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100のエッセイ・第10期・100 完結、そしてその次へ。

2016-09-25 08:29:18 | 100のエッセイ・第10期

100 完結、そしてその次へ。

2016.9.25


 

 というわけで、とうとう1000編目である。しかし、この1000という数字は必死になって求めてきたものではない。1000編を何としても書きたいと思ってきたわけでもない。ただ、やめなかったら、1000になったというだけの単純なことなのだ。しかし、そうはいっても、それなりの感慨はある。

 「100のエッセイ」の第2集の「あとがき」には、こんなことが書かれている。

 「100のエッセイ」の1冊目を出したころ、いつまで続けるんだと聞かれ、冗談に「どうせなら千まで書こうかなあ。」なんて言ったりしていましたが、月日の経つのは早いもので、あっという間にまた百たまってしまいました。今の時点で、ホームページの連載は「第3期」に入っており、それも二十九まで来ています。うかうかしていると、ほんとうに千なんてことになりかねません。考えてみれば、このペースで書いていくと千を書き終わる頃は六十八歳という想像もつかない年齢に達していることになります。まあ、多分どこかでやめてしまうことになるのでしょうが、とにかくたまったものはどうにかしなければなりません。幸い「こんども本にしないの?」などと催促してくださる方もいて、調子にのってこの「第2集」を出版することになりました。

 この「あとがき」を書いたのは、2002年6月1日だが、その時ぼくは52歳。週1回のペースを厳密に守って書いていたので、そのままのペースで計算すると68歳で1000に到達ということだったのだろうが、その後、震災が起きて、「1000字以内」、「週に1回」という自分で作った規定を破棄することとなったために、その時の計算より約1年はやく1000に到達したわけだ。年齢でいうと、来月に67歳になるが、まだ66歳なので、2歳分はやく到達となったわけである。

 「どうせなら千まで書こうかなあ。」なんていう「冗談」が、こうして現実のものとなってみると、それなりの達成感はあるけれど、「計算通り」であることに、やや拍子抜けといった感もある。

 まあ、それでも、ここまで来るには、いろいろなことがあるにはあった。第7期ぐらいまでは、週1回書くということを厳密に守っていたために、週末になると憂鬱だった。ネタがあるときはいいのだが、何にも書くことがないということもしょっちゅうだった。それでも、10分ぐらいねばっていると、何か書けた。書けたけど、それを推敲したり、吟味したりする余裕もなくて、ええいままよとばかりアップしてきたことも数知れない。

 けれども、勝手気ままに書いてきたことが、こうしてネット上にであれ、ちゃんと読める形で残っていて、自分でも好きな時に読めるというのはいいものだ。本には2冊しかできなかったけれど、それはそれでよかったと思っている。後は、10期分をすべて、「Yoz Home Page」の方へ格納するという仕事が残っている。(今はまだ、第9期の途中までで作業が中断している。)

 さて、これからは、自由気ままに書いていきたい。週1回とか、何字以内とか、そういう「しばり」は一切なしだ。

 「やるべきことを、やるべき時に、しっかりやる」という栄光学園で叩き込まれた精神は、そろそろ返上してもいいだろう。「やりたいことを、やりたいときに、やりたいようにやる」ことにしたい。しかし、これは、想像以上に難しい。「べき」でしばられないと、人間というものは、うまく生きていけない動物のようだからだ。「たい」は自由でいいようだが、言い換えれば「意欲」の問題なのだから、そうそう人間をうまく導いてくれるとは限らない。しかし、困難なら、それもまた一興ではなかろうか。

 「100のエッセイ」というタイトルはもう使わない。今後のタイトルは、いろいろ考えた末、「木洩れ日抄」とすることにした。畏友林部英雄の名句「木洩れ日が思想を照らす不思議な時だ」による。高校時代の林部氏の作だが、今も忘れがたい。木洩れ日のように、ちらちら頭に浮かんでは消える日々の思いを綴るには格好のタイトルに思えるがどうだろうか。通算何編まで書けるか、それは神のみぞ知るだが、末永く書きつづけていきたいものだと思っている。


 



「100のエッセイ」は、18年半にわたって書き継がれ、ここにめでたく通算1000編達成となりました。長い間、ご愛読ありがとうございました。心より御礼申し上げます。なお、本文中でも触れましたとおり、今後は「木洩れ日抄」として、エッセイを書き続けて参りたいと存じます。更新は極めて不定期となりますが、引き続きご愛読いただければ幸いです。



 

 

 


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100のエッセイ・第10期・99 「栄光学園物語」のことなど

2016-09-24 14:05:45 | 100のエッセイ・第10期

99 「栄光学園物語」のことなど

2016.9.24


 

 「100のエッセイ」が完結したとき、やっぱりこれは本にしたいと思った。そのころは、まだ、職場の同僚でもインターネットでホームページを見るという習慣や環境を持たない人も多くて、何か書いてるらしいけど、何書いてるの? って聞かれても、ホームページ見てくださいと言えないという不便があった。それに、ぼく自身、まだネットで読むということに違和感があった頃で、何とか本という形にしたいと思ったのだ。

 版下の作成はお手のものなので、あとは印刷・製本を頼めばいい。学校に出入りの印刷屋さんに相談したら、そういうのおもしろそうだから是非やらせてくださいと、格安の値段で請け負ってくれた。確か20万円ほどだったと思う。部数は300部。出来てきたときは嬉しかった。買ってくださいなんていえやしないから、片っ端から知人に進呈した。今では手元に数部ほどしかない。

 それは自費出版だったが、ぼくには、死ぬまでに何とか実現したいと思っていたたった一つの夢があった。それは、自分の本を、ちゃんとした形で、つまり自費出版ではなくて、商業出版で出したいということだった。参考書や問題集なら、何とかなりそうだったけれど(実際、その後、数冊の問題集や参考書は出した。)、そういう教育関係ではない本を出したいと思っていた。

 で、思ったのは、この「100のエッセイ」をどこかの出版社が出してくれないだろうかということだった。自費出版してしまったものを、更にどこかの出版社から出すなんてことは、まず考えられないことだろうが、とにかく、自分で企画書を書いて、サンプルとして「100のエッセイ」を出版社に送ってみることにした。どうせ送るなら大手がいいやということで、講談社の文芸部に送った。しかし、当然すぎることだったが、何の返事も返ってこなかった。

 やっぱりなあと思ったが、それでも諦めきれなかった。講談社はでかすぎた。作戦変更だ。そうだ、もっと地元密着の出版社にしてみよう。そう思って、今度は、かまくら春秋社に送ってみた。これもしばらくは何の反応もなかった。ところが、1ヶ月ほど経ったころだろうか、かまくら春秋社から、原稿の依頼が来た。今度新しく出した雑誌「星座」にエッセイを書いてくれないかということだった。これは嬉しかった。ぼくは「新緑の窓から」という、ちょっと気取ったエッセイを書いて送った。これが、教育以外の原稿でお金を貰った最初だった。そして最後だった。(今のところ)

 エッセイの依頼は来たが、結局「100のエッセイ」の出版については、なんの返事もなく、まあ、それはそうだよなあと思って諦め、もう他の出版社へ送ることはやめてしまった。

 それから数ヶ月ほど経ったころだろうか、かまくら春秋社の編集部から電話がかかってきた。相談したいことがあるから社まで来てくれないかという。用件は直接話すとのこと。何だろうと期待に胸を膨らませた。「100のエッセイ」の出版の話じゃないだろう。かといって、またエッセイを書けという依頼でもないだろう。そういう依頼なら手紙一本ですむはずだ。最初のエッセイのときもそうだった。とすると、もっと大きな依頼か。そうか、月刊の「かまくら春秋」にエッセイを連載してくれという依頼かも。おお、それなら、オレはとうとうプロの「エッセイスト」だ、なんて妄想して、わくわくした。

 約束した当日、依然として期待に胸を膨らませて、かまくら春秋社を訪れた。出てきた編集者が、ぼくに言ったことは、やっぱりエッセイの連載の話だった。しかし、単なるエッセイではなくて、「栄光学園物語」というシリーズものを企画しているので、その原稿を書いてくれないか、ということだったのだ。実は、かまくら春秋社では、かつて「鎌倉学園」「逗子開成」の「学び舎シリーズ」という連載をやったことがある。その時は、編集者が取材をして原稿も編集者が書いたのだが、今回その続編として「栄光学園」の連載を考えている。あなたならそれを書いていただけるんじゃないかと思うという。それが無理なら、学校の他の先生との共同執筆でもかまわないという。

 がっかりだった。全身の力が抜けた。なんだ、学校の歴史を書くのか。めんどくさいなあ、と思った。そもそも歴史は苦手だ。それに、それじゃ結局「栄光学園」が主で、ぼくは単なる書き手にすぎない。ぼくはもっと自由に文学的なエッセイを書きたいんだ。栄光学園の歴史なんて書いたら、多くの卒業生やら在校生やらが何を言ってくるかしれやしない。荷が重い、気も重い、断ろうか、そう思った。

 けれども、この編集者は、ぼくの「100のエッセイ」を読んで、この人に書いてほしいと思ったのだ。たとえその題材がぼくの意に沿わぬ学校の歴史であったにしても、なんの実績もないぼくだ。そもそも題材のえり好みができる立場じゃないだろう。そう思い直した。それに、編集者氏が言った、連載が終わったら単行本としての出版を考えています、という言葉が決め手となった。自分の本を出す千載一遇のチャンスじゃないか。歴史は苦手なんて言っている場合か!

 突然、やる気になった。それなら、あくまで、ぼくが個人として書きます。共同執筆はしません。もちろん、学校の歴史を書くのですから、校長などに校閲はお願いしますが、あくまでぼく個人の立場で書いてよいということでしたら、書かせてください、というようなことを言ったような気がする。

 そうした経緯があって、ぼくの「栄光学園物語」は2001年9月から、2003年12月まで全28回(第1部14回、第2部14回)にわたって連載された。第1部で完了のつもりだったが、これでは単行本にするには量が少ない。「その後」を続けて書いて欲しいと言われたが、「大船移転」後のことは、書いてもあまりおもしろくない。まして自分が教師として勤めた時期については生々しくて書く気がしないと言ったら、それなら、あなたご自身の栄光学園での6年間を書いたらどうですか? という。冗談じゃありません、ぼくなんかの6年間なんて書いても、おもしろくも何ともないじゃありませんかと言ったのだが、編集者は、いやいやきっとおもしろいと思いますよとおだてるので、ついその気になって、第2部を書くことになった。こっちはもう「栄光学園物語」ではなく「山本洋三物語」である。第2部のほうがおもしろいと色々な人に言われたが、第1部と違って勝手気ままに書いたからかもしれない。けれども、結局アイツは学校を利用して自分の本を出したに過ぎないじゃないかという思いを多くの人、特に学校関係者に抱かせたことだろう。これについては、こうしたことの次第なのだから弁解の余地もない。

 「栄光学園物語」は、2004年4月、単行本として出版された。5000部刷ったということだが、それから12年たった今でも、再版の話はない。絶版の話もない。連載時に1回1万8000円の原稿料をもらっただけで、単行本の印税は一銭も貰っていない。それなのに、生徒や同僚には「多額の印税を得ている」と誤解されて困った。まあ、そんな下世話なことはともかく、商業出版をするという長年の夢はこれで曲がりなりにも、いちおうは、かなったのだった。「100のエッセイ」を書き続けてきたことの思わぬ余波だった。そしてそれはぼくのような半端な人間にとっては、望外の幸せだったとつくづく思う。

 「100のエッセイ」は、第2期が完結したときに、もう一度自費出版で500部作ったが(30万円ほど)、それ以後は、いくら何でもお金がかかりすぎるので、自費出版はやめた。その後、当然のごとく第3期、第4期と続いていき、とうとう第10期に入ってしまい、今まさに完結しそうになっているというわけである。




 

 


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100のエッセイ・第10期・98 「100のエッセイ」のはじまり

2016-09-23 16:03:50 | 100のエッセイ・第10期

98 「100のエッセイ」のはじまり

 

2016.9.23


 

 1998年の3月から書き始めた「100のエッセイ」の通算1000編達成が目前に迫った。あと3つである。

 このあと3つを、ダダッと書いて、いちおうの「ゴール」にしてしまいたいので、これまでの経過を辿り、今後の展望を考えることでゴールしたい。

 そもそものはじまりは、第1番目のエッセイ「はじまり」に簡単に書いたとおり、別役実の「戯曲100本」に触発されたわけだが、その根本的な動機は、せっかくホームページを作ったのだから、何か継続的にアップしていきたいということだった。そして、あまり文章を書くことが得意ではなかったので、何とかして文章力を身に付けたいと思ったのである。

 1000ものエッセイを書いていながら、文章を書くのが得意じゃないなんていうのは、イヤミじゃないかと思われるかもしれないが、ぼくは幼い頃から生き物が好きで、中学入学と同時に生物部に入り、以後高校を卒業するまで生物部に在籍、しかも高校1年までは、将来は生物学者になるのだと心にかたく決めていたのである。中3の1年間、昆虫採集に熱中した後、虫を殺すことがちょっと嫌になって、生態写真家になりたいなんて思った時期もあるが、いずれにしても理系の大学に進学できると思っていた。

 ところが、いざ大学受験を目の前にした高校2年になる直前、自分の成績が、数学、物理、化学において、まったくダメだということに今更ながら愕然とした。いくら虫や草が好きだって、これでは理系の大学に進学できるわけがないと思い込み、突然「文転」したのだった。

 けれども当時のぼくの周囲には根っからの「文学少年」たちがたくさんいた。ぼくが何を書いても、何を読んでも、彼らからすれば、幼稚きわまるものでしかなかった。それでも「文転少年」は、けなげにも懸命に詩を書いたり小説を読んだりしたのだが、悲しいかな、彼らはいつまで経っても遙かかなたの高みにいたのだった。ぼくの高校時代は、そんなコンプレックスとの戦いだったといっていい。幸いにも大学の国文科に入学できたものの、やはりその状態に変わりはなかった。

 そういうわけで、「文学コンプレックス」「文章コンプレックス」は、その後、国語教師となっても抜けることはなく、いつも、「国語は得意じゃないなあ。」とか「文学ってよく分かんないなあ。」とか、「文章を書くの自信ないなあ。」とか、思い続けてきたのだった。

 そういう状態を何とか打破すべく試みたのが「100のエッセイ」の連載だった。毎週1回ぐらい、800字〜1000字の文章を書くことを自分に課せば、少しはましな文章が書けるようになるかもしれないと思った次第だが、それが100も書けるとは思っていなかった。

 エッセイの中で、何度も書いたことだが、ぼくの中学生のころからの悩みは、「気が散る」「気が多い」「熱しやすく飽きっぽい」というような類いのことで、毎日コツコツというのがとにかく苦手だったのだから、毎週1回ずつ、100回もエッセイを書くなどということは、まず無理だと思っていた。

 途中頓挫は必至と思っていたが、その危機は、書き始めて数回目にやってきた。何回目かは忘れたが、さぼって1週とばしたことがあった。ところが、ぼくのホームページを見ていた当時の教え子が、「センセイ、もうサボるんですか! そうやって、更新をさぼっているうちに、腐っていくホームページが山ほどあるんですよ!」とすごい剣幕で言ってきた。ぼくは、震撼した。まだ10回も書いていないうちに、もうサボってしまったという自分の情けなさもさることながら、そうやって、ちゃんと読んでくれている人間がいたということに震撼したのだ。

 それ以来、ぼくは、2度と更新を怠ることはなかった。きちんと調べたわけではないが、あの震災の年までは、1回たりとも更新を怠ったことはなかったはずだ。飽きっぽいのがオレだという自己認識は、サボるための口実に過ぎなかったのではないかと、その時気づいたのかもしれない。

 1998年の3月というと、ぼくが48歳のときであり、それはまことに「遅い目覚め」だったといえるだろう。

 何も教訓めいたことを言うつもりはないのだが、人間というものは、おうおうにして、「自分はこういう人間だ。」と思い込んで生きているものだ。そしてそれは、けっこうあたっていることが多いから始末におえないのだが、しかし、あまり決めつけないほうがいいとも思うのだ。ぼくの場合でいえば、数字が分からないとか、人の名前を覚えられないとか、大事なことをすぐに忘れてしまうとか、そういったことは、ほとんど病気ともいえるレベルで、いまさらどうしようもないことだが、それと同じくらいどうしようもないと思っていた「飽きっぽい」という性質は、案外そうでもないと、50歳近くになって自覚されたと言えるだろう。そういうこともあるのが人生だということは、若い人は覚えておいて損はないと思う。

 「100のエッセイ」は、100書いたら終わりのつもりでつけた名前、つまりは「目標」としてつけた名前だったのだが、予想に反して完結したとき、急に、「続き」を書きたくなった。それで、「100のエッセイ 第2期」として続けることにした。けれども、その時でも、まさか、第10期まで続くとは、ぼくも、また周囲の人間も夢にだに思わなかったことだったのだ。

 

 


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100のエッセイ・第10期・97 分からなくなっていってしまう楽しさもある

2016-09-15 16:44:40 | 100のエッセイ・第10期

97 分からなくなっていってしまう楽しさもある

小津の映画について楽しそうに語る保坂和志さん


2016.9.15


 

 「鎌倉朝日」というミニコミ誌がある。ぼくは鎌倉市民ではないから見かけないのだが、朝日新聞についてくる小新聞のようで、その創刊450号記念として、「鎌倉を舞台とした映画」の上映会が2回にわたって行われた。1回目が是枝裕和監督をゲストに招いて『海街diary』、2回目が保坂和志さんをゲストに招いての小津安二郎監督『麦秋』と、森田芳光監督『それから』を上映した。ぼくは、いろいろなシガラミから上映会のスタッフとなって参加した。

 2回目の上映会で、保坂和志さんが小津映画について語ったのだが、話があっちへ飛びこっちへ飛びの、ノンシャランな味のある話はとてもおもしろかった。保坂さんは、数ある小津の映画の中で、『東京物語』『秋刀魚の味』『麦秋』『晩春』『秋日和』の5本が「ぼくのなかでは一緒になってる」と言い、その中で名作としてしっかり作られているのが『晩春』と『東京物語』、それと違ってもっと気楽に見られるのが『秋日和』と『秋刀魚の味』、そしてその中間にあって、そんなに名作っぽく作られているわけでも、そんなに気楽に作られているのでもないのが『麦秋』だと指摘した。

 これら5本のうちで、『東京物語』以外は、みんな娘が嫁に行くとか行かないとかいう話で、配役もおもしろくて、『晩春』では、笠智衆が父で原節子が娘だが、『麦秋』では笠智衆が兄で原節子が妹、『東京物語』では『麦秋』でバアサンをやっていた東山千栄子と笠智衆が夫婦になってる。そんなわけで、一本一本見るというよりこの5本を繰り返し見るのがおもしろいんじゃないか、そして、更に、こういうのを繰り返し見た人たちが集まって、あれ、『麦秋』の笠智衆って原節子の何だっけ? なんて言いながらおしゃべりするのがおもしろいと思うって言っていた。

 なるほどなあと思った。小津映画のファンなら、笠智衆や原節子がどの映画で何の役をやっていたかなんてことは、間違いなくスラスラと言えるぐらいのことは当然なのかもしれないが、間違いなく知っているからといって、別段偉くもなんともない。いや、「エライ!」って言って褒めてくれる人はいるかもしれないが、だからといって、それで格別にシアワセになれるわけでもない。いやむしろ「エライ!」って褒めた人も腹の中では「なんだこいつ。知識をひけらかしやがって。」って腹立ててるかもしれない。

 ものごとがゴチャゴチャに混線して、よく分かんなくなってしまい、ああだ、こうだ、そうじゃない、ちがう、なんてことになるから、話は続くし、その中で「正確な知識の絶対的な価値」を信じてやまない人間でもいないかぎり、会話は楽しいものになり、その結果、ぼくらはシアワセになれる。

 そういえば、その昔、小説家の辻邦生が映画についてのエッセイの中でスピルバーグの『激突』に触れて、あの映画は素晴らしいと褒めた後で、なにしろ海沿いの一本道を走っていて逃げ場がないのだから怖い、って書いているのを見て、心底呆れたことがある。『激突』には一秒だって海なんて出てこないからだ。エッセイを読んだ時は、ただただ呆れ、この人ちっとも映画をちゃんと見てないじゃないかと腹を立て、それ以来、辻邦生をあんまり信用しなくなってしまったのだけれど、あれが、一杯飲みながらの会話だったら、大いに盛り上がっただろうと思う。

 オマエ何言ってんだ、『激突』のどこに海が出てくるんだ、砂漠じゃないか! って言うと、辻が、え? そうだっけ? ってびっくりして、ああ、そうだ、海辺の一本道が出てくるのはヒッチコックの『鳥』のラストシーンだった、なんて弁解し、そういえば『鳥』と『激突』とどっちが怖いと思う? なんて話が発展していったかもしれないではないか。

 年をとると、固有名詞がちっとも出てこなくて、何を話していても、固有名詞で話がストップしてしまい、話が断片化してしまうのだが、それもちっとも困ったことじゃなくて、混線してしまった知識が別の話題への導入となったりして、話題が固定化するのを防いでくれることとなり、結果として、会話がいつまでも続き、シアワセになれる。

 映画について語るにしても、別に映画評論で食っているわけじゃない限り、どんなに勘違いしたって、どんなに的外れな感想を述べたって、ぜんぜん問題にならない。せっかく楽しい映画について語るなら、どんどん混線して分からなくなっていってしまって、えもいわれぬシアワセな時間をこそ味わうべきなのであろう。





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100のエッセイ・第10期・96 『海街diary』あるいは「見ること」の難しさについて

2016-09-08 09:49:03 | 100のエッセイ・第10期

96 『海街diary』あるいは「見ること」の難しさについて

是枝裕和監督(撮影・山本洋三)2016.9.6

2016.9.8


 

 見ること、読むこと、聞くこと、いずれも簡単そうで難しい。この中では、「読むこと」がいちばん難しいと一般には思われている。学校教育の「国語」では、その大半を「読解」に力を入れているが、それでもなかなか思うように成果が上がらないのは、「読むこと」が難しいからだろう。だからこそ、毎年のようにコムズカシイ「読解問題」が、入学試験で学生を悩ませているわけである。

 その反動というわけでもないだろうが、「見ること」「聞くこと」は、それほどまでの「難解感」を伴わない。巷でよく言われるのは、読書というのは想像力を働かせなければならないから能動的な行為だが、テレビや映画を見るというのは、映像が既に示されていて想像力を働かせる余地もないから受動的な行為だ、というような典型的な俗説で、例えば、もう30年近くも前のことだが、向井敏は「サラリーマンの知的生活の敵」として3つをあげている。1つ目は、「仲間とのつき合い」、2つ目は「テレビ」、そして3つ目には「映画・演劇・音楽」。3つ目が「敵」である理由を「これらはみな向こうから流れてくるもので、何の努力もいらないからダメ」なんて言っている。近頃ではさすがにこうした馬鹿げたことは誰もまともに受け取らないだろうが、案外、無意識のうちにこうした俗説が潜んでいるかもしれないから注意が必要だ。

 「読むこと」が難しいことに今も昔もかわりはない。意味不明な文章が難しいというのではなくて、ごく簡単な短い文章でも難しいということは、たとえば、芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」の十七文字の「読解」ひとつとっても、それが何を意味しているのか、作者はどういう気持ちでこう書いたのか、イメージはどうななのか、池の広さはどれくらいか、蛙は何蛙か、蛙は一匹なのか複数匹なのか、などこれをめぐる疑問は次から次へとわき出てくる始末で、短くてすぐ読めるから楽だ、なんてとうてい言えない。

 しかし、「見ること」「聞くこと」は、それ以上に難しいと言わなければならない。「聞くこと」はこの際さておいて「見ること」の難しさだ。

 特に映画の場合、人は「ああ、その映画見た。」って簡単に言うけれど、それは、映画館なりリビングなりで、その映画の映像を「目にした」ということであって、ほんとうに「見た」とはいえないケースがほとんだ。映画館で見た場合と、リビングでテレビ画面で見た場合では、また全然「見た」内容が違ってしまうということはさておいても、映画館で見た場合も、やっぱりぼくらが映画を「見る」ことは本当に難しい。

 それはそうなのだ。作る側は、何ヶ月も、場合によっては何年もかけて作った映画を、たった一度スクリーンでぼくらが見ただけで、その「すべて」を受け取るなんてことができるわけがない。目はスクリーンに釘付けになっていても、ぼくらはほとんどを見落としている。いや、「ぼくら」なんて言っては失礼だから「ぼくは」と言い換えよう。

 先日、是枝裕和監督の『海街diary』を、鎌倉芸術館で見た。ミニコミ誌『鎌倉朝日』の450号記念行事として鎌倉では初めての上映会があったのだ。その上映会で、映画の後、是枝監督のトークがあったのだが、そのお話を聞いて、やっぱりちゃんと見てなかったなあという実感を持ったのだった。

 ぼくはこの映画は初見だったのだが、日頃見慣れている鎌倉の風景の中に展開される心あたたまる物語に魅了された。この映画の制作中に、極楽寺近辺で植物や江ノ電の写真を撮っているときに、撮影現場に遭遇したことがあった。その時は、何の映画の撮影だろうと思って、俳優の姿を探したが見当たらなかった。もっと熱心に探せばナマ綾瀬はるかを見ることができたのにと悔しい思いをしたのは、その後極楽寺に住んでいる知人に「あれ何の映画?」って聞いたときだった。後悔先に立たずだ。(これは余談だが、監督によれば、朝早く、極楽寺の橋の上で綾瀬はるかが一人たたずむシーンを撮ったとき、橋の上には、江ノ電を撮りに来ていたテッチャンがたくさんいたが、すぐそばに「綾瀬はるか」がいるのに、彼らは「まったく興味を示さなかった。」のだそうだ。ぼくも相当なテッチャンだが、そういう「偏狭な」テッチャンではないことをここで声を大にして言っておきたい。)

 それはそれとして、是枝監督の話にこんなことが出てきた。

 映画に出てくる木造二階建ての家は、実際に北鎌倉で見つけた家で、その家を季節ごとにまるごと借り切って、住人の方にはその時期はウイークリーマンションの住んでいただいた。セットではないので、窓の外の庭に風が吹く様子もよく撮れた。ある場面では、人物の背後に蝶が飛んでいくシーンも撮れたんですと監督は嬉しそうに語った。

 ああ、その風もきっと見ていたんだろうけど、風が吹いてるなあと思って見ていなかった。蝶にもまったく気づかなかった。

 また監督は、ラストシーンについてこんなことを語った。

 ラストで4人が海岸を歩いていくわけですけど、その日は曇っていてどんよりしていたわけですが、ほんとうにもうフィルムがもう少しで終わってしまうという頃になって、明るくなってきたんです、ああ、終わるなよ、終わるなよって思っているうちに、フィルムが終わりそうになると鳴るカタカタという音が聞こえてきたのですが、フィルムが終わる直前に、日が差して波が一瞬キラキラって光ったんです。そしてフィルムがカタッと終わってしまったんですが、ちゃんとそのキラキラも映っていたのでとても嬉しかったです。

 ああ、見てなかった。ぼくは、4姉妹の姿ばかり見ていて、画面がだんだん明るくなってきて、波が光り始めたなんて、ぜんぜん気がつかなかったなあと、ため息ついた。

 その上映会のお手伝いをした関係で、その夜、監督を囲む宴会に参加するという幸運に恵まれ、たまたま隣に座った監督に、いろいろ質問することができた。トークの中で気になっていたので、どうしてフィルムで撮ったのかと聞いてみた。「やっぱり画質ですか?」という問に、そうですと答えて、まあ今時フィルムで撮ってる監督さんは4〜5人だと思いますけど、やっぱりフィルムの画質が魅力的なので。それに、フィルムが終わる時なるカタカタっという音が好きなんです。デジタルで撮ればそんなことはないんですけどね。いろいろな調整なども、デジタルで撮れば後でどうにでもなりますから、仕事がどうしても、先送りになる。電信柱が気になっても、後でデジタル処理すればいいやっていうことで、現場の作業が雑になる。それがどうも嫌でね。まあ、フィルムで撮っても、デジタルに落とすわけですから、後処理もできるわけですがね。

 同席した人が質問した。「映画作りの中で、どの作業が一番好きですか?」監督は、わりとすぐに「編集ですね。」と答えた。

 意外だった。そういえば、この映画は、監督、脚本、編集がいずれも是枝裕和だった。「編集」は普通は監督がしませんよねよ言うと、ええ、でも編集作業がとても好きなんですと目を輝かせた。監督は、ドキュメンタリー映画の作家でもあったので、編集は自分でするということが自然だったということでもあるらしい。

 また同席していた別の人が聞いた。「監督は、映画を作るとき、どのようなことを大切にされていますか。」監督は、しばらく黙って考えていたが、「先日、アニメの監督の細田守さんと対談をしたんですが、その時、細田さんが『ぼくは、見た後に、ああ、生きていたくないなあ、と観客が思うような映画だけは作りたくない。』っておっしゃったのですが、ぼくもまったく同じです。(註)」と静かにきっぱりと答えた。

 「生きる勇気を与えるような映画」とか「心があたたかくなるような映画」とか言わず、否定形で語るところに、細田守監督、そして是枝裕和監督の誠意を感じたのだった。

 「見ること」は難しい。でも難しいからこそ、よく見なければならない、あるいは何度でも見なければならない。言い方をかえれば、何度でも繰り返し見たくなる映画、それが、その人にとっての「大切な映画」ということになるだろう。そういう意味で『海街diary』はぼくにとっての大切な映画になった。そんな映画をこれから何本手に入れることができるだろうか。まだまだ楽しみである。


 



(註)

上の紫字の部分は、酔っ払って聞いていたぼくの勘違いでした。あやしいなと思ったので、対談の載っている「SWITCH」2016年9月号を買い求めて調べたところ、細田監督の言葉に対して是枝さんがこう答えています。

「ぼくも自分で映画を作っていて、観た人が人間であることが嫌になるようなものだけは作るまいと思っています。」

これに対して、細田さんは、「でも表現としてはあり得るんですよね。」と発言。それに対して、是枝さんは、こう答えています。

「あり得ます。あってもいいと思うんです。でも自分が作るものはそれではない。それは自分の中にある倫理観なのかもしれません。それがおそらく僕が細田さんの作品にシンパシーを感じる一番の大きな理由なのかなとも思います。人間に対する肯定感。その根拠みたいなものが今日お話をして少し解けたような気がしました。」




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