今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

昭和の三大喜劇人として知られた落語家、タレント・柳家金語楼:参考

2009-10-22 | 人物
参考:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』・トップページ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8
※:柳家金語楼 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/103485/
※:紫斑病
http://www.mirai.ne.jp/~seisinc5/purpura.htm
※私の作文集・田川二郎:八つやっぱりハゲてくる…
http://www6.ocn.ne.jp/~jtagawa/essay/hage.htm
Amazon「初代 柳家金語楼 落語名演集(一) 」
http://www.amazon.co.jp/%E5%88%9D%E4%BB%A3-%E6%9F%B3%E5%AE%B6%E9%87%91%E8%AA%9E%E6%A5%BC-%E8%90%BD%E8%AA%9E%E5%90%8D%E6%BC%94%E9%9B%86-%E4%B8%80/dp/B001HPGQIM
今日の一枚、その262、柳家金五郎、俺は水兵(チラシ)
http://plaza.rakuten.co.jp/roberobe1963/diary/200902050000/
昭和初期の映画主題歌あれこれ:昭和10年(その2)
http://blog.livedoor.jp/oke1609/archives/50404510.html
Society, Pacific War FAQ[社会風俗]
http://mltr.ganriki.net/faq08j05.html
日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動[第三節 新聞・放送・映画・芸能統制]
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/senji2/rnsenji2-194.html
東京喜劇年表
http://www5e.biglobe.ne.jp/~zun-doko/tokyo-kigeki%201/
日本映画データベース
http://www.jmdb.ne.jp/index.cgi?日本映画データベース
スーパーマンのはなし家
http://www.ishicoro.com/uresi/no267.htm
ダイレクト検索鑑札-Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E9%91%91%E6%9C%AD/

昭和の三大喜劇人として知られた落語家、タレント・柳家金語楼冒頭へ 戻る

農政家・思想家二宮 尊徳の亡くなった日

2009-10-20 | 人物
安政3年10月20日(1856年11月17日)は、江戸時代後期に「報徳思想」を唱えて、「報徳仕法」と呼ばれる農村復興政策を指導した農政家・思想家二宮 尊徳の亡くなった日とされている。通称は金次郎(正しい表記は「金治郎」)。(いみな)の「尊徳」を一般には「そんとく」と訓(よ)読んでいるが、正確には「たかのり」と訓む。
柴(しば)刈り縄ない 草鞋(わらじ)をつくり
親の手を助(す)け 弟(おとと)を世話し
兄弟仲よく 孝行つくす
手本は二宮金次郎
『尋常小学唱歌(ニ)』【明治44年(1911年)】
以下のたくろうの名曲玉手箱に、文部省唱歌「二宮金次郎」MIDIがある。
http://8.pro.tok2.com/~susa26/syoka/ninomiya.html
第二次世界大戦に敗北するまで、日本の小学校校庭には必ずと言って良いほど金次郎の銅像が建っていた。少年が薪を背負い、読書をしている姿は勤勉の手本とされ、小学校唱歌にもなり、又、1904(明治37)年以降は国定教科書として修身の教科にも多く使われるようになった。冒頭の画像はその教科書(週間朝日百科「日本の歴史」91より)。私などのような戦前生まれの者には、二宮 尊徳と言えば、この金次郎の銅像がイメージとして浮かびあがるのであるが、実際には、6尺豊かな大男で70歳近くまで生きていた。「富国」の基礎をあくまで民衆自身の労働(=生産)に期待した彼の教えは、1868(明治元)年、「尊皇攘夷」の復古的スローガンを掲げて成立した明治政府は、欧米列強の圧力のもとで一転して「文明開化」、殖産興業、「富国強兵」をスローガンに、政府主導による「上からの近代化」つまり、資本主義化が推し進められるようになったなかで、金次郎の教えは、単なる「勤勉」の勧めに変質させられてしまった。金次郎のこの銅像の姿は1891(明治24)年幸田露伴が少年少女向けに書いた伝記『二宮尊徳翁』に 初めて挿絵として掲載されたものだが、露伴がこの著を書く際に手本にした資料は、富田高慶(Yahoo!百科事典参照)著『報徳記』だった。露伴に限らず、その後出版された尊徳関連の図書類の多くは、この『報徳記』を拠りどころとして書かれているようだ。
二宮金次郎は幕末の貧しい農民で、苦労しながら学んで成功した人物と言われるが、以下参考に記載の※:報徳二宮神社の「二宮尊徳翁について」に記載されているところによると、金次郎は、1787年9月4日(天明7年7月23日)“相模国栢山村(現在の神奈川県小田原市栢山【かやま】)の豊かな農家に生まれたが、再三にわたる酒匂川の氾濫で田畑を流され、家が没落した。過労により両親を亡くし、兄弟はばらばらに親戚の家に預けられたそうだ。金次郎は 、朝暗いうちから夜遅くまで汗と泥にまみれて一生懸命働き、その間余裕ができればわずかな時間も無駄にせず勉強をして、先人の教えを理解しようとした。荒地を開墾して収穫を上げお金を貯め、質に入れていた田畑を少しずつ買い戻し、一生懸命努力して24歳までに一家を再興した”・・・という。
金次郎に関しては多くの逸話が残っており、冒頭掲載の修身の教科書には、“金次郎は12歳のとき、父に代わって川ぶしん(普請=土木工事など)に出かけ、仕事を済ませ、家へ帰ると夜遅くまでおきて、わらじ(草鞋=藁で編んだぞうり)をつくり、あくる朝、そのわらじを仕事場に持ってゆき、「私はまだ一人前の仕事が出来ませんので皆様のお世話になります。これは、そのお礼です」といって渡した。“・・・とある。なんと幼気(いたいけ)ない子が健気(けなげ)なことを・・。このような小さな子供のころからこのような心がけで、夜も寝もせずに働けば誰からも愛され成功もするだろうが、ただ、それだけで、24歳までに一家を再興するのは難しいだろう。
小田原の報徳二宮神社の書いている一家再興話も、二宮金次郎の修身の教科書的であるが、ここの部分は、Wikipediaにも書いてある通り、“14歳で父利右衛門が死去、2年後には母よしも亡くなり、尊徳は伯父二宮万兵衛の家に預けられ、伯父の家で農業に励むかたわら、荒地を復興させ、また僅かに残った田畑を小作に出すなどして収入の増加を図り、生家の再興に成功した”・・。とあるように、豊かな農家に生まれたおかげで、家が没落し幼くして両親を亡くし、大変な苦労はしただろうが、まだ、小作に出すだけの土地があるなど、多少のゆとりはあったのだろう。
戦前の修身の教科書や小学校唱歌、あるいは薪を背負い読書する少年像などで広く親しまれてきた二宮尊徳であるが、その真価は、成人し、生家の再興に成功した後、地主経営を行いながら、小田原に出て、武家奉公人としても働きだし、やがて財政再建、農村復興の指導者として力を発揮するようになったことだろう。
そして、先ず最初に、奉公先の小田原藩家老服部家でその才を買われ、服部家の財政建て直しを頼まれ、見事に成功させ、その名が小田原藩内で知られるようになり、時の小田原藩・第7代藩主大久保 忠真(おおくぼ ただざね)の耳にも入った。文政のこの時代、小田原藩自体が、財政窮乏により藩政改革の必要性に迫られていたため、忠真は二宮尊徳(金次郎)を登用して改革を行なおうとしたが、身分秩序を重んじる藩の重役が反対したことから、まず、忠真は1822(文政5)年、金次郎に大久保家の分家であった旗本宇津家の知行所であった下野国桜町(現在の栃木県真岡市二宮町周辺。この町名の由来は二宮尊徳によるものだそうだ。現在の真岡市)の仕法(復興などやり方。仕方。手段などのことを言う)を任せた。金次郎35歳のときであり、このころから武士となり「尊徳(たかのり)」と名乗るようにもなったようだ。よって以降尊徳と書く。尊徳が桜町復興に成功すると、忠真は重臣連を説き伏せ、尊徳に小田原本藩の復興を依頼し、金1000両や多数の蔵米を支給して改革を側面から支援したのは1837(天保8)年のことであった。その後、日光山領の仕法を行うが、下野国今市村(現在の栃木県日光市)にて没した。
尊徳の活躍した幕末期の小田原藩を始め諸藩の状況は、どこも「多額の借金」「生産の不振」「労働人口の減少」等に悩まされており、まるで日本の現在のような状況であった。
後に尊徳の弟子や子孫が金次郎方式の組織的な社会再生活動「報徳」仕法を全国に伝播させたが、国語辞書にもあるとおり、「報徳」とは、にむくいること。恩(他の人から与えられためぐみ)を返すこと。「仕法」とは、やり方。仕方。手段のことを言うように、この「報徳」仕法は、 金次郎が文政年間以降主導した財政再建策の総称であるが、基本的な考え方は、二宮が説き広めた「報徳思想の基本的な概念でもある「分度」と「推譲」である。
「分度」は、分限・度合の意で、経済面での自分の実力を知り、それに応じて生活の限度を定めること。分限は、それ相応の能力や力。度合は、物事の「推譲」は、他人をおしすすめて自分はゆずること。であり、尊徳の経済思想は、「分度」を出発点とし、それぞれが「分」に応じた生活を守り、余剰分を拡大再生産に充てることの重要性が強調されている。
尊徳の弟子福住正兄が、尊徳の日常の言動を筆録した「二宮翁夜話」巻之三-85に、「我教の大本、分度を定る事を知らば、天下の荒地は、皆開拓出来たるに同じ、天下の借財は、皆済(カイザイ)成りたるに同じ、是富国の基(キ)本なればなり、予往年貴藩の為に、此基本を確乎(クワクコ)と定む、能守らば其成る処量(ハカ)るべからず、卿等能学んで能勤めよ」とある(以下参考に記載の※:「小さな資料室」の二宮尊徳 『二宮翁夜話』に関するところを参照)。
江戸時代に起きた長期にわたる冷害・旱魃(かんばつ)・水害などの悪天候や害虫の異常発生、火山噴火などでの凶作の連続による江戸四大飢饉の内、寛永の大飢饉を除いて享保・天明・天保の大飢饉を江戸三大飢饉ともいう。しかし享保の飢饉は、後の2つの飢饉と異なり、発生地域は西日本であり、またイナゴやウンカの大量発生がその原因であったため、次の年は一転豊作となり問題はなくなった。
江戸時代中期以降飢饉が特に大きい社会的影響を及ぼすようになったのは江戸が都市として繁栄し、食糧の供給を東北地方に求めるようになったことによる。そのため、北関東地方は、大都市である江戸への人口流出を止められず、田畑は荒廃し、人情も気荒になったと伝えられている。また、生産の発展によって、農民間の貧富の分化が激しくなっており、天明の飢饉では,貧農、小作人、借家人、奉公人、日雇稼ぎの層に甚大な被害が出た。領主や富裕民によって行われた救小屋の施粥,施米に窮民が殺到し、盗難放火、食人の記録も残されているという(以下参考の※:天明の大飢饉※:農業農村の歴史に学ぶ・天明・天保の大飢饉 ※江戸の大飢饉など参照)。
このような酷い飢饉となった一因は領主の無策にもあり、京・大坂・江戸の三都商人から借財していたため、年貢米など備荒(飢饉への備え)の貯米分までが江戸、大阪に廻米(Yahoo!百科事典参照)されたため、農民一揆打ち壊しが発生した。天保の飢饉も、天明の飢饉と同様,餓死、疫病,流亡などの惨状を呈したが、天明の飢饉が比較的短期間に集中して死者や被害を出しているのに対して、地域的にも北陸、四国、九州を除く広い範囲でしかも長期間にわたり慢性的な状況となった。ただ、この時は、天明の飢饉の経験が生かされ、施粥や施金を行い、各種の普請を起こし、囲い米の放出にも努める一方で、タバコなどの奢侈(しゃし)作物の栽培禁止等の施策も速やかに行われたが、全国的な米価騰貴(価格の高騰)が起こり、飢饉状況が慢性化することになり、一揆や、村役人、穀商、質屋に対する打ち毀しや騒動が激発した。そして、大塩平八郎の乱の原因にもなった。このような荒廃した農村の復興は、天保の改革の1つの柱となり、二宮尊徳他、大蔵永常(おおくら ながつね)等の合理的農学者が活動し、「救荒書」「農書」等の出版も盛んに行われるようになった。
「救荒書」の「救荒」とは、飢饉を救うという意味であって、救荒食は飢饉や凶作の際、作物が取れない時に非常食として、稲以外の普段は常食しない食材を利用したり、手間を掛けて調理したりして餓えを凌ぐ食べ物である。稲は勿論、他の穀物も出来ない荒地に(ヒエ)をつくり、万一に備える習慣は、むかしからあり、徳川幕府も天明の飢饉以降「稗を第一にいたし」緊急用にせよとの布令を幾度と無く出している。そして、「救荒書」と呼ばれる文書類が各地に現れ出し、食用可能な野生植物(救荒植物)を紹介・解説している。その先駆けをなしたのは、杉田玄白との交友で知られる陸奥国一関の出身の建部清庵(たてべ せいあん)の『民間備荒録』だったという。この後、次々とのこの種の文書の流行を尊徳は、「こういう奨励は自分で実際に食べたことのない学者たちによる机上の空論にすぎず、無害とされる種類も大量に食べれば有害となる危険があるし、さらにかような知識が広まるならば 、日常の飢饉への対策を油断しておろそかにさせる逆効果を生む」と 批判的であったようだ(以下参考の※:小さな資料室「二宮翁夜話」巻之五 -188参照)。 農業は、天候相手の予測の困難な仕事であり、たとえ豊作確実の作業が行われていてもひとたび天候の異変があれば、冷害、干害、洪水を招き、他に病虫害もある。これらの対応策として尊徳は日頃からの穀物の貯蔵にこそ心がけるべきであると強調している。尊徳の改革では、人口の減少を、1人あたりの生産力をあげることで解決しようとしたのである。
その中で、人間の社会的経済的なあり方として「謹・倹・譲」という道徳的なあり方を考えた(以下参考に記載の※:「小さな資料室」二宮尊徳「二宮翁夜話 続篇」-43参照)。つまり、 謹は勤勉に働くこと。あくまで働くことによって人間は向上することができる。倹は倹約。これはケチることではなく変に備えるためにする。人の一生には天災、飢饉がいつ来るかも知れない。そのときに蓄えがなかったら、人間が人間として、最後まで立派であることができない。譲は推譲。個人の生活から社会の生活への展開をなす軸が、譲るということである。しかし、個人の生活を保つためには、そこに一定の枠というものがなければならない。その枠が「分度」である。・・・この尊徳の「報徳仕法」の基本的な教えは、今の日本の改革にも参考になると多くの知識人に見直されているようだ。以下は二宮尊徳の経済思想である 「分度と推譲」について詳しく考察されている。
研究テーマ 二宮尊徳の経済思想 分度と推譲を中心に(PDF)
http://u-air.net/social-science/theses/oohana.pdf#search='二宮 尊徳 富国 労働 生産'
(画像は修身の教科書(週間朝日百科「日本の歴史」91より)
このブログの字数制限上参考は別紙となっています。以下をクリックしてください。このページの下に表示されます。

クリック ⇒農政家・思想家二宮 尊徳の亡くなった日:参考

農政家・思想家二宮 尊徳の亡くなった日:参考

2009-10-20 | 人物
参考:
※:報徳二宮神社
http://www.ninomiya.or.jp/
※:天明の大飢饉
http://www.tabiken.com/history/doc/M/M246L100.HTM
※:天明の大飢饉
※:農業農村の歴史に学ぶ・天明・天保の大飢饉 
http://www.pref.akita.jp/fpd/taiko.edo/edo-07.htm
※江戸の大飢饉
http://members.jcom.home.ne.jp/invader/works/works_8_e.html
※:飢饉-気象との関連を中心として-
http://www.tt.em-net.ne.jp/~teda/history/kinsei/setsu/files/kikintokishou.htm
※:一関博物館:民間備荒録
http://www.museum.city.ichinoseki.iwate.jp/icm/02collection/det27.html
※:小さな資料室
http://www.geocities.jp/sybrma/index.html
二宮尊徳 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%AE%AE%E5%B0%8A%E5%BE%B3
栃木県教育委員会 とちぎふるさと学習
http://www.tochigi-edu.ed.jp/furusato/human005.htm
二宮尊徳-Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E4%BA%8C%E5%AE%AE%E5%B0%8A%E5%BE%B3/
資本主義 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%87%E6%9C%AC%E4%B8%BB%E7%BE%A9
天保の改革 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%BF%9D%E3%81%AE%E6%94%B9%E9%9D%A9
カニバリズム - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%8B%E3%83%90%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0
救荒食 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%91%E8%8D%92%E9%A3%9F
建部清庵 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E9%83%A8%E6%B8%85%E5%BA%B5
大蔵永常 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%94%B5%E6%B0%B8%E5%B8%B8
ゼロ成長の富国論 エキサイト ブックス
http://www.excite.co.jp/book/product/ASIN_4163669507/

農政家・思想家二宮 尊徳の亡くなった日 冒頭に 戻る 

まごの日

2009-10-18 | 記念日
10月18日「まごの日」
日本記念日協会の今日・10月18日の記念日見ると「まごの日」があった。
趣旨には“9月15日の「敬老の日」からほぼ1ヶ月後の10月の第3日曜日を、おじいちゃん、おばあちゃんから孫にメッセージを伝える日にしようと提唱したのは日本百貨店協会。百貨店のもつ商品性、文化性、交流性を生かして社会にアピールしていく予定。」・・・とあった。同協会の趣旨説明ではよくわからないので、調べてみると、以下参考の※:「百貨店ワールド」には”「まごの日」は、親子3代あるいは祖父母とまごでコミュニケーションする日、と定義づけています。1999(平成11)年に日本百貨店協会が提唱し、全国の百貨店の積極的な取り組みにより、新しく制定された記念日で、10月の第3日曜日に設定されました。日本記念日協会が制定している「日本記念日大賞」も受賞し、社会的評価も得ています。きっかけは、高齢化、少子化、核家族化がますます進んでいる昨今、おじいちゃん、おばあちゃん世代とまご世代が触れ合うきっかけづくりのお手伝いができないか、と考えたのが最初でした。「世代間をつなぐ気持ちをカタチで表現する日」になればよいという思いから提唱されたものです。「まごの日」をきっかけにして、親子3代あるいは祖父母とまごで触れ合いの時間を共有していただきたいと考えています。“・・とあった。冒頭の画像は、日本百貨店協会の「まごの日のシンボル・キャラクター」。テディベアは、セオドア・ルーズベルトが初まごの誕生にプレゼントしたことから、「家族の絆を象徴するもの」となり、その由来から採用したのだそうだ。
百貨店ワールドの説明では、少子化高齢化核家族化が進んでいる世の中で、世代間を繋ぐ社会的な記念事業としてやっているとのことであり、それなら、なかなか有意義な記念日だと思うのだが、最近は、日本記念日協会への記念日登録も、単に事業者の販売促進を目的としたようなものが非常に多くなってきている。日本百貨店協会が提唱している高尚な趣旨での記念日登録であるのなら、この記念日を、今の厳しい社会情勢の中、核家族化で孤独な生活をしているおじいちゃん、おばあちゃんが、孫や子供たちとの交流がしたいために、なけなしの生活費の中から、百貨店が紹介するプレゼントを孫に買い与えるだけの日にはして欲しくない。物・物・物の今の時代に、物以外での精神的な癒しを求めているお年寄りにとって、どのような有意義な親子3代の触れ合いの場づくりを百貨店業界がお手伝いしてくれるか・・・。このような記念日登録をした百貨店業界が商業目的以外にどのような社会的貢献をしてくれるのかを見て行きたいと思う。
♪なんでこんなに 可愛いのかよ
  孫という名の 宝もの
  じいちゃんあんたに そっくりだよと
  人に言われりゃ 嬉しくなって
  下がる目じりが 下がる目じりが えびす顔
これは、大泉逸郎の手作り演歌(作曲と自らの歌唱)として、1999(平成)年にミリオンセラーを記録した曲「孫」である。作詞をした大泉の友人である荒木良治だそうだ。・・・そう言えば、この大泉の「孫」でデビューした年と、日本百貨店協会が「まごの日」を記念日登録した年ろは同じだね~。云々。
この曲の大ヒットの後、「♪孫も大きくなりました 孫を可愛いと思わぬ人が 広いこの世に いるだろか・・・・」と、同じ荒木作詞、大泉作曲・歌唱の「孫も大きくなりました」も発売されている。これらの曲は、以下で聞ける。
YouTube -孫-大泉逸郎 
http://www.youtube.com/watch?v=YBqQYn4ZH9g
YouTube - 孫も大きくなりました- 大泉逸郎
http://www.youtube.com/watch?v=sv8x76pNb64
漢字の「孫」の字源を調べると、「孫」は会 意 文 字 (かいいもじ)であり、部首「子」+「糸(小さいを意味)」と書くが、異体字に「子」+「少」の字が見られるように、小さい子供の意。後に(つくり)が「系(つないだ糸)」となり、子の系統を継ぐ・・・の意が生じたようだ。
つまり、孫は、自分の子供の子供。続柄の中では子供に次いで特別な地位にあり、普通嗣子(ちゃくし=嫡男)の子供を内孫、嗣子にならなかった子供の子供を外孫、最初に生まれた孫を初孫と呼ぶ。
初孫が生まれた時から、祖父母は「おじいちゃん(おばあちゃん)になったんだねえ」などと言われ、何か、孫が出来た途端に年寄り扱いされ出すようになる。
しかし、大泉の歌の文句じゃないけれど、孫を可愛くないと思う人はいないだろう。祖父母にとって、孫は子供以上に可愛く、「目に入れても痛くない」とまで言われる。
斎藤茂吉の「孫にも、以下のような文が見られる(以下参考の青空文庫の斎藤茂吉「孫」より抜粋)。
「大石田の友人いふに、『まあお孫さんが先生になじむ迄(まで)は四五日はかかりませうな』云々。然るに私はその友人と二人で東京に来てみると、孫は、来た次の日にはもう私に抱かれるやうになつた。食べものを与へるとよろこんて食べる、請求もするといふありさまである。友人は笑つて、『先生、やはり血筋ですべえな』云々。この『血筋』といふことは元から云はれたことである。この孫の父、つまり私の長男が小さかつたとき、私の親友が抱いても泣きさけぶのに、偶(たまたま)上京してゐた私の長兄には平然として抱かれてゐた。そこで『血筋』の問題が出たのであるが、そのとき長兄がいふに『やはりおれは父親にどこか似てゐるところがあるんだ。子どもは動物みたいなもんだからそれを勘づくんだ。それは血筋といへば血筋なんだが』云々。兄貴の動物説もまんざら誤ではあるまいと思つて、いまだに忘れずに居る。『孫は子よりも可愛いと申しますね』と人にいはれる。これは実際そのやうである。併(しか)し、何のためにさういふものであるのか、私にもよく分からない。」・・と。(中略)。又、「私の孫が幾つぐらゐのとき、私はこの世から暇乞(いとまご)ひせなければならないだらうか。人間の小さい時には親に死なれても、涙など出ないものである。即(すなは)ち、大人のやうに強い悲しみが無いものである。明治二十四年、私の祖父が歿した。夜半過ぎて息を引きとり、そのとき祖母も母も泣いてゐたが、私(即ち孫)は、涙がすこしも出なかつた。炬燵(こたつ)の布団の中にもぐりながら、祖母なんかがどうしてあんなに泣くかと思つたことがある。そのとき私は既に小学校に入つてゐたのであるが、祖父の死に際してそんなに悲しくなかつたといふ、追憶が浮んでくるのである。私が死んだなら、小さい孫どもはさぞ歎くだらうなどとおもふのは、ほしいままな自己的な想像に過ぎない。孫どもはかういふ老翁の死などには悲歎することなく、蜜柑(みかん)一つ奪はれたよりも感じないのである。そこですくすくと育つて行く。この老翁には毫末(がうまつ)の心配も要(い)らぬのである。」・・・と。
斎藤茂吉は、山形県出身で、守谷伝右衛門熊次郎の三男として生まれ、親戚で浅草の医師・斎藤紀一の家に養子に入ったことから、斎藤姓を名乗っている。茂吉は、歌人として良く知られているが、精神科医であった。茂吉は非常に癇癪持ちであったらしいが、患者の前では温厚に振舞っていただけのようで、その反動で家族には怒りを露わにすることも多かったという。
茂吉の長男の茂太も精神科医であり、随筆家でもあるが、次男の北杜夫(本名:斎藤宗吉)も芥川賞受賞作家として知られているが、精神科医である。その次男宗吉の長女・斎藤由香も随筆家として知られている。
茂吉の子供や孫を見ていると、茂吉一家には文学者としての又、医学者としての血が流れているというか、『やはり血筋』なのかもしれない。・・・が、茂吉は夜尿症で、15歳くらい迄寝小便をしていたらしい(以下参考の※:「藤茂吉 - ウラ・アオゾラブンコ」の高橋四郎兵衛「兄の少年時代其他」昭和28年10月を参照)。この高橋四郎兵衛と言う人は、茂吉の実弟直吉が山形県の上ノ山温泉・山城屋の養子となって襲名した名だそうだ(以下参考の※:「山形県 かみのやま温泉 茂吉ゆかりの宿 山城屋旅館」参照)。本当かどうかは知らないが、息子の茂太や、その孫も中学生頃迄寝小便をしていた・・・と、Wikipediaには書いていたが・・・。
夜尿症は、身体の発達及びホルモン分泌が密接に関わっており、そのため、加齢とともに自然に治癒するケースが多いそうだが、遺伝との関連も指摘されているようだ。
よく、親子に似通った点があれば、遺伝によるものだ、という言い方をするが、遺伝とは、生殖によって、親から子へと形質が伝わるという現象のことであり、生物の基本的な性質の一つではある。
メンデルによる遺伝法則の発見によってその存在が示唆された遺伝子は、現在では、生物の遺伝情報を担う主要因子であって、ヒトなどの生物は、DNAを媒体としてる・・・といわれている。
私などこの分野の素人にはよく判らないことだが、親から子、子から孫へと、DNAを受け継いでいる以上は、かなり、性格や知能面での影響がある事は間違いないだろう。
だから、孫をこの上なくかわいがるのも、ヒトのDNAに刻み込まれたことかもしれない。親子関係については進化論的裏付けが存在するらしいが、孫を大事にすることは必ずしもそうではなく、親がそれをすれば十分と考えられる。血縁選択説の立場からは、孫は明らかに直系の血縁者だから、これを守ることはそれなりの価値が認められるが、ヒトにとって孫の存在が当たり前になり、「孫がかわいい」と感じる文化が生まれたのは、人の寿命が伸びたからでもあるらしい(孫- Wikipediaのおばあちゃん仮説参照)。
ときに「人の性格の5割、知能の7割は遺伝子で決まるらしい」・・・などと言う話しを聞いたこともあるが、それでは、私の子として生まれた息子や可愛い孫は浮かばれないよ。所詮、私にはそんな優れた遺伝子は無いだろうが、それは、持って生まれた天命と悟り、自分の個性を活かして、誰からも愛され、役に立ち、認められ、向上心をもって、高杉新作じゃないけれど『おもしろき ことも無き世を おもしろく』生きていって欲しいものだ。そのために、おじいさんとしては、できる限りの支援はしてやりたい。だけど、茂吉じゃ無いけれど、孫がいくつの年代まで、私は生きているのだろう。小さい頃、我が家に来ると、先ず直ぐに胡坐をかいた私の膝の上にすわり、頬にチューの挨拶をしてくれていた孫娘も小学校に入って3年生くらいにもなってくると、段々と様子をし、おじいさんよりおばあさんの方が、いろいろお絵描きや編み物などの相手をしてくれてよくなったようだ。それでも誕生日やクリスマスなどプレゼントをもらえる日には、私のところへ先ず愛想よくしてくるのは、息子や嫁の入れ知恵だろうか・・・。私自身も爺さん子で、それこそ目に入れても痛くないほど可愛がってもらったが、その爺さんがなくなった時にそれ程母親などの泣いている顔を見てもそんなに哀しく思わなかったのは、茂吉がい言うように幼かったせいだろう。私も孫が大人になるまでは長生きしないと亡くなっても可愛い孫に泣いてもらえない・・・と思うと、余り無茶せず、もう少しは頑張って生きないと・・・なんて考える。
なにかぐだぐだっと書いていしまったが、最後に1つ。
日本は天皇制をとっているが、日本の天皇の皇位継承は、日本国憲法では「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承(憲法第二条)」することになっている。その皇室典範には「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する(同法第一条)」とある。
しかし、天皇の皇位継承者となる現皇太子浩宮徳仁親王には、敬宮愛子内親王の生誕など天皇直系の皇位継承者の終端に女性しかいない問題が生じていたが、2006(平成18)年、今上天皇の第二皇子・秋篠宮文仁親王に、悠仁親王(今上天皇の孫)が誕生し、一応、今上天皇の孫の代までの皇位継承者ができたが、今後も依然として皇位継承問題の残るところだ。今の時代に、血筋を守るなどと言うのは大変だよね~。
(画像は、日本百貨店協会の「まごの日のシンボル・キャラクター」)
このブログの字数制限上、参考は別紙となっています。以下をクリックしてください。このページの下に表示されます。
クリック ⇒ まごの日:参考

まごの日:参考

2009-10-18 | 記念日
参考:
※:百貨店ワールド
http://www.departinfo.com/pc/magonohi/
※:青空文庫:斎藤茂吉の「孫」 
http://www.aozora.gr.jp/cards/001059/card46466.html
※:斎藤茂吉 - ウラ・アオゾラブンコ
http://uraaozora.jpn.org/mokichi.html
※:山形県 かみのやま温泉 茂吉ゆかりの宿 山城屋旅館
http://www16.plala.or.jp/yamasiro/
テディベア - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%99%E3%82%A2
敬老の日 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%AC%E8%80%81%E3%81%AE%E6%97%A5
少子化 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%91%E5%AD%90%E5%8C%96
孫 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB
孫 - ウィクショナリー日本語版
http://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%AD%AB
斎藤茂吉 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E8%8C%82%E5%90%89
斎藤茂吉記念館:ホームページ
http://www.mokichi.or.jp/
遺伝- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%BA%E4%BC%9D
夜尿症 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9C%E5%B0%BF%E7%97%87
デオキシリボ核酸 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/DNA
高杉晋作 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9D%89%E6%99%8B%E4%BD%9C
皇位継承 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E4%BD%8D%E7%B6%99%E6%89%BF

まごの日冒頭へ 戻る