今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

選挙

2010-07-12 | ひとりごと
2010(平成22)年7月11日、政権交代後初の大形国政選挙となる第22回参議院議員通常選挙の投票が行なわれ、その結果が開票された。
民主党は改選54議席を大きく下回って44議席にとどまり、国民新党も含めた与党の議席数は過半数を割り込んだ。一方、昨年野党に転落した自民党は予想を上回り51議席を確保し改選議席で第1党になった。これで、国会は、衆参各院で多数派となる完全な「ねじれ」状態になった。前自・公政権時の「ねじれ」とは異なり、今の民・国連立政権は衆議院での2/3以上の議席数を確保していないため、今後の政局は前自・公連立政権時代の「ねじれ」以上の大混乱が予測される。いや、「ねじれ」だけでは収まらず、政界再編の波が押し寄せてくるやもしれない・・・。
昨・2009(平成21)年8月30日の第45回衆議院議員総選挙では、子ども手当高速道路の無料化などを政権公約に掲げて戦い、選挙前の予想を大幅に上回る308議席を獲得し衆議院第一党となった民主党。その民主党を中心とする鳩山由紀夫内閣は当初、70%を超す国民の高い支持率を得てスタートし、発足直後からCO2削減目標の引き上げ、自衛隊インド洋派遣の撤退、公共事業の見直しなどの政策(鳩山由紀夫内閣の政策を参照)を積極的に推し進めたが、首相自身や小沢氏(当時幹事長)の政治資金に関する問題もあり、国会は混乱、8ヵ月間で支持率は20%以下に低下。普天間基地移設問題では自民党政権時代の日米合意をくつがえし基地の県外移設を追い求めたが実現できず、ほぼ自民党の原案に近い状態で米側と決着、そのことに当然のことながら沖縄県民は猛反発している。この首相の迷走と対応のまずさは、社会民主党の連立離脱を招き、鳩山政権の支持率も急速に低下、迫る参議院選を前に人気回復のため、沖縄問題と自らの政治資金問題などの責任をとる形で、強引に小沢幹事長をも道連れにする形で首相の座をおり、2010年6月4日に鳩山内閣総辞職。後任には副首相の菅直人氏が、民主党新代表に指名され、6月8日に菅内閣が発足した。
野党となった自由民主党総裁の谷垣禎一氏からは、衆議院本会議で(著書に書いたことと異なり、与党内での政権たらい回しであり)「言行不一致である」との追及を受けていた。
それは、鳩山政権時代の副総理・国家戦略担当大臣であった当時の彼の著書『大臣 増補版』(岩波新書)の中で「政策的に行き詰ったり、スキャンダルによって総理が内閣総辞職を決めた場合は、与党内で政権のたらいまわしをするのではなく、与党は次の総理候補を決めたうえで衆議院を解散し、野党も総理候補を明確にしたうえで総選挙に挑むべきだろう」・・・と述べていることを言っているのだ。自民党自体がやって来たことを民主党がやったからと言って、「よく言うわ・・・」といった感じではあるが、そのことをさんざん野党時代に非難していたものが、政権交代をし、自らの本でまで非難をするなど、大変立派なことを仰っている以上、菅氏が本当に心底そう思っておられたのであるなら政権移譲時に、何故鳩山氏に解散・総選挙を実施するよう進言しなかったのか・・・と、私も思っている。最も、自民党がしたと同じように、反小沢勢力(以下参考の※1、※2、※3など参照)に担がれて、当然、菅氏が選ばれることが分かっていての形式的な、急な民主党代表選は演じられているが・・・。この菅氏を担いだ半小沢勢力と言われる人達も、本気で菅氏を総裁になる人物、適任者であるからと本気で思って担いでいるとは到底思えず、残り僅か、9月の民主党代表選まで菅氏を担ぎ、その間に自分の名前を売っておき、代表選には総裁候補として争おうと計算づくでやっている人達の心の中は、見え見え・・・だ。
鳩山氏が、小沢氏を道連れにしてまで、菅氏に政権を移譲したのは、あくまでも、この参議院選にどうしても勝ちたいが為であり、鳩山氏・いや小沢氏にとっても、いわば、菅内閣は選挙管理内閣的なものと考えていたはずだ。それを、どう勘違いしたのか、切れ菅からズル菅に変身した彼は、サミットへの参加もあって、急に自分が偉くなったと勘違いしているようだ。
私の記憶では、彼はかっての自民党政権時代に「かいわれ」を食べた大臣ぐらいの存在であり、鳩山政権になってからは、鳩山氏が沖縄問題で苦労しているときには、副首相でありながら、私は何も関係が有りませんといった感じで傍観し、世界の中でも日本だけは、デフレ経済が進行し、円高に株安と深刻な経済状況の中にあるにもかかわらず、財務大臣になってからも、なんの有効な手立てもせず、副首相として、ポスト鳩山の地位を狙い、ただただ失敗をしないことだけを心がけ、官僚は馬鹿だとし公言ていた経済用語もわからない経済音痴は、官僚の力を借りないと何も出来ずに、官僚を使いこなすどころか、官僚は優秀だと褒め称え彼らに利用されながら、虎視眈々と次期首相の座を狙っていた。そして、首相になると、かっての自民党政権と同じような強引な手法で予算を決めるなどの国会運営を行い、選挙にはいるや、選挙前に十分な審議もしないままに唐突な「消費税10%」発言を行いこれを争点化し、それに対する批判が行なわれると、その言い訳にやっきとなっていた。
二人区に2人の民主党候補者が立てたことに対しての小沢批判も有るが、小沢は本気で参議院選に勝ちに行っていた。どんなに立派なことを述べようと、政治の世界、数がなければ何も出来ない。民主党が本当に自分達の理想とする政治を行なおうとすれば、良くても悪くても数を制しない限りは実行できない。小沢はそれを一番良く知っている。
無党派層が民主党離れをした。それが、2人区の組織票を持たない無党派の民主党立候補者が敗れた原因であるが、その原因を作った最大の要因は菅氏の突然の消費税10%論とそれに反発した人達への言い訳や弁解の迷走振りと強引な国会運営である。それが証拠に、鳩山から菅への政権移譲で支持率は相当回復していたのだから・・・。
12日朝日新聞朝刊にも書いてあったが、このような中での選挙でいざ投票となると、誰に投票したら少しは政治がましになるのかと、国民にとって選ぶのにこれほど難しい選挙はなかっただろう。
前回選挙の衆議院選挙で、選挙民の一票が政治を変え、政権交代まで実現することを知ったのだから・・・。その結果が、民主党とズル菅が独走しないようにとブレーキをかけた。
消費税論議をすることが悪いわけではない。もうぼちぼち、方法論は別として消費税率アップなどの増税のこと考えなくてはいけない時期に日本が来ていることぐらいは、日本国民の多くは承知している。しかし、何故10%なのか、消費税論議をする前に、民主党はどれだけ政治や行政改革に取り組み実行したのか・・・。
自動仕分けなど評価の出来ることもあるもののこれといった大きな改革には手をつけていない。子供手当の問題にしても、選挙目当てのバラマキのように、お金がありすぎて困っている鳩山家の孫にまで子供手当を支給するほど日本の財政が豊かではないとを、国民の多くは知っており、増税をしてまでこのような手当を望んではいなかった。本当に困っている人には支給すればよいし、少しでも子供が生み易い環境を作るには、子供手当意外に幾らでも方法論があることを指摘していた。しかし、自分たちが昨年の選挙で約束した「マニフェストを守る」と言う大義名分を建前に、選挙に勝つために役立ちそうなバラマキだけを実行して、選挙のどさくさ紛れに、消費税アップを狙うなどのやり方は、国民を馬鹿にするにも程がある。
去年の選挙で、野党であったが故に財政状況などがわからずに実施が困難となったものについては、そのことを国民に素直に詫びれば良いことである。自分たちの面子を守るだけの為に、膨大な額の税金を使われたのではたまらない。
私も、去年は、民主党に期待したからこそ、1票を入れさせてもらった。しかし、金のありすぎて世間のことも何も分からない人や、経済のことは何も判らず口先だけは達者でただ要領が良いだけの人や、物覚えが良くて東大を出たものの、世間のことはさっぱりの理屈人間ばかりが、選挙に勝ち与党になると、自民党以上の独善的な手法で政治をしようとするなど、勝手なことを黙ってさせるわけにはゆかない。
今、世界の中でも例のないデフレから脱却できずにもがいている日本は経済の活性化なしに、失業問題も福祉も何もあったものではない。次の衆議院選挙まで、3年以上ある。今の小ざかしいだけの人達に好きなように政治を任せ迷走を繰り返していると、日本は本当に沈没しかねないと心配している。もっとリーダーシップのあるものが党を率いるべきである。
(画像は、7月12日記者会見する菅首相、朝日新聞掲載写真をちょっとかいわれでお飾り)、
参考:
※1:民主党内『小沢vs反小沢』勢力図予測:2010参院選候補者編
http://blog.trend-review.net/blog/2010/07/001685.html
※2:なぜここに来て大手マスコミと民主党内反小沢勢力が「小沢幹事長辞任」要求の世論誘導に踏み切ったのか?』
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=228733
※3:「あの人が煽動」小沢側近が“黄門様”渡部氏を痛烈批判
http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20100219/plt1002191209000-n2.htm
"策士"菅直人が「9月再選後」に狙う「消費税10%増税」選挙
http://ameblo.jp/asuma-ken/entry-10569119109.html
討論×闘論 " 記事アーカイブ " 「疑似政権交代」か「たらい回し」か
http://blogs.jp.reuters.com/blog/2010/06/02/%E3%80%8C%E7%96%91%E4%BC%BC%E6%94%BF%E6%A8%A9%E4%BA%A4%E4%BB%A3%E3%80%8D%E3%81%8B%E3%80%8C%E3%81%9F%E3%82%89%E3%81%84%E5%9B%9E%E3%81%97%E3%80%8D%E3%81%8B/
第22回参議院議員通常選挙 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC22%E5%9B%9E%E5%8F%82%E8%AD%B0%E9%99%A2%E8%AD%B0%E5%93%A1%E9%80%9A%E5%B8%B8%E9%81%B8%E6%8C%99

川の日(Ⅰ)

2010-07-07 | 記念日
今日「川の日」は、建設省(現在の国土交通省)が、近代河川制度100周年にあたる1996(平成8)年に制定。
7月7日を「川の日」とした理由は、7月7日は七夕伝説の「天の川」のイメージがあること。7月が河川愛護月間であること 。季節的に水に親しみやすいことから。又、「川の日」を定めた趣旨は、(1)近年、都市の発展、治水事業の発展などを契機に、希薄化した人と河川との関係を見直し、河川に対する人々の関心を取り戻すこと 。(2) 地域の良好な環境づくりなどについて流域の住民・自治体が一緒になって考え、取り組む、といった地域の活動を支援すること。・・・としている。
ただ、毎年7月を「河川愛護月間」と定めての、河川愛護運動そのものは、1974(昭和49)年から実施されているきたうだ。
わが国の河川制度は、1896(明治29)年に旧河川法治水に関するもの)が制定されて以来、幾たびかの改正を経て、1964 (昭和39)年に制定された新河川法において水系一貫管理制度が導入され、治水、利水の体系的な制度の整備が図られ、今日の河川行政の規範としての役割を担ってきた。その後、1997 (平成9)年に改正された河川法では、治水、利水の役割を担うだけではなく、環境についても重要な要素とした川づくりが求められるようになったことから、これらの総合的な河川制度の整備が進められた。そして、地方公共団体、川に関するNPO等に幅広く「川の日を」契機とした河川に関する諸活動の推進を呼びかけ、河川と国民との関わりとその歴史、河川の持つ魅力等について広く国民の理解と関心を深めるような各種行事、活動を実施することにしている。「河川愛護月間」のことの他、河川に関する詳しことは以下参考に記載の※1:「国土交通省HP・河川」を又、改正河川法のことについては※2を参照されると良い。尚、冒頭掲載の画像は、1996(平成8)7月5日発行の「近代河川制度100周年記念」記念切手である。意匠は、小野竹喬画「奥入瀬の渓流」80円、2種連刷ものである。
奥入瀬川は、奥入瀬川水系の本流であり、十和田湖を源流(同湖唯一の流出河川)としている。十和田湖東岸の子ノ口から南八甲田の山々から流れてくる黄瀬川、蔦川などの支川を集めながら奥入瀬渓谷を約14キロ北東に流れて、十和田市(旧十和田湖町)の焼山付近で東に流れを変え、中里川、熊の沢川、後藤川などの支川と合流して、上北郡おいらせ町と八戸市の境界で太平洋に注ぐ二級河川である。奥入瀬川の旧称は「相坂川」(あいさかがわ、おうさかがわ)で、青森県告示や河川法では全流路を相坂川に統一しているようだが、一般的には焼山付近からの下流域を相坂川と呼び、奥入瀬渓流と呼ばれている子の口から焼山辺りまでが奥入瀬川と呼ばれているようだ。この渓流が、奥入瀬と呼ばれるようになったのは、奥に入るほど川の水が浅く人が歩いて渡れる瀬が多くなるからだと聞いている。上流域は、保水力の高いブナ科のブナミズナラなどの広葉樹が広がる山地で、十和田湖、奥入瀬渓流周辺が、十和田八幡平国立公園の一部となっており、ブナ自然林や奥入瀬渓流に代表される全国でも有数の観光地となっている。
奥入瀬渓流沿いにはいくつもの滝が点在し、「瀑布街道」とも呼ばれているが、変化に富んだ流れと、それぞれに異なった姿を見せる数多くの滝に加え、さまざまな奇岩、奇勝と原始の地球から育ってきたブナ原生林の木立とが、優雅にして清冽な渓流の自然美を構成し、新緑や紅葉の季節など 四季折々に衣替えしたみごとな景観を見せてくれる。渓流沿いには車道とともに遊歩道が整備されており私も2度この渓流を歩いたことがあるが、飽きることがない。出切れば何度でも訪れてみたいところである。
又、奥入瀬川には、稲作のための灌漑用水の取水堰(せき)が多く設置されているが、特に三本木原台地の開拓のために幕末頃開削された「稲生川」は著名である(以下参考の※3:参照)。
いや、なにか今日は川の日なので川のことを書くのが趣旨であったが、「近代河川制度100周年記念」切手の画材が、「奥入瀬の渓流」であり、それが私の大好きな渓流であったものだから、この渓流のことをとやかく書きすぎたかな・・・。
明治政府の一大プロジェクトとして1879(明治12)年に編纂がはじまり、1896(明治29)年から1914(大正3)年にかけて出版された類書(一種の百科事典)である『古事類苑』の地部/河〈瀧□附〉 には「我國ノ地勢、幅員狹隘(あいろ=幅が狭い)、加フルニ山脈其脊梁ヲ走リ、殆ド平野ト稱スベキモノナキヲ以テ、大河ノ洋々タルモノヲ見ズ、概ネ半バ溪流ニシテ船舶ヲ進ムルニ便ナラズ、故ヲ以テ大川ト稱スルモノニシテ、猶ホ急流矢ヲ射ルガ如キアリ即チ(以下略。富士川他川の名を列挙)等皆海内ノ巨川ト稱ス、其治水ニ關スル事ハ、政治部水利篇ニ詳ニセリ・・・」・・と記載がある(詳しくは以下参考の※4を参照)。
要するに、地勢的に国土は幅員が狭くて、中央には山脈が走り殆ど平野と称すべきものもない我国にあっては、中国のような大河と言えるものはなく、半ばは船舶も進むことの出来ない渓流であり、だからこれを大川と言い、富士川のような矢を射るような急流は巨川と称している・・というのである。
河と川の字の使い分けについて、「川」を「河」と表記するのは中国だけのようであり、中国では、古くから北部は「河」(黄河の河から)、南部では「江」(長江の江から)と北と南で違った呼び方れているようだ。又、大きさでは、「江」は「川」のおよそ100倍の流域面積で、「河」は「川」のおよそ50倍の規模で使い分けされるよう。中国で「川」は、溝を意味しているとか。「川」のルーツは両岸の間を水が流れる様子を描いた象形文字で、「河」は水を意味する”さんずい”と”曲がる”という意味の「可」を組み合わせたもので、「河」は曲がりくねって流れているという意味になる・・と国土交通省HPに関するQ&Aで書かれていた。いずれにしても、中国の大河に比べたら日本の「川」は溝のようなものに見えるかもしれない。日本では、漢字が中国から入ってきたので古くは「河」の字も使われていたが、奈良時代に書かれた『和名類聚抄』にも「河(か)は川のことで和名は、加波(かは)という」とある。「かは=かわ」の語源についてはいろいろな説があって、水の流れる音「がはがは」という擬音からきたという説が有力なそうである。
川が地上を流れ始めるところを源または水源、その付近の川を源流という。普通の川は地下水が地上に湧き出る場所を水源として一年中水が流れるが、雨の日や雨季だけ一時的に流れる川もあり、これを枯れ川(涸れ川、水無川)という。源流から流れた川は、下流に行くに従って、いくつもの他の川と合流して大きくなり、それは、最終的に、海や湖沼に注ぎ込んで終わる。
国家を維持するための居住地と人口を支えるためには多くの食料と飲料水が必要になる。そのため、治水問題と灌漑問題の解決が重要になる。治水問題では古来、沖積平野のうえに社会を築く日本にとって台風、集中豪雨などの洪水による水害から、人命や財産を守るために築堤(堤防を築く)などの河川整備が不可避の課題であった。又、河川を流れる水は、生活用水、農業用水、それに、工業用水、水力発電、といった用途に利用できる貴重な資源であるため、灌漑問題ではそれら水源確保のための、ため池堰堤(えんてい)やダムの建設と水源から目的地までの用水路の建設などの整備が相互に関連しながら行われてきた。
奈良時代初期に編纂された播磨国風土記播磨国風土記』で播磨の国土造りで活躍する伊和大神(イワノオオカミ)は、葦原志許乎命(大己貴神の別称・葦原醜男)とは同神であると思わせる構成で書かれているが、この神の子である石龍比古命(男神:いわたつひこのみこと)と石龍比売命(女神:いわたつひめのみこと)が、川の水をめぐって争っていたことが、『播磨国風土記』(揖保郡)に、美奈志川命名譚由来として書かれている。以下参考の※5:「神社史料集成・伊和坐大名持御魂神社」には原文があるが、難しいので、※6:「『風土記(播磨国)』に見える「井戸」」から、その部分を抜粋させてもらう(※7、も参照されると良い)。
男神は、北の方の越部村に流したいと思った。
女神は、南の泉村に流したいと思った。
男神は、山の峰を踏んで川の流れを北の方に向けた。
女神は、それを非理無道なことと考え、櫛で水をせき止めて溝を設けて水を南に導いた。
男神は、泉村から川を西に導いて桑原村に流そうとした。
ついに女神は怒り、地下に水を通す密樋(したび:樋=とい)を設けて泉村の田の上に導いた。これにより、地の表面には水は流れていないが、地の中を通って水が流れてくるようになった。故、无水川(みなしがわ=美奈志川)と名づけられた・・・と。美奈志川は現在のたつの市揖保郡新宮町の「中垣内川」のこと。伊和大神は、揖保川の東岸の大きい社叢の中にある伊和神社(兵庫県宍粟市)に祀られている。揖保川は、宍粟市の藤無山(標高1,139m)に源を発し南流。たつの市を貫流し、姫路市余部区付近で中川を西に分け、三角州を形成。姫路市網干区で播磨灘に注いでいる。石龍比古命と石龍比売命は、たつの市揖西町清水にある「祝田神社」に祀られている(以下参考の※8参照)。
因みに英語の「ライバル(rival)」は、 ラテン語の「リウァリス」が語源で、「川」を意味する「リウス」から生まれた言葉だそうだ。昔は、川はその付近に住む人々の共有だったために、「仲間」の事をこう呼ぶようになった。だが、川の水をめぐって争いが絶えなかった事から、現在のような競争者、好敵手といった意味に変化したという。 『播磨国風土記』に見られる兄弟の神の水争いも十分に必要な水を確保することが用意に出来ない地域が多かったことを示している。それを解決するための井戸が開発されるが、『播磨国風土記』には、そんな井戸の名前の由来も多く書かれている。
河川は古くからこのような利水のほか、水運も都市の形成にとって重要な要素であり、物資の運搬に有利な河川沿いに多くの都市が発展している。しかし、水をめぐる争いで、渇水にも増してたいへんだったのは洪水時で、特に約460本もの川が流れ込む全国一の水瓶琵琶湖では、水の流出口は瀬田川一本だけであることから、大雨が降ると琵琶湖の水かさが増し周辺数千ha、時には1万haの農地が何度となく水の底に沈んだという。だからといって、流れを良くするために瀬田川の川底を掘れば、今度は下流の大阪に洪水が押しよせ、推古天皇(623年)以来、明治元年まで、記録に残る淀川の洪水は239回。ほぼ5年に1度の割で起こっているそうで、これも、川の上と下で起る水問題である(以下参考の※9参照。)。
水源に乏しく、農作物を育てるための水確保のため飛鳥時代に当時の大和朝廷によってつくられた灌漑用に616年につくられた狭山池ダムが、日本におけるダムの歴史の始まりだという。以降、731(天平3)年僧・行基により、播磨(現在の伊丹)に昆陽池が、建設されるがこれが、日本における多目的ダム治水ダムの初見だそうだ。その後時代の変遷と共にダム建設の目的・技術・意義そしてダムを取り巻く様々な事情も変わっていく(詳しくは日本のダムの歴史参照)。1911(明治44)年 電気事業法が施行され。これ以降全国の河川で水力発電事業が着手されるようになると、1918(大正7)年庄川の流木権を巡り庄川水力電気と飛州木材が激しい対立闘争を起こす庄川流木争議(~1933年)が、1924(大正13)年、大井ダム建設に端を発する宮田用水の取水問題で、慣行水利権を巡り大同電力と下流農民が争う宮田用水事件(~1939年)なども起っているが、1935(昭和10)年、当時の内務省物部長穂の提言を受け全国7河川1湖沼において「河水統制事業」に着手。これが、河川総合開発事業のはしりとなった。

川の日 (Ⅱ)と参考のページへ

川の日 (Ⅱ)

2010-07-07 | 記念日
戦後、1950年代から1960年代の高度経済成長期に、産業排水、生活排水が直接川に流されたため、水質汚染が深刻になった。また、河川はかって、人が自然と身近に触れ合うことのできる場であったが、都市化と治水を優先するあまり、河川をコンクリートの壁で隔てたり地下に通したりして、憩いの場とはいえなくなった。治水が一段落し、水質改善のめども立ちはじめた1980年代には、このような状況を改善するために親水空間の創出を意識した河川計画が立てられるようになり、さらに河川・河畔の生態系の重要性も考えられるようになると、1990(平成2)年の建設省河川局の通達「多自然型川づくりの推進について」を転機にして、多自然型川づくりが今後の河川計画の基本とされるようになった。また、近年は河川の水質環境基準(以下参考の※10参照)を達成していることが多くなり類型の見直しなどにより、さらに水質の改善が図られている。
私たちがまだ子供の頃には、神戸の今住んでいる家の近くを流れる小さな川にも山からの綺麗な水が豊富に流れており、少し上流に行けば沢蟹などが採れて、夏にはトンボが飛び交い、街中の小さな川の土手には季節になるとつくし(土筆)が生え、自然の野花が咲き情緒があった。しかし、大雨になるとしばしば氾濫したことから川を掘り下げ拡幅し、完璧な護岸工事により立派になったものの、昔のような情緒はなくなった。その代わり、川の両岸には桜並木が出来、桜の名所にもなっている。ただ、残念なのは、山からの水の量が少なくなり、立派になった川の底はほんのちょろちょろと流れているといった感じでまるで水無川のようである。その川沿いには広い公園がある事から私たちは夫婦での散歩などをしているが、今年の春からずっと川の工事をしていたので何をしているのかと思っていたら、余り水のない川底をもう少し深く掘り下げ、川の底に小さな溝のような小川を作っていたのである(広いところを交互に作っている)。いつも水の少ない川ではあるが、ここのところ梅雨で良く雨が降っていることから小さな川の底の溝のような小さな小川にも勢いよく水が流れており、そんな溝のような川であっても、水の流れている川を見るとなにか昔遊ん子供の頃の川のイメージがかすかに感じられた。以下の写真が散歩時にとった、小さなな川の底につくられた人工の溝のような小さな川である。

川底は浅いので親がついておれば、小さな子供が遊ぶことも出来るだろう。もう何か忘れられた存在になりかけていた川であるが、水の流れない川なんていただけない。やはり”川は流れて”いなくては・・・。ん・・・!!
そういえば、私には、とっても気に入っている川の歌が2つある。
まだ私が若い頃、1961(昭和36)年にリリースされた、仲宗根美樹の「川は流れる 」(作詞 横井 弘 作曲 桜田誠一)
♪病葉(わくらば)を今日も浮かべて街の谷 川は流れる
仲宗根美樹が、ハスキーな声で気怠い感じで唄うこの歌は枯れて流される「病葉」に喩えて人生を謳ったものであり、なんとも切なく、わびしいが、心にしみる名曲である。この歌のことについては、前にこのブログ邂逅忌(小説家・椎名麟三の忌日)【Ⅱ】の中で書いたことがあるな~。
それともう1曲は、は昭和を代表する天才歌手、美空ひばりの生前最後に発表されたシングル作品「川の流れのように」(作詞:秋元康、作曲:見岳章、編曲:竜崎孝路)である。この曲の『川』とはニューヨークのイーストリバーのことだそうだ。同曲の作詞を手掛けていた頃、作詞家の秋元はニューヨークに在住しており、自宅から見えるイーストリバーを見て作詞したという。
♪生きることは旅すること・・・川の流れのように穏やかに この身をまかせていたい・・・・ああ 川の流れのように おだやかにこの身を まかせていたい  
何度聴いても飽きない名曲である。1989(平成元)年1月11日に日本コロムビアより発売されたが、美空はこの曲が発売されて半年余り後6月24日に、52歳で死去。彼女と同じような年代の私など、彼女の歌や映画と共に生きてきた。彼女の時代の終りは、私の時代も終わったのだ・・・といったことをしみじみと痛感させられたものである。
天上の天の川では、互いに恋しあっている織女星と牽牛星の恋の話(七夕伝説)が有名であるが、地上の水の流れる川を題材とした歌には川の流れに人生を見る・・・人生を歌ったものがぴったり会う。今日のこのブログは最後に、この名曲2曲を聞いて終わることにしよう。

YouTube -川は流れる 仲宗根美樹

YouTube -川の流れのように 2000

(画像1ページ目のもの:1996(平成8)7月5日発行「近代河川制度100周年記念」記念切手。意匠:小野竹喬画「奥入瀬の渓流」80円、2種連刷もの。このページの画像:私の家の近くの川。水量が少なく川の底、に溝のような細くなったり広くなったりしている人工の川を掘り下げて作られたもの)
参考:
※1:国土交通省HP・河川
http://www.mlit.go.jp/river/
※2:新 しい河川整備の計画制度について
http://www.rm.hkd.mlit.go.jp/kasen/seibi/seido.html
※3:三本木原開拓の歴史 | 十和田市立 新渡戸記念館
http://www.towada.or.jp/nitobe/reclamation/index.html
※4:古事類苑:地部/河〈瀧附〉 - Kojiruien
http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/index.php?%E5%9C%B0%E9%83%A8%2F%E6%B2%B3%E3%80%88%E7%80%A7%E2%96%A1%E9%99%84%E3%80%89
※5:神社史料集成・伊和坐大名持御魂神社
http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/440401.html
※6:『風土記(播磨国)』に見える「井戸」
http://edu-project.com/tu/ido1.doc
※7:『播磨国風土記』揖保郡出水里のお話。
http://ameblo.jp/seikuzi/entry-10184688003.html
※8:地域別神社紹介(宍粟市:伊和神社.龍野市:祝田神社他)
http://www.norichan.jp/jinja/chiikihyogo.htm
※9:水争いと「農」の秩序-「農」を科学してみよう-近畿農政局整備部
http://www.maff.go.jp/kinki/seibi/midori/kagaku/03/22.html
※10:環境省:別表2 生活環境の保全に関する環境基準
http://www.env.go.jp/kijun/wt2-1-1.html
親水公園研究所
http://homepage2.nifty.com/sotarot/index.html
環境省 インターネット自然研究所
http://www.sizenken.biodic.go.jp/
国土地理院:日本の典型地形
http://www1.gsi.go.jp/geowww/themap/tl/tl_list.php?fileno=0080
神奈備・伊和神社
http://kamnavi.jp/it/kinki/iwa.htm
播磨風土記の世界
http://www.himeji-utimati.jp/history/harimafudoki.htm
語源辞典《ら行・わ行》
http://www.geocities.jp/honmei00/zasugaku/gogenra.html
川 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D
新しい河川制度
http://www.pref.chiba.lg.jp/syozoku/i_kasen/hoshin/seido-j.html
奥入瀬川水系のご紹介
http://www7a.biglobe.ne.jp/~one-bellwood/annai~turiba~kawa_oirase1.html
奥入瀬川 流域保全計 画(PDF)
http://www.pref.aomori.lg.jp/soshiki/kankyo/kankyo/files/plan03.pdf#search='二級河川 稲生川'
EST-EST(日本の神の名の事典)
http://estonline.sakura.ne.jp/est/index.html

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みたらしだんごの日(Ⅰ)

2010-07-03 | 記念日
日本記念日協会の今日・7月3日の記念日を見ると「みたらしだんごの日」があった。
「みたらしだんご」とは3-5個の団子を串に刺して砂糖醤油の葛餡(くずあん。葛粉・片栗粉などを加えてとろみをつけた汁。)をかけた串団子のこと。スーパーマーケットやコンビニエンスストアなどで幅広く販売されている「みたらしだんご」を、手軽なおやつとしてもっと食べてもらうのが目的で、この商品を製造する山崎製パン株式会社が制定したそうだ。日付は「み」(3日)たら「し」(4日)だん「ご」(5日)の語呂合わせからとか。何か苦しい語呂合わせだが、最近は、実に、このような企業の販促的記念日が多くなったが、御蔭で、私も「今日のこといろいろ・・・」と書く材料が出来て重宝はしている・・・(^0^)。
「みたらし団子」の発祥は、京都市左京区下鴨松ノ木町53にあると言われる「加茂みたらし茶屋」だと言われている。この店の近く、つまり、店の前の下鴨本通沿いに少し南側へ3分ほど歩くと下鴨神社の西門側にたどり着く。
この下鴨神社の境内(糺の森〔河合の森ともいう〕)に御手洗川の源泉となる霊水が沸き神の池とされている御手洗池(みたらしのいけ)の上に建つ・井上社(通称:御手洗社)に祀られている瀬織津比売命祓神かつ水神で、罪、穢を祓い除く神であることから、井上社の夏越の例祭として、土用の丑の日に、御手洗祭(みたらしまつり)が行なわれ、御手洗川に足を浸し無病息災を祈願してきた。これは、「足つけ神事」とも称されている(詳しくは以下参考の※1参照)。京都三大祭りの一つ葵祭の斎王代(さいおうだい)が上賀茂神社と隔年で行われる厳粛な禊ぎの儀式も、ここで執り行われる。(葵祭り〔賀茂祭〕については、前にこのブログで書いたので、ここで見てください)。
みたらし団子は、もともとは、下鴨神社の葵祭や御手洗祭のときの神饌菓子であり、氏子の家庭などで作られたものが神前にお供えされ、祈念されたものを家に持ち帰って、醤油を付けて火にあぶって食べ厄除けにしていたものが始まりだというのを聞いたことがある。
下鴨神社の門前に店を構えた和菓子司「亀屋栗義」が御手洗池に沸き立つ水泡を模して、1本の竹串に5つの団子を通して作ったものが評判になり、いつしか「みたらし茶屋」の名で人々に親しまれるようになったという。「みたらし団子」は、竹串に刺した小さな5個の団子の中の1個だけが、他の4個の団子より少し離して串の先の方に刺してあるが、これは、人の五体を表したもので、少し離れている一個は頭に相当するそうだ。現在のような串に指した団子に甘ダレをつけるようになったのは大正時代になってからのようである。
昔は、祭の際に「みたらし団子の店」がたくさん並んでいたというが、現在ではこの亀屋栗義の店のみとなっている。ここからは、余り団子とは直接は関係ない話になるので、興味のある人だけ見てください。
少し、古い話になるが、天照大神が、天の岩屋戸にこもり、高天原が暗黒になったとき、八百万の神々は、光明をとりもどそうとして、天安(あめのやす)の河原に続々と集まり、天の岩屋戸から神を引き出す相談を始めた。記紀神話の中で、広く知られるこの物語は、河原に集まった神々が実行に移したのは、マツリであった。天安の河原は、祭りが行われる場所であり、そこに集まった神々はそれぞれに役割を分担して祭りの準備を進めてゆく。
神を祭るために清められた場所は、ユニハ(斎庭〔ゆにわ〕)といった。「斎庭」とは神を祭るために斎(い)み浄めた場所のこと。人々は心身を清めてそこに集まり、迎えた神々と酒食をともにし、歌い舞う。祭りの規模と場所はさまざまであったが、集落で神を祀る場所がはっきりした形をとるようになると、人々はそこに垣をめぐらして、穢れの侵入を防ぎ、やがて囲いの中に建物を建てるようになった。
一般に神社の中心となる殿舎は本殿と呼ばれ、そこに神の依り代となるものが祭られるが、祭式はその前の広場で行なわれ、それを取り囲む垣は玉垣・などと呼ばれた。後に神社には、人々が潔斎するために集まる建物から発展した拝殿・幣殿・神に奉る食物を調理する御饌殿(みけでん)、神前に進む人が身を清める御手洗をはじめ、種々の施設が加えられ、神を祭る人は心身を清めるために定められた場所で潔斎の生活をしたし、禊を行なう場所も、みそぎ川、みたらし川と呼ばれて新鮮な場所とされるようになった。
「みたらし団子」は漢字で「御手洗団子」と書く。広辞には、「御手洗」のミは敬意を表す接頭語であり、①神社の社頭にあって、参詣者が手や口を清めるところ。『徒然草』(つれづれぐさ)の一文②手水(手水)を使うこと。③御手洗川の略。④御手洗祭りの略。とある。そして、兼好法師(吉田兼好)の『徒然草』(つれづれぐさ)の一文(第67段の冒頭)にある「御手洗(みたらし)に影の映りける所と侍れば・・・」を紹介している。(この引用文については、以下参考に記載の※2の『徒然草』解説の第67段を参照)。
これで、先に書いた下賀茂神社の「みたらし団子」の曰(いわ)くも漢字のことも納得・・・と思うかもしれないが、実は、ここに出てくる藤原実方の舞の妙なる姿を、水に映したのは上賀茂神社の御手洗川である。上賀茂の摂末社で、「橋本の社」は御手洗川にかかる小さな橋の傍らにあり、衣通姫と共に藤原実方をも祀っていたらしい(以下参考の※3、※4参照)。
御手洗とはもとは神社に詣でる際、浄める泉であることは広辞苑にもある通りで、『源氏物語』20帖「 朝顔」で、光源氏の叔父である桃園式部卿宮が死去したので、その娘、朝顔は賀茂斎院を退いて邸にこもっていたが、若い頃から朝顔に執着していた源氏が、桃園邸を訪ね女王と直接会見することを強要する中で、間に立った女房の宣旨(せんじ)が、『古今集』恋一-501の
「恋せじとみたらし川にせしみそぎ神はうけずぞなりにけらしも」(読人しらず)
の歌を踏まえて「禊の神はいかがはべりけん」(この御禊(みそぎ)を神はお受けになりませんそうですねと、戯談ながらも、源氏に同情する場面も出てくる。源氏物語については以下参考の※5、※6を、古今集恋一-501の歌の解説は、以下参考の※7:「千人万首」の中古 よみ人しらず歌を参照)
「千人万首」の歌の解説に、この歌にある“みたらし川は、身を清める川であるが、王朝和歌では賀茂神社境内を流れる御手洗川と解するのが普通だが、この歌では特定の川と考えるべき理由はない。”としている。
京都市街の東部を流れる賀茂川は、高野川と合流する三角州あたりで、鴨(かも)川と名前を変える。この賀茂(鴨)川沿いに、京都きっての古社つまり、賀茂川にかかる御園橋の東に上賀茂神社と、鴨川の葵橋の東にある下鴨神社がある。上賀茂神社(正式名称:<賀茂別雷神社)に対して下鴨神社の正式名称が「賀茂御祖神社」・・・、”御祖”と呼ばれるのは、東殿の祭神・玉依媛(たまよりひめ。『山城国風土記』に登場する玉依比売とされる)命が、上賀茂神社の祭神・賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)の母親とされていることによる。さらに、西殿に祀られている賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)は、玉依媛の父であり、賀茂別雷神にとっては祖父にあたる。
こうした加茂神社の関係を表すために”御祖”を名称の一部にしているが、両社とも古代豪族・鴨氏の氏神を祀る神社であり、賀茂神社(賀茂社)と総称され、上・下賀茂神社に分かれたのは、奈良時代かららしい。以来両社をもって一社のような扱いをされてきたが鴨族は実に謎の多い氏族ではある。

みたらしだんごの日 (Ⅱ)

みたらしだんごの日  参考

みたらしだんごの日 (Ⅱ)

2010-07-03 | 記念日
糾の森は、今は、賀茂御祖神社(下鴨神社)の境内にある社叢林であり、およそ12万4千平方メートル(東京ドームの約3倍)の面積がある。しかし、かつて京都に平安京が置かれた時代にはその約40倍約495万平方メートルの広さがあったという。それが、応仁の乱(このとき総面積の7割を焼失下と言われる)など京都を舞台とする中世の戦乱や、明治時代初期の上知令による寺社領の没収などを経て、現在の面積まで減少したという。緑深く、水清かった平安遷都以前の山城国は、渡来人である秦氏などが開拓した稔り豊かな盆地あった。しかし、その中にあって、鴨族は八咫烏に化身して神武天皇を導いたとされる賀茂建角身命を始祖とする天神系氏族であるが、その鴨族が今の御所市周辺に移り、葛城川の岸辺に代々賀茂神社に奉斎し(鴨都波神社参照)、やがて、山城国葛野郡愛宕郡を支配した(この辺の事情は、以下参考の※8 が詳しい)。子孫は上賀茂・下鴨の両神社の祠官家(神社に仕える神職)となった。また、賀茂県主は同じ山城国を本拠とする秦氏との関係が深い。
賀茂県主の出自に関しては、大和国葛城の地祇系賀茂氏が、山代の国の岡田の賀茂(岡田鴨神社がある)に至り、さらにその一流が山城川(木津川)を下り、淀川との合流点から葛野川(桂川)を遡り、高野川と賀茂川(鴨川)が合流する地点までやってきて、そこから上流(北方)の賀茂川を望んで「狭くて小さいけれども、この石川は清川(すみかは)だ」と言ったので、鴨川のことを「石川の瀬見の小川」と名付けた。そして更に、賀茂川の上流久我の山基(久我神社がある。神話伝承によれば、賀茂氏の祖神の誕生の地である。かつてこのあたりは久我國を称していた。)に至り、その時から賀茂と呼ばれたことが「山城國風土記」に書かれている。(鴨族のことは以下参考の※8、※9、※10 ※11など参照)。
京都の鴨川は河川法上では、起点よりすべて鴨川の表記であるが、高野川との合流点より上流は、通例賀茂川・下流を鴨川と表記する。平安時代には流域により表記を区別していたわけではないがこれは、「KAMO(鴨・賀茂・加茂)」という言葉と「KAMI(神)」が同じ言葉だからで、もともと氏族名のカモ(賀茂)というカミ(神)が、川をカミ(上)の方へ遡ったことを示し、賀茂・神・上は連続した語であったからだという。
下鴨神社境内の糺の森は賀茂川と高野川の間に挟まれるように広がっていることから、この森は「河合の森」とも呼ばれている。この河合の森に入ると、すぐ左手に河合神社がある。下鴨神社の摂末社で、神武天皇の母・玉依姫命を祭神として祀っているが、この祭神は本宮の東殿に祭られている神武天皇の母・玉依姫命とは「同名異神」(神武天皇の御母神)だとしている。一説に、この神社は、鴨縣主の宗家である泉の館にあったのではないかという説がある。以下参考の※12:「延喜式神社の調査」河合神社の説明にあるように、古代からの社名が「鴨河合坐小社宅(かものかわあいにいますおこそやけ)神社」とあるように、元は小社であつたが、平安時代の『延喜式』では名神社に加わり月次・相嘗新嘗の祭に預るなど朝廷から重視され、次第に大きく造り替えられてきたようだ。只洲社(ただすのやしろ)とも記すが、只洲は賀茂川と高野川の合流点であることからきており、糺の森の糾を意味しており、もともと秦氏の奉祀する河合神社の森であったらしく、鴨氏が秦氏の婿となり、祭祀権を譲られたようだ。
「糺の森」の「ただす」が何に由来するのかという点については、「只洲」の他、「偽りを糺す」の意とするほか、清水の湧き出ることから「直澄」、多多須玉依姫の神名に由来するなど諸説あるが、興味深いのは、通称木嶋神社また蚕の社で広く知られている京都市右京区太秦にある木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)の元糺の池(もとただすのいけ)に由来するとする説である。同社は「木嶋に鎮座する天照御魂神の社」という意味であり、続日本紀の大宝元年(701年)の条に「木嶋神」の名前で登場する。「木嶋」という名前は、秦氏の土地にあった「蚕(こ)の島」からきたものとも、原野に茂る杜(元糺の森)の様が「木の島」のようであったからとされている。境内には本殿の東側に摂社の養蚕神社があるので、通称「蚕の社」の名前で親しまれているが、この神社のある嵯峨野一帯はかって、朝鮮半島から渡来し、日本に養蚕・機織・染色・醸造などの技術を伝えた秦氏ゆかりの地であり、この神社もそうである。本殿の西には「元糺の池」と呼ばれる泉があり、謎の多い三つ柱の石製鳥居が建っている。中央には依り代として円錐形に小石が積み上げられ、中心には御幣が立てられている。この様子は江戸時代の境内の様子を表した1780(安永9)年刊の『都名所図会)』にも描かれており、泉からは蕩々と湧水があったことが窺えるという(以下参考の※13参照)。3つの角(柱)の延長線上には双ヶ丘(秦氏のものと見られる古墳群がある)・松尾山(秦氏創建の松尾大社)・稲荷山(秦氏創建の伏見稲荷大社)があり、それぞれを指しているのだとか。古来この社は雨乞いの神としての信仰があったともいわれており、また禊の行場でもあったそうだ。土用の丑の日にはこの池に手足を浸すと、諸病にかからないという俗信仰もあり、ここでも、毎年、「足つけ神事」が行われている。「元糺の池」と呼ばれるのは、池を囲む森を「糺の森」と呼んでいたが、嵯峨天皇が木島神社から下鴨神社に名を移したので、ここが元祖と言う意味で「元糺の池」と呼ぶようになったと伝承されている。
秦氏は、上賀茂神社・下鴨神社の創建に関係が深いが、以下参考の※17:「葛野大堰」によれば、上賀茂神社の社伝によれば、上賀茂神社に祭られる別雷神の父、すなわち玉依比売の夫は火雷神(ほのいかづちのかみ)とされているが、『古事記』はこの神が秦忌寸都理(はたのいみきとり)が大宝元年(701)に建立した京都の松尾大社に祀られている大山咋神(おおやまくいのかみ)であるとしている。このため、秦氏と賀茂氏とは婚姻関係で結ばれていたこと、上下賀茂神社の神と松尾大社の神とは共通の姻族神であったことが窺えるという。
下鴨神社の摂末社河合神社北側に糾池跡がある。小さな社であるが、本殿は本宮の本殿と同じ三間社、流造、桧皮葺である。
この河合神社の神事を統率する鴨長継の次男として生まれた鴨長明は、いろいろの事情によって、望んでいた河合社(ただすのやしろ)の禰宜(ねぎ)の地位につくことが叶わず強い厭世感を抱くようになり、やがて随筆『方丈記』を書くにいたったといわれている。この神社の境内に、鴨長明が暮らした方丈が復元展示されている。
糺の森の中を流れる小川は4つあり、それぞれ御手洗川・泉川・奈良の小川・瀬見の小川と名付けられている。下鴨神社の御手洗川は、かつては鴨川・高野川・泉川からしみだした自然の池であったという御手洗池を水源としている。糺の森の東側を流れる泉川は高野川の支流である。奈良の小川は御手洗川に泉川の流れの一部が合流したもので、賀茂川の支流である瀬見の小川に取り込まれて糺の森の中央を流れている。
鴨長明ゆかりの社・河合神社から下鴨神社参道に出ると瀬見の小川がある(下鴨神社公式HPの境内地図参照)。
「石川や 瀬見の小川の清ければ 月も流れを たづねてやすむ」
【通釈】石川の瀬見の小川は、水が清いので、賀茂の神がここに鎮座されたように、月もこの流れを求めて射し、澄んだ光を川面に宿している以下参考の※7:千人万首の鴨長明 参照)
この歌は、もともとは、鴨長明が源光行主催の鴨社での歌合で詠んだ神祇歌であるが、ここに書かれて「石川の瀬見の小川」は、現在下鴨神社境内を流れている「瀬見の小川」ではなく、かつては河合神社のそばを流れていた賀茂川の上流の異称であることは先にも書いた通りである。「すむ」は、澄む・住むの掛詞であり、「住む」には神が住む(鎮座する)意が籠ってる。
長明は下賀茂神社の禰宜の家に生まれ当然、瀬見の小川や故事のことを当然知っていて、瀬見の小川の水鏡に映る月光の美しさに、賀茂神社の縁起(神がその流れ遡り加茂の地に鎮座した)を重ねて詠んだものであるが、加茂川の上流が瀬見の小川と呼ばれる事を他の参加者が知らなかったために、歌合の場では負けを喫した。後に長明は賀茂社の縁起にその旨の記述がある事を公にし、神社の秘事を軽々しく開示するとは何事かと賀茂社の神職たちの批判を浴びながらも、自歌が正しかったことを主張。この歌については、『無名抄』の「せみのを川事」に長明自身の詳しい記述がある(以下参考の※13参照)。この歌は人々の人気を博し、後に撰された『新古今和歌集』に収録されるに至っった。
しかし、このような神社の秘事を軽々しく開示する不用意さが災いしたことが、優秀な歌人にして随筆家であるにもかかわらず禰宜になれなかった大きな要因かもしれない。
「御手洗や清き心に澄む水の賀茂の河原にいづるなり 」と歌う能の「 賀茂」では、鴨の民と秦の民との融合が謳われている。以下参考の※:15:「能:賀茂ノ巻」も参照されると良い。
又、参考に記載の※16:「明神川と泉川」を、見ると上・下加茂(鴨)社に流れている小川のことが良く判るが、下鴨神社より北に位置する上賀茂神社を見ると、ここには、加茂川の支流である明神川が、境内に流入している。この明神川も下鴨社に流れる泉川も川と言う名前がついているが、実際は農業用水であり自然河川ではない。
上賀茂神社境内の中を流れる水流は、流れにしたがって名前を変えていくことで知られている。まず、賀茂川の明神井堰から取水された流れは、上賀茂神社本殿のそばでは、御手洗川と呼ばれる。一方、上賀茂神社の北東部、丸山と小丸山の間を通る蟻ヶ池からの流れと、小丸山の東側に位置する小池からの流れは、境内に流れ込む直前で合流し、御物忌(おものい)川という名で本殿前を通過する。これら二つの流れは本殿下流で合流し、橋殿をくぐると今度は楢(なら)の小川と呼ばれるようになる。さらに楢の小川は境内を南に流れ出ると、今度は又、明神川と名前を変え、境内付近に建てられた社家の家々の前を流れる川となる。このように神社の境内に流入した農業用は聖なる川として大きく姿を変え、参拝客などが身を清める禊(みそぎ)の川として古くから大切に扱われてきたという訳だ。又、現在の明神川の流末は暗渠になっていて水の行方が不明瞭になっているが、明治大正期あたりまでは泉川と合流していたそうだ。つまり、上賀茂神社の禊の川と下鴨神社の禊の川が一体となっていたわけだ。
下鴨神社の糺の森は、江戸時代より京の夏の避暑地として知られ、糺の森を流れる川の辺に茶店が建ち並び、船を浮かべた茶会のほか能(糺能)や相撲の催しが行われるなど庶民の納涼場として賑わっていたようだが、明治時代になると、下鴨神社は国の管理する神社となり、庶民の行事も次第に廃絶して納涼市の姿も消えてしまったというが、又、市民の努力で憩いの場として復活してきているようだ。
以下の図は、年代未詳だが、恐らく明治期のものだろうと思われる下鴨糺の森の御手洗池の茶店の光景である。貴重な写真だ。
長崎大学付属図書館:幕末・明治期日本古写真メタデーターベース:下鴨糺の森の御手洗池の茶店(2 )
(掲載の画像:1枚目みたらし団子、2枚目糺の森の清流「瀬見の小川」Wikipediaより)

みたらしだんごの日  (Ⅰ)

みたらしだんごの日  参考