木洩れ日抄 101 変わった人
2023.1.29
「宇野浩二全集」第12巻「随筆」には「大阪」が入っていて、その無類の面白さを前回、前々回で紹介したところであるが、その後に、「文学の三十年」という随筆も収められている。田山花袋の「東京の三十年」に触発されたということで、田山のそれも十分に面白いのだが、宇野のそれは、今ではほとんど名の知られていない文学者や、学者などの素顔が、その独特の文体で生き生きと描かれていて、これまた倦むことをしらない面白さだ。
宇野は、しばらく、上野桜木町に居を構えるのだが、執筆に専念するために、「菊富士ホテル」に住んでいた。そのホテルとも下宿ともつかない宿は、木造3階建てで、40部屋ほどあったというから、なかなかどうしてたいしたものだ。そこの「住人」の一人増富平蔵という哲学者は(山本注:古書を検索すると、ショーペンハウエルの翻訳書がかなりヒットするが、本人の経歴などはWikipediaにもない。)、最初はごく平凡な人に見えたので、格段宇野の興味を引かなかったらしいのだが、だんだんその人が実に変わっていることが明らかになってくる。そのエピソードである。
私が、初めて、菊富士ホテルに、下宿人として、越した日は或る宮様の国葬が行はれた日であった。その日の午後、私が、上野の家から車で運んだ本箱その他の荷物の始末をしてゐると、突然、二階か(いや、もつと上の)三階あたりで、カンカンといふやうに聞こえる、すこし調子はづれの、実に調子の高い三味線の音が起こつた。それは、長唄の三味線らしいけれど、何かの唄に合はして弾いてゐるのではなく、ただ三味線を鳴らしてゐるといふだけの音であった。後で知ったのであるが、この時、三味線をひいてゐたのは、三階の隅の部屋の住人、ショオペンハウエル学者、増富平蔵であった。
恥ぢをいふと、私も、その頃、長唄のほかに、歌沢、小唄などを、三味線と一しよに、少しやりかけてゐたのであった。
さて、増富は、そのホテルに、その頃、もう五年以上住んでゐるといふ、四十何人の下宿人の中の最古参者であった。彼は、その頃、四十歳を越してゐたが、嘗(かつ)て一度も結婚したことがない上に、一人の女をも身辺に近づけたことがないといふ事であった。私は、食堂で彼と顔を合はすやうになってからも、一週間ぐらゐ口をきかずに過ぎたが、いつとなく、三階で、私の部屋の頭の上の二階を一つ越えた三階で、午前に一度、午後に一度、夕方に一度、と、規則ただしく三味線の音を響かせる人がその増富であると知った時分に、ある日、向かうから、突然、「あなたも三味線をおやりになるやうですね、何をおやりになるのです、」と、極めて平凡な話をしかけた。おなじ食堂の中ではあるが、彼と私はかなり離れたところに腰かけてゐたので、その間に席についてゐた他の客たちが一せいに新参の私の方を見たので、私はひどく閉口した。それに、彼の声の調子が、ちやうど三味線の音と同じやうに、すこし調子はづれで、甲高いのにも閉口したのであつた。
「ええ、別に、これといつて、……」と、私は、彼の、不仕附(ぶしつ)けと、平凡な問ひとに、いくらか軽蔑と、反惑を覚えて、わざと冷淡に答へた。
しかし、増富は、私の素気のない返事などを少しも気にしないで、自分はやり始めてからかれこれ二年になるけれど、実に、むつかしい、面倒なものである、あなたはさうは思はないか、といふやうな話をつづけた。その話の内容は、別に変つたところがないばかりか、むしろ平凡すぎる上に、その話す声が、前にいつたやうに、甲だかくて、いくらか調子はづれであったから、食堂にゐる他の客たちはときどき笑ひを漏らし、話相手である私も、答へながら、つい吹き出しさうになった。すると、話し手の増富も、話しながら、ときどき、白い歯を出して、笑った。
そのうちに、彼と私との、遠く離れた席からの、会話を消すほど、他の人々の話し声が盛んになったが、それでも、彼の甲だかい声だけが、他の大ぜいの人たちの声を突き抜けて、響きわたつた。さうして、やがて、彼は、喋りながら、食事をすますと、すぐ立ち上がつて、いつも彼の坐つてゐる食堂の一ばん奥の席から、人々のならんでゐる間を、さつさと通り抜けて行った。さうして、通り抜けながら、まだ終つてゐなかった話を、つづけた上に、それを、彼は、食堂を出て、一階へ上がる階段を踏みながら、まだ止めなかった。しかも、その間、彼は、誰にも会釈をしないのは勿論、一度も振り向かず、話しつづけながら、歩きつづけた。それを此方(こっち)から見てゐると、一階に上がる階段に上がつて行く彼の足が見えなくなるまで、彼の話し声は聞こえた。さうして、彼の姿がまったく消えてしまふと、後に残ってゐた人たちは、顔を見合はし、暫くしてから、やうやく、誰かが、「変つてゐますね。あの人は、」といふと、皆はどつと笑った。
それから、増富が如何に変つてゐるかといふ話や噂がいろいろ出た。──
(山本注:この引用部分だけでは分からないが、食堂は地下室にあり、このホテルの住人はみなこの食堂で食べなければならないという規則があったということが、前の部分に書かれている。)
増富の話す内容は平凡きわまりないが、その「話し方」が尋常じゃない。
間に何人も座っているのに、その頭越しに話しかけてくるというのも驚くが、「喋りながら、食事をすま」して、食事がすんで、立ち上がってもしゃべり続け、部屋を出てからもしゃべり続けるなんて、ちょっと考えられない。その話の内容が、三味線はどうもむずかしい、ということで、その先その話題がどう展開していったのか見当も付かないが、そんなに夢中になって話したくなるような内容であるとはとうてい思えない。
しかしまあ、自分の話に夢中になると、周囲のことがいっさい目にも耳にも入らないという状態になるのだろう。「病気」といってしまえばそれまでだが、「病気」で片付けず、「変わってるなあ」という感想だけで、その人をずっと見ている(あるいは聞いている)多くの客たちも面白いが、増富の「足」が「一階へ上がる階段を踏みながら、まだ止めなかった。」と書き、その数秒後としか思えないのに、ご丁寧に、「一階に上がる階段に上がつて行く彼の足が見えなくなるまで」と書き続ける宇野もそれ以上に面白い。増富も「変わっている」が、宇野もそうとう「変わっている」ことは間違いない。
宇野の書き方の独特さは、とにかく正確を期すというのか、書かなくていいことまで書くというのか、たとえば、菊富士ホテルへの道順をこんなふうに書く。
菊富士ホテルは、本郷三丁目から、帝国大学の方にむかつて、家敷でいへば、十軒ほど行った角(前に燕楽軒といふ西洋料理店のあった角)を左にまがつて、だらだら坂になった道を二三町行ったところで、右に曲る、女子美術学校に行く細い坂道をのぼり、その女子美術学校の前を、左に、更に細い道を十間ほど行って、突き当たった所にある。さうして、菊富士ホテルは、この廻りくどい文章のやうに、廻りくどい道を行った横町に、あるところ、さういふ狭い細い町の中にありながら、新館と旧館に分かれ、全体が洋風で、しかも旧館の入り口は古風な洋風の観があり、間敷が四十ちかくある上に、裏から見れば、本郷台の南の端の、崖の角の上に建てられてあるところ、その他、色々、風変りなところがあった。
「この廻りくどい文章のやうに、廻りくどい道を行った横町」には、思わず吹き出してしまう。
これを「廻りくどくない」文章にすれば、「菊富士ホテルは、本郷三丁目から、坂道をのぼっていった突き当たりにある。全体に洋風で、新館と旧館に分かれていたが、色々風変わりなところがあった。」といったところだろうか。情報量は減るが、すっきり読みやすくなる。しかし、宇野は、わざとゴチャゴチャ「廻りくどく」書いて、その菊富士ホテルの周辺のゴチャゴチャ感を出しているのだろう。それは、菊富士ホテルそのもののゴチャゴチャ感にも通じ、さらには、そこに集まってくる文学者や芸術家、学者たちのゴチャゴチャ感を導き出しているともいえるわけである。
この菊富士ホテルには、近代文学史を賑わせるさまざまな文学者たちが現れる。そのさまは圧巻で、宇野は名前を列挙してくれている。
私がこの菊富士ホテルにゐたのは、大正十二年から昭和三年まで、六年ほどであるが、その前に、文芸に闊係のある人では、私の知る限りでは、正宗白鳥、谷崎潤一郎、竹久夢二、大杉栄、尾崎士郎、宇野千代、その他、私のゐた間は、三宅周太郎、高田保、増富平蔵、石川淳、田中純、廣津和郎、直木三十五、福本和夫、三木清、その他、私が去つてからは、石割松太郎、前田河廣一郎、中條百合子、その他、この倍以上もあるであらう。
今はもう高校の国語で文学史の授業をまじめにやったりはしないだろうが、ぼくらのころは、こうした名前の半分ぐらいは、授業とはいかないまでも文学史の副教材で知ったものだ。あるいは、家にあった文学全集で目にしただけの名前もある。目にしたことのないのは、上の一覧でいえば、高田保、増富平蔵、田中純、石割松太郎だけだ。だからといって、知ってる人のものを全部読んだわけではないが、知ってるだけでも、たいしたものだと、思う。なにがどう「たいした」ものなのかは知らないが。
今の日本の文学界がどのような状況にあるのかはよく分からないが、この時代というのは、何だか混沌としていて、メチャクチャで、情熱にあふれていたようにみえる。文学というものも、こういう時代の雰囲気のなかで生まれて来たのだということは忘れたくないものだ。
ところで、ここに紹介した文章は「文学の三十年」の中の、「七」にあたるが(全集2段組で10ページほどの分量で結構長い)、その末尾は、こんなふうに締めくくられている。
ところで、先きに、誰かが、「あそこ」といったのは、荒川の流れを座敷の縁側から見おろす、風流な料理店であった。そこに著いた時は、誰も彼も、ほつとした。ここで、このだらしない一節を、へとへとになって、読みつづけた人(があつたら)も、ほつとしたであらう。さうして、このだらしない一節を、悪文のために、へとへとになって、書きつづけた私も、ほつとした。そこで、この次ぎは、出来れば、話も、筆法も、少し変へてみるつもりである。
ぼくも、ほっとした。
しかし最後に「出来れば、話も、筆法も、少し変へてみるつもりである。」とあるからには、宇野は、どんな話も、筆法も自由自在だったのだろう。やっぱり天才である。
数年前のことだが、気鋭の芥川龍之介研究者と飲んでいたとき、芥川より宇野浩二のほうがよっぽど天才だったし、生きてる当時は宇野のほうがずっと人気があったんだと教えてくれた。ただ、芥川は「羅生門」や「トロッコ」などが国語の教科書に載り続けたために、こんなに国民的な作家になったけれど、宇野の作品は教科書には載りませんからねえ、と言っていたような気がする。たしかに、宇野浩二の文学は、教科書向きではない。まあ、どんな文学が「教科書向き」なのかは、それはそれでまた別の問題なのだが。