日本近代文学の森へ 224 志賀直哉『暗夜行路』 111 読解力が足りない 「後篇第三 十二」 その2
2022.8.9
国語の教師を42年間も曲がりなりにも続けてきたというのに、どうも、昔からぼくには読解力がない。もちろんぜんぜんないわけではないけれども、どうにも「普通じゃない」ところがある。
家内と一緒にサスペンスなんかを見ていたころに、ぼくには「え? どうして?」ってところが多々あって、その度に、家内は「どうしてこんな当たり前のことがわからないの?」と呆れたものである。最近では、2時間ドラマなど見る余裕がないが、それでも、生活の至るところで、家内の「どうして、そんなことが分からないの?」は、毎日のようにあって、ぼくの「読解力のなさ」あるいは「文脈の読めなさ」には、ますます磨きがかかっているのである。
そんなぼくが、「暗夜行路」なんぞを、えんえんと「精読」しているのだから、そのトンチンカンぶりも、なかなか堂に入ったもので、前回も、その恰好の例が出た。その部分を再度引用しておく。
謙作は直子を再び見て、今まで頭で考えていたその人とは大分異う印象を受けた。それは何といったらいいか、とにかく彼は現在の自分に一番いい、現在の自分が一番要求している、そういう女として不知(いつか)心で彼女を築き上げていた。一卜言にいえば鳥毛立屏風の美人のように古雅な、そして優美な、それでなければ気持のいい喜劇に出て来る品のいい快活な娘、そんな風に彼は頭で作り上げていた。総ては彼が初めて彼女を見たその時のちょっとした印象が無限に都合よく誇張されて行った傾きがある。そして現在彼は同じ鶉(うずら)の枡(ます)に大柄な、豊頬な、しかし眼尻に小皺(こじわ)の少しある、何となく気を沈ませている彼女を見た。髪はその頃でも少し流行らなくなった、旧式ないわゆる廂髪で、彼は初めて彼女を見た時どんな髪をしていたか、それを憶い出せなかったが、恐らくもっと無雑作な、少しも眼ざわりにならないものだったに違いないと思った。
この中の「そして現在彼は同じ鶉の枡に大柄な、豊頬な、しかし眼尻に小皺の少しある、何となく気を沈ませている彼女を見た。」について、「『鶉の枡』というのは着物の柄なんだろうけど、調べても分からなかった。知っている人がいたら教えてください。」と書いた。「知っている人がいたら教えてください。」なんて臆面もなく書いたけれど、調べることは調べたのである。しかし、どうにも分からなかった。
というのも、ぼくのこの解釈には、決定的な誤りがあって、それは「鶉の枡」が「着物の柄」だと思い込んだことである。どうしてそう思い込んだのかというと、「鶉の枡に大柄な」とあるので、まず「大柄な」を「着物の柄」だと思ってしまっのだ。そのため、大柄な着物の柄に「鶉の枡」あるいは「鶉枡」という柄があって、そのことを言っているのだろうと考え、懸命に、着物の柄を調べたのである。検索の途中で、何度も、昔の劇場の桟敷席の図などが出てきて、それが「鶉枡」だという説明が出てきたのだが、そうか、それをどう着物の柄にしたのかなあと考えてしまったのだった。
それで、行き詰まってしまい、「知っている人がいたら教えてください。」と書いた。それは、昔からの友人の何人かが(たぶん2人だが)、毎回きちんと読んでくれていて、そのうちの横浜に住んでいる一人は、毎回、「誤植」を指摘してくれているのだ。もう一人は、遠い都に住んでいるのだが、時折、的確な感想をメールで送ってきてくれる。
なにしろ、「暗夜行路」だけで、すでに100回を超えるという「長大作」なので、そうそう読んでくれる人もいないわけだが、毎回熱心に読んでくれているのが嬉しくて、なんとか書き続けているのだ。
で、二人のうちの西の都に住む友人が、すぐにメールをくれて、
鶉の枡は、知ってる人は知ってるので、
もうムダかなとおもいつつ、
http://www.arc.ritsumei.ac.jp/lib/vm/kabuki2015/2015/11/post-48.html
をご覧ください。
というリンクを送ってくれた。そのリンクをみると、ぼくがさんざん検索で目にしてきた昔の劇場の観客席の絵である。それを見て、「だからさ、それは見たのよ。ぼくが探しているのは着物の柄なんだけどなあ。」と心の中で呟いたその瞬間、ぼくは自分の誤りにハタと気づいたのである。
もう一度その部分を引こう。
そして現在彼は同じ鶉の枡に大柄な、豊頬な、しかし眼尻に小皺の少しある、何となく気を沈ませている彼女を見た。
問題は「鶉の枡に」の「に」だ。「鶉の枡に、大柄な」と続けて読んだために(しかし、普通はそうは読まない。)、「大柄」が着物の柄だと思ってしまった。しかし、「大柄な、豊頬な、しかし眼尻に小皺の少しある、何となく気を沈ませている彼女」となっているのだから、「大柄な」は、彼女の体格を言っていることは明らかで、これを「着物の柄」だととるなんぞは、まさに「読解力不足」の真骨頂である。しかし、まあ、ここを「に」だけで済ませずに、「鶉の枡の中に」と書いてくれれば、そういうバカな読み方は防げるわけなのだが。
ところで、この構文は、英語の言い方によく出てくるヤツだ。これを普通の日本語に直せば、「そして、大柄な、豊頬な、しかし眼尻に小皺の少しある、何となく気を沈ませている彼女が、彼と同じ鶉の枡に座っているのだった。」といった感じになる。(これが「普通」かどうか分からないけど。)何もこんな言い直しをしなくても、普通の読解力を持っている人間なら、即座に分かるのだろうが、ぼくは、これが分からなかったのだ。分かってしまえば、もう読み違えようのないくらい明晰な文章なのだが。
そんな、こんなで、つい先日、もう一人の横浜に住む友人から、翻訳サイトの「DeepL」というのがスゴイということを聞いていて、いろいろ試している最中なので、これを英語に翻訳させてみたら、以下のようになった。対訳式に、引用しておく。
謙作は直子を再び見て、今まで頭で考えていたその人とは大分異う印象を受けた。それは何といったらいいか、とにかく彼は現在の自分に一番いい、現在の自分が一番要求している、そういう女として不知(いつか)心で彼女を築き上げていた。一卜言にいえば鳥毛立屏風の美人のように古雅な、そして優美な、それでなければ気持のいい喜劇に出て来る品のいい快活な娘、そんな風に彼は頭で作り上げていた。総ては彼が初めて彼女を見たその時のちょっとした印象が無限に都合よく誇張されて行った傾きがある。そして現在彼は同じ鶉(うずら)の枡(ます)に大柄な、豊頬な、しかし眼尻に小皺(こじわ)の少しある、何となく気を沈ませている彼女を見た。髪はその頃でも少し流行らなくなった、旧式ないわゆる廂髪で、彼は初めて彼女を見た時どんな髪をしていたか、それを憶い出せなかったが、恐らくもっと無雑作な、少しも眼ざわりにならないものだったに違いないと思った。
When Kensaku looked at Naoko again, he had a very different impression of her from the one he had been thinking about in his mind. He had built her up in his mind as the kind of woman who was the best for him, the kind of woman he most desired. In a word, she was as elegant and graceful as a beautiful woman on a bird's-ear screen. All in all, it was a slight impression he had had of her when he first saw her, which he had conveniently exaggerated to an infinite degree. And now he saw her in the same quail's box, large and full-cheeked, but with a few wrinkles at the corners of her eyes and a somewhat somber appearance. Her hair was the old-fashioned, so-called "brim hairstyle," which had fallen out of fashion even then. He could not remember what kind of hair she had when he first saw her, but he thought it must have been something more unkempt and unappealing to the eye.
英語はよく分からないけど、これは相当分かりやすい訳ではなかろうか。特に、問題となっている部分を見ると、「And now he saw her in the same quail's box, large and full-cheeked, but with a few wrinkles at the corners of her eyes and a somewhat somber appearance. 」となっている。
なんとわかりやいことよ! これなら誤読する気遣いはない。
その昔、正宗白鳥だったかが、源氏物語は英訳のほうが分かりやすいって言ったことがあったらしいが、まったくムベなるかなである。「暗夜行路」もよく分からなくなったら、「DeepL」に翻訳してもらおうか。