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日本近代文学の森へ (197) 志賀直哉『暗夜行路』 84  あるまじき表現?  「後篇第三  二」 その1

2021-08-28 14:32:14 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (197) 志賀直哉『暗夜行路』 84  あるまじき表現?  「後篇第三  二」 その1

2021.8.28


 

 翌朝、彼が起きた時にはもう陽は大文字の上に昇っていた。彼は顔を洗うと座敷の掃除の出来る間また河原へ出た。草の葉にはまだ露があり、涼しい風が吹いていた。彼は余りに明かる過ぎる広い道に当惑した。しかし故意に図々しく、自分を勇気づけ、その方へ歩いて行った。多分もういないだろう。しかしもしいてくれたら自分には運があるのだ、そう思った。
 彼方(むこう)から朝涼(あさすず)の内にきまって運動をするらしい、前にも二、三度見かけたことのある四十余りの男の人が、今日も、身仕舞いを済ませた小さい美しい女の子を連れて歩いて来た。その人たちの無心に朝の澄んだ空気を楽しんでいるような、ゆったりした気持がその時の彼にはちょっと羨しく感ぜられた。


 京都の朝の光景。起きたときには、太陽が大文字の上に昇っていた、なんて、やっぱり京都は特別だなあ。ぼくなんかは、朝起きても、太陽が向こうの丘の団地の上に昇っているだけだもの。

 河原に出ると、「草の葉には露があり、涼しい風が吹いていた」というあたりも、単純だが、シャープな印象がある。「草の上の露」にピントがぴたりと合っているからだ。「草の葉には露がおりていて」とか「草の葉には露が光り」とか書くのが普通だろうが、「露があり」と、極限まで言葉を切り詰めている。それが余計な叙情性を排して、「露」そのものの存在感を描きだしているのだ。

 しかし、その後に、「彼は余りに明かる過ぎる広い道に当惑した。」とある。ここからいきなり心情に入り込むのだ。昨日の夜、河原に出て、まるで影絵のような女の姿を見た。その余韻が、「明かる過ぎる広い道」に「当惑」を呼び起こす。こんなにあかるい日のもとで、またその女に会えるのだろうか、会ってもいいのだろうか、そんな当惑かもしれない。謙作は勇気をふるいおこす。「故意に図々しく」という表現がおもしろい。自分に演技まで強いているかのようだ。
「朝涼」という言葉も、前にも出てきたが、いい言葉だ。

 朝涼のうちに運動をする四十余りの男が連れている「身仕舞いを済ませた小さい美しい女の子」とは、どういう子だろう。「身仕舞い」というのは、「身なりをつくろうこと」でもあるが、また「化粧して美しく着飾ること」でもある。この場合は、後者であろう。おそらく、舞子さんの修業にでも向かうのではなかろうか。この四十余りの男も、女の子の父とは限らない。いろいろな想像ができる。

 「その人たちの無心に朝の澄んだ空気を楽しんでいるような、ゆったりした気持」とあるが、彼らがほんとうにそういうゆったりした気持ちだったのかどうかは分からない。そういう気持ちを彼らの姿・行動から、謙作は感じ取ったということで、それに対する羨望とともに、この涼しい朝の謙作の心境がよく伝わってくる。


 そして女の人はやはり前日のように縁に出ていてくれた。彼はドキリとして進む勇気を失いかけた。が、その人は彼の方には全く無関心に、むしろぼんやりと、箒を持ち、手拭を姉さん被りにし、注意を奪われ切ってその美しい女の児の方を見ている所だった。この事は彼には幸だった。けれども同時にその人の顔には昨日のような美しさがなかった。彼は多少裏切られた。一々こんな事で裏切られていては仕方がないと自分で自分を食い止めたが、その内女の人は、ふと彼から見られている事を感じたらしく、そして急に表情を変え、赤い美しい顔をして隠れるように急いで内へ入ってしまった。彼の胸も一緒にどきついた。そして彼はその人のその動作を大変よく思い、いい感じで、その人はきっと馬鹿でないという風に考えた。

 


 女はやはりいた。そしてその女も、「美しい女の児」にみとれていた。それほど、その女の子はきれいで目をひいたのだろう。その女の子に見とれている女を、謙作はじっくりと見ることができた。そこで発見したのは、「その人の顔には昨日のような美しさがなかった」ということだ。昨晩の、夜の闇と光のなかに浮かび上がっていた女が、朝の透明な光のなかで、「美しさ」を失っていたということはよくあることだろう。どんな瞬間でも、ずっと美しいなんて女は、この世にいない。だからこそ、絵画が(写真でも映画でもいいが)意味を持つというものだ。

 縁に出ていた女は、謙作に見られていることに気づき、顔を赤らめ、内に入ってしまう。そのときの謙作の心境を書いた文章が、なんともいえず稚拙なのはどうしたことか。


そして彼はその人のその動作を大変よく思い、いい感じで、その人はきっと馬鹿でないという風に考えた。


 これではまるで小学生の文章ではないか。それとも、稚拙をあえて装った名文なのだろうか。

 謙作の視線に気づいたのか「急に表情を変え、赤い美しい顔をして隠れるように急いで内へ入ってしまった」という女の「動作」を、謙作は「大変よく思い」というのだが、これも「言葉を極限まで切り詰めた」例なのかもしれないが、この場合は、あまりにそっけない。

 顔を赤らめて内に入ってしまうことが、そんなに「よい」のか。では「よくない」動作というのはどういったものか、と考えると、たぶんそこに想定されるのは、東京の遊女のように、むしろ媚びを含んだ笑顔を見せるといった「動作」なのだろう。前編からの流れからすればそういうことになる。それがそうじゃなくて、恥ずかしがって家の中に入ってしまうのは、遊び女じゃない証拠で、だからこそ「いい感じ」なのだろう。それにしても、その後の、「その人はきっと馬鹿でないという風に考えた。」には、驚く。

 こんなことを平気で書いてしまう志賀直哉という人は、ほんとうに文学者なのだろうかとすら考えこんでしまう。いったい、この女がどういう「動作」をしたら、「馬鹿」だということになるのか。今までの経験で、遊女はみな馬鹿だという結論に達したのだろうか。

 人間を、そのちょっとした動作・行動から、「馬鹿だ」とか「馬鹿じゃない」とか簡単に決めつけることなど、文学者たるものが絶対やってはいけないことだろう。それができないということを生涯かけて追求するのが文学者というものではなかろうか。

 というように考えると、志賀直哉は「文章家」ではあるが、「文学者」ではない、という、坂口安吾の言葉が再び思い出されるのである。

 志賀直哉というのは、「小説の神様」とまで言われ、非常に高く評価されるいわば文豪だが、それを頭から信じ込むのはよくない。事実、さまざまな批判もあびる「文豪」でもあるのだ。

 坂口安吾が、どういう意味合いで、志賀は文学者じゃないと言ったのかの細かいニュアンスは忘れてしまったが、たとえば、今ひいたこのこの一文などからうかがわれる、志賀直哉の意識というものに、その理由の一端があると、今のぼくなら思う。そうした「文学者らしからぬ」側面を持ちつつ、それでもなお、志賀直哉は、「偉大な文学者」でもあるのかどうか。それは、この読書を通じて、ぼくなりに検証していきたいところでもある。

 

 

 


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一日一書 1702 涼風のまがりくねって来たりけり・一茶

2021-08-27 17:58:59 | 一日一書

 

一茶

 

涼風のまがりくねって来たりけり

 

半紙

 

 

前書きに「うら長居のつきあたりに住みて」とありますので

長屋の突き当たりに住んでいるので、

せっかくの涼しい風も、あっちへぶつかり、こっちへぶつかり

まがりくねってやっと到達するよ、ってな意味でしょう。

一茶らしいひねくれた句。

 

この長屋の風は、落語にもよく出てくるような気がします。

なんていう落語だったか、思い出せませんが。

 

 

 

 

 


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一日一書 1701 寂然法門百首 51

2021-08-26 11:13:46 | 一日一書

 

身雖遠離心不遠離


 
身のためと思ひて入らぬ道なれば心は人をそむきやはする
 

半紙


 
【題出典】『摩訶止観』七・下


 
【題意】  身は遠離すといえども、心は遠離せざるなり。

身は遠く離れるが、心は離れない。


 
【歌の通釈】

自分の身のためと思って入った道ではないので、心は他者を背いているわけではない。

 

【考】
菩薩は他者と別れ一人山林で修業しようとも、それは最終的には自分のためではなく衆生を救う目的のためである。身は別れるけれども「心は人」を忘れないという発想は、「すぎたるは心も人も忘れじな衣のせきを立ちかへるまで」(為仲集・122)を参考にしているだろう。

(以上、『寂然法門百首全釈』山本章博著 による。)



キリスト教でも、修道院にこもって、ひたすら祈りの日々を送るという修道会もあります。一見、自分の救いだけを求めた自己中心的な行為に見られますが、そこでも、心は人を離れていないわけでしょう。

「人のため」と「自分のため」は、そう簡単に分離できるものではないのです。自分のためにやっていたことが、人のためになったり、人のためにやっていたことが、結局は自分のためになっていたり、というように。

 

 

 

 

 


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日本近代文学の森へ (196) 志賀直哉『暗夜行路』 83  意志の問題  「後篇第三  一」 その6

2021-08-24 09:59:42 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (196) 志賀直哉『暗夜行路』 83  意志の問題  「後篇第三  一」 その6

2021.8.24


 

 美しい人を偶然見かけた謙作は、家に帰ってからも落ち着かず、再度、出かけて、その人を見るのだが、「快い和らぎ」「心の気高さ」を胸に抱いて家に戻った。さて、これからどうしたらいいのだろう、と謙作は思い悩む。

 
 この事はどうしたらいいか、彼はそれを考え始めた。このままにこの気持を葬る事は断じてしまいと決心した。しかしただ同じ家並みにいるというだけで、しかも両方が一時的に宿っているのであればなお、よほどにうまい機会を捕えない限り、この事は恐らく永久に葬られてはしまわないだろうか。此方(こっち)から積極的に機会を作って行くなどいう事は考えられなかった。同様に自然に或る機会が来るだろうとも考えられなかった。彼は自分が余りに無能な気がして歯がゆかった。彼は彼の或る古い友達が、そういう機会を作るためにその人の家の前で、故意に自分の自転車を動かせない程度にこわし、その家に預かってもらい、翌日下男を連れて取りに行き、段々に機会を作って行った話などを憶い出した。しかし自分の場合ではその前で偶然卒倒でもしない限り、そんなうまい機会は作れそうもなかった。


 「この事はどうしたらいいか」と考え始めた謙作は、「このままにこの気持を葬る事は断じてしまいと決心した。」という。夕方散歩に出て、偶然に見かけた「美しい人」というだけなのに、謙作の心は激しく動く。それは、その女がたぐいまれな美人だったとかいうことではない。その女を見ていると、自分の心がいわば浄化され、「気高く」なっていくのをはっきりと感じたからだ。

 謙作はそう分析するのだが、しかし、あくまでそれはギリギリの「言語化」であって、おそらく「正確」ではない。そこには、なまじな「正確さ」などというものを遙かに超えた、神秘的な、あるいは運命的なものが存在していたはずだ。ただ、それを、「言語化」することはできないのだ。
そんなふうにぼくが感じるのは、ぼくもまた、こうした「神秘的・運命的」な出会いを経験しているからだ。

 ぼくが家内と、高校生のころ出会ったとき、とうてい言語化できないある種の「神秘・運命」があった。その辺のことを、教師になってから、とくとくと生徒に語って、嫌がられたんだか、呆れられたんだか知らないが、「そういうことがある」ということを伝えるのに懸命になった。といえば、なんだか偉そうで、実際は単なるノロケに過ぎなかったのだろうが、それはさておき、そうした運命的(という言葉は後になって出てくる言葉だけれど)出会いの「後」が問題なのだ。そこには、その「運命」に任せるのではなくて、「決心」こそが必要なのだろうと思う。

 中原中也も言うように、「畢竟意志の問題」(「頑是ない歌」)なのだ。ここでの謙作の「決意」というのは、思いのほか重い言葉なのだ。

 「恋する人間」は、心は純粋でも、恋の成就のためには、実に狡猾な手段を考え出すもので、ここに出てくる友達もその一人だ。この程度のことなら、だれにでもできそうだが、謙作は不器用で、正直すぎる男なので、そんな狡猾な行為ができるはずもない。

 かといってこのまま何もしないでは、「同様に自然に或る機会が来るだろうとも考えられなかった」のも当然だ。とにかく謙作は、またまた出かけるのだ。


 とにかく、もう一度前まで行って見ようと思い、彼はまた庭から河原へ出た。まだ雨戸は開いていたが、電球には緑色の袋がかけられ、中はしんとしていた。町へでも出たか、さもなければその人の帰るのを送って出たか。彼はちょっと淋しい気がした。そして、第一、その人は純粋に独身なのか、あるいは自身望む人でもいるのではないか、こういう疑問を起こし出すと彼は甚(ひど)く頼りない気もして来た。

 


 河原から望むその人の家は、「まだ雨戸は開いていたが、電球には緑色の袋がかけられ、中はしんとしていた。」と描かれる。簡潔な文章だが、状況がくっきりと分かる。解像度のいいレンズで撮ったような鮮明な映像だ。

 電球にかけられたいた「緑色の袋」には、思い当たる節がある。当時の電球には、調光などできるはずもなく、豆電球もついていないとすれば、光を弱めるためには、袋をかぶせるしかない。ぼくが幼いころも、そんな袋を電球にかけていたような気がかすかにするのだ。

 雨戸が開いていて、そこから河原の方へ漏れてくる緑がかった光、だれもいない部屋の「しんとした」部屋の空気。そんなものを見ながら、そうだ、オレはあの人のことを何にも知らないんだ、と謙作は気づくのだ。

 

 

 

 


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木洩れ日抄 77 ぼくのオーディオ遍歴 その2 ──ソノシートで民謡を聞いた

2021-08-14 21:04:30 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 77 ぼくのオーディオ遍歴 その2 ──ソノシートで民謡を聞いた

2021.8.14


 

 初めて自分のものとして買ってもらった卓上電蓄で、「軽騎兵序曲」だの「魔弾の射手序曲」だのを、悦に入って聞いたいたのだが、そのうち、中2のころだっただろうか、何を思ったのか、「ビクター少年民謡会」(今では演歌歌手の長山洋子もかつてはこの会員だったらしい。)のソノシートを自分で買った。そしてそれを聞きまくった。聞いているだけでは物足りなくて、歌いまくった。なんとかうまく歌いたいと、何度も聞いた。さすがに、その会に入ろうとは思わなかったが。

 それにしても、なんで中学生が民謡なのか。それも東北とか、九州とか、地方の中学生ならそういう文化的土壌に育まれてということもあるだろうが、横浜の下町のペンキ屋の息子が、どうして民謡なのか。

 答は簡単だ。それは、幼い頃から、一緒に寝ていた祖母と祖父が、いつも、枕元のラジオで聞いていたからだ。民謡だけではない、むしろ、浪曲の方が多かったはずだ。浪曲の方は、あまりに難しくて、ソノシートを買うような気を起こさずにすんだのだが、民謡は、「少年民謡会」なんてのがあるくらいだから、子どもでも歌えるわけだ。これが浪曲だと、子どもには無理だ。「コロンビア少年浪曲会」なんてちょっと想像できない。

 落語の「寝床」じゃないけれど、自分で歌って満足していればなんの問題もないわけだが、何事でも、行くつく果てに「発表会」というものがある。それも、修業を積んだ人が、それなりの指導を受けて、それなりの「発表会」に参加するならまだしも、自分で勝手に企画して、人を集めて「発表」なんてされたひにはたまったものではない。被害甚大である。

 ぼくの民謡は、もちろん、大店の旦那芸じゃないから、「発表会」を企画して人を集めるなんてもんじゃなかったのは当然としても、ある意味、それよりタチが悪かった。(「寝床」の場合は、食事がふるまわれた。)

 ぼくが「発表」の場として選んだのが、遠足のバスの中であり、夏の海の合宿のキャンプファイヤーだった。これはもともとぼくの歌が要請されているわけではない場なので、いわばぼくは闖入者であり、乱入者だった。

 中3の夏の海のキャンプファイヤーで、ぼくは、指名されてもいないのに、真っ先に手をあげて、「花笠音頭」だか「北海盆唄」だかを得意になって歌ったものだ。

 後年、ぼくが、母校に教師として戻った直後、恩師の国語科のF先生と話したおりに、先生が「いやあ、君は16期だよね。16期は、ぼくが赴任して最初に受け持った学年なんだけどさあ、えらく変わった生徒がいてねえ、びっくりしたんだ。」というので、どんな生徒でした? って聞いてみると、「それがさあ、海のキャンプのキャンプファイヤーでね、民謡を歌ったヤツがいるんだよ。もうびっくりしたなあ。変わってるなあって思ってさあ。」と感に堪えないといった風情で遠くを眺めるのだった。「先生、それ、ぼくですよ!」って言ったときの、F先生の驚愕の表情を今でも忘れることができない。
そういうぼくだったから、高校生になっても、遠足があると、バスの中でも率先して民謡を歌った。その頃には、「花笠音頭」とか「北海盆唄」とかいった入門的な歌ではなくて、もうちょっと高度な「ひえつき節」とか「南部牛追唄」とかいった歌を朗々と歌ったものだ。

 ということを、17年ほど前に出版した「栄光学園物語」に、わざわざ1章をさいて書いたら、それを読んだ同級生が、同窓会のときに、「ほんとに馬鹿なヤツだと思った。」って言ってきたのだが、そのときも、まあそうだろうなぐらいに思って、それほどビックリしなかったのだが、それから更に10年以上経った同窓会で、誰かが、「あの頃さあ、遠足にバスでいくたびに、変な歌を歌うヤツがいるから、バス変わりたいって言ってたヤツがずいぶんいたんだぜ。」って言うのを聞いて、そのときは、本気で驚いた。そうか、そんなに嫌がられていたのかあと、初めて認識したからだ。「変わったヤツ」とか、「変なヤツ」とかいうのは、まあ、そこそこの親愛の情がこもっているとばかり思い込んでいたのに、実際はそうじゃなくて、「心底嫌だった」ヤツがいたということに衝撃を受けたのだ。「寝床」の旦那を笑えない。

 そういえば、遠足の後のホームルームで、「バスの中で、人の知らない歌を得意になって歌うのはよくない。」と担任がみんなの前で話したことがあり、それがぼくのことだということはさすがに分かったけれど、心の中では「てやんでえ」って思っていた。こちとらは、ソノシートを懸命に聞いて、一生懸命練習して歌っているんだ。それの何が悪い。そもそもマイクが回ってきても、誰も歌おうとしないじゃないか。だから、オレが場を盛り上げようとして歌ってるんじゃないか、と、腹を立てていたものだが、ひょっとしたら、「心底嫌だ」と思った同級生が、担任に「なんとかしてほしい」と嘆願したのかもしれないなあ、なんて、卒業して50年も経ってから、思ったりしたのだった。

 そういえば(と芋づる式に出てくる思い出だが)、仲のよかった友人が、ある日の休み時間、ツカツカとぼくの前にやってきて、「おまえ、なんであんな泥臭い歌を歌うんだ。やめろ!」と真剣になって怒ったことがあった。「泥臭くて何が悪い! 日本人が日本の歌を歌って何が悪い!」といったようなことを言ってぼくはぜんぜん取り合わなかったけれど、今思うと、彼は、ぼくがみんなに「心底嫌がられている」ことを知っていて、なんとか、助けたいと思ったのかもしれないなあなどと今更ながら思って感謝したりしている。

 なんだか、オーディオとは関係ない話になってしまったが、それもこれも、初めて買ってもらった卓上電蓄の余波だったのである。

 それはそれとしても、どうして、そんなに民謡が「嫌」だったのだろうか。「変な歌」とか言っていたらしいから、彼あるいは彼らは、生まれて初めて民謡を聞いたのかもしれない。鎌倉あたりから通ってくる、お金持ちのボンボンも多かったから、生まれてからクラシック音楽しか聞いたことがないという*葉加瀬太郎みたいなヤツがきっといたんだろうなあ、と思うと、ある意味感慨深いものがある。

 


 

*「葉加瀬太郎みたいなヤツ」に関しては、こちらと、こちらをごらんください。続き物のエッセイです。

 


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