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日本近代文学の森へ 267 志賀直哉『暗夜行路』 154  そして「事件」は起きた  「後篇第四 九」 その1

2024-08-16 17:17:30 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 267 志賀直哉『暗夜行路』 154  そして「事件」は起きた  「後篇第四 九」 その1

2024.8.16


 

 生まれてきた子どもが自分の子どもだと確信して、喜びよりも安堵した謙作だが、それで直子に対するわだかまりが解消したわけではなかった。

 そのわだかまりの正体がなんなのかも分からないままに、ある日、それが自分でも思ってもみない行動として現れた。ここが、この長編小説「暗夜行路」の一つのクライマックスである。

 この章の冒頭は、隆子が生まれてしばらく経った梅雨時の気分から始まる。いやな予感を感じさせる文章は、相変わらずうまい。


 謙作は毎年(まいねん)春の終りから夏の初めにかけきっと頭を悪くした。殊に梅雨期(ばいうき)のじめじめした空気には打克(うちか)てず、肉体では半病人のように弱る一方、気持だけは変に苛々して、自分で自分をどうにも持ちあつかう事が多かった。


 今ではまず使わない「頭を悪くした」という言い方は、今でいうと「鬱っぽい」とか、「気分がすぐれない」とかいう感じだろうか。桂文楽の「鰻の幇間(たいこ)」の中に、タイコ持ちが、暑い街中を歩きながら、こう暑くちゃどうも「脳が悪い」というようなことを呟く場面がある。こっちのほうは、もっと使わないが、明治あたりでは「頭」を「脳」と言ったようである。古典落語でよく聞く言葉が、こういう小説にも出てくると、ちょっと嬉しい。小説を読むことの喜びの一つは、言葉との出会いだ。

 「自分で自分をどうにも持ちあつかう」という表現にも引っかかる。今では「自分で自分を持ちあつかいかねる」となるべきところで、志賀の誤りだろうと思ったが、念のため「日本国語大辞典」で調べてみると、そうではなかった。「もちあつかう」の説明はこうだ。

 

(1)手で持って動かしたり使ったりする。あつかう。とりあつかう。
*吾輩は猫である〔1905~06〕〈夏目漱石〉一〇「姉の箸を引ったくって、持ちあつかひ悪(にく)い奴を無理に持ちあつかって居る」
(2)もてなす。あしらう。対処する。あつかう。
*多情多恨〔1896〕〈尾崎紅葉〉後・三・二「柳之助は未だ興有りげに持扱(モチアツカ)って、『解りませんか』」
*疑惑〔1913〕〈近松秋江〉「そんな卑しいものにはお前を待遇(モチアツカ)はなかった」
(3)取り扱いに困る。処置に苦しむ。もてあます。当惑する。もてあつかう。
*あきらめ〔1911〕〈田村俊子〉三〇「提げた片手の傘を持ち扱かって富枝は肩に凝りさへ覚えるやうであった」
*海に生くる人々〔1926〕〈葉山嘉樹〉二七「自分では大して自由にならない体を持ち扱って退屈し切ってゐた」

 

 ここでは、(3)の意味である。この「暗夜行路」の後篇が書かれたのが、だいたい1937年ぐらいだから、それ以前にこの(3)での用例があることが分かる。やっぱり、志賀直哉あたりだと、言葉の誤用というのはほとんどないようだ。なんか変な使い方だなあという言葉はよくみかけるのだが、それでも、当時の使い方だと考えておくほうが無難なようだ。

 それはそれとして、ここから信じられないような「事件」が起こる。


 ある日、前からの約束で、彼は末松、お栄、直子らと宝塚へ遊びに行く事にした。その朝は珍しく、彼の気分も静かだった。丁度彼方(むこう)で昼飯になるよう、九時何分かの汽車に乗る事にした。
 出がけ、直子の支度が遅れ、彼は門の前で待ちながらいくらか苛立つのを感じたが、この時はどうか我慢した。
 末松とは七条駅で落ちあった。暫く立話をしている内に改札が始まった。彼はふと傍(わき)に直子とお栄の姿が見えない事に気がつくと、
 「便所かな」とつぶやいたが、「乗ってからやればいいのに馬鹿な奴だ」と直ぐ腹が立って来た。
 二人は便所の方へ行こうとした。その時彼方からお栄一人急足で来て、
 「二人の切符を頂戴」といった。
 「どうしたんです。もう切符切ってるんですよ」
 「どうぞお先へいらして下さい。今赤ちゃんのおむつを更(か)えてるの」
 「何だって、今、そんな事をしてるのかな。そんなら、貴方(あなた)は末松と先へいって下さい」
 謙作は苛立ちながら、二人の切符を末松へ渡し、その方へ急いだ。
 「有料便所ですよ」背後(うしろ)からお栄がいった。


 宝塚へ遊びに行くことにした朝は、「珍しく」謙作の気分も「静か」だったのに、ちょっとしたことで、苛立った。出がけに直子が支度で遅れたからだ。これは今でもよくあることで、とくに女性の場合は、いろいろと支度が多くて、予定の時間に家を出られないことが多いようだ。もっとも、これも人それぞれで、我が家の場合は、出がけにもたついて時間をとるのはほとんどぼくである。家内は、何やってるの、はやくしなさいよ、とは絶対に言わないが、これが逆だと、「何やってるんだ」と夫が叱責することになる。こういうシーンは玄関にとどまらず、昨今の、スーパーや、バスの中で頻繁に見かけるところだ。

 ちょっとした苛立ちは、少しずつ膨らむ。門の前では「どうか我慢した」とあるので、かなりの苛立ちだったことが分かるが、駅について、直子の姿が見えないことに気づいた謙作は、それが直子が便所にいっていることを察知して、「直ぐ腹が立って来た」。苛立ちは、腹立ちへと変化したのだ。「苛立ち」はまだ漠然としているが、「腹立ち」は具体的な形をとる。すなわち「乗ってからやればいいのに馬鹿な奴だ」という「言語化」である。これを言葉に出したわけではないだろうが、心の中では、ほとんどヒステリックに叫んでいる。

 列車に乗ってから、車内で用を足すのは、今でもそれほど愉快なことではない。まして、車内にある便所は、数も少なく、使用者も少ないし、万一列車が途中で止まりでもしたら、それこそ大変だ。だから、今でも電車に乗る前には、それほど行きたくなくてもトイレには行くことが多い。まして、直子は乳飲み子を抱えている。それなのに、「乗ってからやればいいのに馬鹿な奴だ」というのは、いくらイライラしていたといっても、思いやりに欠けるし、想像力に欠けるとしかいいようがない。

 しかし、謙作にとっては、ちゃんと列車に乗り込むこと「だけ」が大事なのであって、それを阻害する「直子の事情」はどうでもいいわけである。というように、理性的に分析することなど苛立った謙作にはできないのであり、「苛立ち」から「腹立ち」へと移行しつつ、その感情はもう制御できないところまでエスカレートしている。

 そんなにまで謙作の苛立ちと腹立ちがエスカレートしてしまう根源には、やはり直子に対する怒りがあることは言うまでもないだろう。


 直子は丁度赤児を抱上げ、片手で帯の間から蟇口(がまぐち)を出している所だった。
 「おい。早くしないか。何だって、今頃、そんな物を更(か)えているんだ」
 「気持悪がって、泣くんですもの」
 「泣いたって関(かま)わしないじゃないか。それよりも、皆もう外へ出てるんだ。赤坊(あかんぼ)は此方(こっち)へ出しなさい」
 彼は引(ひつ)たくるように赤児(あこご)を受取ると、半分馳けるようにして改札口ヘ向った。プラットフォームではもう発車の号鈴が消魂(けたたま)しく嗚っていた。
 「一人後(あと)から来ます」切符を切らしながら振返ると、直子は馳足(かけあし)とも急足(いそぎあし)ともつかぬすり足のような馳け方をして来る。直子は馳けながら、いま更えた襁褓(むつき)の風呂敷を結んでいる。
 「もっと早く馳けろ!」謙作は外聞も何も関っていられない気持で怒鳴った。

 


 この辺はもうカメラの移動撮影そのものだ。赤ん坊のオムツを包んだ風呂敷を結びながら、「馳足とも急足ともつかぬすり足のような馳け方」をしてついてくる直子の姿は、謙作の目に映った情景だが、その謙作も走っているので、目に見えるような立体的な映像が現出している。

 直子にしてみれば、赤ん坊が濡れたオムツを気持ち悪がって泣くのを放ってはおけない。なんとかしてやりたいのだ。だが謙作は、「泣いたって関わしないじゃないか」と言い放つ。そんなことは車内でどうにでもなる。今は、列車に乗り込むことが大事だ、というわけだ。しかし、考えてみれば、たかが宝塚へ行くだけのこと。九州にでもいくわけじゃない。列車を1本遅らせればいいだけの話だ。それなのに、謙作は、直子がモタモタ走っているのを見ていられない。

 謙作の頭には、遅れてくる「直子を待つ」という選択肢などまったく浮かぶ余地もなく、列車に乗り込んでしまう。


 「どうでもなれ」そう思いながら彼は二段ずつ跨いでブリッジを馳け上ったが、それを降りる時はさすがに少し用心した。
 汽車は静かに動き始めた。彼は片手で赤児をしっかり抱きしめながら乗った。
 「危い危い!」駅夫に声をかけられながら、直子が馳けて来た。汽車は丁度人の歩く位の速さで動いていた。
 「馬鹿! お前はもう帰れ!」
 「乗れてよ、ちょっと摑(つか)まえて下されば大丈夫乗れてよ」段々早くなるのについて小走りに馳けながら、直子は憐みを乞うような眼つきをした。
 「危いからよせ。もう帰れ!」
 「赤ちゃんのお乳があるから……」
 「よせ!」
 直子は無理に乗ろうとした。そして半分引きずられるような恰好をしながら漸(ようや)く片足を踏台へかけ、それへ立ったと思う瞬間、ほとんど発作的に、彼は片手でどんと強く直子の胸を突いてしまった。直子は歩廊へ仰向(あおむ)けに倒れ、惰性で一つ転がりまた仰向けになった。
 前の方の客車でそれを見ていた末松が直ぐ飛び下りた。
 謙作は此方(こっち)へ馳けて来る末松に大声で、
 「次の駅で降りる」といった。末松はちょっと点頭(うなず)き、急いで直子の方へ馳けて行った。
 遠く二、三人の駅員に抱き起されている直子の姿が見えた。
 「まあ、どうしたの?」お栄が驚いて来た。
 「私が突とばしたんだ」
 「…………」
 「危いからよせというのに無理に乗って来たんだ」謙作は亢奮(こうふん)を懸命に圧(おさ)えながら、
 「次の駅で降りましょう」といった。
 「謙さん。まあ、どうして……?」
 「自分でも分らない」
 直子が仰向けに俄れて行きながら此方(こっち)を見た変な眼つきが、謙作には堪えられなかった。それを想うと、もう取かえしがつかない気がした。

 

 息をもつがせず、とはこのことだ。今とは違って、列車の乗降口は、開いたままだったわけだから、走っている電車に飛び乗ったり、飛び降りたりは、日常茶飯事ではあっただろうが、これはもう常軌を逸した行為だ。

 駈けてくる直子、「人の歩く位の速さ」で動き出した列車、謙作がやめろと言っても、赤ん坊にお乳をやらねばという一心から、列車に飛び乗ろうとする直子、そして直子の片足が、列車の踏台にかかったその瞬間、あろうことか、謙作は直子を突き飛ばしてしまう。普通の展開なら、直子の手をとってひっぱりあげるところだ。それがまったく逆になる。人間の所業とは思えない。その所業の瞬間を、志賀直哉の筆は、鮮明に書き尽くすのだ。

 お栄に「どうして?」と問われても、謙作は「自分でも分からない」と答えるだけで、茫然自失の体である。謙作の脳裡には「仰向けに俄れて行きながら此方を見た変な眼つき」の直子の顔が映画のスローモーションのカットのように浮かび続けている。

 謙作が直子を列車から突き落とすという事件が「暗夜行路」には書かれているということは、なんとなく覚えていた。いや、ほとんど忘れていたといったほうがいいかもしれない。何しろ、「暗夜行路」を通読したのは高校時代(あるいは大学時代?)のことで、それから60年近く経っているのだ。このシーンより、幼子を「丹毒」で亡くすシーンのほうが鮮明に記憶にある。それはそのシーンが、高校の国語の教科書に載っていたからだ。そして、短い部分ではあったけれど、それがあまりに印象的だったから、おもしろくないなあと思いつつ(たぶんそう思っていたはずだ)、通読したのだった。

 そのシーンが一つのクライマックスではあろうけれど、ここほどの「重大性」はない。子どもの死は悲しいけれど、それは、謙作の外側で起こったことで、謙作の責任ではない。しかし、この事件は、「自分では分からない」とはいえ、謙作がやってしまったことだ。せっかく、直子との生活をなんとか穏やかなものに戻しつつあったのに、これではもう「取り返しがつかない」に決まっている。

 謙作はいったいこの後、どうすればいいのだろう。それより、直子は大丈夫なのか? 

 

 


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日本近代文学の森へ 266 志賀直哉『暗夜行路』 153  癇癪の真実、そして旅に出ちゃう謙作  「後篇第四 八」 その3

2024-08-03 10:13:22 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 266 志賀直哉『暗夜行路』 153  癇癪の真実、そして旅に出ちゃう謙作  「後篇第四 八」 その3

2022.8.3


 

 謙作の癇癪の発作のありようが「理解に苦しむ」と前回書いたところ、友人から、メールが来て、こんなことが書かれていた。引用の許可はもらっていないが、許してくれるだろう。

 

 着物を切り刻むは序の口、もっとしたいだろう、癇癪のつらいのは、際限がなくて、じぶんで抑制できないことなんだけど、そうか、それは分かってもらえないことなのか、と、来し方を振り返るのでありました。
 謙作の「おれがこうやって癇癪を起こすのは、お前の過ちを責めているんじゃないってことは、さんざん言ってるだろう。それがなぜ分からないんだ!」には、「うそつけ!おまえのせいでこれだけオレが苦しんでるって、もっと思い知らせてやりたいくせに!」とおもいました。
 作者にそれが分からないわけないから、謙作の内面を描いて、「お前の過ちを責めているんじゃないっ!」は、まさかウソだろう、なにか表現上のテクニックかなとしか、きみの解説を拝読しても、信じがたい。
 だって癇癪おこしてるヤツって、ほんと、身勝手よ、「おれのツラさ、分かってるだろ、おまえは」なんだから心底は。

 

 なるほど、友人には、謙作の心底がよく分かるのだ。「癇癪おこしてるヤツって、ほんと、身勝手よ」って彼は言うけれど、実際に癇癪を起こしたことのないぼくにはその「身勝手」さがやっぱり理解できない。

 自分の人生を思い起こしてみれば、幼少のミギリはそれこそ癇癪起こして身勝手の限りを尽くしたはずだけど、物心ついてからは、ほとんどその記憶がない。記憶がないだけで、実際には何やってきたのか知らないが、まあ、だいたいのことは、耐えてきたような気がする。少なくとも他人の着物を切り裂いたり、皿を庭に投げ捨てたことなんてない。

 そういうことになったのは、たぶん、癇癪ばかり起こして荒れる祖母と、それに耐えたり立ち向かったりする母とのバトルのかなかで、幼い頃に育ったことが強いトラウマとなって、とにかく争いごとを極端に嫌うようになったのだろうと思われる。自分さえ我慢していれば、争いにならないから我慢しようという基本的スタンスは、結局のところ、現実に果敢に立ち向かうといった姿勢をぼくから奪ったようにも思える。まあ、職場では、なにかというと校長とかにたてついて、争いごとの種をまき散らしてきたけれど、それはまた別の分野の話。

 まあ、祖母の癇癪は経験しているはずだけど、子どもにはよく理解出来なかったし、それ以外に、ぼくの周囲にはあんまり癇癪持ちはいなかったし。経験不足は否めない。

 いくらこんなことを書いても詮無きことだからやめるが、文学鑑賞には、どうしても自分の人生経験というバイアスが入るよね、ということだ。でも、そういうバイアスを、こうした友人の感想が是正してくれるのは、とてもありがたい。そうか、癇癪っていうのは、そんなに身勝手なのか、と少なくとも頭では分かるから。

 さて、「自分で自分を支配しなければならぬ」と思っていた謙作だが、末松の助言も頭によみがえり、旅に出るようになった。


 彼は久しく遠退いていた、古社寺、古美術行脚を思い立った。高野山、室生寺、など二、三日がけの旅になる事もあった。丁度晩秋で、景色も美しい時だった。そして彼は少しずつ日頃の自分を取りもどして行った。
 秋が過ぎ、出産が近づいた。彼は総てでいくらかの自制が出来て来ると、直子に対し、乱暴する事も少くなった。自分の乱暴が胎児に及ぼす結果を考えると、彼は無理にも苛立つ自身を圧えつけるよう心掛けた。


 奈良には志賀直哉住居跡という建物もあるが、志賀直哉は、奈良を愛していたのだろう。美しい景色を見ていると、「少しずつ日頃の自分を取りもどして行った」とあるが、これが最後のシーンへの伏線でもあろう。

 しかし、ここも、ほんとうのところ、ぼくにはよく分からないのだ。よくテレビの旅番組などで、キレイな景色をみて、「あ〜、癒やされる〜」とか、悩み事があったけど、旅にでて温泉に入ったらすっかり解放された気分になったとかいった場面がよく流れるが、いつも、イマイチ分からない。なぜだかよく分からないのだが、簡単にいうと、どこへいっても、「自分自身」はあんまり変わらない。謙作のいう「日頃の自分」が、どういうものなのか分からない、といってもいい。キレイな景色を見れば、ぼくなりに感動はするが、それで「日頃の自分」が取り戻せたというふうには感じないのだ。

 謙作には「日頃の自分」という何か動かしがたい確固とした「自分」があるらしいが、ぼくには、そういう「自分」がないということなのかもしれない。その場その場の「自分」はいるが、それに、たいした一貫性がない。平野啓一郎が最近よく言っている「分人」というものなのかもしれない。

 ま、それはそれとして(どうも今日は脇道が多い)、謙作は、落ち着いてきたとはいえ、「まだ」直子に乱暴してきたのだ。妊娠している妻にどの程度かはしらないが、乱暴するというのは、いくら身勝手な癇癪だとはいえ、大変なことで、そのことを自覚している謙作は、「自分の乱暴が胎児に及ぼす結果を考える」という理性的な判断で、辛うじて乱暴を「少なく」したというわけで、いやはや、どうにも始末におえぬ癇癪ではある。


 出産はその暮れ、── 延びて、正月の七草前という事で、彼は前の例もあるので、直子の軽挙(かるはずみ)にはやかましくいっていた。そして今度はお栄もいるし、万事手ぬかりなくやるつもりだったが、正月になり、十日過ぎてもまだ産がないと、少し心配になって来た。そして彼は今度は病院で産をして、一卜月位は其所で養生する方がいいというような事をいい出したが、医者に相談すると、これだけの人手があればその必要はあるまいといった。その上、直子もそれを望まなかったため、入院の話はそのまま沙汰止みになった。
 謙作はもし一卜月数え違いではないかという不安を感じた。二月に入って産があり、月を逆算してそれが自分の朝鮮旅行中にでもなっていたらと思うと、慄然(ぞっ)とした。


 最初の子は丹毒で生後間もなく亡くなっているので、謙作もずいぶんと気を遣った。「直子の軽挙」とは、何を指しているのか、読み返してみたが、該当箇所は見つからなかった。丹毒で死なせてしまった、ということ全体を「軽挙」と言っているのだろうか。そうだったら、直子もかわいそう。

 ここで、謙作が、生まれてくる子が、自分の子ではないんじゃないかという不安をずっと抱えていたことがはっきり分かる。

 最初の子は、自分の子であることに疑いこそ持たなかった謙作だが、それでも、その赤ん坊を「抱いてみる気になれなかった」謙作である。どこまでも「自分の出生」が影を落としているのだ。


 しかし一月末のある日、彼は大和小泉にある片桐石州の屋敷に出かけ、それから歩いて法隆寺へ廻り、夜に入って帰って来ると、自家(うち)では赤児(あかご)が生れていた。充分に発育し、そのため、前より遥かに産が苦しかったという丸々とした女の赤児を見て、彼は何かなし、ほっと息をついた。彼が丁度法隆寺にいた頃生れた児ゆえ、一字をとって隆子と命名した。


 赤ん坊が生まれそうになると、旅に出ちゃう謙作である。最初の子のときは、こともあろうに、鞍馬の火祭見物に深夜に出かけている。これは単なる偶然というよりも、出産への怖れなのではなかろうか。現在では、出産に立ち会うことが常識になっているが、ぼくの時代でさえ、立ち会うことはむしろ出来なかったのではなかろうか。たとえ出来たとしても、ぼくにはムリだった。

 謙作の生きた時代には、「立ち会う」ことなど、論外だったはずだが、まさか、旅に出ちゃうことが常識だったとも思えない。

 「丸々とした女の赤児」を見て、喜びではなくてほっとした謙作。隆子はどうなっていくのだろうか、ちょっと心配である。しかし、ほんとうに心配なのは、実は直子のとのことなのだった。

 

 

 

 

 


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