日本近代文学の森へ (129) 志賀直哉『暗夜行路』 16 キリスト教の戒律 「前篇第一 四」その1
2019.9.30
謙作は、不愉快な夜だったのに、登喜子のことが忘れられない。
謙作はやはり登喜子の事が忘れられなかった。彼はあの不愉快だった二、三日前の夜を憶い、軍師拳で登喜子と並んでいた時の事などを想うと、不思議な悩ましさが胸に上って来た。彼は自分で自分の指を握って見て、握る時の感覚と、その握られた感覚とを計って見たりした。それも両方が自分では明瞭(はっきり)しなかった。しかし、彼は登喜子に深入して行かずにはいられないほどの気持になっているとは我れながら思えなかった。ただこのままで自分のこの気持を凋ましてしまうのは何となく惜しい気がした。
バカなことをするものである。自分で自分の手を握ってみたところで、登喜子の手の感触が蘇るわけはない。けれども、ウブなころというものは、誰でもこんなことをするものだろう。はっきりとした記憶はないが、なんとなくぼくも似たようなことをしたような気がする。こうした「バカなこと」を、真面目に文章化する志賀直哉という人も不思議な作家である。
登喜子への思いがそれほど深いとも思えないけれども、今の「不思議な悩ましさ」を抱える自分の気持ちを「凋ましてしまうのは何となく惜しい気がした」というのも面白い。
自分を実験動物のように見ているのだろうか。このままこの気持ちを凋ませないで、先へ進めていったらどうなるのかしら、といった興味。その興味がやがてそれでのっぴきならない所に追い詰められたらどうなるのか。そこから果たして引き返せるのか。謙作の、そして志賀直哉の放蕩の始まりである。
それにしろ、そんな下心を自ら意識しつつ出掛けて行く事は、相手がそういう職業の女にしろ、如何にも図々しく、気がひけた。
とにかく、何かしら表面的にも行くだけの理由がなければ彼には出掛けられなかった。それにはやはり石本を誘うより仕方がないと思った。
彼は早速石本に端書を書いた。しかし何枚書いても書き損いをした。石本を利用するという意識が邪魔になった。結局端書をよして、電話を掛けに行った。
前から直接続いている部分だが、「そんな下心」というのは、「不思議な悩ましさ」を先へ進めたい、つまりは自分の性欲を満足させたい、という「下心」だ。登喜子は「そういう職業の女」なのだから、むしろそういう「下心」は正当な理由になるわけだが、「そういう下心」があることを自分自身が「意識しながら」出かけていくことは「如何にも図々しく、気がひけた」という。今風に言えば、メンドクサイ奴、あるいは偽善者ということになるのかもしれないが、ここは志賀直哉にとってはとても正直な思いなのだ。
その背景にはキリスト教の問題がある。
志賀直哉は、明治33(1900)年、18歳のときに、「初めて内村鑑三を訪ね、以後七年間その門に出入りした。」(中村光夫著『志賀直哉論』年譜)25歳のときに、「夏、自家の女中と結婚しようとして、父と争う。この年内村鑑三から離れた。」(同書)
明治の文学者にとって内村鑑三の存在は非常に大きい。特に志賀直哉の場合は、7年間もその門に出入りしていて、内村の思想に深く傾倒していたのだ。しかし、結局はそこから離れてしまう。その大きな理由は「性欲」の問題にある。内村門下ではないが、岩野泡鳴にしても、島崎藤村にしても、キリスト教の洗礼まで受けながら、やはり離れてしまう。それぞれに共通するのは、やはり「性欲」の問題のようだ。
本多秋五の『志賀直哉』は、志賀直哉における「性欲」の問題を重視していて、その第一章は「性欲と戒律」と題されている。ここで詳しくは紹介できないが、要するに聖書で禁じられている「姦淫」とはどういうことを指すのか、ということが問題になっている。
確かに「十戒」の中にも、「姦淫するなかれ」と言われているとおり、「姦淫」は大罪であろうが、そもそも「姦淫」とはどういうことを指すのか、それがはっきりしない。「姦淫罪は殺人罪と同程度に重い」と教えられた主人公が自慰行為をも「姦淫罪」と考えて「お前は人殺しの罪人だぞ」と言われたように感じるという志賀の小説『関子と真造』が紹介されているが、いくらなんでもそれは拡大解釈だろうと本多は言っている。
この本の中では「姦淫」の定義がいろいろ紹介されているが、結局のところ、言葉は古いが「婚外交渉」は「姦淫」だという点では共通している。従って、罪を犯さずに、女性と性的な交渉をしたければ、まずは結婚することが必須となるわけで、25歳の志賀直哉が、「自家の女中と結婚しよう」としたのも、ここに理由があると考えられる。内村から離れかかっていても、あるいは離れても、そういう一種の「戒律」が志賀の中に消しようもなく残っていたわけである。
このことを念頭におけば、芸者の元に「下心」を持って出かけることに気がひけるという志賀の気持ちがよく分かる。「罪の意識」から自由になっているわけではないのだ。それと同時に「如何にも図々しい」と志賀が感じるところに、「罪の意識」を超えた志賀の人間への基本的態度のようなものが見える気がする。
自分の欲望をあからさまにして、そういう女に向かうことへのためらい。たとえ自分の性欲を満たすための行為だとしても、それがどこか男女の自然の付き合いから生まれたかのように装いたいという気持ち。あるいは人間への敬意。
このある意味潔癖な倫理感は、「石本を利用するという意識が邪魔になった。」という正直な告白にも表れている。後ろめたさがあると、まともに文章も書けないという潔癖さ。文章というものは、むしろ偽りの自分を表現しやすいものなのに、志賀はあくまで自己に忠実であろうとするあまり、嘘が書けないのだ。