今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

岡田竹四郎が武庫川右岸で宝塚温泉の開鑿に成功

2009-10-16 | 歴史
いつもブログを書くのに参考にさせてもらっている「今日は何の日~毎日が記念日」の10月16日の歴史のところに、”1886(明治19)年10月16日、岡田竹四郎が武庫川右岸で宝塚温泉の開鑿(かいさく)に成功”とあった。
宝塚温泉は、兵庫県宝塚市武庫川の河畔あたりにある温泉である。
宝塚市と言えば、大阪から約30分程と近く、あの有名な宝塚歌劇団の本拠地である宝塚大劇場のある地として良く知られているが、温泉のあることはあまり広く知られていないようだが、宝塚大劇場自体が、元々は宝塚温泉の対岸の川沿いに作った「宝塚新温泉」に客を呼ぶアトラクションとして阪急電鉄の創始者小林一三が始めたものであることは、以前にこのブログ9月1日「宝塚歌劇団レビュー記念日」でも書いた。
以下参考に記載の青空文庫の小林一三 「宝塚生い立ちの記」の中で宝塚旧温泉のことにも触れているところがあるのでその部分を以下に抜粋してみた。
“宝塚という名称は、以前には温泉の名であって、今日のような地名ではなく、しかもその温泉は、すこぶる原始的な貧弱極まるものであった。その温泉の位置はやはり現在の旧温泉のある附近ではあったが、ずっと川の中へ突き出した武庫川の岸にささやかな湯小屋が設けられていて、その傍らに柳の木が一本植わっていた。そして塩尾寺へ登って行く道の傍らに、観世音を祀った一軒の小屋があって、尼さんが一人いた。湯に入るものはそこへ参詣をしてから、流れの急な湯小屋の方へ下りて行ったものだ。その湧出する鉱泉を引いて、初めて浴場らしい形を見せたのは、明治二十五年のことであり、それ以後保養のために集って来る湯治客は、やや増加したとはいうものの、多数の浴客を誘引する設備に欠けていたので、別にめざましい発展も見られなかった。
 その後、阪鶴鉄道の開通とともに、宝塚温泉は急速な発達を遂げて、対岸に宿屋や料亭が軒をならべるに至ったのであるが、明治四十三年三月十日、箕面有馬電気軌道株式会社(現在の京阪神急行電鉄株式会社の前身)の電車開通当時は、武庫川の東岸すなわち現在の宝塚新温泉側はわずかに数軒の農家が点在するのみで、閑静な松林のつづく河原に過ぎなかった。
箕面有馬電気軌道はその開通後、乗客の増加をはかるためには、一日も早く沿線を住宅地として発展させるより外に方法がなかった。しかし住宅経営は、短日月に成功することはむずかしいので、沿線が発展して乗客数が固定するまでは、やむをえず何らかの遊覧設備をつくって多数の乗客を誘引する必要に迫られた。そしてその遊覧候補地として選ばれたのが、箕面宝塚の二つであった。こうして箕面にはその自然の渓谷と山林美とを背景にして、新しい形式の動物園が設置され、宝塚には武庫川東岸の埋立地を買収して、ここに新しい大理石造りの大浴場、および瀟洒な家族温泉を新設する計画をたて、明治四十四年五月一日に完成した。当時としてはモダーンな娯楽場として発足したのである。“・・・と。これが、「宝塚新温泉」、後の宝塚大劇場の出発点である。
かって、「湯のまち」として栄えたという宝塚には、古くは中世の頃「小林の湯」と呼ばれる温泉があったそうで、歌人藤原光経が1223(貞応2)に訪れた記録があるという。また小林一三の 「宝塚生い立ちの記」の中にも書かれているように伝説では「塩尾寺(えんぺいじ)」(伝説は※:「宝塚市:宝塚の民話」の第1集ー4塩尾寺と宝塚温泉を参照)のふもと武庫川にある大柳の下で湯を発見したとも言われており「川面の湯」の名も伝えられているようだ。
以下参考に記載の※:「写真の中の「明治・大正 - 国立国会図書館所蔵写真帳から -」の中の関西編宝塚温泉には、阪鶴鉄道が通っていた頃の川面あたりから撮ったものと推測される当時の宝塚温泉の風景説明がある(興味のある人はここ参照)。
室町時代からの「塩尾寺観音縁起」などにより、病気治療に卓効(たっこう。優れたききめ)のあることが知られていた武庫川右岸、鳩ヶ渕に湧いていた水を温泉場にしようと思い立った者が出てきた。それが、今日のブログの表題となっている岡田竹四郎と言う人物らしい。彼が、宝塚温泉の開鑿に成功したのが「今日は何の日~毎日が記念日」に書いているような1886(明治19)年10月16日のことであったかどうか、日付のことまでは分らないが、以下参考に記載の※:「『宝塚温泉』の近代宝塚温泉の発見と黎明期1」には、宝温泉の老舗旅館分銅屋(現在は廃業)の創始者、小佐治豊三郎が記した1911(明治44)年11月3日付の『宝温泉発見以来の顛末』には、温泉発見の経緯が記されているようで、その内容を読むと確かに、最初に開鑿話を持ちかけてきたのは岡田竹四郎なる人物だったようだ。そこには、以下のように記されている。
“1884(明治17)年3月初め豊三郎のもとへ、川面村(現在の宝市川面(ここ参照)に住む岡田竹四郎が訪ねてきて、竹四郎の父親五平次が長尾山の中腹桜小場(現在の宝市桜ガ丘)に山田の開発を始めたが、資金不足のため途中で中止せざるを得なくなっていた。せっかく開墾した山田もこのままではもとの荒野になってしまうので、父の遺志を継いでやり遂げたいと思案した竹四郎が、人づてに豊三郎が牛のことにくわしいと聞き及び、牛馬の力で開墾できないものかと相談に来た。宝に住む竹四郎の親戚の田村善作宅へ行っての帰り道、竹四郎から「酸い水と鹹い水」が湧く場所があると教えられ、汲んで帰って、飲んでみるとおいしかったので、知り合いの医師に贈ったところ、飲料・浴用ともに適する最上の鉱泉であると絶賛された。この水から山塩(温泉水を煮詰めてつくる塩のこと)を採取する計画をひそかに立てていたが、このとき温泉場を開設しようと決意し、田村善作や岡田竹四郎に相談したところ、二人も大いに賛同してくれた。そして、ある日、三人は温泉場の設備や営業状態を調べるため有馬温泉を訪れ、地元の人に「有馬では、宿屋にみな『坊』の名がつけてあるのはなぜか」と尋ねたところ、「この地は昔から仏様に因縁が深いので」ということであった。それではわれわれの温泉場にも縁起のよい名をつけようと、命名を田村善作に一任し、『宝温泉』と決まった。土地の開拓や家屋の建築に着手する一方、鉱泉の試験を大阪衛生試験所(現:国立医薬品食品衛生研究所 大阪支所。詳しくは、以下参考の※:「ギャラリー広場」参照)へ依頼し、1886(明治19)年3月26日その結果が示され、翌1887 (明治20)年5月5日開業に至った。”・・・と。
これを読むと、1887(明治20)年5月に宝温泉が開業したというのだから、その前年の1886(明治19)年10月16日に開墾に着手したとしてもおかしくないよね。
宝温泉は彼らを含む創立会社が、地元から鉱泉湧出所である伊孑志(いそし)村302番字三昧(現在の湯本町9番29号)あたりの山林715歩(ぶ)の永代借地契約を結び経営。温泉場は崖の下にあり、多量の土砂を投入して埋立て、浴場を建てたという。・・・つまり、1 畝=30歩。1歩=約3.305785㎡=約1坪だから、約225坪位の土地を借りて始めたということだ。
開湯当時は、まだ鉄道はなく、大阪や神戸方面から宝塚温泉に来るには、省線(しょうせん。国電。現在のJR。当時、鉄道省管理であったためこう呼ばれていた)西ノ宮駅から人力車で10キロ近い道のりを北上するか、または、武庫川を浅瀬伝いに渡るか、水の深い所に板を架けるか、「伊才志の渡し」と呼ばれた渡し舟で渡るしかなく、川が増水したときは渡ることができなかった。そのため、入浴客の急速な増加を望むことができなかったため、1892(明治25)年に会社を解散して、温泉場を閉鎖。閉鎖された温泉は、宝塚温泉場持主組合によって復活するが、1897(明治30)年9月29日の大雨で武庫川が氾濫し、浴場は流失してしまったという。
この年1897(明治30)年12月に、宝塚温泉のあった場所とは反対の武庫川左岸に阪鶴鉄道が宝まで開通し宝塚駅ができている。しかし、この頃は、まだ、右岸と左岸との間に行き来できる橋はなかったそうだ。
宝塚温泉は、1899(明治32)年に新築し、開場したようだが、この頃右岸と左岸を結ぶ宝来橋(蓬莱橋とも書くらしい。宝来橋については、以下参考の※:宝塚歴史散歩が詳しい)が作られたようであり、それ以降、浴客も増加し、旅館・料亭の数も急速に増えたようだ。その後、阪鶴鉄道の重役でもあった小林一三らが阪鶴鉄道の役員を辞職して箕面有馬電気軌道を作り、宝塚温泉の対岸(武庫川東岸)に、1911(明治44)年、現在の宝塚大劇場の基礎となる大理石造りの大浴場を備えた娯楽場「宝塚新温泉」を建設している。
小佐治豊三郎は、“明治44年の状況を「旅館旗亭を合せ50余軒、其他の人家200余戸を有し、尚日に月に発展の状況を呈する一大温泉場となるに至れり」と記しているという。
この時から、もともとあった宝塚温泉は宝塚旧温泉と呼ばれるようになったようだが、その後、この新・旧温泉は上手く住み分けして栄えていたようである。
「武庫川の 板の橋をば ぬらすなり 河鹿の声も 月の光も」
この句は、明治の歌人与謝野晶子が、夫の与謝野鉄幹と、大正6年(1917年)6月に3週間ほどかけて阪神間を周遊した際に宝来橋付近で詠んだものだそうで、宝歌劇団の雑誌『歌劇』の創刊号(1918年8月刊)に、「武庫川の夕」という題で三首掲載されているものの1つ。現在の宝来橋の南詰めの、宝塚市が設置した公設民営型温泉健康施設(ナチュールスパ宝塚)の建物のそばに、これを記念した句碑が建っている。
塩尾寺の由来記(『塩尾寺縁起』にある“老女が夢の中に出てきた僧侶のお告げで「武庫川にある大柳の下に湧いている霊泉に湯浴みをすれば、病は癒える」と告げられそのとおり霊泉を湯にして身を洗ったところ病が癒えたと言われる大柳の下はこの公設民営型温泉健康施設(もとは市立宝塚温泉泉と言っていたらしい)の近くだそうである。
私は、神戸に住んでおり、神戸者にとっては、有馬温泉の方が規模も大きく、近くて便利なので、有馬には行っても宝塚温泉には行ったことが無い。宝塚と言えば、家人と一緒に宝塚歌劇の観劇に行ったり、子供が小さい頃は、宝塚ファミリーランドへはよく連れて行ってやったのだが・・・。
1995(平成7)年1月17日に発生した阪神・淡路大震災は、阪急宝塚駅近くなどでは、震度7を記録し甚大な被害をもたらした。震災前は武庫川の河畔に旅館ホテルが数多く並んでいたそうだが、今では温泉は若水旅館(以下参考の※:「宝塚温泉ホテル若水参照)とナチュールスパ宝塚のみとなっている。
尚、かって旧宝塚温泉の浴場に掲げられていた巨大な看板(冒頭画像参照。大画像は、ここで見れる)は、ホテル若水の大浴場前に掲げられているようだ。その経緯は、以下参考の※:「神戸新聞|阪神・北摂|1世紀健在です 宝塚温泉の看板、ホテルが継承」を参照。)
(画像は、絵はがき「宝塚旧温泉正面」宝塚市市史資料室より)
参考は、このブログの字数制限上別紙となっています。以下をクリックしてください。このページの下に表示されます。
クリック ⇒ 岡田竹四郎が武庫川右岸で宝塚温泉の開鑿に成功:参考

岡田竹四郎が武庫川右岸で宝塚温泉の開鑿に成功:参考

2009-10-16 | 歴史
宝塚温泉 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9D%E5%A1%9A%E6%B8%A9%E6%B3%89
宝塚(市) - Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%AE%9D%E5%A1%9A%EF%BC%88%E5%B8%82%EF%BC%89/
小林一三 「宝塚生い立ちの記」(青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/001256/files/46655_29120.html
宝塚市市史資料室
http://www.library.takarazuka.hyogo.jp/015-sisi/top.html
阪鶴鉄道 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%AA%E9%B6%B4%E9%89%84%E9%81%93
藤原光経 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%85%89%E7%B5%8C
※:写真の中の明治・大正 - 国立国会図書館所蔵写真帳から -
http://www.ndl.go.jp/scenery/kansai/index.html
※:宝塚温泉ホテル若水
http://www.h-wakamizu.com/?OVRAW=%E5%AE%9D%E5%A1%9A%E6%B8%A9%E6%B3%89&OVKEY=%E5%AE%9D%E5%A1%9A%20%E6%B8%A9%E6%B3%89%20%E5%AE%BF&OVMTC=advanced&OVADID=5421352542&OVKWID=54883805542
塩尾寺裏参道と不動滝
http://mohry.web.infoseek.co.jp/050321enpeizi_urasandou.htm
ウィルキンソン (飲料) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%B3_(%E9%A3%B2%E6%96%99)
※:宝塚市:宝塚の民話
http://www.city.takarazuka.hyogo.jp/sub_file/04030101000000-MINWA00.html
神戸大学 電子図書館システム -新聞記事文庫「新設さるる電車尼崎宝塚線」
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00097262&TYPE=HTML_FILE&POS=1&TOP_METAID=00097262
※:宝塚歴史散歩
http://homepage1.nifty.com/ojin/sanpo.htm
※:ギャラリー広場
http://www.kusuri-doshomachi.gr.jp/gallery/kikau3-2.html
尺貫法-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BA%E8%B2%AB%E6%B3%95
国立医薬品食品衛生研究所
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E5%8C%BB%E8%96%AC%E5%93%81%E9%A3%9F%E5%93%81%E8%A1%9B%E7%94%9F%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80
人力車 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E5%8A%9B%E8%BB%8A
渡し船 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E3%81%97%E8%88%9F
与謝野晶子 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8E%E8%AC%9D%E9%87%8E%E6%99%B6%E5%AD%90
アサヒ飲料 | ウィルキンソン | ブランド紹介
http://www.asahiinryo.co.jp/wilkinson/contents/brand.html
今日は何の日~毎日が記念日~10月16日日
http://www.nnh.to/10/16.html
神戸新聞|阪神・北摂|1世紀健在です 宝塚温泉の看板、ホテルが継承
http://www.kobe-np.co.jp/news/hanshin/0001802575.shtml
神戸新聞ニュース:総合/2001.09.14/市立宝塚温泉が来年オープン
http://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sougou/010914ke22760.html
国立国会図書館 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E5%9B%BD%E4%BC%9A%E5%9B%B3%E6%9B%B8%E9%A4%A8

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くまのプーさん原作デビューの日

2009-10-14 | 記念日
10月14日くまのプーさん原作デビューの日
日本記念日協会に今日の記念日を見ると今日・10月14日は「くまのプーさん原作デビューの日」だそうだ。
由来をみると、”世界中で愛されている「くまのプーさん」の原作が発売された日(1926年10月14日)を記念日として制定したのは「ウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社」で、プーさんとゆかいな仲間達が楽しく暮らす100エーカーの森にちなみ、環境・森林保護を考える日としている。”・・・そうだ。
ディズニーのアニメーションで知られている「クマのプーさん」(邦題)は、イギリスの児童文学作家アラン・アレクサンダー・ミルン(Alan Alexander Milne)が、自分の息子クリストファー・ロビンと子供部屋のぬいぐるみたちをモデルにして1926(大正15)年に発表したの童話「クマのプーさん」(英語名: Winnie the Pooh【ウィニー・ザ・プー】)の物語(挿絵:、E・H・シェパード)を原作にしたものである(ディズニー版アニメのタイトルは童話の英語名と同じ)。
童話の題名であり、その童話の主人公でもある「 Winnie the Pooh」は、ミルンの息子クリストファーが持っていたテディベアの名前Winnipeg(ウィニペグ=ウィニー。これは、ロンドン動物園で見かけたアメリカグマの愛称(クマのウィニーからクリストファーが名づけたもの)と、ミルン親子が休日に見た白鳥の名前Pooh(プー)から、ヒントを得てミルンが名付けたものとされているようであるが、このPoohについては諸説あるようだ(以下参考の※:「水谷夫妻のくまのプーさんのページ」のPooh(プー)の名前の由来参照)。
童話の挿絵は、E・H・シェパードによって描かれた。ただ、挿絵のモデルは、原作者ミルンの息子クリストファーのクマのぬいぐるみと言われているが、挿絵を描いたシェパードが実際に参考にしたのは、自身の息子グレアムのクマとも言われているそうだが、私は、テディーベアーのぬいいぐるみの違いがどれほど有るか知らないが、絵にしてしまえばどうこういうほどのことはないと思うが・・・。。
クマのプーさんの舞台である100エーカーの森は、ミルンの故郷であるイギリスのイースト・サセックス州にある、500エーカーほどの森林であるアッシュダウンフォレストをモデルにしており、作中にも同じ名称がいくつか登場しているようだ。
私は原作を知らないし、子供の絵本かテレビ(映画の予告編だったのだろうか?)で少し見たように思うが詳しいことは知らないが、このディズニー社の作品は、初期には原作を元にしたストーリーであったが、後にディズニーオリジナルのストーリーが使われるようになったそうだ。現作とディズニーのキャラクターの違いなどは、以下参考の※:「水谷夫妻のくまのプーさんのページ」を覗けば分る。
冒頭の画像は、私のコレクションの貯金箱の中の1つ、三菱銀行(現:三菱東京UFJ銀行)時代のディズニーのキャラクター物貯金箱である(貯金箱のコレクションはRoom1貯金箱で)。この英国生まれのプーさんは、今やミッキーよりも人気があるらしいよ。
主人公であるプーさんは、もともと頭に綿のつまったくまのぬいぐるみで、赤い上着がトレードマーク。ディズニーオフィシャルページのくまのプーさんサイトでは、・はちみつが大好きで、はちみつを食べることが出来るならなんだってやっちゃう。・のんびりやで、やさしくて、食いしん坊。・そして、ちょっとおばかさんで、文字を書くことが苦手だけど、友達にやさしい性格・・・というキャラクター設定になっている。
ミルンの息子クリストファー・ロビンも実名で物語に登場し、100エーカーの森に住んでおり、やさしくて勇気のある少年で、森の仲間たちから頼りにされており、特にプーさんとは仲良しのようだ。
プーさんとゆかいな仲間達が暮らす100エーカーの森のモデルとなったアッシュダウンフォレスト周辺は今でも素敵な場所らしい。しかし、、この森にちなみ10月14日を「環境・森林保護を考える日」としているというのだが、具体的にどのようなことをしているのだろうか?・・・自然破壊が進んでいる今、環境・森林保護の問題は皆でよく考えてゆかないといけないのだが、具体的に行動しないとどうしようもない。日本はもともと、海と山に囲まれた自然豊かな国だった。私が子供の頃は、まだ、そんな自然豊かな森が存在していて、子供たちは、川で小魚や小さな沢蟹をとったりして遊んでいた。私が住んでいる神戸は明治開港以来外国人が山手に住んでいたので、その人達が六甲山系の山を登るのを真似て始めたといわれる家の裏山登山が盛んである。私たち夫婦も定年後上の裏山を行登っているが、最近は、団塊の世代と言われる人達が次々と定年を迎え、これらの人達が、多く登山を始めたのであろう、私達が登っている裏山にもそのような登山客が非常に増えている。同時に、裏山の登山道や休憩所付近がどんどん整備され、きれいになってきている。新しく登山を始めた人達が、清掃や休憩所の整備、山道への植林や花壇づくりの活動に多く参加し始めたからだろう。まだまだマナー悪い人もおり、ゴミ等捨てる人もいるものの、このような奉仕活動の人達が増えてきたことにより数年前に比べて、見違えるようによくなってきている。人間不思議なもので、環境が整備されてくると、ゴミを捨てたり、汚す人も少なくなってきているようだ。裏山登山は毎日のように山へ登っている人が多く、この人達は非常にマナーもよく、健康で朗らかであり、知らない人非常に気持ちが良い。これからの時代、少子・高齢化で大変な時代を迎えるが、定年を迎え、生活の時間にゆとりの出来た、まだまだ肉体的には若い元気な年配層が増えてくると、このような、環境面は非常に良くなってくるのではないかと想像さる。自分たちが済んでいる地域の環境を整備し、過ごしやすい場を作ってゆくと、いろいろ悩み事を抱え多少落ち込んだり、すさんだ気持ちになっている人達の気持ちも自然と和らいでくるのではないだろうか。高齢化・・・何も悪いことばかりじゃないと思うよ・・・。
(画像は、コレクションの貯金箱より、三菱銀行時代のディズニーのキャラクター物貯金箱。
参考:
クマのプーさん - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%9E%E3%81%AE%E3%83%97%E3%83%BC%E3%81%95%E3%82%93
※:水谷夫妻のくまのプーさんのページ
http://www.asahi-net.or.jp/~ka3i-mztn/welcome.htm
三菱銀行 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%8F%B1%E9%8A%80%E8%A1%8C
ディズニーオフィシャルページ
http://home.disney.co.jp/
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html

育児の日

2009-10-12 | 記念日
毎月12日の「育児の日」は、 社会全体で子育てについて考え、地域が一体になって子育てしやすい環境づくりに取り組むきっかけの日にと、神戸新聞社が制定。日付は育(いく)で1、児(じ)で2をあらわすことから毎月12日としたそうだ。
♪こんにちは赤ちゃん あなたの笑顔
 こんにちは赤ちゃん あなたの泣き声
 その小さな手 つぶらな瞳
 はじめまして わたしがママよ
「こんにちは赤ちゃん 」(作詞:永六輔、作曲:中村八大
梓みちよ歌唱によるこの曲は、1963(昭和38)年7月、NHKテレビの人気番組『夢であいましょう』の今月の歌コーナーにて紹介され、視聴者からの反響が大きく同年11月、キングレコードよりレコード化され、空前の大ヒット曲となった。梓は本曲で同年の第5回日本レコード大賞を受賞、NHK紅白歌合戦にも初出場を果たし、人気歌手としての地位を得た。
この曲は、作曲者・中村八大 の第一子生誕をヒントに永六輔 が作詞した作品で、当初永はそのエピソードからパパの心情を歌詞にしようと思いついたそうだが、それをママの心情に置き換えたものだという。梓の素晴らしい歌と歌詞は以下で見れる。
こんにちは赤ちゃん 動画&歌詞
http://xpp.sakura.ne.jp/mutual/fest/song/42014.php
この歌詞の中には、「二人だけの愛のしるし すこやかに美しくしく 育てといのる・・・」といった、生まれた子どもへの限りない愛情あふれる言葉が出てくる。
しかし、折角誕生した子供を親が育てるのが面倒だからと、簡単に捨てたり、また、児童虐待し、挙句には、死に至らしめてしまうような親もいるのが今の日本の現状であることは、以前にこのブログ「妊婦さんの日 」の中でも書いた。
そして、一昨年(2007(平成19)年)そのような赤ちゃんを殺害と中絶から守ることを目的に赤ちゃんポスト(慈恵病院の「こうのとりのゆりかご」)なるものが設置されたとのニュースを聞いた時には、もうそこまでしなくてはいけないのかとショックを受けた。
この「赤ちゃんポスト」のことについても、このブログ「「慈恵病院で「こうのとりのゆりかご(赤ちゃんポスト)」運用を開始」」でもとりあげ “厚生労働省によると、捨て子の相談数は年間200件前後とされ、2005(平成17)年度の人工妊娠中絶は28万9127件。また2004(平成16)年に虐待で死んだ子ども58人のうち、7人は母親が自治体に妊娠を届けず自宅などで産んで数日後に命を奪われたケースだったという(2006年11月29日読売新聞)ことも書いたが、こうのとりのゆりかご:慈恵病院HPの” 現在の日本の社会情勢 “を見ると、児童虐待相談件数の推移では、平成13年~平成19年まで15年で35倍にもなっているようであり、減少傾向にはあるが未成年の「人工妊娠中絶件数」が相変わらず多く、その中に、15歳及び15歳未満もかなり居るのが現状である。
このような、赤ちゃんポスト「こうのとりのゆりかご」の設置に際しては、「捨て子」を容認するのか、いや「捨て子」が依然として存在している以上、それらの新生児は早急かつ安全に保護されてしかるべきだといった議論、や、道徳と人道の観点からの議論などその是非についての賛否両論は今も尽きないが、「こうのとりのゆりかご」に預けられた子供の人数は、設置された2007(平成19)年5月から2008(平成20)年3月までに17人、同年4月から2009(平成21)年5月末までで25人もいるというから悲しくなる。
最近のデーターは分らないので少し古いが、平成10年版「厚生白書」(以下参考の「厚生白書【平成10年版】」参照)によると、2~3歳児を持つ首都圏の母親を対象にした調査では、妊娠が分かった時、望んだ妊娠が75%、子どもを欲しいとは思っていたものの時期が早かった予定外の妊娠が21%、望まない妊娠が5%と、予定外の妊娠と望まない妊娠を合わせた意図しない妊娠がおよそ4例に1例となっていたという。この中でも、望まない妊娠で生まれた子供などは、結果として、捨て子にされたり、虐待されたりと不幸な運命を辿る可能性が高くなり、本当にかわいそうだ。こんな、望まない妊娠の解決手段としては、人工妊娠中絶に頼らざるを得なくなる・・・というのだろうが、日本の国において、中絶は、一般的には犯罪行為であり、刑法の第二十九章(堕胎の罪。以下参考の※:刑法堕胎罪も参照)にあたるのだが、一方、母体保護法(1996年以前の法律名は優生保護法)は、「母体の健康を著しく害するおそれのある」場合等に、特別な医師(指定医師)が本人等の同意を得た上で「中絶を行うことができる」と定めており、この規定に則った中絶は、刑法の正当行為規定の適用をうけて、罰されることは無い。そのため、日本国においては、母体保護法(1996年以前の法律名は優生保護法)が幅広く適用され、多数の中絶が公に行われてきた。厚生労働省の統計によれば、2006(平成18)年に日本で行われた人工妊娠中絶は276,352件で、15~49歳女子人口に対する比率は0.99%、出生100に対する中絶数の比率は25.3件のもなる(ここ参照)。また、法的にグレーな中絶も、公然の秘密として無数に行われているとされている。この問題は「胎児の生命」と「母体の選択権」を比較した場合に「胎児の生命」を優先する立場とる(プロライフ参照)か後者を取るかで、中絶の是非も分かれる難しいものではある。
しかし、避妊を正しい方法で行わなかったか、避妊を行ったが失敗したか。或は、女性が性暴力を受けて妊娠に至った場合、身体的・精神的に障害があり、子を産み育てることが困難である場合、経済的に子を育てることが難しい場合も、結果として望まない妊娠となってしまうのだが、兎に角、望むと望まざるとに関わらず、生まれた赤ちゃんに罪はなく、生まれた以上はどの子も幸せに育って欲しいものである。しかし、たとえ望んで出産しても、核家族化し、近隣との人間関係の希薄化した現代社会では、身近に頼れる存在もないまま「孤立した育児」の悩みを抱えているお母さん方も少なくはないだろう。
そのようなことから、2007(平成19)年度に厚生省によって、「こんにちは赤ちゃん事業」(乳児家庭全戸訪問事業)なるものが創設された。同省の”家庭全戸訪問事業(こんにちは赤ちゃん事業)の概要 “のこの事業目的を見る地、「生後4か月までの乳児のいるすべての家庭を訪問し、様々な不安や悩みを聞き、子育て支援に関する情報提供等を行うとともに、親子の心身の状況や養育環境等の把握や助言を行い、支援が必要な家庭に対しては適切なサービス提供につなげる。このようにして、乳児のいる家庭と地域社会をつなぐ最初の機会とすることにより、乳児家庭の孤立化を防ぎ、乳児の健全な育成環境の確保を図るものである。“・・・としている(詳しくは乳児家庭全戸訪問事業ガイドライン参照)
しかし、訪問者や実施内容などは市区町村に任されていることから、自治体によってはかなりの温度差がみられ、なかには戸惑いを感じているところもあったようだ(以下参考の※:「こんにちは赤ちゃん事業」 全国市町村の4割が未実施 - MSN産経ニュース 参照)。
我が家はもうそのような子育てとは関係が無い年代となったので、我が地元である神戸市の状況を調べてみると、流石、このような福祉に関しての対応には速やかな神戸市だけあって、保健福祉部保健師と市が委嘱した助産師・保健師が乳児のいる家庭を訪問して、赤ちゃんの身体計測や育児や産後の生活に関する相談・指導をしているようだ(以下参考の※:神戸市:くらしのガイド 出産・子育て・教育の“新生児訪問指導”を参照)。
又、同じような趣旨で、2003(平成15)年に創刊105周年を迎えた地元の神戸新聞社は新たな百年事業として、全社を挙げた息の長い取り組みとして、「子育て支援」の運動に取り組んでいるようだ。そのプロジェクトのキャッチフレーズが「すきっぷ」だそうである(神戸新聞社 「すきっぷ21」参照)。サブタイトルは「みんなの子育て」で、子育てに夢を持ち、みんなで支えあう地域社会を目指して、紙面による情報提供のほか、各地で多彩なイベントや啓発事業を展開している。そして、毎月12日を「育(いく=1)児(じ=2)の日」として広く提唱することで、社会全体で子育てを考える機会にしようと、この日を日本記念日協会にも登録したようだ。
同社のHPによれば、神戸新聞では当該日(毎月12日)の朝刊1面の題字下欄に「毎月12日は『育児の日』 みんなで考え みんなが支える みんなの子育て」というキャッチフレーズを掲載し、本運動が単なる啓発にとどまらず、家庭や地域、職場などさまざまな場での具体的な取り組みを通して意識の広がることを意図したもののようだ。以下参照。
神戸新聞社ー育児の日 検索
http://search.kobe-np.co.jp:8080/tools/Front.jsp?dbid=1&search=sim&query=%88%E7%8E%99%82%CC%93%FA&encode=Shift_JIS&size=20&highlight=true&x=20&y=13
確かに、今の時代、昔とは違った「子育ての難しい時代」になったとも言える。しかし、そのような中で、少しでも多くの父母が、子育てを心から「楽しい」と感じることができれば、子どもが犠牲になる不幸な事件もなくなるのは確かだ。そのために「みんなが手を携えて子どもを支える」という意識を広げて行かなければならないだろう。
我が家は、4大新聞の1つを購読しており、地元紙神戸新聞は臨時に買って読むことがある程度なのでで詳しいことは知らないが、同社は今までからこのようなことに対する取り組みに関してはなかなか熱心なようである。家人が、もう現役も退き歳なのだから、もう、今とっている大新聞を止めて、このような地元新聞に替えようよ・・と前々から言っているので、私も、ぼちぼち、検討しようかな~。
(画像は、キングレコード「こんにちは赤ちゃん:(梓みちよ)/、いつもの小道で(田辺靖雄・B面)」1963年、両曲とも作詞:永 六輔、作曲:中村八)
参考:
こんにちは赤ちゃん - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%93%E3%82%93%E3%81%AB%E3%81%A1%E3%81%AF%E8%B5%A4%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93
赤ちゃんポスト - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%E3%83%9D%E3%82%B9%E3%83%88
こうのとりのゆりかご|慈恵病院
http://www.jikei-hp.or.jp/yurikago/index.html
厚生白書【平成10年版】
http://wwwhakusyo.mhlw.go.jp/wpdocs/hpaz199801/b0024.html
厚生労働省:子ども・子育て:子育て支援
http://www.mhlw.go.jp/bunya/kodomo/kosodate.html
※:神戸市:くらしのガイド 出産・子育て・教育
http://www.city.kobe.lg.jp/life/registration/guide/shussankosodate/index-04.html
保健師 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E5%81%A5%E5%B8%AB
神戸新聞社 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%96%B9%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%AB
※:「こんにちは赤ちゃん事業」 全国市町村の4割が未実施 - MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/politics/local/081011/lcl0810111706000-n1.htm
厚生労働省:平成18年度保健・衛生行政業務報告(衛生行政報告例)結果の概況
http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/eisei/06-2/kekka5.html
図録未成年の人工妊娠中絶(推移と地域状況)
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/2248.html
※:刑法堕胎罪
http://members.at.infoseek.co.jp/tsukurukai/dataizai.htm
神戸新聞社 「すきっぷ21」
http://www.kobe-np.co.jp/skip/index.html
プロライフ-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%95
Woman’s e MediNavi/中絶の実情
http://www.e-medinavi.com/cyuzetsu/
[育児の基礎知識]All About
http://allabout.co.jp/children/childcare/

阪神江夏豊投手がシーズン通産401奪三振達成した日

2009-10-10 | 人物
江夏豊(えなつ ゆたか)は、1948(昭和23)年5月15日生まれ、兵庫県尼崎市出身。大阪学院高校から同年導入された第1次ドラフトで阪神タイガースより1位指名され入団し、新人として、1年目の1967(昭和42)年は12勝13敗だったが、豪速球を武器に奪三振225の最多奪三振を記録(リーグ1位)で華々しくデビューをした。そして、2年目の1968(昭和43)年25勝12敗で最多勝に輝き、大リーグ記録を上回るシーズン奪三振401個を記録。正に、怪童と言ってよかった。
江夏は、2年目のこのシーズン、9月17日の甲子園球場における対巨人戦では、王貞治の打席で稲尾和久の日本記録に並ぶ353奪三振を記録した後、後続の打者は投手も含めて全ての打者を意図的に三振以外で打ち取り、再び王の打席が回ってきた時に、記録更新となる354個目の三振を奪う離れ業をやってのけた(この時の画像は、このブログ最後のYouTube-江夏豊投手 全盛期の記録映像の中にある)。
江夏が、王からの奪三振にこだわったのは、当時阪神のエースだった村山実が、節目の記録となる三振を常に長嶋茂雄から奪うようにしていたことを真似たものと言われている。
戦後、日本のプロ野球が復活し、隆盛を極めたころダイナマイト打線を擁する阪神(このころ大阪タイガースを名乗っていた)も大活躍をし1947(昭和22)年に優勝もしていた。しかし、1950(昭和25)年2リーグ制が導入されたが、セリーグでは、初年度こそ優勝を松竹ロビンスに譲ったものの1951(昭和26)年~1959(昭和34)年まで、9年間巨人が8度優勝していた。その後も、巨人が、1960(昭和35)年三原脩三監督率いる大洋ホエールズ(現:横浜ベイスターズ)に敗れこそするが、1958(昭和33)年入団の長島、1959(昭和34)年入団の王がON砲と呼ばれるコンビを組むようになり、1965(昭和40)年から、9連覇し、日本シリーズでも9年勝ち続けた。そんな中で、阪神は1962(昭和37)年、1964(昭和39)年こそリーグ優勝を果たすがその他は2位、3位の成績に甘んじていた。村山はそんな阪神に入団した新人シーズンの1959(昭34)年6月25日の天覧試合小山正明をリリーフした際、学生時代からのライバル視していた巨人の長嶋に左翼ポール際へのサヨナラ本塁打を打たれた。これは微妙な判定であったが、村山は死ぬまで「あれはファールだった」と言って悔しがり、以来、村山対長嶋のライバル関係が出来あがっていたのだ。その時の天覧試合の様子は、以下で見ることができる。
YouTube天覧試合(村山本人、捕手山本、打者長島が司会徳光和夫と伴に同席した画像) ⇒ ここ
話しは元に戻るが、江夏は10月8日の対中日戦では新宅洋志から、383個目の三振を奪い、シーズン奪三振世界記録を達成。これまでの記録はドジャースサンディー・コーファックスが1963(昭和38)年に達成した382個であった。この記録は、同シーズン中に更新し、10月10日、401個を達成した。
奪三振の多さから「ドクターK」の異名をとった野茂英雄でさえ400どころか300に達したことはない(スコアブックでは三振をKで表すことから、Kは三振を意味している)。
江夏のこの「シーズン最多奪三振記録」は、日本は勿論のこと、メジャーリーグでも最高の記録であり、未だに、更新はされていない。因みに、メジャーリーグでの「シーズン最多奪三振」記録は、ノーラン・ライアンエンゼルス在席時の1973(昭和48)年に達成した383個である。なお、「通算最多奪三振」記録は、1966(昭和41)年~1993(平成5)年の間にノーラン・ライアンが達成した5714個。日本では、金田正一が1950(昭和25)年~1969(昭和44)年の間に達成した4490個が最高である(最多奪三振参照)。
江夏が阪神に入団した1968(昭和43)年ころより、エースの村山が右腕の血行障害に悩まされていたことから、入団後いきなり頭角を現した江夏がその後、村山に代わって阪神のエースの座に就き、最多勝利2度、最優秀防御率1回、沢村賞1回の他、20勝以上4回、6年連続リーグ最多奪三振など華々しい記録を作りあげ、名実共にセ・リーグを代表するピッチャーとして活躍した。4年目の1970(昭和45)年には通算1000奪三振を記録するが、これは通算奪三振の日本プロ野球記録保持者、金田正一を上回る最短記録であった。
又、村山がむきになって長島と勝負していたように阪神入団2年目に王との勝負で奪三振記録を更新して以降、江夏も王との勝負に固執し、通算で57の三振を奪ったが、直球勝負で挑んでいたため、20本の本塁打も打たれている。王から最も多く三振を奪った投手は江夏だが、江夏から最も多く本塁打を打った打者もまた王であった。そんな王に対し江夏は一度しか死球を与えていないという。なにかと言うと敬遠の多い最近の野球を見慣れていると、このような堂々と真っ向勝負していた野球がなつかしい。
こんな脱三振のことばかりを書いていると、江夏が、ただ闇雲に剛速球を駆使し三振を取るために打者と勝負していたように思われがちだが、球が速いだけでなくコントロールもよかった。その上、相当な研究熱心であったようだ。
しかし、先にも書いたように、江夏が阪神にいた当時は巨人が前人未到の9連覇を成し遂げている真っ只中であり、優勝戦線に加わることはあったものの、ペナントをその手にすることは遂にできなかった。その上、生まれつきの心臓疾患、血行障害が悪化。肩痛・肘痛を抑えるために服用していた痛み止めなどの影響で体重も激増した。そのようなことから同世代のライバルであった巨人・堀内恒夫に先んじて通算150勝を達成するも、成績は年々下降。一匹狼的な性格もありチーム内で孤立していた彼は、1976(昭和51)年、江本孟紀島野育夫らとの交換トレードで、追い出されるように南海ホークス( 現:福岡ソフトバンクホークス)へ移籍させられた。その後、血行障害や心臓疾患などから長いイニングが投げられずリリーフ投手に転向。この南海時代以降、投球も阪神時代のような三振に打ち取るピッチングから、打者の心理を読み取って変化球を巧みに使い分ける技巧派投手へ変化した。その後、1977(昭和52)年オフには、金銭トレードで広島へ移籍し活躍。
1979(昭和54)年11月4日の日本シリーズ第7戦が大阪球場で近鉄-廣島戦が行なわれた。9回裏に1点リードながら無死満塁と言う絶体絶命のピンチ(自ら招くも)を背負いながらも江夏の意地の投球によってこれを0点に抑え廣島が4-3で近鉄を下し初の日本一に。この江夏投手の投球技術は、球史に残る好投と讃えられた。冒頭掲載の右画像は、挟殺する廣島・水沼四郎捕手。左端が江夏投手である(朝日クロニクル「週刊20世紀」)。
廣島の日本一を決めたことを表現するのに「江夏の21球」という名文句がある。
この言葉を最初に使ったのは、山際淳司であった。1980(昭和55)年、文藝春秋社が満を持してスポーツグラフィック・マガジン「ナンバー」を創刊したとき、この創刊号に載った一篇のドキュメントが話題になったが、それが彼の『江夏の21球』である。
これは、先に書いた日本シリーズ「近鉄対広島」第7戦の9回裏の江夏豊が投げた21球だけをドキュメントしたものであった。広島が4対3の、1点リードで迎えた9回裏、1アウト満塁のピンチの場面で江夏がどのように投球したかを、そのときのバッターや監督、又、江夏自身に取材しながら構成したものである。江夏はスクイズをフォークに見えるような下に落ちるカーブではずして、3塁走者を殺し2アウトをとり、さらに最後の打者石渡茂を三振に切って落として広島を優勝に導いたのだった。その緊迫した場面の回想シーンを江夏が語る動画が以下で見れる。
YouTube-江夏の21球 (1979年)
http://www.youtube.com/watch?v=Ux1w_4zHjfQ&feature=related
この回想シーンの中で、印象に残る一場面は一塁を守っていた同僚、衣笠祥雄とのやりとりである。絶対絶命の場面で、古葉竹識監督は同点にされることを意識し、既に次の攻撃・打席の(江夏に打順が回る可能性があった)ことを考え、代えのピッチャーに準備・肩慣らしをさせていた。それを見た江夏はまだ信用を勝ち取ってなかったのかと心中で悔しさを爆発させていた。そこに一塁の衣笠は、「俺もお前と同じ気持ちだ。ベンチやブルペンのことなんて気にするな、やめるなら一緒に辞めよう」と声をかけたという。
絶体絶命のピンチを、1人の左腕の意地によって歓喜のドラマに変えた。そして、万年Bクラスで低迷していた廣島は、勢いに乗って翌年も頑張り、日本シリーズ2連覇を成し遂げた。
廣島の後、日本ハムファイターズの大沢啓二監督から押さえの切り札としての要請もあり、移籍後、活躍をみせチームを優勝に導いたことなどから『優勝請負人』の異名も取り、今でも“20世紀最高の投手の一人”との呼び声が高く、Yahoo! JAPANが企画した「20世紀日本プロ野球ベストナイン」の投手部門でも、沢村栄治、金田正一、稲尾和久ら往年の名投手や野茂 英雄らを抑えて1位に選出されている(以下参考の「VisualBASEBALL」のセンチュリーベストナイン 最終結果参照)。
しかし、そんな江夏が、プロ野球選手としては珍しく、大阪学院大学高等学校入学まで本格的な野球の経験がなく、中学時代は砲丸投の選手として活躍していたというのは驚きだ。阪神のスカウト陣は、そんな彼の直球も良かったが、頭の使える選手であるところを見込んで、ドラフト1位に指名したのだという。当時の阪神のスカウト陣の見る目は確かだったのだ。そんな、頭を使った上手い投球ができるからこそ、剛速球が衰えた後もリリーフとして活躍できたのだろう。
1983(昭和58)年オフ、日本ハムの大沢監督勇退に伴ない、西武ライオンズへ移籍させられるが、一匹狼的な性格の江夏は厳格な選手管理で有名な西武の広岡達朗監督との確執もあり、又、監督が将来を見据えての若手中心の選手起用を行っていたことから、ベテラン江夏の出番は与えられず、史上初の通算200セーブ、通算3000奪三振が目前だったが、1984(昭和59)年限りで西武を退団する。その後メジャー挑戦の夢も持っていたが、かなわず、引退後は、解説者、評論家などを努めていたが覚せい剤取締法違反で現行犯逮捕されて懲役の実刑判決を受けたりもしたが、現在も解説者、評論家として活動している。
「史上唯一の延長戦でのノーヒットノーラン」「オールスターゲームにおける9連続奪三振」など超一流ピッチャーとして数々の伝説を残している彼は、投げるだけではなくホームランも打てる万能選手であった。そんな彼の往年の活躍ぶりは以下で見られる。
YouTube-江夏豊投手 全盛期の記録映像
http://www.youtube.com/watch?v=veCdvfazkKA&feature=related
YouTube-阪神時代:江夏豊 通算2000奪三振の実況
http://www.youtube.com/watch?v=OJNzcG2vBAE&feature=player_embedded
YouTube-廣島時代:江夏豊晩年のピッチング(1980~1982年)
http://www.youtube.com/watch?v=2t3AS0vbNWM&feature=related
(画像向かって左:、元阪神タイガース:江夏豊投手。 右:プロ野球1979年の日本シリーズ第7戦11月4日大阪球場で行なわれ、廣島が4-3で近鉄を下し初の日本一に。1点差で迎えた江夏投手の投球技術は、球史に残る好投と讃えられた。写真は挟殺する水沼四郎捕手。左端江夏投手。いずれも。朝日クロニクル週刊20世紀「スポーツの100年」「1979年 038号」より)
参考:
江夏豊 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E5%A4%8F%E8%B1%8A
阪神タイガース ホームページ
http://hanshintigers.jp/
VisualBASEBALL
http://visualb.hp.infoseek.co.jp/index.html
ライバル列伝 江夏豊
http://members2.jcom.home.ne.jp/big1project/enatu.htm
松岡正剛の千夜千冊『スローカーブを、もう一球』山際淳司
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0609.html