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日本近代文学の森へ 275 志賀直哉『暗夜行路』 162  「リアル」のありか  「後篇第四 十三」 その2 

2024-12-29 14:35:22 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 275 志賀直哉『暗夜行路』 162  「リアル」のありか  「後篇第四 十三」 その2 

2024.12.29


 

 謙作は扇を使いながら、サイダーを飲み、それから遠い景色を眺めた。そして彼は二、三寸にのびた白髪頭の老人を背後(うしろ)から眺め、今、車夫に聞いた昔の爺(おやじ)とを想い較べ、それらが同じ場所に住んでいるだけに如何にも面白い対照に感じた。この老人にすればこれは毎日見ている景色であろう。それを厭(あ)かずこうして眺めている。一体この老人は何を考えているのだろう。勿論将来を考えているのではない。また恐らく現在を考えているのでもあるまい。長い一生、その長い過去の色々な出来事を老人は憶い出しているのではあるまいか。否、それさえ恐らく、今は忘れているだろう。老人は山の老樹(ろうじゅ)のように、あるいは苔むした岩のように、この景色の前にただ其所に置かれてあるのだ。そしてもし何か考えているとすれば、それは樹が考え、岩が考える程度にしか考えていないだろう。謙作はそんな気がした。彼にはその静寂な感じが羨ましかった。
 老人のいる左手の壁に寄せて、米俵がいくつか積上げてあった。その後ろで先刻(さっき)から何かゴソゴソ音がしていたが、不意に一疋(いっぴき)の仔猫(こねこ)が其所から米俵の上へ現われた。仔猫は両方の耳を前へ向け、熱心に今自分の飛出して来た所を覗き込んでいた。そして身体は凝っとしているが、長い尾だけが別の生き物のように勝手に動いていた。すると、下からも丸い猫の手がちょいちょい見えた。

 


 「車夫に聞いた昔の爺(おやじ)」というのは、寺に泥棒に入ってつかまって「海老責め」(ひどい拷問の仕方らしい)にされ、結局は米子で死刑になったという老人のことだ。そういう老人と、今ここに「枯れ木のように」座っている老人を、謙作は重ねてみている。そしてそれが「面白い対照」に思えてきたというのだ。

 この二人の老人はもちろん別人である。しかし、今ここに座っている老人の過去はいったいどうだったのだろう。この老人はどんな人生を送ってきたのだろう。謙作は、そんなふうに思ったのだろう。そして、この老人はいったい何を考えているのだろうと想像する。想像するが、それは誰にも分からない。

 「老人は山の老樹(ろうじゅ)のように、あるいは苔むした岩のように、この景色の前にただ其所に置かれてあるのだ。」と謙作は考える。何も考えていないのかもしれない。何かを思い出しているのかもしれない。でも、「もし何か考えているとすれば、それは樹が考え、岩が考える程度にしか考えていないだろう。」と想像する。

 老人というのは、考えてみれば不思議なものである。自分が「老人」になって初めて分かったことだが、決して「老人」になったからといって「悟り」を得たり、日々平穏な気持ちで生きていられるわけではない、ということだ。心の煩わしさは、若い頃よりはマシだけど、若いころには感じたことのない、不安とかむなしさとか、もろもろの感情の揺れに悩まされているのが実態だ。

 この時点での謙作の年齢は29歳だから、まだ若者だ。そうは言っても、とても29歳には思えない。この件については、本多秋五がこんなことを言っている。

 

 『暗夜行路』を読んで、一番気になるのは主人公の年齢である。時任謙作が読者の前に登場したときほぼ二五歳だとすると、彼が伯者大山へ出かけるのはそれから五年目のことだから、ほぼ二九歳ということになる。伯誉大山の時任謙作がほぼ二九歳の青年だなどとは誰も思わないだろう。

(本多秋五『志賀直哉』岩波新書)

 

 しかし、29歳だというのだからしょうがない。しょうがないけど、どうして「29歳に見えない」のかというと、この部分を書いているとき、志賀直哉は書き始め(25歳)からすでに25年も経ち、50歳になっていたからだ。50歳になっていたとしても、フィクションとして、29歳らしい謙作を描きうるはずだが、どうも、「感じ方・考え方」が50歳の作者の影響を受けてしまっているのだというような論文がけっこうあるようだ。だから、これじゃ29歳とは思えないよなあと感じるのはしょうがないわけで、そこをつついても不毛だ。あるいは、『暗夜行路』は、駄作だという結論を出す人もいる。だから、それでも読み進めようと思う読者としては、29歳の謙作を目の前に据えなくてはならないわけだ。

 その29歳の謙作には、この老人の内面は想像することもできず、ただその佇まいを見て、「その静寂な感じが羨ましかった」というのである。「その静寂な感じ」は、あくまで謙作の印象なのであって、その老人が孤独と憂愁に包まれていないという保証はどこにもない。

 けれども、謙作にとって大事なのは、外界がどう自分に訴えかけてくるかということであって、その外界の一部である「老人」の内面の「リアル」ではない。

 「旦那も直しを一杯どうだね」と車夫は謙作に勧めるが、謙作は断る。米俵のあたりをちょろちょろしていた仔猫のことが話題になったりするこの辺の会話はのどかなもので、落語を聞いているようなゆったりした気分になる。

 そこへ、若い男がやってくる。


 乗馬ズボンに巻脚絆(まききゃはん)をした三十余りの男が入って来た。
 「やあ」そういって框(かまち)の所で後ろ向きになると、股を開き両手を腿に、さも疲れたようにドスンと腰を下ろした。「山田を探して山まで行ったが、おらなんだ。お婆さん、今日此処(ここ)を通らんかったかね?」
 「誰れが」
 「山田が」
 「見かけなかったね」
 「また御来屋(みくりや)へでも出掛けたかな」
 「昨日足を折った馬はどうしたかね」
 「それで山田を探してるんだが、いにゃあ仕方がない。殺して埋めちまおう」
 「山田さんの馬かい」
 「そうだ」
 「えらい損害だね」
 「時に、今日は肴は何だい」
 「鮭の塩びきは?」
 「塩びきか……。それより《するめ》でも焼いてもらおうか」
 婆さんは酒をつけ、するめを焼きながら、
 「今年は山でも蚊が出たそうだね」
 「そんな事も聴かなかったが、そうかね」
 「此処らは月初めから蚊帳を釣ってるよ」
 親猫は《するめ》の臭いで、五月蠅(うるさ)くその辺を立廻り、婆さんの裂いた《するめ》の皿へ鼻をつけそうにしてはそのたび、頭を叩かれ、眼を細くし、耳を寝かせていた。

 

 

 突然名前が飛び出してくる「山田さん」はいったいどこへ行ったのか。

 「御来屋」というのは、調べてみると「鳥取県西部、大山町の中心地区。大山町の町役場所在地。」とある。昔から大山の中心地のようだから、まあ当然遊郭などもあったのだろう。若い男の「また御来屋へでも出掛けたかな」には、そのニュアンスがある。というか、そのニュアンスしかない。

 それにしても、だからといって、馬を殺して埋めちゃうというのも乱暴な話だ。しかしまた、足を折った他人の馬を治療したり、毎日のエサを与えるような余裕はないのだろうし、飢えていく馬を見ているのも辛いということだろうか。のどかな山の中にも、「リアル」はある。

 猫の描写も相変わらずうまいものだ。

 

*「馬を殺して埋めちゃうというのも乱暴な話だ」というように書きましたが、読者の方から、馬という動物は、歩いたり走ったりして血液を循環させないと生きていけない動物なので、馬にとって足の骨折は致命的である。治療するにしても非常に困難なので、「殺して埋める」というのは、仕方のないことなのだというご指摘がありました。
 ぼくも、競馬馬の骨折が致命的だということは知っていましたが、この馬のような農耕馬(多分)の場合は、治療すればなんとかなるものだと思っていました。しかし、農耕馬であっても、馬にとって足の骨折が致命的である以上、「殺して埋める」ということしか選択肢はないでしょう。そうであれば、この「山田さん」に心境もよく分かってきます。自分が大事にしてきた馬が足を骨折してしまい、殺すしかない。けれども、おそらく気の弱い「山田さん」は、それができなかったのでしょう。その上、婆さんがいうように「えらい損害」を被ることになり、「山田さん」は絶望的な気分になり、家を飛び出してしまった。行く先はたぶん、「御来屋」の遊郭あたりだろう、ということなります。別に「遊郭」にこだわることもないのですが、そんなふうに考えました。
 ご指摘に感謝します。

 


 暫くして謙作と車夫とはこの茶屋を出た。三十分ほど歩く内に謙作はまた咽(のど)が乾いて来た。車夫はもう少し行くといい流れがあるからといった。しかし行って見ると、流れは涸れて底の砂が干割れていた。
 「昨晩、鳥取では大分降ったが、この辺は降らなかったかな」謙作は腹立たしそうにいった。
 車夫はもう十町ばかりで、鳥居の所に冷水(れいすい)がひいてあるからと慰め顔にいった。そして、
 「寺は何所にするかね。景色はないが、さっき話した蓮浄院の離れが空(あ)いてると、勉強にはいいと思うがね」
 「とにかく、行って見た上にしよう」
 「暫く滞在するのかね?」
 「気に入れば永くいたいと思うのだ」
 「永いといっても夏だけの所だよ。秋になりゃあ、下にいくらもいい温泉場があるから、山にいたってつまらない。第一ろくな食物がないから、余り永くはいられないよ」
 「寺は精進か?」
 「いや、生臭(なまぐさ)でも何でも食わすよ。梵妻(だいこく)もいるし、開けたもんだ。坊主は馬の売り買いばかり熱心にやっていらあね」
 謙作は叡山に次ぐ天台の霊場というように聞いていただけにこの話にはいささか落胆した。
 丹塗りの剥げ落ちた大鳥居の傍(わき)に宿屋がある。二人は其所で漸く冷水にありついた。車夫は寺までなお五、六町あるといい、
 「この宿は気に入らないかね?」と小声で訊いた。謙作は黙って首を振った。
 車夫は少し荷に参って来たらしい、約束よりは賃金を増してやろうと謙作は思った。


(*「梵妻(だいこく)」=僧侶の妻のこと。「梵妻」は「ぼんさい」とも読む。)

 


 謙作は暢気に「気に入れば永くいたい」などと言っているが、おいてきた直子や子どものことはどうするつもりなのか。働かなくてもいくらでも金があるのだろうが、その金はいったいどこから来るのか。作家といっても、そんなに売れているという設定でもないわけだから、まあ、親からふんだんに貰った、あるいは貰い続けているといったところで「納得」するしかないが、こういうところは、「リアリズム」の観点からみれば甘い。この甘さをあまりに重視すると、「しょせん、金持ちのボンボンの暢気な悩みさ」ということになってしまう危険があるし、じっさいそう思われても仕方のないことだ。世に『暗夜行路』否定論者は数知れぬのも、こんなところに根拠があるやもしれぬ。そして読み始めてそうそうに、あるいは、読み続けているうちにどこかで、「脱落」してしまうことになるのだろう。

 今の朝ドラ『おむすび』は、その脚本のあまりに雑な設定やら「リアル」を欠くセリフやらで、大量の「脱落者」を生み出しているが、それに似た現象は、きっとこの『暗夜行路』にもあったに違いないし、これからもあるだろう。

 けれども、『おむすび』と決定的に違うのは(比べるのも、志賀直哉に失礼だとは思うけど)、良きにつけ悪しきにつけ「時任謙作」という人間が、ちゃんと書かれているということだ。「金持ちのボンボン」だとて、「人間」である。金持ち特有の甘さがベースになっていたとしても、「人間」としての悩み苦しみは、ちゃんとある。そこを「リアル」に描けるかどうかが問題なのだ。

 「気に入れば永くいたい」などというねぼけたセリフも、謙作にとっての「リアル」だとしたら、それを含めての「人間理解」を目指したい。だから、ぼくは「脱落」しない。(ちなみに、『おむすび』も脱落しないけど、これは、「人間理解」を目指したいからじゃなくて、朝ドラをずっと見続けてきた記録を破りたくないというつまらぬ意地である。)

 


 絵菓書と巻煙草を買って出た。
 大山神社への道から右へ降り、石のごろごろした広い河原へ出た。河原はかなりの傾斜で森と森の間を裾野の方へ下っている。
 「地蔵の切分け」というので、河の流れ出た所があたかも切りさいたように断崖が二つに分れていた。
 二人は河原を越し、急な坂路を薄賠い森の中へ登って行った。右が金剛院、左が一段高くなって蓮浄院だった。
 庫裏の土間に入り車夫が声をかけると、四十前後の顔の角張った女が出て来て、謙作と荷とを見較べながら、
 「暫く御滞在ですか」といった。
 庫裏の炉端(ろばた)で白い単衣(ひとえ)を着た若い和尚が、伯楽(ばくろう)風の男を対手に酒を飲みながら高声に話合っているのが見えた。
 「暫く御厄介(ごやっかい)になりたいんです」
 女は心元ない風で後を向き、
 「ちょいと、どうです?」と和尚へ呼びかけた。
 「ようこそ」酒で赤い顔をした和尚が出て来て、立ったまま取ってつけたようなお辞儀をした。
 「泊めて頂けますか」
 「お泊めせん事もございませんが、この寺の先住が少し悪いというので、実は明日江州(ごうしゅう)の坂本まで出掛ける事にしているのですが、人手が足らんので、……。が、とにかくお上り下さいませ。もしお世話出来んようでしたら、他の寺を御紹介しますで」
 謙作は離れに通された。それは書院作りの座敷、次の間、折れて玄関という、何れ四畳半ばかりの家だった。先々住の隠居所に建てたもので、長押(なげし)から長押へ竹竿を渡し、それに縁(ふち)のない障子が何枚も積み重ねてある。それは寒中(かんちゅう)、その高さに障子で座敷を劃(くぎ)る、一種の暖房装置だった。
 小さな座敷の書院作りは少し重苦しい感じもしたが、結局三間ともに貸してくれるとの事で謙作は満足した。
 車夫はこの寺に一泊し、翌朝(よくあさ)還って行った。

 


 蓮浄院への道のりの描写、中から出てきた女の描写、若い和尚の描写、などなど、手練れの画家のクロッキーのように見事だ。

 あっさりとした描写なのに、その情景がありありと映画のように目の前に繰り広げられる。このあたりの映像は、小津安二郎というよりも、溝口健二といったところだろうか。なぜか溝口の『山椒大夫』を思い出した。

 

 


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日本近代文学の森へ 274 志賀直哉『暗夜行路』 161  「リアル」の大事さ  「後篇第四 十三」その1 

2024-12-09 20:31:31 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 274 志賀直哉『暗夜行路』 161  「リアル」の大事さ  「後篇第四 十三」 その1 

2024.12.9


 

 「十三」は、花の名前の列挙から始まる。列挙づいてるね。


 竜胆(りんどう)、撫子、藤袴、女郎花(おみなえし)、山杜若(やまかきつばた)、松虫草、吾亦紅(われもこう)、その他、名を知らぬ菊科の美しいは花などの咲乱れている高原の細い路を二人は急がず登って行った。放牧の牛や馬が、草を食うのを止め、立って此方(こっち)を眺めていた。所々に大きな松の木があり、高い枝で蝉が力一杯啼いていた。空気が澄んで山の気は感ぜられたが、登り故になかなか暑かった。そして背後(うしろ)に遥か海が見え出すと、二人は所々で一服しながら行った。


 都会育ちなのに、志賀はどうしてこんなに植物の名前を知っているのだろう。いや、志賀だけではなく、昔の人は、都会育ちであろうがなかろうが、案外こういう知識は豊富だったような気がする。都会でも、今の都会のありようと違って、すぐ近くに自然は広がっていただろうから。


 「さあ、もう一卜息だ」
 「荷は思ったより重いだろう」
 「うむ、ずっしりといやに重いね。こりゃあ本かね」
 「辛いようなら、その茶屋で少し出して行ってもいい。ついでの時に運んでもらうとして」
 「なに大丈夫だ。分けの茶屋で飯を一つよばれよう。そうすりゃあ元気がでらあね。」
 「お前は酒を飲むか?」
 「たんとはいけないね」
 「其所(そこ)で少し飲んだらいいだろう」
 「直しを一杯御馳走になるか。旦那はどうだね」
 「私は駄目だ」
 「全然(まるで)いけないという事はないだろう。直しを一杯やって、一時間ばかり昼寝をして行っちゃあどうだ」
 「昼寝はともかく、ゆっくり休んで行こう」

 


 ここで出てくる「直(なお)し」が、すぐに何だかわかるのが嬉しい。ぼくの愛してやまない落語『青菜』に出てくるのだが、そこで知ったのだ。関西では「柳蔭(やなぎかげ)」と呼ばれ、江戸では「本直し」と呼ばれる酒で、みりんと焼酎をほぼ半々に混ぜたものだ。冷酒用として飲まれたもので、植木屋が、旦那からこれを勧められるというくだりがある。夏の暑さの中で、なんともいえない清涼感がある。これを「分けの茶屋」で一杯やろうというのである。

 関西では「柳蔭」と呼ぶのに、この老車夫が「直し」というのは、関西でも「直し」と呼ぶ人がいたということだろうか。それとも志賀がそのことを知らなかったということだろうか。いずれにしても、今ではまず飲まれることもないだろう酒が、落語みたいに、こんなところに顔を出してくるのは楽しいことだ。

 それにしても、こんな山の中に歩いていくのに、「ずっしりと重い」ほど本を持って行くなんて、ちょっと信じられない。せいぜい2、3冊で事足りると思うのだが、「少し出して行ってもいい」とは、いったい何冊持っていったのだろうか。作家だからか、それとも謙作は、やっぱりまだ若いということか。

 ゆっくり休んで行こうという謙作に、老車夫は、この先はぶっそうなところだから、さっさと行こうといって、昔話をする。


 「もう三、四町だ。其所は分けの一つ家(や)といって、一里四方人家のない所だ。昔は恐ろしい爺(おやじ)がいて、よく旅人の物を盗ったりしたものだ」
 「何時(いつ)頃の話だ」
 「俺の若い頃の話さ。大山の蓮浄院(じょうれんいん)へ竹槍を持って押込みをやったのが知れ、茶屋の前で攻め木にかけられているのを見た事がある。海老攻めというので見ていられなかったね。真っ白い長い髪を振ってわあわあいう奴を段々にしめて行くのだ。俺(わし)は丁度雪を背負(しょ)って、其所(そこ)を通りかかって見たのだが、海老攻めというのはえらい拷問だね。身体(からだ)をぎゅうぎゅう海老のように屈(ま)げちまうんだから」
 車夫はなお、その時の話を精しくした。頬被りをした強盗が住職を嚇(おど)している間に、気の利いた小坊主が本堂の鐘を乱打した。それが火事その他不時の場合を知らす撞き方なので、他の寺々でも応じて鐘を撞き出したが、静かな真夜中だけに森や谷にこだましてごんごんごんごんそれが響いた。或る僧が戸外(そと)に出ているとちょうど月の入りで、森の中を真白な髪を振り乱しながら逃げて行く老人の姿を遥かに見たという。
 「山には竹はないが、その頃一つ家の前だけに竹藪があった。そこで藪を探すと、捨てて行った竹槍にすっきり切り口の合う株が見つかった。これには如何に強情な爺も恐れ入ったそうだ。調べ上げると他にも色々悪い事をしてたのが分って、間もなく米子で死刑になったよ」


 なんとも鮮明なイメージで描かれる事件だ。「海老攻め」という拷問の凄まじさ、真夜中の森や谷に響く鐘の音、月の光にまっ白な髪を振り乱して逃げていく老人──こんなイメージを志賀はどこから手に入れたのだろう。どこかで別のところで、かつて聞いたことのある実話だったのかもしれない。それをここに入れたのかもしれない。

 竹槍の切り口と、竹藪の中の竹の切り口が一致したなんて、嘘っぽいけど、おもしろい。

 このエピソードも、どうしてもなくてはならぬものではない。なければないでかまわないような話だが、やはり、『暗夜行路』では、こうした枝葉が魅力的に光っているのだ。

 もっとも、こうした犯罪が罰せられるというエピソードが、直子の過ちが頭を離れない謙作には、なんらかの意味をもって響いているという可能性も考えられるので、速断は慎まなければなるまい。


 やがて、二人はその茶屋に着いた。屋根の低い広々とした平家だった。軒前の大きな天水桶にはなみなみと水がたたえてあり、その下で襷(たすき)をかけた六十ばかりの婆さんが、塩びきの鮭を洗っていた。
 「暑い暑い」車夫は其所の縁台に重い荷を下ろした。
 広い平家は真中に士間が奥まで通ってい、その左が住い、右が客用の間になっていた。そしてその客用の間の真中に八十近い白髪(しらが)の老人が立てた長い胚を両手で抱くようにして、広い裾野から遠く中の海、夜見(よみ)ヶ浜、美保の関、更にそと海まで眺められる景色を前に、静かに腰を下ろしている。老人は謙作たちが入って来たのも気附かぬ風で、遠くを眺めていた。


 見事なものだ。茶屋のたたずまいが、たった二文(屋根の低い〜洗っていた。)で活写されている。天水桶にはなみなみとたたえられた水、塩びきの鮭を洗う六十ばかりの婆さん──これだけだ。これだけの「点景」で、全体を描いてしまう。

 そして、車夫の「暑い暑い」のセリフをはさんで、こんどは、まるでドローンで撮影したように視点を移動させて、家の間取りを描いていき、その果てに外の風景が広がる。その風景の中に、「静かに腰を下ろしている」老人。

 なんという美しい風景だろう。まるで、広重の絵だ。


 「車屋にめしと酒」謙作は婆さんにいった。「私には菓子と、それからサイダーをもらおうか」
 「お爺さん。お爺さん」婆さんは立って濡れ手を前へ下げたまま老人を呼んだ。
 「私は手が臭いからお客様に菓子とサイダーを上げて下さい」
 老人は黙って立った。脊(せ)が高く丁度風雨にさらされた山の枯木のような感じがした。
 「菓子と何だね?」
 「お爺さん、サイダーは俺(わし)が持って来る。菓子だけ出しておくれ」車夫はそういい、自身流しの方へそれを取りに行った。「此方(こっち)の方が冷えているのかね」
 爺さんは棚から硝子の皿を取り、石油鑵(かん)から駄菓子を手で掴み出し、それを謙作の前へ持って来た。そして「おいで……」こういってちょっと頭を下げると、また元いた場所へ還って腰を下ろした。
 「これを食べるかね」婆さんは塩びきを切りながら車夫にいった。
 「結構だね」車夫は胸に流れる汗を拭きながら答えた。


 婆さんが「私は手が臭いから」といって、菓子を出すのを爺さんに頼むあたりは、芸が細かい。「塩びき鮭」を洗っているので手が鮭臭いというのだ。こういう細かいところの「リアル」がとても大事だ。鮭の塩びきを肴にのむ「直し」もうまそうだ。これも「リアル」。

 余計な話だが、今やってる朝ドラ『おむすび』には、こういう「リアル」が極端に欠けている。同時に再放送中の『カーネーション』が、こうした「リアル」に満ちているので、『おむすび』は余計見ているのが辛い。

 「石油鑵(かん)から駄菓子を手で掴み出し」の「石油鑵」も懐かしい。ぼくが子どもの頃にも、「石油鑵」に菓子やら乾物やらを入れていたような気がする。

 爺さんが「おいで……」というのは、「おいでなさいまし」というような挨拶の省略形だろう。最初読んだとき、「こっちへおいで」の意味かと思って戸惑った。こういう勘違いがぼくには多くて困る。

 さて、ここで重要なのは、美しいパノラミックな風景の中に、ズームインしてきたような座っている爺さんが、謙作には「風雨にさらされた山の枯木のような感じがした。」というところだ。

 なんでもないようなたたずまいの爺さんが、この後、重要な意味合いを持ってくるのである。

 

 

 


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日本近代文学の森へ 273 志賀直哉『暗夜行路』 160  大山は近い!  「後篇第四 十二」 

2024-12-02 21:04:33 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 273 志賀直哉『暗夜行路』 160  大山は近い!  「後篇第四 十二」 

2024.12.2


 

 応挙寺で、美術の世界に遊んだ謙作は、その晩は鳥取に泊まった。

 

 その晩、謙作は鳥取に泊った。此所(ここ)では幅一里長さ七里に亘(わた)る海岸の砂原にあるという大擂鉢(おおすりばち)、小擂鉢(こすりばち)それから多鯰(たね)ヶ池というその砂原に添うた小さな湖の見物を勧められたが、何里かを俥に揺られて行くのが、もう億劫で、絵葉書を買って済ました。


 「絵葉書を買って済ました」というのがおもしろい。観光地の絵葉書というものは、まだ写真の普及していない時代、旅の思い出として買うものと思っていたが、そういう「使い道」もあったのか。そういえば、最近では、観光地の絵葉書というものは、どうなっているのだろうか。まだ売っているのだろうか。まだ買う人がいるのだろうか。観光地へ、近頃とんと行かないので、その辺のことがよく分からない。

 晩飯の給仕の女中が、その地の伝説などを真面目に話すのを謙作は聞きながら、明日の天気を気にしていた。


 謙作は翌日の天気模様を気にしながら寝た。もし雨なればもう一日何所(どこ)かへ泊らねばならぬのが今は少し面倒になっていた。東郷池の東郷温泉なども面白そうに思われたが、それよりも早く、涼しい大山に登り、延び延びした気持になりたかった。
夜中、駿雨の音を聞いて、彼はこれならばかえってあしたはいいかも知れぬと思った。


 翌日は果たしていい天気だった。謙作は九時の汽車に乗った。帝国文庫の「高僧伝」を読んだり、小泉八雲に思いを馳せたりしながら、大山を目指した。ここでは引用しないが、その土地の伝説などに興味を示したりする部分がけっこう細かくて、前回の美術についてのように、なくてもいいような叙述が続くが、そうした知識はどこから仕入れたのだろうか。志賀は、大山に実際に行って、「取材」したのだろうか。それともかつて旅行したことがあり、その抜群の記憶力を頼りに書いているのだろうか。ちょっと知りたいところである。たぶん、そういう研究もあるだろうが、今は先を急ぐ。

 やがて、「外の景色」が、謙作の気持ちに変化をもたらすようになる。


 上井(あげい)、赤崎(あかさき)、御来屋(みくりや)。彼は汽車の窓から飽ず外の景色を眺めて来た。盛夏の力というようなものが感ぜられ、彼は近頃に珍しく元気な気持になった。二尺ほどに延びて密生した稲が風もないのに強い熱と光との中に揺れて見えた。
 「ああ稲の緑が煮えている」彼は亢奮(こうふん)しながら思った。
 実際稲の色は濃かった。強い熱と光と、それを真正面(まとも)に受け、押合い、へし合い歓喜の声をあげているのが、謙作の気持には余りに直接に来た。彼は今更にこういう世界もあるのだと思った。人間には穴倉の中で啀合(いがみあ)っている猫のような生活もあるかわりに、こういう生活もあるのだと思った。今日の彼にはそういう強い光が少しも眩しくなかった。

 


 まず、冒頭の地名の列挙がすばらしい。どんなところか何の説明もないのに、読んで心地よいリズムがある。大岡信の「地名論」みたいだ。地名が、地名の列挙によるリズムが、謙作の心の躍動につながる。

 そして「二尺ほどに延びて密生した稲が風もないのに強い熱と光との中に揺れて見えた。」そして、「ああ稲の緑が煮えている。」という極端な表現。──まるでゴッホである。

 これまで、この小説にこんなにも明るい、生命感に満ちた表現は一度も出てこなかったような気がする。全体にもやがかかったような、陰鬱な空気の中で、息もできないような生活が続いてきた。直子との結婚以来、子どもの死、そして直子の過ちと謙作の思いも寄らぬ残酷なふるまい。その後の直子との心理的な確執。そこからなんとか脱出して旅に出た謙作は、やっとこの景色に出会えたのだといっていい。

 大山は近い。


 大山という淋しい駅で汽車を下りた。車夫を呼んで訊くと、大山まではなお六里あるとの事だった。それも俥で行けるのは初めの三里で、あとは徒歩で行くのだという。
 「それじゃあ直ぐ出かけましょう。俺(わし)は分けの茶屋で何か食わしてもらえばいい」
 これから六里の道を一緒に行くという事が既に彼らをいくらか親(ちか)しくしている感じだった。
 謙作は俥に乗った。
 「日は長(なげ)えが、何しろ半分からはずっと登りだからね」
 前に遠く、線の立派な大山を眺めながら謙作はこの炎天にこの車夫があすこまで荷を運ぶかと思うと不思議な気がした。
 「上はよほど涼しいだろうね」
 「そりゃあ涼しい。昔はこの辺の氷といやあ、みんなあの山の雪を持って来たものだ。 冬、積み重ねておいたのを夏になって、切り出して来るのだ。俺(わし)は若い頃、その人足をやっていた」
 狭い通りで子供たちが騒いでいた。人取りのような遊びで、子供たちはそれに夢中で、なかなか俥をよけなかった。
 老車夫は丁度其所(そこ)に落ちていた細い竹の枝を拾うと、子供らの頭をちょいちょいと叩きながら行った。
 「老ぼれ」「阿呆」子供たちは毒づいていたが、老車夫は笑いながら、手の届く子供の頭は一々叩いた。

 


 すがすがしい情景描写だ。子どもが老車夫をからかうさま、老車夫が子どもの頭を竹の枝で笑いながら叩いていくさま。こういうところは、何度もいうが、志賀はほんとにうまい。短編の「真鶴まで」を思い起こさせる。

 老車夫とも打ち解ける謙作の気持ちもよく伝わってくる。


 間もなく、その狭い通りから急に広い道へ出た。路幅は六、七間、両側に軒の低い家が並んでいた。それが一層この道を広々と、また明るい感じに見せた。三叉(みつまた)に竹竿を渡し、それへ白い無闇と長い物が一杯掛けてあった。片側半分ほどは軒並それだった。干瓢(かんぴょう)だという。
 「干瓢にしちゃあ幅が広いな」
 「まだ乾かねえからさ」
 「名物にでもなっているのか」
 「なに、名物というほどじゃあない」
 馳けたり、歩いたり、二人は気楽にこんな話をしながら行った。
 三里来て、其所(そこ)からはもう俥は通わなかった。老車夫は俥を百姓家に預け、麻縄で荷を背負った。謙作は麻帷子(かたびら)の裾を端折(はしょ)った。
 道から細い坂を登ると、上は広々した裾野だった。最近まで軍馬養成所になっていたか、広々した気持のいい場所だった。一体大山は馬市でも名高い所だという。
 二人はゆるい傾斜の原をゆっくり歩いて行った。


 狭い通りから広い道に出た感じが、とてもいい。これも、謙作の心の解放を示唆しているかのようだ。

 中に「三叉」という言葉が出てくるが、懐かしい。我が家ではこれを「さんまた」といい、洗濯物を吊り下げた竹を物干しに持ち上げるのに使っていた。Y字型をした道具である。決して植物の「ミツマタ」ではないから注意。

 老車夫との掛け合いも、ますます親しみの度合いをましている。こんなに素直な謙作は、初めてみる思いがする。

 これで、「十二」は終わるが、話はそのまま「十三」へと連続していく。

 

 

 

 


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一日一書 1742 寂然法門百首 91

2024-11-18 10:42:00 | 一日一書

先照高山

先に高山を照らす
 
半紙

 

【題出典】『法華玄義』一〇・上
 

【題意】 (華厳経の教えは、たとえば)日が出るとまず高い山を照らす(ようなものだ。)


【歌の通釈】

朝日が出て、山の峰を照らすけれども、光も知らない谷底の土に埋もれた木だよ。(仏が世に出て『華厳経』を高位の菩薩に説くけれど、それを知らない二乗の凡夫であるよ。)
 

【考】

以下の六首は「五時」を詠む。天台大師が説いた「教相判釈」説で、釈迦の生涯における説法を五つの段階に分けたもの。すなわち華厳時・鹿苑時(阿含経)・方等時(維摩経など)・般若時・法華涅槃時の五時である。ここでは法華涅槃時を二つに分けて六首構成としている。第一の華厳時は、まず凡夫の理解できない高度な教えを説く。朝日はまず山の峰を照らすが、谷の底にはまだ光が当らないことに譬えた。

(以上、『寂然法門百首全釈』山本章博著 による。)

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★この「91」からは、「雑」の部となります。
★仏の教えは、高度で凡夫の理解できないところから、やがて、凡夫にも分かるものへと進んでいく。「小乗」から「大乗」へということのようです。
★教えが、段階的に深化していくさまが、キリスト教とはだいぶ違っていて、興味深いところ。イエスの教えは、まず「凡夫」に向かって、きわめて分かりやすい形で語られています。いわば「谷底の埋れ木」にまずイエスは降りていったように思います。

 

 

 


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日本近代文学の森へ 272 志賀直哉『暗夜行路』 159  自分の「外」へ!  「後篇第四 十一」 その2

2024-11-10 14:22:31 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 272 志賀直哉『暗夜行路』 159  自分の「外」へ!  「後篇第四 十一」 その2

 

2024.11.10


 

 直子、お栄、お仙、それに赤ん坊の4人を残して、謙作は旅立った。

 直子との関係修復、もっといえば、これからの直子のとの生活を立て直すための旅なのだから、深刻な気分が謙作の心を閉ざしているかと思いきや、なんだか、やっと家庭から解放されたといったのびのびとした気分の謙作だったようだ。

 志賀直哉の得意な自然描写が、存分に生かされている。

 

 嵐山(らんざん)から亀岡までの保津川の景色は美しかった。が、それよりも彼は青々とした淵を見ると、それに浸(つか)って見たかった。川からきりたった山々の上に愛宕(あたご)が僅(わず)かにその頂を見せていた。彼はいつも東から見る山をもう西から見ていた。そして彼の頭には瞬間衣笠の家が遠く小さく浮かんだ。
 綾部、福知山。それから和田山へ来て、漸く夏の日が暮れた。
 彼はその晩、城崎(きのさき)へ泊る事にして、豊岡を出ると、車窓から名高い玄武洞を見たいと思っていたが、暗い夜で、広い川の彼方に五つ六つ燈火を見ただけだった。


 謙作が乗った列車は、山陰本線を走った。歴史を見てみると、様々な紆余曲折を経て、京都駅〜出雲今市駅が全線開通したのは、明治45年だという。今さらだけど、明治という時代は、猛烈な勢いで、国の形を変えていったわけだ。

 以前、岩野泡鳴のいわゆる「四部作」を読んでいたときも、北海道の鉄道がすでに縦横に敷かれていた様子が描かれていてびっくりしたものだが、昨今の廃線につぐ廃線の状況をみるにつけ、時代というものが、なにやらわけのわからないものとして頭の中に渦を巻くような印象がある。

 この冒頭の一節も、美しい。保津川沿いの車窓を、ぼくも一度見たはずなのに、その記憶がない。「青々とした淵を見ると、それに浸(つか)って見たかった。」という謙作の気持ちもよくわかる。「愛宕」というのは、落語「愛宕山」に出てくるあの山であろう。京都では愛宕山に登るという遊びがあったのだ。落語では、幇間が旦那や芸者と一緒に登る様子が生き生きと描かれている。その愛宕山が見える、ということについては、謙作の頭の中にそうした芸者たちとの遊びの思い出も含まれているのかもしれない。

 「彼はいつも東から見る山をもう西から見ていた。」と簡潔な表現で、列車の移動を語り、「そして彼の頭には瞬間衣笠の家が遠く小さく浮かんだ。」と、我が家との思いがけない心理的な距離を示唆する。「衣笠の家」は、すでに、謙作の心から「遠く小さ」いものとなっているのだ。

 


 城崎では彼は三木屋というのに宿った。俥で見て来た町の如何にも温泉場らしい情緒が彼を楽(たのし)ませた。高瀬川のような浅い流れが町の真中を貫いている。その両側に細い千本格子のはまった、二階三階の湯宿が軒を並べ、眺めはむしろ曲輪(くるわ)の趣きに近かった。また温泉場としては珍らしく清潔な感じも彼を喜ばした。一の湯というあたりから細い路を入って行くと、桑木細工、麦藁(むぎわら)細工、出石焼(いずしやき)、そういう店々が続いた。殊(こと)に麦藁を開いて貼った細工物が明るい電燈の下に美しく見えた。

 


 城の崎といえば、当然小説「城の崎にて」が思い浮かぶわけだが、実際に志賀直哉が城崎温泉で事故(山の手線に跳ねられた)後の療養にあたったのは、大正2年のことだから、志賀は10年以上も前の記憶を辿って書いていることになる。志賀の記憶力はものすごかったらしい。

 特に、「麦藁を開いて貼った細工物が明るい電燈の下に美しく見えた。」というような細密な描写は、まるで今見ているように描かれている。これを、実際に見たことがないのに想像力だけで書くということはできることではない。「一の湯というあたりから細い路を入って行くと、桑木細工、麦藁(むぎわら)細工、出石焼(いずしやき)、そういう店々が続いた。」という部分だって、10年以上も前のことを、写真を撮ったり、メモしたりということなしに、ちゃんと覚えているというのは驚異的だ。
しかも、こうしたリアルな描写は、この小説の展開上、ほぼ意味がない。なくても、ちっとも困らないのだ。というか、あることにかえって違和感さえある。これでは、まるで、のんきな紀行文ではないか。直子のことはどうしたのか? 心配じゃないのか? って思う人もいるだろう。

 けれども、城の崎に来た以上、そこがどんな町で、どんな産物があって、どんな雰囲気だったのかというようなことを、きちんと正確に、しかもくどくなく、描くという姿勢を、志賀直哉は決して崩さない。

 小説のストーリーだけを追いかけて読むなら、こんな部分は余分なところで、むしろわずらわしいだけだ。しかし、「暗夜行路」のストーリーは、すでに分かっている。(いちど読んでいるからだけど。)けれども、ストーリーからはずれる横道みたいなところが、案外おもしろいのが「暗夜行路」である。

 


 宿へ着くと彼は飯よりも先ず湯だった。直ぐ前の御所(ごしょ)の湯というのに行く。大理石で囲った湯槽(ゆぶね)の中は立って彼の乳まであった。強い湯の香に、彼は気分の和ぐのを覚えた。
 出て、彼は直ぐ浴衣が着られなかった。拭いても拭いても汗が身体を伝って流れた。彼は扇風機の前で暫く吹かれていた。傍(そば)のテーブルに山陰案内という小さな本があったので、彼はそれを見ながら汗の退(ひ)くのを待った。大乗寺(だいじょうじ)、俗に応挙寺(おうきょでら)というのがあった。それは城崎から三つ先の香住(かすみ)という所にある。彼は翌日其所(そこ)へ寄って見ようと思った。子供から応挙の名は聞いていたが、その後、狗子(くし)や鶏や竹などの絵を見て彼は少しも感服しなかった。第一円山派(まるやまは)というものにほとんど興味を持たなかったが、再びこの辺へ来るかどうか分らぬ気がしたので、寄って見る気になった。
 此所が暑いのか、その晩が暑いのか、何しろ蒸暑くて彼は寝つかれなかった。この湯は春秋、あるいは冬来てかえっていい所かも知れぬと思った。
 翌朝起きたのは六時頃だった。彼は寝不足のぼんやりした頭で芝生の庭へ出て見た。直ぐ眼の前に山が聳え、その山腹の松の枯枝で三、四羽の鳶が交々(かわるがわる)啼いていた。庭に、流れをひき込んだ池があり、其所には青鷺が五、六羽首をすくめて立っていた。彼はまだ夢から覚めないような気持だった。

 

 湯船が深くて「立って彼の乳まであった」というところは、一度だけ行ったことのある道後温泉の本館の湯を思い出す。あんな深い湯に入ったのは初めてだったので驚いたけど、西の方の温泉では普通のことなのだろうか。

 しかし、やっぱり観光気分だね。直子との関係が崩壊寸前だから、なんとか気持ちを切り替えるために、直子としばらく離れるという決心をした謙作にしては、その「切実感」がない。「衣笠の家」なんて、とっくに謙作の心の中から消えてしまっているかのようだ。

 しかしまたこうも考えられる。謙作にとって、「切実」な問題は、「自分」をどう変えていくかということなのだが、それは、「自分自身」のみを見つめていても解決のできない問題でもある。「自分」を「自分」が見る、考察するということ自体、どだい無理な話なのだ。どこまでいっても堂々巡りでしかない。そんな経験を、ぼくも、若い頃したような気がする。

 「自分」の問題の解決は、「自分」の「外」からやってくる。関心を「自分」ではなくて、「外」に向けることの大事さを、大昔、加藤周一が言っていたような記憶がかすかにあるが、定かではない。誰が言っていようが、おそらく、それは正しいのだ。

 謙作の「観光気分」は、謙作が旺盛な好奇心を持っていて、「外」のものからの刺激を敏感に受けるところから醸し出されているのかもしれない。それならば、一見「意味のない」自然描写にも、深い「意味」があることになるだろう。そして、この後に続く「応挙寺」の美術品に対する鑑賞・批評も、ストーリーからははずれているが、謙作の審美眼、趣味といったものを詳しく語ることで、遠回りながら謙作の「自分」変革に一役買っていくのかもしれない。

 


 十時頃の汽車で応挙寺へ向う。香住駅から俥で行った。
 応挙の書生時代、和尚が応挙に銀十五貫を与えた。応挙はそれを持って江戸に勉強に出た。その報恩として、後年この寺が出来た時に一門を引き連れ、寺全体の唐紙へ揮豪したものだという。
 応挙が一番多く描いていた。その子の応瑞(おうずい)、弟子では呉春(ごしゅん)、蘆雪(ろせつ)もあり、それぞれ面白かった。
 応挙は書院と次の間と仏壇の前の唐紙を描いていた。書院の墨絵の山水が殊によく思われた。如何にも律気な絵だった。次の間は郭子儀(かくしぎ)、これには濃い彩色があり、もう一つは松に孔雀の絵だった。
 呉春の四季耕作図は温厚な感じで気持よく、蘆雪の群猿図は奔放で如何にも蘆雪らしく、八枚の右の二枚は構図からも描法からも、為事(しごと)を投出してしまったような露骨な破綻を見せていた。酒に酔った蘆雪が眼に浮び、呉春との対照が面白かった。
 応挙の模写という禅月大師(ぜんげつだいし)の十六羅漢が未完成のまま庫裏の二階に陳列してあった。
 沈南蘋(なんちんびん)の双鷲図(そうしゅうず)、浪の間に頭を出している岩の上に雌鷲が足を縮め、両翼を開き、脊(せ)を低く首をめぐらし、雄鷲を見上げながら立っている。上の岩に真直ぐに立って雄鷲が強い眼差でそれを見下している。雌鷲の子を生むための本能が如何にも露骨に描き出され、そしてそれを上から強く見下している雄鷲の態度も謙作には興味があった。
 「もう他には……?」謙作は背後に立っている小坊主を顧みた。
 「まあ、絵はこんなものですが、この他に左甚五郎が彫った竜というのが屋根にあります」
 二人は庫裏から下駄を穿いて、戸外へ出た。戸外は何時(いつ)の間にか曇っていた。二人は本堂を左へ廻った。石段から一間ほど登った所にちょっとした平地がある。其所から、入母屋破風(いりもやはふ)に置かれた大きな丸彫の竜を望んだ。竜の写実だと思い、彼は軽いおかしみを覚えた。
 「これは実物大ですね」そういって笑ったが、小坊主には通じなかった。
 「おお、降って来た」
 仰ぎ見た謙作の顔に大粒な雨があたった。
 「この竜が雨を呼んだのだ」彼はこんな笑談(じょうだん)をいいながらまた庫裏の方へ還って来た。

 


 これで、「十一」は終わるのだが、こうしてえんえんと書かれている美術鑑賞は、読者には、冗長とも思え、あるいは難解とも思えるだろう。あるいは、当時の読者は、こうした一種のディレッタンティズムをも喜んだのだろうか。あるいは、これを読んで、なるほどなあと思えるほど、美術的な教養があったのだろうか。

 それは知るよしもないが、今この部分を読んで、ある程度の図柄を頭にイメージできる人はそう多くはないだろう。けれども、現実からはもっとも遠い美術の世界に、これだけの興味関心をもって入り込んでいけるというのは、謙作にとっては大きな救いでもあるのだ。自分の「外」に出て行けるからだ。そのところを心にとめておきたい。

 

 


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