★「失われた時を求めて」を読む★ 第7巻・引用とコメント
フェイスブックに書いてきたことを、まとめておきます。
「巻」と「p」は、ちくま文庫版(井上究一郎訳・全10巻)の巻とページ。
〈 〉部が引用。▼がぼくのコメントです。
★「失われた時を求めて」を読む★4/10 今日は、第7巻16pまで。
〈アルベルチーヌの女の友人たちはみんなバルベックからいなくなっていて、しばらくは帰ってこないときだった。私はそんなアルベルチーヌの気持をまぎらせてやりたいと思っていたのだ。バルベックで午後を私とだけで過ごすのは彼女に幸福を感じさせるだろうと思われはしたが、幸福はけっして完全にえられるものではないことを私は知っていたし、アルベルチーヌがまだいまのところは、幸福が完全でないことは幸福を実感する側の問題で、幸福をあたえる側の問題ではない、ということを発見するにはいたらない年齢(ある種の人たちはその年齢を越えることがない)であって、彼女が失望の原因を私自身に帰着させるおそれが十分にあることを私は知っていた。〉第7巻9p
▼「幸福」を実感することは、難しいことだ。
〈人は大いに楽園を夢みる、というよりも、数多くの楽園をつぎつぎに夢みる、しかしそれらはすべて、その人が死ぬよりもまえに、失われた楽園になる、そしてまたそこで、人は失われたみずからを感じるであろう。〉第7巻16p
▼悲しいことだが、「事実」なのかもしれない。人生は「失望」の連続であるのかもしれない。しかしまた、こういう風に、悲観的に人生のことを考えることもまた時には必要だし、また慰めにもなるのだ、と思う。
★「失われた時を求めて」を読む★4/11 今日は第7巻34pまで。
★「失われた時を求めて」を読む★4/12 今日は、第7巻56pまで。
★「失われた時を求めて」を読む★4/13 今日は、第7巻79pまで。
★「失われた時を求めて」を読む★4/14 今日は、第7巻99pまで。
〈馬車はひととき海のはるかな高所にとどまっていたので、納税所から見ると、山頂からでものぞくように、青みがかった深淵のながめが、目まいを起こさせんばかりであった、私は窓ガラスをあけた、よせてはかえすたびにはっきりとききとれる波の音は、やさしく、明瞭で、何か崇高なものをふくんでいた。そのひびきは、たとえば、垂直の距離が、われわれのふだんの印象をくつがえしながら、水平の距離とおなじようなものになりうることを示すような、つまりわれわれの精神がふだんやりなれている物の表象の仕方を逆の向きに示すような、そんな一種の測定の手がかりではなかったであろうか? そんな手がかりからすれば、垂直の距離は、われわれを空に近づけながらも、一向にひろがらず、その距離を乗りこえてやってくる物音にとっては、ちょうどこの小さな波のひびきの場合のように、その距離はせばまりさえするのである、なぜなら、ひびきがわたってくる中間の環境がはるかに清澄であるからだ。〉第7巻85p
▼「垂直」と「水平」。わかりにくいが、なんだか、すごいことを言っているような気がする。
★「失われた時を求めて」を読む★4/15 今日は、第7巻121pまで。
★「失われた時を求めて」を読む★4/16 今日は、第7巻148pまで。
▼時間がなくても、必死である。
★「失われた時を求めて」を読む★4/17 今日は、第7巻164pまで。
〈「サニエッ卜さんにわるいわよ、あなた、そんなにつらくあたらないでちょうだい」とヴェルデュラン夫人はあわれみを装った口調で言い、夫の邪樫な意図に一点の疑念を残す人もないようにした。「私はラ・シ…、シェ…」──「シェ、シェ、はっきりいうようになさいよ」とヴェルデュラン氏がいった、「それじゃきこえもしませんよ。」信者たちのほとんど誰もがどっと吹きださずにはいられなかった、そういう信者たちは、傷ついた一人の白人に血の味を呼びさまされた人食人種の一団の様相を呈していた。けだし、模倣の本能と勇気の欠如とは、群衆を支配すると同様に社交界を支配するのである。からかわれている人を見て、いまはみんなが笑う、それでいて十年後には、その人がちやほやされているクラブのなかで、平気でみんながその人をあがめるのだ。民衆が国王を追放したり歓呼でむかえたりするのも、それとおなじやりかただ。〉第7巻148p
▼社交界のばかばかしさは、しかし、現実のぼくらの日々の生活にもないとはいえない。
〈とんでもないばかげた思いつき、といってもそこにはなんらかの真実がある。なるほど、人々の「愚行」は堪えがたいものである。しかし、あとになってから、ああそうだったのかとやっと思いあたるような、ある突拍子のなさは、人間の脳裏に、ふだんなじみのない微妙な観念がはいってくる結果の所産なのである。したがって、魅力的な人間の奇行はわれわれの腹にすえかねるようなところがある、しかしまた、べつの点からすれば、奇妙なところがないような魅力的な人間というものはないのである。〉第7巻162p
▼真の「芸術」を産み出す人も、そういう「魅力的な人間」であることは確かなようだ。
★「失われた時を求めて」を読む★4/18 今日は、第7巻184pまで。
〈ある人を完全に描くには、その描写に声帯模写が加わらなくてはならない場合が起こるのだが、シャルリュス氏が演じているこの場の人物を描写するにも、きわめて繊細な、きわめて軽妙な、この小さなわらい声を欠くために、不完全なものになる危険を伴うのであって、たとえばバッハのある種の組曲にしても、いまのオーケストラでは、きわめて特殊な音をもったあの「小さなトランペット」のたぐいを欠くので、作曲者自身はそのような楽器のためにしかじかのパートを書いたのだけれど、もはや正確に演奏されることはけっしてないのである。〉第7巻164p
▼現代の「古楽器」での演奏をプルーストが聴いたら喜ぶだろうなあ。
〈……そういって女主人のまなざしは、芸術家のこの贈物の上に夢みるようにとどまったが、そこには、彼の偉大な才能だけでなく、彼女との長い友情もいっしょに要約されて見出されるのであり、その友情は、彼がそれらの花をめぐって残した数々の思出のなかにしかもう生きのこってはいないのだ、彼女は、彼女自身のためにかつて彼が摘んでくれたそれらの花の背後に、ある日の午前、摘みたての新鮮な姿のままに、それらを描いた人の器用な手をふたたび目に見る思いがするのであった、だからこそ、いまでも生きたばらはテーブルの上にかざられ、他方なかば似かよったそれらのばらの肖像画は食堂の肘掛椅子にもたせかけられ、双方向かいあって、女主人の昼食のために顔をあわせることができたのであった。なかば似かよった肖像画、としか言いようがない、というのもエルスチールは、一つの花をながめるにしても、その花をまずわれわれの内心の庭、われわれがつねにそこにとどまらざるをえない内心の庭に移しながらでなくては、それをながめることができなかったからである。彼はこの水彩画のなかで、彼が見たばら、そして彼がいなければ人がけっして知ることのなかったばら、そんなばらの幻をわれわれの目に見せてくれたのであった、したがってそのばらは、この画家が、天才的な園芸家とおなじように、ばらという家系をゆたかにして出現させた、新しい一つの変種だということができるだろう。〉第7巻166p
▼これはこれだけで、立派な「絵画論」ではなかろうか。「内心の庭」。いい言葉だ。
★「失われた時を求めて」を読む★4/19 今日は、第7巻206pまで。
★「失われた時を求めて」を読む★4/20今日は、第7巻222pまで。
▼明日から3日間、関西方面へ旅行をしてきます。iPadを持って行って、読書を続けようと思いましたが、やめました。リフレッシュしてきます。
★「失われた時を求めて」を読む★4/24今日は、第7巻231pまで。
〈……なぜなら彼は、悦に入って笑いながら、たまらなく心地よさそうに両肩をゆすぶりはじめたからである。そんな動作をすることは、彼の家系である「科」のなかのコタール「属」にあって満足をあらわす動物学的特徴の一つといってもよかった。彼よりも一つ手前の世代では、石鹸をつかっているかのように手をこすりあわせる動作が、両肩の動作に伴っていたのであった。コタール自身もはじめはそんな二重の表意術を同時におこなったのであったが、ある日、いかなる干渉によるものかわからないままに、おそらく婚姻か、要職がそうさせたのであろう、手をこすりあわせるほうは消滅した。〉第7巻223p
▼「仕草」もこのように遺伝するのだろうか。「手をこすりあわせる」といった仕草はともかく、歩くときのちょっとした体の傾き、佇むときの腰の曲げ方などが、おどろくほど親に似るものだということを実感したことがある。
▼これで、「ソドムとゴモラ 2 第2章」終了。
▼まだ疲れが色濃く残っていて、今日はあんまり読めないなあと思っていたら、思いがけなく、大きな切れ目。「読む」ほうが「書く」より、体力を要するような気がする。
★「失われた時を求めて」を読む★4/25 今日は、第7巻244Pまで。
▼「睡眠」についての興味深い考察がある。
★「失われた時を求めて」を読む★4/26 今日は、第7巻263pまで。
〈距離というものは、空間と時間との比例関係にほかならず、時間とともに変化するものなのである、われわれがある場所に行かなくてはならないその困難を口にするとき、われわれは里程で、キロメートル法で、割りだして考えるが、そうした困難が減少すると、そんな計算は無意義となる。芸術もそのために変化を受ける、なぜなら、乙の村とは別世界のもののように思われている甲の村も、次元の一変した風景のなかにあっては、乙の村に隣接することになるから。とにかく、二プラス二が五になり、一直線が二点間の最短距離とはならない、そんな世界が存在するらしいのを知ることよりも、おなじ一日の午後に、サン=ジャンとラ・ラスプリエールとの二か所に行くことが運転手には容易である、というのをきいたほうが、アルベルチーヌにとっておどろきが大きかった。同様にドゥーヴィルとケトルム、サン=マール=ル=ヴイユーとサン=マール=ル=ヴェチュ、グールヴィルとバルベック=ル=ヴィユー、トゥールヴィルとフェテルヌといったそれぞれのむすびつきが可能なのだ、こうした二つの場所は、かつてのメゼグリーズとゲルマントとの二つの方向のように、これまで別々の日の独房のなかに、厳重に監禁されていて、同一人の目が、同一の午後に、これから二つを見ることは不可能だったのに、いまや、一挙に七里をとぶ長靴をはいた巨人の手で解放され、私たちのグッテの時間のまわりにやってきて、それぞれのその鐘楼と塔を、そのものさびた庭を、つなごうとし、境の森は、そうした鍾塔や庭の姿を早くあらわに見せようとあせるのだった。〉第7巻262p
▼交通手段の発達が、「距離」というものの観念を変えたわけだが、そのことが芸術にも変化を与えたのだという指摘はおもしろい。
▼こう言われてみると、「室生寺」「飛鳥」「大阪」というまったく異なった場所が、あの日には「隣接」したんだということに、新鮮は驚きを感じなければなるまい。
★「失われた時を求めて」を読む★4/27 今日は、第7巻286pまで。
〈幻想をほしいままにさせる汽車旅行への私の好みからすれば、自動車をまえにしてのアルベルチーヌの歓喜に私が同調できなかったのも、当然であっただろうと思われるが、その自動車は、病人をも、その欲する場所に連れてゆくのであって、行く先の土地を──いままで私が考えてきたように──個性的な目標、動かしえない美のかけがえのない真髄、と考えることをさまたげる。だから、このときも、おそらく自動車は、私がかつてパリからバルベックへやってきたときの汽車のように、行く先の土地を、日常生活の偶発事からまぬがれた一つの目的、ほとんど理想的な目的、といったものにしてはくれなかったであろう、汽車の場合は、行く先の土地は、そこに到着するときも、誰も住んでいないで駅だけが町の名をもっているそんながらんとしたひろい場所に到着するのだから、なおもその理想的な目的を残したままなのであって、駅がその町の具象化であるからには、駅はやっとその町に近づいたという約束でしかないように思われるのだ。自動車の場合はそうではない、自動車というやつは、汽車のように幻想的に私たちを一つの町に連れてゆくということはなかった、したがって、町の名が要約している全体の概念のなかに、あたかも劇場のホールにいる観客のような錯覚でもって、まず最初に一つの町を目に描くというような、そんな幻想は自動車の場合にはゆるされなかった。〉第7巻278p
▼「汽車旅行」は「幻想をほしいままにさせる」のだという指摘は新鮮。「駅」というものが「誰も住んでいないで駅だけが町の名をもっているそんながらんとしたひろい場所」だとは、思いもしなかった。言われてみれば、現在でも、その通りである。
★「失われた時を求めて」を読む★4/28 今日は、第7巻302pまで。
〈私にはこんな思いがわきおこった、幻影ばかりを追うのが私の運命だったと、またその現実性の大部分が私の想像力のなかに存在するそんな人間ばかりを追い求めるのが私の運命だったと。実際、おかしな人間もいるもので──しかも、小さなときから、それが私の場合だったが──その人間にとっては、他の人たちに、固定した、不動の価値をもっているもの、財産とか、成功とか、高い地位とかいったものが、すべて物の数にはいらないのだ、こんな人間に必要なのは、幻影である。彼らは、そのために、他のすべてを犠牲にし、あらゆる能力を傾倒し、そうした幻影に出会うためにあらゆる手段をつくす。しかし幻影はすみやかに消えさる、するとまた何かべつの幻影を追う、しかし結局また最初のものに立ちかえるだけである。バルベックにきた最初の年、海を背景にしてあらわれるのを私が見た少女アルベルチーヌ、そんなアルベルチーヌを私が追い求めるのは、何もこれがはじめてではない。なるほど、私がはじめて愛したときのアルベルチーヌと、私がほとんどそのそばを離れないいまのアルベルチーヌとのあいだに、他の女たちが介在したのは事実だった、そんな他の女たちといえば、ゲルマント公爵夫人などとくにそうである。しかし、読者はいうかもしれない、なぜああもジルベルトに関してくよくよと思いなやんだのか、また、ゲルマント夫人の友人となった私が、結局は夫人のことを考えるのではなくてただアルベルチーヌのことを考えるのが唯一の目的であったならば、なぜああもゲルマント夫人のために心を労したのか、と。スワンならば、あの幻影の愛好者だったスワンならば、その死をまえにして、それに答えることができただろう。何度か追い求めては忘れきった幻影、ときにはせめてただ一度だけでも会ってみたいとねがいながら、そしてただちに逃げさる非現実の生活に、しばらくなりともふれてみたいとねがいながら、また新しく探し求めた幻影、バルベックのこれらの道は、そうした幻影に満ちているのだった。そして、これらの道の木々、梨の木、りんごの木、ぎょりゅうが、私のあとに生きのこるであろうことを考えながら、私には、そういう木々から、永遠の休息の鐘がまだならないあいだに、いよいよ仕事に着手するようにとの、忠告を受けるような気がするのであった。〉第7巻290p
▼「幻影」。求めても、逃げ去ることが分かっていても、生涯をかけて求める「幻影」。それは結局、何なのだろうか。
★「失われた時を求めて」を読む★4/29 今日は、第7巻319pまで。
〈夕食後、自動車はふたたびアルベルチーヌをパルヴィルから連れだしてくるのだ。まだ暮れきらないで、ほのかなあかるさが残っているのだが、あたりのほとぼりは多少減じたものの、焼けつくような日中の暑気のあとで、私たちは二人とも、何か快い、未知の涼気を夢みていた。そんなとき、私たちの熱っぽい目に、ほっそりした月があらわれた(私がゲルマント大公夫人のもとに出かけた晩、またアルベルチーヌが私に電話をかけてきた晩にそっくりで)、はじめは、ひとひらのうすい果物の皮のように、つぎには、見えないナイフが空のなかにむきはじめた果物の肉のみずみずしい一片のように。またときどき、私のほうから、女の友をむかえに行くときは、時刻はもうすこしおそくて、彼女はメーヌヴィルの市場のアーケードのまえで、私を待つことになっていた。最初の瞬間は、彼女の姿がはっきり見わけられなくて、きていないのではないか、勘ちがいをしたのではないか、と早くも心配になってきた。そんなとき、白地に青の水玉模様のブラウスを着た彼女が、車のなかの私のそばへ、若い娘というよりは若い獣のように、軽くぽんととびこんでくるのを見るのだ。そして、やはり牝犬のように、すぐに私を際限なく愛撫しはじめるのだった。〉第7巻302p
▼「若い娘というよりは若い獣のように」には、ため息が出る。つくづくみずからの「老い」を感じるなあ。月の描写までエロティックだ。
〈私はアルベルチーヌをながめる、彼女のあの美しいからだ、あのばら色の顔をながめる、それは、彼女の意図の謎を、私の午後の幸福または不幸をつくりだすべき未知の決意を、私の面前にかかげているのだ。それは、私のまえに、一人の若い娘という、寓意的な、宿命的な形をとってあらわれた、ある精神の状態、ある未来の生存にほかならなかった。そのうちに、ついに私が決心して、できるだけ無関心を装いながら、「きょうの午後から、そして今夜も、いっしょに散歩していいでしょう?」とたずね、彼女が「ええ、いいわ」と答えるとき、ばら色の顔のなかで、私の長い不安は、突然快い安心と交代し、そのようにして立ちなおったその顔かたちを、まます貴いものにするのであって、嵐のあとに人が感じる安堵とくつろぎ、そういったものを私がとりもどすのは、いつもそんな顔かたちからなのだ。〉第7巻304p
▼「恋」の姿は、いつでも、どこでも、同じ、ということか。でも、ぼくらは、その「恋」を知らぬ間に、老いてしまうのではないか。
★「失われた時を求めて」を読む★4/30 今日は、第7巻354pまで。
〈人間社会のなかにあって、つぎのような規則──もとよりそれは例外をふくむものであるが──すなわち、愛情のない人というものは人に好かれなかった弱者であるということ、そして、強者というのは、人に好かれるか好かれないかに頓着しないで、凡人が弱点だと見なすあのやさしい愛情をもっている人にかぎられているということ、そういう規則のあることを理解するためには、それまでにさまざまな人間を見ておかなくてはならないのであって、たとえば不遇のときには、恋人のような微笑を浮かべて、くだらぬジャーナリストのいばった援助を、おそるおそる求めていた政治家が、権力をもってからは、もっとも頑固な、もっとも強硬な、もっとも近よりにくい人として通っている場合だとか、コタール(その新しい患者たちが鉄棒だとうわさする)の、あのしゃちこばった不動の姿勢だとかを見ておくこと、シェルバトフ大公夫人の、あの誰もが認める見かけの高慢、反スノビスムが、どんな失恋のくやしさや、どんなスノビスムの失敗からつくられたものであるかを、知っておくことが必要なのである。〉第7巻348p
▼ありとあらゆる人間の醜い姿を知ることが、人間の素晴らしい本質を理解するためには必要なのだということだろう。小説を読む意味も、そこにあるのだ。きっと。
〈われわれは、ある種の鳥がもっているあの方向感をもっていないが、それとまったくおなじ程度に、透視感を欠くのであって、それは距離感を欠く場合のように、こちらに何一つ好意をよせていない人々の関心を、こちらの身にひきつけて想像し、そのあいだ、反対に相手からうるさがられていることを、うたがってみない、というような結果をひきおこすのである。このようにして、シャルリュス氏は、自分の泳いでいる水がガラス壁の向こうにまでひろがっていると思う水族館の水槽のなかの魚のように、あざむかれて生活しているのだった、水槽のほうは魚をそのガラスに映しだすが、魚のほうは、自分のすぐそばの陰のところで、自分の嬉戯を見物している観覧者や、養魚家の姿が見えないのであり、その養魚家は、いわば活殺の権をにぎっている全能者であって、やがて到来する、予測できない、避けられない時とともに、もっとも男爵に関していえば、そういう時は、いまの場合、まだ先にのばされているのであるが(そのとき、パリで、養魚家となるのは、ヴェルデュラン夫人なのであるが)そういう時の到来とともに、養魚家は、無慈悲にも魚をそのたのしく生きている場所からひきだし、他の場所へ投げこむのである。さらにいえば、それぞれの民族も、それが個人の集合でしかない以上、この魚のような、根深い、しつこい、どうにもならない、盲目状態の、さらに広大な、しかし部分的には同一の、幾多の例を、われわれに提供しているといえるであろう。〉第7巻352p
▼この「水槽の中の魚」の比喩は、「井の中の蛙」以上に、現実感にあふれている。「相手からうるさがられていることを、うたがってみない」人って、ほんとにいるよなあ。そして、「民族」に関する考察も、するどい。プルーストが、どうでもいいような愚劣な社交界のさまざまな様相をこれでもかというほど描くのは、実は、それが世界の縮図であるからだろう。
★「失われた時を求めて」を読む★5/1 今日は、第7巻390pまで。
★「失われた時を求めて」を読む★5/2 今日は、第7巻423pまで。
★「失われた時を求めて」を読む★5/4 今日は、第7巻446pまで。
〈アルベルチーヌは自分にめいわくのかかりそうな事実はけっして語ったことがなかったが、その事実を知っていなくては説明がつかないような他の事柄は語ったのであって、事実というものは、人のいったことそのものではなくて、むしろ人のいうことから出てくる流、目には見えなくても、つかむことのできる流がそれなのである。〉第7巻434p
▼刑事ドラマの基本かも。
★「失われた時を求めて」を読む★5/5 今日は、第7巻459pまで。
〈いうまでもなく、習慣は、すみやかにわれわれの時間を満たしてしまうものなので、最初に着いたとき一日の十二時間は完全にあいていて何にでもつかえたある町で、数か月ののちには、ひとときの自由な時間さえも残らないようになってしまう、……〉第7巻458p
▼定年後の「時間」もまた、このようなものであることを、改めて認識している。
★「失われた時を求めて」を読む★5/6 今日は、第7巻490pまで。
〈しばらくのあいだに、二、三度、ふとつぎのような考が頭に浮かんだ、この部屋とこの書棚とのあるこの世界、そのなかでアルベルチーヌがきわめて些細な存在であるこの世界は、おそらく一つの知的な世界、すなわち唯一の実在ともいうべき世界なのであり、私の悲しみは、小説を読むときに感じる悲しみのようなものであって、ただおろかな人間だけがそういう悲しみを長くいつまでももちつづけてその一生を生きながらえてゆくのだ、この実在の世界に到達するためには、そして紙の的を突きやぶるように私の苦痛を突きぬけてその世界にはいりなおすためには、そしてまた小説を読みおわったあと架空のヒロインの行動に無関心になってしまうのとおなじようにもうアルベルチーヌがやったことにこれ以上気をもまないためには、おそらく私の意志のほんのわずかなはずみがあれば十分であろうと。〉第7巻482p
▼ダラダラと続いてきたこの物語だが、第四章に入ってから急速に悲哀の調子を帯びて、おそろしい展開へとなだれ込んでいくようだ。
▼ともあれ、これで第7巻を読了した。第8巻は、「第五編 囚われの女」である。いよいよ、佳境に入るようである。