日本記念日協会の今日・10月13日の記念日を見ると「さつまいもの日」があった。
記念日の由来によると埼玉県川越市のさつまいもの愛好家のグループが制定した日だそうで、秋はさつまいもの季節で、「九里四里うまい十三里」の異名がさつまいもにあったことから10月13日を記念日にしたという。
いや!これから先に進める前にお断りしておこう。このブログも書き出して8年になる。又、この頃年のせいか、以前に一度書いたものでも忘れてしまって又、二度書きしたりしてしまう。このブログもそうで、2007年10月の今日書いたいたものと重複して書いてしまった。アップするのを止めようかと思ったが、前のものとは少し、違った視点でも書いているので、もったいないのでそのままアップしたものであることをお断りしておく。(以前のものはここです)
サツマイモ(薩摩芋または甘藷:かんしょ。)は、ヒルガオ科サツマイモ属の多年草植物であり、アサガオなどの園芸植物、また野菜として利用するヨウサイ(アサガオ菜)などの仲間であり、花はピンク色でアサガオに似ている(花はここ参照)。そのいも(塊根=養分を蓄えている肥大した根)を食用としている。
もともとは南アメリカ大陸、ペルー熱帯地方から東南アジアに導入される。日本への伝来には諸説があるようだが中国を経て17世紀初頭に、最初は沖縄(琉球)に、それから長崎と順次、九州地方に広がっていき、本州へと伝わった。このため中国(唐)から伝来した沖縄や九州では唐芋(奄美群島では例外的に薩摩芋)、沖縄(琉球)から伝来した北部九州では琉球藷、九州から伝来した本州では薩摩芋と呼んでいる。尚、サツマイモを天麩羅等の和食において、丸十と呼ばれるのは、薩摩藩島津氏の家紋が丸に十字であることが由来と言われる。
サツマイモの中国名が甘藷、甜藷(甘いイモの意)と言われるように、甘味が強いことから焼芋などの間食としての美味しさが際立つているが、主食級の作物にはなりえなかった。主食になるには、栄養素や作りやすさ、保存性の他に、淡白な味でなければたくさん食べられないからだろう。
中国から伝来の甘藷は主食級の作物にはなりえなかったものの繁殖能力が非常に高いうえに、痩せた土地でも育ち、強風にも強く初心者でも比較的育てやすいので、江戸時代以降広く救荒作物として栽培されてきた。救荒とは飢饉を救うという意味で、救荒植物とは、凶作、飢饉の年に、稲以外に収穫できる作物のことを言うが、古代から存在した種類では稗(ヒエ)が代表的であった。稗は穀物の中では最も野生的な強さを保持しており、しかも生育期間が比較的短いことから、徳川幕府も「稗を第一にいたし」緊急用にせよとの布告を幾度か出した(天明8年その他)。又、幕府は飢饉対策として、この他に、豊作の年の米を貯蔵する指示を繰り返し出している(天和3年、享保15年、同17年、宝暦6年など。)ようだ。(以下参考の1参や※2参照)。
しかし、稗も含めて、穀物は地上に長く立った稈(かん、茎のこと)の頂部に穂をつけるため、安定が悪く風により倒れやすい弱点を持つ。対照的なのが、イモ類であり、サツマイモの普及はしばしば起る飢饉を契機にしている。
1732(享保17)年の享保の大飢饉により西日本が大凶作に見舞われ深刻な食料不足に陥る中、既にサツマイモが栽培されていた今日の長崎県と鹿児島県では餓死者を出さなかったといわれ、サツマイモの有用性を天下に知らしめることとなっていた。江戸では、青木昆陽が1735(享保20)年に『蕃薯考』(ばんしょこう)を著し、飢饉のときにもよく出来ること、虫がつかないこと、風の害をうけないことをあげ、救荒食として甘藷(サツマイモ)の栽培普及を進めたことで知られている。そして、8代将軍徳川吉宗より、甘藷の栽培を命じられ、青木昆陽は薩摩藩から甘藷の苗を取り寄せ小石川薬園(小石川植物園)ほかでの試作に成功。これ以後、サツマイモが関東一円に広がるきっかけをつくり、その後、サツマイモは東日本にも広く普及するようになり、1782年(天明2年)から1788年(天明8年)にかけて発生した天明の大飢饉では多くの人々の命を救ったと評されている(以下参考の※3参照)。
サツマイモは穀物に比べ腐りやすく保存に関しては難点があり、又、黒斑病(以下参考の※4参照)と言う厄介な病気もあるが、それでも、稲の不作な環境でも無事育つことから高く評価された。又、穀物はたねが完全に充実しない限り役立たないが、サツマイモは完全に大きくならなくてもある程度まで肥大していれば収穫して食べられることも利点だったようである(週間朝日百科「野本の歴史」87参照)。
サツマイモは栽培しやすいことから、太平洋戦争後の食糧難の時期にも、国民の食を支えてきた。私なども小学校に入ったこれからといった成長期に芋粥や焼き芋をよく食べたのを思いだす。御蔭で、私等の年代のものは、栄養不足で殆どの人は身体が小さいよ。戦後経済が成長し、食糧事情も良くなるに従って、甘いものは、次第に果樹等に置き換わり、サツマイモはあまり顧みられなくなった。その一方で、品種改良によって更に甘みを増した事から、むしろ飢饉食・主食の代替というより、おやつ、お菓子の原料とみなされるようになった。 近年は、健康食品や、いも焼酎の原料として注目されている。
私は子供の頃厭と言うほど芋を食べて育ったので、幾ら美味しくなっているといっても、今は余り、買ってまでサツマイモを食べたいとは思わない。しかし、今年は、鹿児島から箱で送って来たので食べきれないから食べてくれと、ご近所の方2箇所から、2度、サツマイモをいただいた。通常見かけるサツマイモは、切り口の色が淡い黄色であるが、最初に貰ったのは普通のものより濃い黄色のものであったが 、2度目に貰ったものはオレンジ色をしてた。どちらも、天麩羅や焼き芋にして食べたが甘くて美味しかった。ネットで検索すると、やはり、シロ、黄色、オレンジのほか紫と4色のサツマイモがあり、それぞれの色によって、独自の機能性色素があり、色によってそれぞれ利用道が違っているようだ。(以下参考に記載の※5参照)。
文学上では、明治時代の俳人・歌人にして国語学研究家でもある正岡 子規の随筆『墨汁一滴』(以下参考に記載の※6:「青空文庫:正岡子規 「墨汁一滴」」参照)の明治34年2月9日の段に”近日我貧厨(ひんちゅう)をにぎはしたる諸国の名物は何々ぞ。大阪の天王寺蕪(かぶら)、函館の赤蕪(あかかぶら)、秋田のはたはた魚、・・(中間略)・・神戸の牛のミソ漬、下総(しもうさ)の雉(きじ)、甲州の月(つき)の雫(しずく)、伊勢の蛤(はまぐり)、大阪の白味噌、大徳寺(だいとくじ)の法論味噌、薩摩(さつま)の薩摩芋、北海道の林檎、熊本の飴(あめ)、横須賀の水飴、北海道の(はららご)、そのほかアメリカの蜜柑とかいふはいと珍しき者なりき。”・・・と、書かれているように、サツマイモは昔から鹿児島の名物であった。
サツマイモは当初救荒食として作られていたが、直ぐに農家の普段の食時としても作られるようになり、それが都市部にも広まり、京・大阪・江戸などの都市部ではそれを煮たり焼いたりして路傍で売られるようにもなるが、やはり、焼き芋が昔から好まれたようである。この焼き芋が露天で売られるようになったのはやはり、古き歴史のある都・京都のようである。
1719 (享保4)年朝鮮通信使の申維翰(シン・ユハン。日本語読:しん・いかん以下参考の※7参照)が製述官(書記官)に選ばれ来日。彼は来日の際の道中日記と日本事情観察記をまとめて『海游録』を著しているそうで、同書に京都郊外の焼き芋屋の情景が描かれているという。以下参考に記載の※8:「焼き芋小百科」によると、“江戸に向かう一行が京都から大津へ向かった9月12日のこと。小さな峠を越えたところに道をはさんでたべものの店が並び、「それぞれ酒、餅、煎茶、焼き芋を用意して路傍に並べ置き、通行人を待って銭をかせぐ」とある。”ようだ。
京都のやきいも屋は、栗「九里」に近いというなぞかけで「八里半」と言う看板を出していたそうだ。さすが京都、粋な名前を付けるよね~。江戸には寛政年間に初めて焼芋屋ができたようだが、その店も八里半と書いた行燈を出していたようだ。
冒頭の画像は、神田雉子町の名主斎藤月岑が、雪舟系の絵師長谷川雪旦とのコンビで江戸末期に描いた絵入り年中行事記『東都歳時記』(これに郊外分などの追補し完成したものが、よく知られている『江戸名所図会』であるといわれているが・・・)に描かれている焼芋屋のある風景である。この画の焼芋屋の店先には「八里半」と、もう一面には「○焼」と書いた行燈が吊り下げられているが、これは、芋を丸ごと焼いたものと言うことで当時焼き芋のことを「○焼」とも言っていたようだ。又、画には焼き芋と共に草鞋(わらじ)なども売られているのがわかるだろう。
江戸時代の風俗、事物を説明した一種の百科事典ともいわれる『守貞謾稿』(もりさだまんこう。著者:喜田川守貞。1853年)には、江戸には専門の焼芋屋は少なく、冬に焼き芋は木戸番小屋で売ることが多いとあるそうだが、木戸番とは、町ごとに作られた木戸の番人のことで、江戸の町々にはこの木戸が設けられ、夜は閉じられることになっていた。その木戸にはそれぞれ「番太郎」または「番太」と呼ばれる木戸番が2人番小屋に居住していたが、これは、盗賊や不審者の通行・逃走を防ぐためであった。又、江戸は火事も非常に多かったことから火の見櫓(梯子櫓)が木戸の側に設けられていたため、火事があった時には半鐘を打つ役割もあり、夜毎に拍子木を打って夜警もしていた。それで、木戸番屋を「火の番屋」とも呼んだそうだが、この木戸番の給金はそれぞれの町内から支払われた。しかし、木戸番の賃金は少なかったため、彼らには駄菓子・蝋燭・糊・箒・鼻紙・瓦火鉢・草履・草鞋などの荒物(生活雑貨)を商ったり、夏には金魚、冬には焼き芋などを売ったりして副収入としていたようだ。火事の多かった当時の江戸では普通の駄菓子屋や荒物屋では火を使っての商売は、禁じられていたが、木戸番は火の用心の仕事をもしていたことから、火を使って焼芋を商うことも特別に許可されたのだろう。そのようなことから焼き芋屋は木戸番の専売のようになっていたようで、木戸番は本職より内職の方で知られ、木戸番屋のことを「商(あきない)番屋」とも呼んでいたという。江戸時代も後期になると、木戸番は番屋を拡げて妻子を住まわせたり、番人の職が株化されて売買されたりもしたという。時代劇など見ていると、拍子木を打ちながら火の用心と言いながら町を警戒している腰の曲がった冴えない年寄りが木戸番として登場することが多いが、なかなか実入りの多い恵まれた仕事だったのだな~。
”神田明神の祭りもすんで、もう朝晩は袷(あわせ)でも薄ら寒い日がつづいた。うす暗い焼芋屋の店さきに、八里半と筆太(ふでぶと)にかいた行燈の灯がぼんやりと点(とも)されるようになると、湯屋の白い煙りが今更のように眼について、火事早い江戸に住む人々の魂をおびえさせる秋の風が秩父の方からだんだんに吹きおろして来た。その九月の末から十月の初めにかけて、町内の半鐘がときどき鳴った。”・・・これは、岡本綺堂の捕物帳もの「半七捕物帳 半鐘の怪」からの抜粋である(以下参考に記載の※9:「青空文庫:岡本綺堂 半七捕物帳 半鐘の怪」を参照)。
栗の美味に近いという意味で「八里半」といわれていた焼き芋屋にやがて、小石川のあたりで「十三里」と言う看板を掲げて売る店が現れたという。8代将軍吉宗が、サツマイモの栽培を奨励したのがきっかけで、埼玉県の川越がサツマイモ(川越イモ)の栽培地として知られるようになるが、一説には、この川越までの距離が江戸から十三里あるのでこう呼ばれた・・・などとも言われているようだが、実際には、江戸での焼芋屋が、“栗「九里」より「四里」うまい十三里(9+4=13)”とのしゃれから生まれたキャッチコピーだろうとするのが今では通説のようだ。
現代と違って当時の江戸では,冬に雪が降ることは珍しいことではなく,たびたび降った様であり(以下参考に記載の※10:「江戸時代の気候」参照)、江戸の庶民は、寒い冬に雪見酒や雪見風呂など、暖かいものを楽しみながら「雪見」に興じることも広く行われていた。それは、浮世絵師・広重の雪見の絵「江都名所隅田川雪見之図」(※11参照)や、北斎の傑作、『富嶽三十六景』のうちの1図「礫川 雪ノ旦」(雪見参照)などがある。北斎の「礫川 雪ノ旦」は、美女数人をはべらせた通人が雪景色の中の料亭の二階に宴を張り、富士を眺める様子を描いた一枚であり、「礫川(こいしかわ)」とは「小石川」のことで、現在は東京都文京区に属している一地域。江戸期には、武蔵国豊島郡小石川村のみならず、神田上水の現・水道橋界隈から外白山あたりまでを含む広い地域を指す呼称であったそうだ。
このような当時の寒い江戸の冬場には、暖かくて甘く美味しい焼き芋は江戸庶民に大人気だったようで、現代で言えばスナックのような感覚で急速に普及していったようだ。特に、男性よりも女性が好んだであろうことは、「芋たこなんきん」が女性の好む食材の代名詞として使われていることを見ても判るだろう。江戸でサツマイモの試作が成功して50数年後の寛政年間に発刊されたという『甘藷百珍』(いもひゃくちん。著者:珍古楼主人)には、サツマイモ料理が、奇品、尋常品、妙品、絶品の4分類され123品もの料理が収録されているという(以下参考に記載の※11:「百珍本を読む:百珍本」の甘藷百珍を参照)。
今日の「さつまいもの日」の話はこれまで。
以下は、サツマイモとは関係ない私のひとり言なのでお暇な人だけ見てください。
(冒頭の画像は、『東都歳時記』に描かれている焼き芋屋。NHKデータ情報部編、ヴィジュアル百科「江戸事情」第1巻生活編より借用)
さつまいもの日( Part 2):余談と参考 へ
記念日の由来によると埼玉県川越市のさつまいもの愛好家のグループが制定した日だそうで、秋はさつまいもの季節で、「九里四里うまい十三里」の異名がさつまいもにあったことから10月13日を記念日にしたという。
いや!これから先に進める前にお断りしておこう。このブログも書き出して8年になる。又、この頃年のせいか、以前に一度書いたものでも忘れてしまって又、二度書きしたりしてしまう。このブログもそうで、2007年10月の今日書いたいたものと重複して書いてしまった。アップするのを止めようかと思ったが、前のものとは少し、違った視点でも書いているので、もったいないのでそのままアップしたものであることをお断りしておく。(以前のものはここです)
サツマイモ(薩摩芋または甘藷:かんしょ。)は、ヒルガオ科サツマイモ属の多年草植物であり、アサガオなどの園芸植物、また野菜として利用するヨウサイ(アサガオ菜)などの仲間であり、花はピンク色でアサガオに似ている(花はここ参照)。そのいも(塊根=養分を蓄えている肥大した根)を食用としている。
もともとは南アメリカ大陸、ペルー熱帯地方から東南アジアに導入される。日本への伝来には諸説があるようだが中国を経て17世紀初頭に、最初は沖縄(琉球)に、それから長崎と順次、九州地方に広がっていき、本州へと伝わった。このため中国(唐)から伝来した沖縄や九州では唐芋(奄美群島では例外的に薩摩芋)、沖縄(琉球)から伝来した北部九州では琉球藷、九州から伝来した本州では薩摩芋と呼んでいる。尚、サツマイモを天麩羅等の和食において、丸十と呼ばれるのは、薩摩藩島津氏の家紋が丸に十字であることが由来と言われる。
サツマイモの中国名が甘藷、甜藷(甘いイモの意)と言われるように、甘味が強いことから焼芋などの間食としての美味しさが際立つているが、主食級の作物にはなりえなかった。主食になるには、栄養素や作りやすさ、保存性の他に、淡白な味でなければたくさん食べられないからだろう。
中国から伝来の甘藷は主食級の作物にはなりえなかったものの繁殖能力が非常に高いうえに、痩せた土地でも育ち、強風にも強く初心者でも比較的育てやすいので、江戸時代以降広く救荒作物として栽培されてきた。救荒とは飢饉を救うという意味で、救荒植物とは、凶作、飢饉の年に、稲以外に収穫できる作物のことを言うが、古代から存在した種類では稗(ヒエ)が代表的であった。稗は穀物の中では最も野生的な強さを保持しており、しかも生育期間が比較的短いことから、徳川幕府も「稗を第一にいたし」緊急用にせよとの布告を幾度か出した(天明8年その他)。又、幕府は飢饉対策として、この他に、豊作の年の米を貯蔵する指示を繰り返し出している(天和3年、享保15年、同17年、宝暦6年など。)ようだ。(以下参考の1参や※2参照)。
しかし、稗も含めて、穀物は地上に長く立った稈(かん、茎のこと)の頂部に穂をつけるため、安定が悪く風により倒れやすい弱点を持つ。対照的なのが、イモ類であり、サツマイモの普及はしばしば起る飢饉を契機にしている。
1732(享保17)年の享保の大飢饉により西日本が大凶作に見舞われ深刻な食料不足に陥る中、既にサツマイモが栽培されていた今日の長崎県と鹿児島県では餓死者を出さなかったといわれ、サツマイモの有用性を天下に知らしめることとなっていた。江戸では、青木昆陽が1735(享保20)年に『蕃薯考』(ばんしょこう)を著し、飢饉のときにもよく出来ること、虫がつかないこと、風の害をうけないことをあげ、救荒食として甘藷(サツマイモ)の栽培普及を進めたことで知られている。そして、8代将軍徳川吉宗より、甘藷の栽培を命じられ、青木昆陽は薩摩藩から甘藷の苗を取り寄せ小石川薬園(小石川植物園)ほかでの試作に成功。これ以後、サツマイモが関東一円に広がるきっかけをつくり、その後、サツマイモは東日本にも広く普及するようになり、1782年(天明2年)から1788年(天明8年)にかけて発生した天明の大飢饉では多くの人々の命を救ったと評されている(以下参考の※3参照)。
サツマイモは穀物に比べ腐りやすく保存に関しては難点があり、又、黒斑病(以下参考の※4参照)と言う厄介な病気もあるが、それでも、稲の不作な環境でも無事育つことから高く評価された。又、穀物はたねが完全に充実しない限り役立たないが、サツマイモは完全に大きくならなくてもある程度まで肥大していれば収穫して食べられることも利点だったようである(週間朝日百科「野本の歴史」87参照)。
サツマイモは栽培しやすいことから、太平洋戦争後の食糧難の時期にも、国民の食を支えてきた。私なども小学校に入ったこれからといった成長期に芋粥や焼き芋をよく食べたのを思いだす。御蔭で、私等の年代のものは、栄養不足で殆どの人は身体が小さいよ。戦後経済が成長し、食糧事情も良くなるに従って、甘いものは、次第に果樹等に置き換わり、サツマイモはあまり顧みられなくなった。その一方で、品種改良によって更に甘みを増した事から、むしろ飢饉食・主食の代替というより、おやつ、お菓子の原料とみなされるようになった。 近年は、健康食品や、いも焼酎の原料として注目されている。
私は子供の頃厭と言うほど芋を食べて育ったので、幾ら美味しくなっているといっても、今は余り、買ってまでサツマイモを食べたいとは思わない。しかし、今年は、鹿児島から箱で送って来たので食べきれないから食べてくれと、ご近所の方2箇所から、2度、サツマイモをいただいた。通常見かけるサツマイモは、切り口の色が淡い黄色であるが、最初に貰ったのは普通のものより濃い黄色のものであったが 、2度目に貰ったものはオレンジ色をしてた。どちらも、天麩羅や焼き芋にして食べたが甘くて美味しかった。ネットで検索すると、やはり、シロ、黄色、オレンジのほか紫と4色のサツマイモがあり、それぞれの色によって、独自の機能性色素があり、色によってそれぞれ利用道が違っているようだ。(以下参考に記載の※5参照)。
文学上では、明治時代の俳人・歌人にして国語学研究家でもある正岡 子規の随筆『墨汁一滴』(以下参考に記載の※6:「青空文庫:正岡子規 「墨汁一滴」」参照)の明治34年2月9日の段に”近日我貧厨(ひんちゅう)をにぎはしたる諸国の名物は何々ぞ。大阪の天王寺蕪(かぶら)、函館の赤蕪(あかかぶら)、秋田のはたはた魚、・・(中間略)・・神戸の牛のミソ漬、下総(しもうさ)の雉(きじ)、甲州の月(つき)の雫(しずく)、伊勢の蛤(はまぐり)、大阪の白味噌、大徳寺(だいとくじ)の法論味噌、薩摩(さつま)の薩摩芋、北海道の林檎、熊本の飴(あめ)、横須賀の水飴、北海道の(はららご)、そのほかアメリカの蜜柑とかいふはいと珍しき者なりき。”・・・と、書かれているように、サツマイモは昔から鹿児島の名物であった。
サツマイモは当初救荒食として作られていたが、直ぐに農家の普段の食時としても作られるようになり、それが都市部にも広まり、京・大阪・江戸などの都市部ではそれを煮たり焼いたりして路傍で売られるようにもなるが、やはり、焼き芋が昔から好まれたようである。この焼き芋が露天で売られるようになったのはやはり、古き歴史のある都・京都のようである。
1719 (享保4)年朝鮮通信使の申維翰(シン・ユハン。日本語読:しん・いかん以下参考の※7参照)が製述官(書記官)に選ばれ来日。彼は来日の際の道中日記と日本事情観察記をまとめて『海游録』を著しているそうで、同書に京都郊外の焼き芋屋の情景が描かれているという。以下参考に記載の※8:「焼き芋小百科」によると、“江戸に向かう一行が京都から大津へ向かった9月12日のこと。小さな峠を越えたところに道をはさんでたべものの店が並び、「それぞれ酒、餅、煎茶、焼き芋を用意して路傍に並べ置き、通行人を待って銭をかせぐ」とある。”ようだ。
京都のやきいも屋は、栗「九里」に近いというなぞかけで「八里半」と言う看板を出していたそうだ。さすが京都、粋な名前を付けるよね~。江戸には寛政年間に初めて焼芋屋ができたようだが、その店も八里半と書いた行燈を出していたようだ。
冒頭の画像は、神田雉子町の名主斎藤月岑が、雪舟系の絵師長谷川雪旦とのコンビで江戸末期に描いた絵入り年中行事記『東都歳時記』(これに郊外分などの追補し完成したものが、よく知られている『江戸名所図会』であるといわれているが・・・)に描かれている焼芋屋のある風景である。この画の焼芋屋の店先には「八里半」と、もう一面には「○焼」と書いた行燈が吊り下げられているが、これは、芋を丸ごと焼いたものと言うことで当時焼き芋のことを「○焼」とも言っていたようだ。又、画には焼き芋と共に草鞋(わらじ)なども売られているのがわかるだろう。
江戸時代の風俗、事物を説明した一種の百科事典ともいわれる『守貞謾稿』(もりさだまんこう。著者:喜田川守貞。1853年)には、江戸には専門の焼芋屋は少なく、冬に焼き芋は木戸番小屋で売ることが多いとあるそうだが、木戸番とは、町ごとに作られた木戸の番人のことで、江戸の町々にはこの木戸が設けられ、夜は閉じられることになっていた。その木戸にはそれぞれ「番太郎」または「番太」と呼ばれる木戸番が2人番小屋に居住していたが、これは、盗賊や不審者の通行・逃走を防ぐためであった。又、江戸は火事も非常に多かったことから火の見櫓(梯子櫓)が木戸の側に設けられていたため、火事があった時には半鐘を打つ役割もあり、夜毎に拍子木を打って夜警もしていた。それで、木戸番屋を「火の番屋」とも呼んだそうだが、この木戸番の給金はそれぞれの町内から支払われた。しかし、木戸番の賃金は少なかったため、彼らには駄菓子・蝋燭・糊・箒・鼻紙・瓦火鉢・草履・草鞋などの荒物(生活雑貨)を商ったり、夏には金魚、冬には焼き芋などを売ったりして副収入としていたようだ。火事の多かった当時の江戸では普通の駄菓子屋や荒物屋では火を使っての商売は、禁じられていたが、木戸番は火の用心の仕事をもしていたことから、火を使って焼芋を商うことも特別に許可されたのだろう。そのようなことから焼き芋屋は木戸番の専売のようになっていたようで、木戸番は本職より内職の方で知られ、木戸番屋のことを「商(あきない)番屋」とも呼んでいたという。江戸時代も後期になると、木戸番は番屋を拡げて妻子を住まわせたり、番人の職が株化されて売買されたりもしたという。時代劇など見ていると、拍子木を打ちながら火の用心と言いながら町を警戒している腰の曲がった冴えない年寄りが木戸番として登場することが多いが、なかなか実入りの多い恵まれた仕事だったのだな~。
”神田明神の祭りもすんで、もう朝晩は袷(あわせ)でも薄ら寒い日がつづいた。うす暗い焼芋屋の店さきに、八里半と筆太(ふでぶと)にかいた行燈の灯がぼんやりと点(とも)されるようになると、湯屋の白い煙りが今更のように眼について、火事早い江戸に住む人々の魂をおびえさせる秋の風が秩父の方からだんだんに吹きおろして来た。その九月の末から十月の初めにかけて、町内の半鐘がときどき鳴った。”・・・これは、岡本綺堂の捕物帳もの「半七捕物帳 半鐘の怪」からの抜粋である(以下参考に記載の※9:「青空文庫:岡本綺堂 半七捕物帳 半鐘の怪」を参照)。
栗の美味に近いという意味で「八里半」といわれていた焼き芋屋にやがて、小石川のあたりで「十三里」と言う看板を掲げて売る店が現れたという。8代将軍吉宗が、サツマイモの栽培を奨励したのがきっかけで、埼玉県の川越がサツマイモ(川越イモ)の栽培地として知られるようになるが、一説には、この川越までの距離が江戸から十三里あるのでこう呼ばれた・・・などとも言われているようだが、実際には、江戸での焼芋屋が、“栗「九里」より「四里」うまい十三里(9+4=13)”とのしゃれから生まれたキャッチコピーだろうとするのが今では通説のようだ。
現代と違って当時の江戸では,冬に雪が降ることは珍しいことではなく,たびたび降った様であり(以下参考に記載の※10:「江戸時代の気候」参照)、江戸の庶民は、寒い冬に雪見酒や雪見風呂など、暖かいものを楽しみながら「雪見」に興じることも広く行われていた。それは、浮世絵師・広重の雪見の絵「江都名所隅田川雪見之図」(※11参照)や、北斎の傑作、『富嶽三十六景』のうちの1図「礫川 雪ノ旦」(雪見参照)などがある。北斎の「礫川 雪ノ旦」は、美女数人をはべらせた通人が雪景色の中の料亭の二階に宴を張り、富士を眺める様子を描いた一枚であり、「礫川(こいしかわ)」とは「小石川」のことで、現在は東京都文京区に属している一地域。江戸期には、武蔵国豊島郡小石川村のみならず、神田上水の現・水道橋界隈から外白山あたりまでを含む広い地域を指す呼称であったそうだ。
このような当時の寒い江戸の冬場には、暖かくて甘く美味しい焼き芋は江戸庶民に大人気だったようで、現代で言えばスナックのような感覚で急速に普及していったようだ。特に、男性よりも女性が好んだであろうことは、「芋たこなんきん」が女性の好む食材の代名詞として使われていることを見ても判るだろう。江戸でサツマイモの試作が成功して50数年後の寛政年間に発刊されたという『甘藷百珍』(いもひゃくちん。著者:珍古楼主人)には、サツマイモ料理が、奇品、尋常品、妙品、絶品の4分類され123品もの料理が収録されているという(以下参考に記載の※11:「百珍本を読む:百珍本」の甘藷百珍を参照)。
今日の「さつまいもの日」の話はこれまで。
以下は、サツマイモとは関係ない私のひとり言なのでお暇な人だけ見てください。
(冒頭の画像は、『東都歳時記』に描かれている焼き芋屋。NHKデータ情報部編、ヴィジュアル百科「江戸事情」第1巻生活編より借用)
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