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木洩れ日抄 113 ポップコーンと映画

2024-10-08 20:12:46 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 113 ポップコーンと映画

2024.10.8


 

 近頃、ほとんど映画館に行っていない。見たい映画がないわけじゃない。むしろ山ほどある。けれど、2時間、映画館の座席に座っていられる自信がないのだ。トイレの問題である。年をとったからということもあるかもしれないが、けっこう昔からこれが問題だった。2時間を越えるともういけない。あと30分がどうしても我慢できずに、席を立ってトイレに走ったことが何回もある。

 なんていう映画だったか、タルコフスキーだったか、誰だったか覚えていないのだが、最後の方で、えんえんと葬式だかなんだかの行列がゆっくり踊りながら進むシーンがあって、そのときもう限界となってしまって、トイレに走っていったのだが、帰ってきたらまだその行列のシーンが続いていたということがあった。それならそれでいいのだが、進行の早い映画だと、やっぱり困る。

 で、2時間越える映画は行かないことにしたが、そのうち、2時間越えない映画も行かなくなってしまって、今に至るわけである。

 トイレだけではない。割と最近行った映画館では、場内はガラガラなのに、すぐ近くに座った若い男が、上映中ず〜っと、ポップコーンを食べていて、気になってどうしようもなかった。いったいどうして映画を見ながらポップコーンを食べるのだろうか、と長いこと疑問だったのだが、あれは、映画館が収益を上げるためだということをどこかで読んだ。あれを売らないとやっていけないというのだ。そんなことってあるだろうか。しかしまあ、ポップコーンっていうヤツは、ほんの少量のコーンが大量のポップコーンに変身するわけだから、綿菓子と同じで、ボロもうけの商品であるから、頷ける話ではある。

 そういえば、ぼくが子どもの頃の映画館では、映画の合間に(もちろん3本立てとか2本立てだったので)、「おせんにキャラメル〜」とかいって、売り子が歩いていたものだ。キャラメルはともかく、おせんべいは音がうるさかっただろうが、ポップコーンのように長持ちしないから、「音害」は少なかったかもしれない。

 あの頃は、映画館の中はもちろん「禁煙」なんかじゃなかったから、映写機から一筋流れる青っぽい光には、タバコの煙が得も言われぬ渦模様を描いていて、映画の中身より、そっちにうっとりしていたのかもしれない。

 今じゃ映画館も、1本終わると外へ追い出される世知辛さだが、ぼくが大学生のころは、ロードショーであっても、何度でも見ることができた。だから映画が始まって1時間も経ったころに入って、終わりまで見て、そのまま座っていて最初から見て、あ、ここからは見たというところで外へ出るということもずいぶんあった。それでちゃんと見た気分になれたのだから不思議である。ネタばれなんてもんじゃない。

 最初から入ったのに、2度見たことも何度もある。ぼくが大学生当時、つまり、1970年前後は、特にイタリア映画がやたら元気で、パゾリーニやら、ビスコンティやら、フェリーニやらといった大御所の新作が続続と公開された。映画館は、日比谷にあった「みゆき座」とほぼ決まっていた。パゾリーニの映画なんて、一度見ただけじゃさっぱり分からないものがあって、「テオレマ」などは、その最たるもので、2度見た。それでも分からなかった。

 その最後のシーンときたら、主人公の男が、駅で突然全裸になって、両手を挙げて叫びながら歩いていくというもので、最前列で見ていたぼくの隣に座った若いサラリーマン風の男たちが画面を指さして大声でゲラゲラわらったのをよく覚えている。そのシーンは、砂漠を裸で歩いていく男とモンタージュされるので、意図はむしろ分かりすぎるのだが、そこまでの展開がワケ分からないので、男たちがゲラゲラ笑ったのも、しょうがないかもしれない。

 しかし、そんなことより、あの「みゆき座」が、最前列まで埋まるほど人に溢れていたことが、むしろ驚きをもって思い出される。パゾリーニなんぞという、今からすれば、超マニアックな映画監督の作品でさえ、みんな、サラリーマンも学生も、押しかけたのだ。あの熱気は、いったい何だったのだろう。

 パゾリーニを、ポップコーン食べながら見てるヤツなんて、どこにもいなかった。そんなもん食べてる暇はなかった。あの頃は、みんな映画を食べていたのだ。

 


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木漏れ日抄 112 『光る君へ』──みとれてしまう

2024-10-05 14:33:24 | 木洩れ日抄

木漏れ日抄 112 『光る君へ』──みとれてしまう

2024.10.5


 

 『光る君へ』を見ていて、一番感じるのは、とにかく画面がキレイだということ。昨今のテレビの性能のせいもあるけど、とにかく美しいの一言だ。

 誰かがどこかに『光る君へ』のよさは、「画面の明るさ」だということを書いていたけど、同感だ。ほんとは、当時の部屋の中などは、薄暗かったに違いない。御簾(みす)なんかおろしたら、電灯を消してカーテン閉めきってるようなもんで、部屋の奥なんてどうなってるかわからないほど暗くて、人の顔なんかよく分からなかったろう。まして、やんごとなき天皇のご尊顔など、うすぐらさの中にぼんやり見えた程度じゃなかろうか。

 それが、一条天皇など、その超イケメンのお顔が、まるでレンブラント光線にでも照らされているかのように(これも誰かが言っていたっけ?)、やわらかく、しかも、はっきりと見える。照明スタッフの努力の結晶だ。しかも、それがちっとも不自然に感じられない。

 ネット界隈では、きっと、「平安時代の部屋の中ってもっと暗かったんじゃね。」みたいな言葉が飛び交っているに違いない。そういうことをしたり顔にいう輩が最近多いが、じゃあ、当時と同じくらいの明るさ(暗さ)で画面を作ったら、それでいいのかってことだ。そんなの見ちゃいられないだろう。なんにでも、「そのころはそうじゃないだろ」って言わずにはいられないのは、昨今のネット民だが、そんなことより、そんなことは百も承知のうえで、では、どうしたらより美しく、また当時の現実感を再現できるだろうかと考えるところにドラマ制作の醍醐味があろうというものではないか。

 まあ、そうはいっても、けっこう「うるさ型」のぼくだが、かのネット民ほどの違和感を感じないのは、あの明るさが、『源氏物語絵巻』の再現に違いないと思うからだ。『源氏物語絵巻』を見ると、どこにも影なぞない。部屋の隅々までくっきりと見える。あれだ。

 そればかりではない。『源氏物語絵巻』は、斜め上からの構図をとることが多いが、それを意識したのか、ある回で、女房たちの「局(つぼね)」を、真上から移動撮影した。このシーンには驚き、感動した。そうか、「局」って、こういう構造になっていたんだとか、思っていたよりずっと狭くて、隣の女房のイビキまで聞こえてきたんだとかいったことが分かってすごくおもしろかった。この「局」の「思っていたより狭い」ということは、脚本家もびっくりしたのか、確か藤原道綱に、「へえ、ずいぶん狭いんだね。」みたいなセリフを言わせている。ぼくも道綱に共感した。

 このドラマの美術スタッフは、『源氏物語絵巻』とか、その他の絵巻物を丹念に調べ、部屋の構造から、調度品や衣装まで、細かい時代考証をしてそれを丁寧に映像化していてとても貴重だ。いくつかのそうしたシーンを短い動画として、『源氏物語』などの授業で見せたいくらいだ。「図録」などより、どれだけ分かりやすいかしれない。

 庶民の暮らす「郊外」の明るさも印象的だ。(『信貴山絵巻』とかいった絵巻物などを参照しているのだろうか。)「まひろ」が、ひょいひょいと出かける「郊外」では、芸能者たちが藤原氏をおちょくる歌を歌って舞う。それをおもしろがって見物する「まひろ」。貴族たちの住む邸宅の周辺には、そうした「郊外」が広がっていたことも、「室内劇」中心の『源氏物語』ではイメージしにくい。もっとも、「夕顔」の巻などでは、そうした「郊外」にある廃屋が舞台となるのだが、宮廷との物理的な距離感が、なかなかつかみにくいものだ。

 そんな意味でも、平安時代の物語を読むうえで、とても参考になるドラマなのだ。

 光があれば影もある。このドラマの影もまた美しい。「五節の舞」のシーンなどは、光と闇のコントラストが素晴らしく、まさに色彩の饗宴で、思わず見とれてしまった。道長と「まひろ」がともに過ごす月夜の晩とか、石山寺でであった二人が結ばれる夜とか、闇そのものも美しく表現されている。これもみとれた。

 毎回「みとれる」、『光る君へ』である。

 

 

 


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木洩れ日抄 110 お財布忘れて

2024-09-24 20:56:38 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 110 お財布忘れて

2024.9.24


 

 やっと涼しくなったので、今日こそはと思って、鎌倉へ出かけた。カメラは何にするか、レンズはどれを使うかといろいろ考えたが、まだ早いとは思うけど、英勝寺のヒガンバナの様子でも見てこようかと思って、上大岡から地下鉄で戸塚まで、それからJRで鎌倉へ、といういつものコース。

 ところが、地下鉄車内で、ふとカバンの中に財布が入っていないことに気づいた。ポケットを探ったら10円出てきたけど、現金が10円しかないとなると、英勝寺の拝観料が払えない。英勝寺は小さな尼寺で、入口に尼さんがいて拝観料を払うのだが。PayPayなど見た記憶がない。やっぱり現金のみだろう。ああ、どうしよう、尼さんに頼んで今度来たときには倍払いますから何とか入れてくださいと頼もうか、なんかOKしてくれそうな気もするけど、あまりにカッコ悪いしなあ、と、あれこれ考えた。

 たぶん、円覚寺なら、受付も大きいから、PayPayとかSuicaとかが使えるかもしれないけど、北鎌倉となると、どうしたって、浄智寺には行きたい。しかし浄智寺の受付も、PayPayやっている雰囲気じゃないから、現金だけだろうなあ。ああ、どこかに500円玉でも落ちてないかなあなどと思っているうち、まあ、スマホで電車には乗れるから、とりあえず、江ノ電に乗って、海でも撮ろうと決めた。

 江ノ電は、そんなに混雑してなかったので、稲村ヶ崎あたりまで行ってみようかと思ったけど、雲が多いので、海もイマイチな感じがして、そうだ、あんまり好きじゃないけど長谷寺なら、商業主義的で、自動チケット売り場もあるから、Suicaあたりで決済できるはずだと思って、久しぶりに長谷で降りた。さすがに、インバウンド人気で、人通りも多い。歩いているうちに、そうだ、長谷寺に行く前に、ぼくの好きな光則寺によっていこう。たしか、あそこは拝観料が無料だったはずだと思って、そっちに向かった。

 しかし、光則寺は、受付はないけど、山門の下に賽銭箱のようなものが置いてあり、「入場料」(ってとこがおもしろいね。長谷寺に比べると商売っ気ゼロ。)100円を入れてくださいと張り紙があった。そうだった。何度も来ているのに忘れてた。でも、ここでは知人主催で、落語会もやったことあるし、住職とも多少面識がある。こんど来たとき、倍払おうということにして、入った。ここの庭は、雑然としているところがいい。英勝寺と似ている。

 あちこち写真を撮っているうちに、そうだ、この寺には、元同僚(この方が、ここでの落語会を主催したのだ。)の息子さんのお墓があるんだった。お彼岸だし、お参りして行こうと思った。お寺の裏に広がる墓地は結構広く、息子さんのお墓は前にもお参りしたことがあるのに、探すのに苦労したけど、なんとかお参りをすますことができた。

 お参りをおえて、庭においてある大きな石に座って、コンビニのおにぎり食べながら、しみじみと元同僚の息子さんを偲んだ。なくなったのは、15年も前。ずいぶんと時が経ったものだ。財布を忘れたのも、結局ここへ来るためだったのかもしれないと、ふと思った。

 長谷寺は、Suicaで支払えたけど(400円)、やっぱり、おもしろくなかった。光則寺や英勝寺の趣がなく、観光の寺だ。観音像は立派だけど、境内にオシャレなレストランなんかいらない。

 長谷寺を出るとき、江ノ電でも撮りながら帰ろうと思って、それまで使っていた50mmf1.2のレンズを外して、ズームレンズにかえようとしたら、ズームレンズの片方の(フィルターつける方じゃない方)の、レンズキャップが外れない。どんな力を入れても外れない。こんなことは初めてだったが、ま、しょうがない。もうメンドクサイから写真は今日はおしまいということにして、長谷駅に行ったら、ホームで、何人ものジイサンが一眼レフを構えて電車が入ってくるのを待っている。黄色い線は越えてないけど、なんか、身を乗り出した彼らの姿が、いい年してみっともなく感じて、江ノ電なんか、いいかげんにしておいたほうがいいなあと思いつつ、帰途についた。キャップが外れなかったのも、江ノ電なんかやめておけということだったのかもしれない。

 ちなみに、外れないキャップをどうにかしてもらえないかと、帰りがけに、ヨドバシに寄ったら、売り場のオニイサンが、思い切り力を入れてもやっぱりはずれない。おかしいなあ、こんなの初めてですよ。これ以上力を入れると、レンズを壊してしまう可能性がありますから、修理に出されたほうがいいと思いますよというので、修理のカウンターに持っていったら(と書いたけど、実際には、修理に出すにもヨドバシのポイントカードがあったほうがいいから、忘れてきた財布をとりに家にもどってからまたヨドバシにいった。メンドクサイことである。)、そこのオニイサンもうんうんやっていたけど、ダメですね、じゃあ、修理に出しましょうといいながら、もう一度、ちょっとキャップに触ったら「あ、とれた!」っていうので、びっくりした。ぜんぜん力を入れてないのにみごとに外れた。そうか、力を入れすぎたから外れなかったのかと思ったけど、不思議なことである。

 まあ、なんだかんだと、近頃は、何をやるにしても思い通りにはいかない。若いころの倍の手数がかかる。こうやっているうちにも、どんどんと年を取っていくのである。

 

 


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木漏れ日抄 109  『光る君へ』──発見と感動

2024-09-23 19:22:33 | 木洩れ日抄

木漏れ日抄 109  『光る君へ』──発見と感動

2024.9.23


 

 昔は、大河ドラマはあんまり見なかった。歴史物が苦手ということもあったが、セットがチャチというのも理由の一つだった。山道を歩いているのに、明らかに板の上を歩いている音がするといったチャチさが我慢ならなかった。

 ポツポツと見るようになったのは、『龍馬伝』あたりからだったろうか。『真田丸』も見た。その後、また見なくなって、『鎌倉殿の13人』に至って、初めて本気で見た。「予習」までしたくらいだ。それまで「武士」とか「武家政治」とかいったことを、なんとなく知っているつもりでいたが、「予習」していくうちに、そうか、「武士」ってこういうふうに発生したのね、というような発見に満ちた本が何冊もあって、すごく勉強になった。そのうえで、『鎌倉殿の13人』を見ると、鎌倉武士というものがそれまでのイメージとぜんぜん違うものに見えてきて、楽しかった。(というか、ぼくの勉強不足にもほどがある、だよね。)

 しかし、その勢いで見た『どうする家康』は、安手のCGばかりで、なんとかの戦いとかいっても、いつも同じ山中で数十人が戦っているばかりで、これならかつての戦国ものの大河のほうが数段マシだと思われた。ただ、家康の人物像には新しい知見が盛り込まれていたようで、おもしろかった。

 で、今回の『光る君へ』である。平安時代の大河なんて、しかも、紫式部が主人公なんて、いったいどんな変なドラマができるのかと思うと見る気がしなかった。大昔の、長谷川一夫だったかが光源氏を演じたらしい映画が見てもいないのに思い出されたりして、げんなりするばかりだった。

 ところが、青山高校時代の教え子の娘さん(見上愛)が、なんと彰子中宮役に抜擢されたと聞いて、これは見なければ、せめて、まだ新人の見上愛が、彰子中宮などという大役をどう演ずるのかだけでも見届けなければ、と思って見始めたのである。
見始めて数回で、これが稀代の名作であることを確信した。すでに、35回を終えたドラマだが、とにかく、ぼくには発見と感動の連続である。

 書きたいことがありすぎて、どこから書いたらいいのか分からないほどだが(だから、これからポツポツと時々書いていくことにするが)、何よりも、ぼくがびっくりして感動したのは、「紫式部が、『源氏物語』を書いている」シーンである。なんだそんな当たり前のことかと思われるかもしれないが、自慢じゃないが(十分自慢だけど)、ぼくは、『源氏物語』を今まで2回原文で通読してきたのである。さらに自慢すれば、「桐壺」とか「若紫」とかは、その一部ではあるが、何十回となく授業で読んで来たのである。一時間でたった2〜3行について細かく読むことさえしてきたのである。「桐壺」冒頭なんかは、今でも暗記できるほどなのである。(ま、元国語教師ならそれぐらい当たり前だけど。)

 そのぼくが、このドラマを見るまで、紫式部が筆を持って「源氏物語」を執筆しているシーンを想像したことすらなかったことに気づいたのだ。紫式部が、『源氏物語』の作者であることは、確かなことだ。一時は、「宇治十帖」の作者は紫式部ではないと与謝野晶子が言ったりしたことがあったが、それも今では大方否定されているようだ。

 『源氏物語』の作者は紫式部であり、『枕草子』の作者は清少納言である。『蜻蛉日記』は、藤原道綱の母が作者であり、和泉式部は『和泉式部日記(あるいは和泉式部物語)』を書いた。そんな文学史的な「常識」を、何の疑いもなく、古文の授業ではとうとうと話してきたのに、彼女らが、それらの文章を「書いた」のは、何故だったのか、どこから「書く」ための紙を手に入れたのか、などということに思いを巡らせたことがなかったのは、いかにも不可解だった。

 その不可解さを、大学時代の旧友に話したところ、彼の反応も、さすがにぼくほどではなかったけれど、似たところがあった。

 日記はともかく、物語となると、『宇津保物語』にしても、『夜半の寝覚め』にしても、『浜松中納言物語』にしても、多くの物語の作者は、いろいろ説があるけど、定説がないからねえ。だから、物語って、「まずそこにある」ものとして考えちゃって、誰が何のために書いたかというようなことは、昔はあんまり話題にならなかったんじゃないかなあと彼は言う。

 ぼくらが源氏物語の読書会をやったのは、大学時代のことで、それからもう50年以上も経っている。源氏物語などは、もう研究されつくされてしまっているんじゃないかと大学時代はなんとなく思っていたけど、実は、その後、様々な研究がなされてきたのだった。それも知らずに、旧態依然たる「源氏物語観」から抜け出せないままに、『光る君へ』を見て、愕然としたのも当然だろう。

 ちなみに、ぼくらが大学生だったころの文学研究のトレンドに、「分析批評」というのがあって、それは、文学作品の歴史的な背景とか、作者とかいったものを「無視」して(ちょっと乱暴な言い方だが)、とにかく「文章そのもの」だけを、純粋に、分析的に読んでいくという研究方法だった。『古文研究法』で有名な小西甚一先生などがその急先鋒だった。(先生の講義も直接伺った。)だからというわけでもないだろうが、『源氏物語』に関しても、紫式部本人にスポットを当てて研究するということはあまり盛んではなかったのかもしれない。その影響もあってか、あえて、「作者」に注目しなかったのだ、と一応言い訳することはできる。

 『光る君へ』には、もちろん史実とは認めがたいフィクションも多くある。しかし、これはフィクションでしょと思ったことが、実は学問的に裏付けられていることが非常に多いことを知って、びっくりしたのだった。

 これは、気鋭の国文学者山本淳子の『紫式部ひとり語り』(角川ソフィア文庫)や『枕草子のたくらみ』(朝日選書)を読んだことにもよる。これらの本を読んで、そうか、こんな研究があり、こんな論文の書き方があったのかと感嘆するとともに、脚本家の大石静がこれらの研究を熟読していることも確信したのだった。

 それにしても、『源氏物語』は2度も通読したのに、『枕草子』を通読したことがないという不勉強がいけないのだが、清少納言が「はるはあけぼの…」の段を「1枚の紙」に書いて、定子へ渡すために、御簾の下から差し入れたシーンの美しさに、思わず息を飲んだ。そうか、この文章は、こんな思いで書かれ、こんなふうに定子に渡されたのか、と思うと、心がふるえた。実際にはその通りではなかっただろう。これは「一つの説」に過ぎないのかもしれない。しかし、十分にありえたシーンだろう。

 『枕草子』が、今では文庫本でも手軽に読める時代とはまったく違って、「出版」ということもなく、紙も簡単には入手できない時代、文章を書くということの意味も今とはまったく違っていたのだ。そんなことは当たり前のことで、ぼくだって、そのくらいのことは「知って」いた。けれども、「知っている」ことが、単なる「知識」であっては不十分なのだ。「ありありと、体験したかのように知る」ことが大事だ。だからこそ、歴史ドラマには意味がある。と同時に、危険性もある。歴史考証がいい加減だったら、「誤った知識」が定着しかねない。フィクションとしての「歴史ドラマ」の限界もあるわけである。

 今回のドラマにも危うい点がいろいろある。視聴者が「フィクション」であるということの意味をしっかり理解せずに、そのまま「史実」として受け取ったら困るという点もある。昨今のSNSの反応などを見るにつけ、その点の理解が驚くほど浅いことにも驚かされているのだが、それはまた別の機会にしたい。

 ぼくがこのドラマを見始めたころの最大の興味は、見上愛の演技にあったことはすでに書いたが、もうひとつが、紫式部がいったいどのようにして「文学(物語)」に目覚め、どのようにして『源氏物語』執筆に到ったのかという大きなテーマを、脚本家の大石静がどのように描くかということだった。いわば「文学の誕生」の物語である。こんなテーマの大河ドラマがかつてあっただろうか。

 そして結論的にいえば、見上愛は、ぼくの想像を遙かに超えた演技力で彰子中宮を演じつづけているし、『源氏物語』は、見事に誕生し、さらに『紫式部日記』が、なぜ彰子の出産シーンから書き起こされたのかまで「解明」されている。見事なドラマというほかはない。

 まだ、最終回までは、時間がある。最後の最後まで、しっかり見届けたいと思っている。

 

 


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木洩れ日抄 108 おもしろい絵を……

2023-12-28 21:13:44 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 108 おもしろい絵を……

2023.12.28


 

 姚小全先生(ぼくが、6年ほど前から師事している中国書画の先生)曰く、「上手な絵ではなく、おもしろい絵を描きなさい」。字もまた同じ。上手な字は「お習字」で、決して「芸術」ではない、とも。「手が震える老人のような線で、字も、絵もかけ。」と中国ではよく言われるそうだ。

 先生自身が目指しているのは、とにかく「趣ある絵」であり、字だ。それで、いつも先生は悩んでいる。悩んでいる姿をいつも生徒の前にさらしている。これは、最高の教育だ。何に悩んでいるのか、それが分かれば、生徒の目標が自ずとできる。

 人物の顔に色をつけるとき、少量の絵の具を筆につけて、「塗る」のはダメで、水分たっぷりの絵の具をつけて「染める」こと。そうする絵が「うるうるしく」なるという。先生は日本語がかなり上手だが、なかなか覚えられない言葉もある。それが「みずみずしい」という言葉で、何度かお教えしたがダメで、いつも「うるうるしい」と言う。分かるからそれでいいんだけど、初めて習う人は面食らう。

 「すぐろい線を描きなさい」という言葉を、習い始めて数年間、どういう意味だろうとずっと考えていたが、ある日、「すぐろい=するどい」だと気づいて、そう伝えたら、そうそう、そうだよということで、長年の胸のつかえがおりたこともある。しかし、言葉が分からないということは、そう悪いことでもなくて、分からないからその言葉が気になり、忘れっぽいぼくでも、いつでも覚えている。「すぐろい線を描かなくちゃ」って思うわけだ。そう思うと、先生の声まで聞こえる気がする。

 賛を描くときも、上手に書いてはダメ。そうすると、字が目立ってしまって絵を台無しにしてしまう。枯れ木が描かれている絵なら、その枯れ木のような線で、字も書くこと。字と絵が調和するようにすること。落款も、読めなくたっていい。趣深く、おもしろく書くことが大事なんだ。

 あるとき、高齢の(といっても、ぼくより少し年上にすぎなわけだが)生徒さんが描いた絵に、その方の奥さんが賛を書いてきたことがあった。その奥さんというのは、個展をするほど書歴の長い人で、とても上手に書いてあったのだが、それを見て、先生の言う意味がはっきり分かった。絵と書が完全に分離してしまっていていたのだ。旦那さんの絵を、奥さんの達筆が、「台無し」にしてしまっていた。つまり、書と絵の雰囲気があまりに違いすぎたのだ。

 ことほどさように、絵と書は、むずかしい。ぼくは書が決して上手ではないのだが、それでも、先生は、あなたの書は「慣れすぎている」から、そこから抜け出さなければダメだと言う。

 じゃあ、下手にかけばいいのかと思って、いい加減にかくと、「もっと気をいれろ」とおっしゃる。「気を入れて」しかも「下手にかく」なんて、どうやったらできるの? 

 あなたは教師だったから真面目。だからダメなんだ、と言われてこともある。これじゃ身も蓋もない。教師としては決して真面目じゃなかったのだけれど、「根が真面目」なことは確かだ。家内に頼まれたことなど片っ端から忘れまくって、年中叱られているような男のどこが「真面目」なのかという話だが、「真面目」の方向性が違うのだろう。

 むずかしいなあ。絵を描くにしても、字を書くにしても、あるいは写真を写すにしても、どこか枠にはまっていて、自由になれない。奔放になれない。これはぼくの生まれつきの性格というよりは、中高時代の「悪しき教育」のせいだとしかいいようがない。

 なにしろ、徹底的な規則づくめの生活指導で、そこから逸脱することなんか許されなかった。といっても、平気で逸脱するヤツも当然いたわけだが、小心者のぼくには懸命に規則に従うしか生きる道はなかったのだ。そのくせ、昆虫採集に熱中しだした中3のころからは、「勉強すべし」という規則を破りまくったわけだが、それでも心の中に染みついた「規則を守るきまじめさ」は、拭いようもなく、成人してからも、そこからなんとか自由になろうとして絶望的な「努力」をしたものだ。しかし、そんな「努力」をすること自体、矛盾してるとしかいいようがない。まあ、それでも、卒業して50年以上も経った今では、長年のボケにも磨きがかかって、すっかり「いい加減なジジイ」に成り果てているけれど、それでもなお、紙に向かって字や絵をかくとなると、その「まじめさ」がフツフツと指先からよみがえってくるというアンバイだ。

 今更うらんでもしょうがないが、そういう「教育」を教師として極力しないようにしてきたことも確かなので(ほんとか?)、それがせめてもの救いであろうか。「救い」かどうかは別としても、ぼくは人に「押しつけること」が大嫌いだったので、そうなるしかなかったのだ。ということは、結局、教師失格だったということであろう。

 とにかく、来年は、「芸術方面」では、自由・奔放を心掛けたい。「生活方面」では、真面目であろうとするしか道はない。なんだかどっちも無理な気がしてしかたがないのだが。

 

 


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