Yoz Art Space

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「ぼくの切抜帖」 17 マルセル・プルースト「失われた時を求めて」 ★音楽

2020-04-29 11:10:13 | ぼくの切抜帖

 台所番女中が──「過誤」が対照的に「真実」の勝利をいっそう華々しく見せるのと同じで、想いもよらずフランソワーズの優位を際立たせることになったが──お母さんに言わせるとお湯同然のコーヒーを入れてくれ、それから皆の部屋にいやにぬるいお湯を持ってあがるあいだ、私は自分のベッドの背にもたれて本を手にしていた。私の部屋は、照りつける午後の太陽にうち震え、透明なもろい冷気を維持していたが、ほとんど締めきった鎧戸に照りかえす光が黄色い羽をもぐりこませ、木の桟とガラス窓のあいだの片隅にチョウがとまったみたいにじっとしている。室内はどうにか本が読めるくらいの明るさだが、それでもまばゆい光が私に感じられたのは、ひとえにラ・キュール通りでカミュが埃だらけの木箱を打ちつける音のせいである(フランソワーズから叔母が「お休みにならない」ので音を立ててもいいと言われていたのだ)。その音は、暑い時期に特有のよく響く大気に鳴りわたり、真っ赤な星くずを遠くにまで飛散させるように感じられる。まばゆい光が感じられたのはハエのおかげでもあり、ささやかなコンサートよろしく私の目の前で演奏してくれるのは、さながら夏の室内楽である。その音楽が夏を想いおこさせるのは、人間の奏でる曲の場合とはまるで異なる。ふつうの曲の場合、たまたまうららかな季節にそれを聞いたから、あとでその季節が想い出されるだけの話である。ハエの音楽は、はるかに必然的なきずなで夏と結びついている。それが晴れた日に生まれ、晴れた日にだけよみがえり、晴れた日のエッセンスを多分に含んでいて、そのイメージを記憶によみがえらせてくれるだけでなく、げんに晴れた日が再来していること、それが実際にまわりに現存し、ただちに手に入ることを保証してくれるのだ。
 このように私の部屋の薄暗い冷気は、通りに照りつける太陽と呼応していたが、それは影が光ゆえに生じるのに似て、太陽と同じように光り輝き、私の想像力に夏の全景をそっくり映し出してくれた。かりに私が散歩に出ていたとすると、私の感覚はその夏の全景を断片的にしか享受できなかったはずである。

★「失われた時を求めて 第1巻」p192  吉川一義訳・岩波文庫

 


 

ハエというと、なんか汚い感じがするけど、その羽音にプルーストは音楽を感じるわけで、日本でいえば、たとえばミンミンゼミでもいいわけです。彼らが奏でる「音楽」が、人間の「音楽」とはぜんぜん違うのは当たり前だけど、その「音楽」から想起されるものの違いを明快に語っていて面白いですね。

最後のところで、家に閉じこもっていたほうが、「夏の全景」を享受できる、という指摘も面白い。

 

 


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ぼくの切抜帖 16 マルセル・プルースト「失われた時を求めて」 ★時間

2020-04-29 10:29:11 | ぼくの切抜帖

 意識のなかに同時に並置されるさまざまな状態を内から外へとたどりつづけ、それらを包みこむ現実の視界に到達する前に最後に私が見いだすのは、別のジャンルの楽しみだった。じっと腰かけたまま、空気のいい匂いを嗅ぎ、だれにも煩わされない楽しみである。サン=チレールの鐘塔で時を告げる鐘が鳴ると、ひとつまたひとつと、午後のすでに消費された時が落ちてきて、最後の音が聞こえるとすべてを合算できるのだが、そのあとの長い静寂は、本を読むのに残された全時間が青空のなかにはじまる合図のように思われた。そのうちフランソワーズがおいしい夕食を用意して、主人公のあとを追いかけて溜まった読書中の疲れを癒してくれるのだ。そんなふうに鐘がなるたびに、前の時刻が告げられたのはついさきほどだったと感じられる。空のなかには最後の音が前の音のすぐそばに記されているから、私としては、ふたつの黄金(こがね)色のしるしのあいだに見える小さな青いアーチのなかに六十分という時間が含まれているとは信じられない。ときには鐘の音が、早まって前よりふたつも余分に鳴ることあり、そうなると私には前の時刻は聞こえなかったわけで、現実におきたことはおこらなかったことになる。深い眠りと同じく魔術的というほかない読書の興味のせいで、私の耳は錯覚にとらわれ、空色の静寂の表面からいわば黄金色の鐘を消し去っていたのである。コンブレーの庭のマロニエの木陰ですごした日曜の晴れた午後よ、私自身の暮らしの凡庸なできごとを入念にとりのぞき、かわりに清流に洗われた土地での奇妙な冒険と憧れの暮らしを満載してくれた午後よ、お前はいまもなお私にそのときの暮らしを想起させてくれる。それはお前が──私が本を読みすすめ、昼間の熱気が収まってゆくあいだ──お前の静まりかえり、よく響く、香(かぐわ)しくて、澄みきった時間の、継起しつつゆっくりと移り変わり、葉の茂みのよぎるクリスタルのような空のなかに、そのときの暮らしを包みこみ、囲いこんでくれたからである。

★「失われた時を求めて 第1巻」p200  吉川一義訳・岩波文庫

 


 

「ぼくの切抜帖」シリーズは2015年以来ストップしていましたが、再開します。

 

 


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ぼくの切抜帖 15 マルセル・プルースト「失われた時を求めて」★習慣

2015-01-08 11:08:35 | ぼくの切抜帖

普通はわれわれは自己の存在を最小限に縮小して生きているのであって、われわれの能力の大部分は眠っている、なぜならわれわれの他の能力は習慣の上に寄りかかって休息していて、習慣はただ自分のやるべきことだけを知っていて、われわれの他の能力のたすけを必要とはしないからである。

★マルセル・プルースト「失われた時を求めて 第2巻」p384 井上究一郎訳・ちくま文庫


 



プルーストの切り抜きの13~15までは、ほとんどつながっている部分です。



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ぼくの切抜帖 14 マルセル・プルースト「失われた時を求めて」★美と幸福

2015-01-08 11:01:43 | ぼくの切抜帖

われわれは美と幸福とが個性的なものであることをいつも忘れている、そして、いままでに気に入ったさまざまな顔や、かつて経験したいろんな快楽をつきまぜ、そこから一種の平均をとってつくりあげる一つの因習的な型を、心のなかで、美や幸福に置きかえてしまい、無気力な、色あせた、抽象的な映像しかもたなくなっている、そうした映像には、かつて知ったものとは異なる、新しい、ういういしいあの性格、美と幸福とに固有のあの特徴が失われているというわけなのだ。そしてわれわれは、人生について悲観的な判断をし、それを正しいと思っている、そのじつ、美も幸福も見おとして、それらの一原子さえもふくまれない総合に置きかえながら、両者を考慮に入れたつもりになっていた。だから、新しい「名作」だといわれても、ある文学通は、そんなものにたいして、読みもしないまえから退屈のあくびをする、なぜなら彼は、いままでに読んだ名作の一種の合成物を想像するからである、それにひきかえ、ほんとうの名作というものは、特殊なもの、予見できないものであって、それ以前の傑作の総和から生まれるのではなく、この総和を完全にとりいれてもまだ見出すのに十分ではない何物かから生まれるのである、なぜなら、真の名作はまさにその総和のそとにあるのだから。そうした新しい作品を知ったとなると、先ほどまで無関心だった文学通も、そこに描かれている現実に興味を感じる。

★マルセル・プルースト「失われた時を求めて 第2巻」p382 井上究一郎訳・ちくま文庫


 



美は「個性的」なものだということは、何度も繰り返しプルーストが強調していることです。

なぜ、「名作」を読む前から「退屈のあくび」をするのか、ここを読むと深く納得されます。



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ぼくの切抜帖 13 マルセル・プルースト「失われた時を求めて」★生きたいとう希望

2015-01-08 10:55:46 | ぼくの切抜帖

景が変化を増し、けわしくなり、汽車が二つの山のあいだの小駅にとまった。山峡の底、渓流のほとりに、一軒の番小屋が見えるだけであったが、その家は、窓とすれすれのところを川が流れ、まるで水中に落ちこんでいるようだった。かつてメゼグリーズのほうやルーサンヴィルの森のなかをひとりでさまよったとき、突然あらわれてこないものかとあんなに私がねがったあの農家の娘よりもひときわまさって、ある土地の生んだ人聞にその土地独特の魅力が感じられるとすれば、このときその小屋から出てきて、朝日が斜に照らしている山道を、牛乳のジャーをさげながら駅のほうへくるのを私が見た背の高い娘は、まさにそれであったにちがいない。山がけわしくて他の世界から隔絶しているこんな谷間では、彼女が見る人といっては、わずかのあいだしか停車しないこうした汽車の乗客よりほかにはけっしてないだろう。彼女は車輌に沿って歩きながら、目をさました数人の乗客にミルク・コーヒーをさしだした。その顔は朝日にぱっと映え、空よりもばら色であった。私はその娘をまえにして、われわれが美と幸福との意識をあらたにするたびに心によみがえるあの生きたいという希望をふたたび感じた。

★マルセル・プルースト「失われた時を求めて 第2巻」p382 井上究一郎訳・ちくま文庫


 



「生きたいという希望」は「美と幸福の意識」から生まれるということでしょうか。


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