意義そしてダムを取り巻く様々な事情も変わっていく(詳しくは日本のダムの歴史参照)。1911(明治44)年 電気事業法が施行され。これ以降全国の河川で水力発電事業が着手されるようになると、1918(大正7)年庄川の流木権を巡り庄川水力電気と飛州木材が激しい対立闘争を起こす庄川流木争議(~1933年)が、1924(大正13)年、大井ダム建設に端を発する宮田用水の取水問題で、慣行水利権を巡り大同電力と下流農民が争う宮田用水事件(~1939年)なども起っているが、1935(昭和10)年、当時の内務省、物部長穂の提言を受け全国7河川1湖沼において「河水統制事業」に着手。これが、河川総合開発事業のはしりとなった。
川の日 (Ⅱ)と参考のページへ