台所番女中が──「過誤」が対照的に「真実」の勝利をいっそう華々しく見せるのと同じで、想いもよらずフランソワーズの優位を際立たせることになったが──お母さんに言わせるとお湯同然のコーヒーを入れてくれ、それから皆の部屋にいやにぬるいお湯を持ってあがるあいだ、私は自分のベッドの背にもたれて本を手にしていた。私の部屋は、照りつける午後の太陽にうち震え、透明なもろい冷気を維持していたが、ほとんど締めきった鎧戸に照りかえす光が黄色い羽をもぐりこませ、木の桟とガラス窓のあいだの片隅にチョウがとまったみたいにじっとしている。室内はどうにか本が読めるくらいの明るさだが、それでもまばゆい光が私に感じられたのは、ひとえにラ・キュール通りでカミュが埃だらけの木箱を打ちつける音のせいである(フランソワーズから叔母が「お休みにならない」ので音を立ててもいいと言われていたのだ)。その音は、暑い時期に特有のよく響く大気に鳴りわたり、真っ赤な星くずを遠くにまで飛散させるように感じられる。まばゆい光が感じられたのはハエのおかげでもあり、ささやかなコンサートよろしく私の目の前で演奏してくれるのは、さながら夏の室内楽である。その音楽が夏を想いおこさせるのは、人間の奏でる曲の場合とはまるで異なる。ふつうの曲の場合、たまたまうららかな季節にそれを聞いたから、あとでその季節が想い出されるだけの話である。ハエの音楽は、はるかに必然的なきずなで夏と結びついている。それが晴れた日に生まれ、晴れた日にだけよみがえり、晴れた日のエッセンスを多分に含んでいて、そのイメージを記憶によみがえらせてくれるだけでなく、げんに晴れた日が再来していること、それが実際にまわりに現存し、ただちに手に入ることを保証してくれるのだ。
このように私の部屋の薄暗い冷気は、通りに照りつける太陽と呼応していたが、それは影が光ゆえに生じるのに似て、太陽と同じように光り輝き、私の想像力に夏の全景をそっくり映し出してくれた。かりに私が散歩に出ていたとすると、私の感覚はその夏の全景を断片的にしか享受できなかったはずである。
★「失われた時を求めて 第1巻」p192 吉川一義訳・岩波文庫
ハエというと、なんか汚い感じがするけど、その羽音にプルーストは音楽を感じるわけで、日本でいえば、たとえばミンミンゼミでもいいわけです。彼らが奏でる「音楽」が、人間の「音楽」とはぜんぜん違うのは当たり前だけど、その「音楽」から想起されるものの違いを明快に語っていて面白いですね。
最後のところで、家に閉じこもっていたほうが、「夏の全景」を享受できる、という指摘も面白い。