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木洩れ日抄 101 変わった人

2023-01-29 14:03:50 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 101 変わった人

2023.1.29


 

 「宇野浩二全集」第12巻「随筆」には「大阪」が入っていて、その無類の面白さを前回、前々回で紹介したところであるが、その後に、「文学の三十年」という随筆も収められている。田山花袋の「東京の三十年」に触発されたということで、田山のそれも十分に面白いのだが、宇野のそれは、今ではほとんど名の知られていない文学者や、学者などの素顔が、その独特の文体で生き生きと描かれていて、これまた倦むことをしらない面白さだ。

 宇野は、しばらく、上野桜木町に居を構えるのだが、執筆に専念するために、「菊富士ホテル」に住んでいた。そのホテルとも下宿ともつかない宿は、木造3階建てで、40部屋ほどあったというから、なかなかどうしてたいしたものだ。そこの「住人」の一人増富平蔵という哲学者は(山本注:古書を検索すると、ショーペンハウエルの翻訳書がかなりヒットするが、本人の経歴などはWikipediaにもない。)、最初はごく平凡な人に見えたので、格段宇野の興味を引かなかったらしいのだが、だんだんその人が実に変わっていることが明らかになってくる。そのエピソードである。

 


 私が、初めて、菊富士ホテルに、下宿人として、越した日は或る宮様の国葬が行はれた日であった。その日の午後、私が、上野の家から車で運んだ本箱その他の荷物の始末をしてゐると、突然、二階か(いや、もつと上の)三階あたりで、カンカンといふやうに聞こえる、すこし調子はづれの、実に調子の高い三味線の音が起こつた。それは、長唄の三味線らしいけれど、何かの唄に合はして弾いてゐるのではなく、ただ三味線を鳴らしてゐるといふだけの音であった。後で知ったのであるが、この時、三味線をひいてゐたのは、三階の隅の部屋の住人、ショオペンハウエル学者、増富平蔵であった。
 恥ぢをいふと、私も、その頃、長唄のほかに、歌沢、小唄などを、三味線と一しよに、少しやりかけてゐたのであった。
 さて、増富は、そのホテルに、その頃、もう五年以上住んでゐるといふ、四十何人の下宿人の中の最古参者であった。彼は、その頃、四十歳を越してゐたが、嘗(かつ)て一度も結婚したことがない上に、一人の女をも身辺に近づけたことがないといふ事であった。私は、食堂で彼と顔を合はすやうになってからも、一週間ぐらゐ口をきかずに過ぎたが、いつとなく、三階で、私の部屋の頭の上の二階を一つ越えた三階で、午前に一度、午後に一度、夕方に一度、と、規則ただしく三味線の音を響かせる人がその増富であると知った時分に、ある日、向かうから、突然、「あなたも三味線をおやりになるやうですね、何をおやりになるのです、」と、極めて平凡な話をしかけた。おなじ食堂の中ではあるが、彼と私はかなり離れたところに腰かけてゐたので、その間に席についてゐた他の客たちが一せいに新参の私の方を見たので、私はひどく閉口した。それに、彼の声の調子が、ちやうど三味線の音と同じやうに、すこし調子はづれで、甲高いのにも閉口したのであつた。
 「ええ、別に、これといつて、……」と、私は、彼の、不仕附(ぶしつ)けと、平凡な問ひとに、いくらか軽蔑と、反惑を覚えて、わざと冷淡に答へた。
 しかし、増富は、私の素気のない返事などを少しも気にしないで、自分はやり始めてからかれこれ二年になるけれど、実に、むつかしい、面倒なものである、あなたはさうは思はないか、といふやうな話をつづけた。その話の内容は、別に変つたところがないばかりか、むしろ平凡すぎる上に、その話す声が、前にいつたやうに、甲だかくて、いくらか調子はづれであったから、食堂にゐる他の客たちはときどき笑ひを漏らし、話相手である私も、答へながら、つい吹き出しさうになった。すると、話し手の増富も、話しながら、ときどき、白い歯を出して、笑った。
 そのうちに、彼と私との、遠く離れた席からの、会話を消すほど、他の人々の話し声が盛んになったが、それでも、彼の甲だかい声だけが、他の大ぜいの人たちの声を突き抜けて、響きわたつた。さうして、やがて、彼は、喋りながら、食事をすますと、すぐ立ち上がつて、いつも彼の坐つてゐる食堂の一ばん奥の席から、人々のならんでゐる間を、さつさと通り抜けて行った。さうして、通り抜けながら、まだ終つてゐなかった話を、つづけた上に、それを、彼は、食堂を出て、一階へ上がる階段を踏みながら、まだ止めなかった。しかも、その間、彼は、誰にも会釈をしないのは勿論、一度も振り向かず、話しつづけながら、歩きつづけた。それを此方(こっち)から見てゐると、一階に上がる階段に上がつて行く彼の足が見えなくなるまで、彼の話し声は聞こえた。さうして、彼の姿がまったく消えてしまふと、後に残ってゐた人たちは、顔を見合はし、暫くしてから、やうやく、誰かが、「変つてゐますね。あの人は、」といふと、皆はどつと笑った。
 それから、増富が如何に変つてゐるかといふ話や噂がいろいろ出た。──

 

(山本注:この引用部分だけでは分からないが、食堂は地下室にあり、このホテルの住人はみなこの食堂で食べなければならないという規則があったということが、前の部分に書かれている。)

 


 増富の話す内容は平凡きわまりないが、その「話し方」が尋常じゃない。

 間に何人も座っているのに、その頭越しに話しかけてくるというのも驚くが、「喋りながら、食事をすま」して、食事がすんで、立ち上がってもしゃべり続け、部屋を出てからもしゃべり続けるなんて、ちょっと考えられない。その話の内容が、三味線はどうもむずかしい、ということで、その先その話題がどう展開していったのか見当も付かないが、そんなに夢中になって話したくなるような内容であるとはとうてい思えない。

 しかしまあ、自分の話に夢中になると、周囲のことがいっさい目にも耳にも入らないという状態になるのだろう。「病気」といってしまえばそれまでだが、「病気」で片付けず、「変わってるなあ」という感想だけで、その人をずっと見ている(あるいは聞いている)多くの客たちも面白いが、増富の「足」が「一階へ上がる階段を踏みながら、まだ止めなかった。」と書き、その数秒後としか思えないのに、ご丁寧に、「一階に上がる階段に上がつて行く彼の足が見えなくなるまで」と書き続ける宇野もそれ以上に面白い。増富も「変わっている」が、宇野もそうとう「変わっている」ことは間違いない。

 宇野の書き方の独特さは、とにかく正確を期すというのか、書かなくていいことまで書くというのか、たとえば、菊富士ホテルへの道順をこんなふうに書く。


 菊富士ホテルは、本郷三丁目から、帝国大学の方にむかつて、家敷でいへば、十軒ほど行った角(前に燕楽軒といふ西洋料理店のあった角)を左にまがつて、だらだら坂になった道を二三町行ったところで、右に曲る、女子美術学校に行く細い坂道をのぼり、その女子美術学校の前を、左に、更に細い道を十間ほど行って、突き当たった所にある。さうして、菊富士ホテルは、この廻りくどい文章のやうに、廻りくどい道を行った横町に、あるところ、さういふ狭い細い町の中にありながら、新館と旧館に分かれ、全体が洋風で、しかも旧館の入り口は古風な洋風の観があり、間敷が四十ちかくある上に、裏から見れば、本郷台の南の端の、崖の角の上に建てられてあるところ、その他、色々、風変りなところがあった。

 


 「この廻りくどい文章のやうに、廻りくどい道を行った横町」には、思わず吹き出してしまう。

 これを「廻りくどくない」文章にすれば、「菊富士ホテルは、本郷三丁目から、坂道をのぼっていった突き当たりにある。全体に洋風で、新館と旧館に分かれていたが、色々風変わりなところがあった。」といったところだろうか。情報量は減るが、すっきり読みやすくなる。しかし、宇野は、わざとゴチャゴチャ「廻りくどく」書いて、その菊富士ホテルの周辺のゴチャゴチャ感を出しているのだろう。それは、菊富士ホテルそのもののゴチャゴチャ感にも通じ、さらには、そこに集まってくる文学者や芸術家、学者たちのゴチャゴチャ感を導き出しているともいえるわけである。

 この菊富士ホテルには、近代文学史を賑わせるさまざまな文学者たちが現れる。そのさまは圧巻で、宇野は名前を列挙してくれている。

 

 私がこの菊富士ホテルにゐたのは、大正十二年から昭和三年まで、六年ほどであるが、その前に、文芸に闊係のある人では、私の知る限りでは、正宗白鳥、谷崎潤一郎、竹久夢二、大杉栄、尾崎士郎、宇野千代、その他、私のゐた間は、三宅周太郎、高田保、増富平蔵、石川淳、田中純、廣津和郎、直木三十五、福本和夫、三木清、その他、私が去つてからは、石割松太郎、前田河廣一郎、中條百合子、その他、この倍以上もあるであらう。

 

 今はもう高校の国語で文学史の授業をまじめにやったりはしないだろうが、ぼくらのころは、こうした名前の半分ぐらいは、授業とはいかないまでも文学史の副教材で知ったものだ。あるいは、家にあった文学全集で目にしただけの名前もある。目にしたことのないのは、上の一覧でいえば、高田保、増富平蔵、田中純、石割松太郎だけだ。だからといって、知ってる人のものを全部読んだわけではないが、知ってるだけでも、たいしたものだと、思う。なにがどう「たいした」ものなのかは知らないが。

 今の日本の文学界がどのような状況にあるのかはよく分からないが、この時代というのは、何だか混沌としていて、メチャクチャで、情熱にあふれていたようにみえる。文学というものも、こういう時代の雰囲気のなかで生まれて来たのだということは忘れたくないものだ。

 ところで、ここに紹介した文章は「文学の三十年」の中の、「七」にあたるが(全集2段組で10ページほどの分量で結構長い)、その末尾は、こんなふうに締めくくられている。

 

 ところで、先きに、誰かが、「あそこ」といったのは、荒川の流れを座敷の縁側から見おろす、風流な料理店であった。そこに著いた時は、誰も彼も、ほつとした。ここで、このだらしない一節を、へとへとになって、読みつづけた人(があつたら)も、ほつとしたであらう。さうして、このだらしない一節を、悪文のために、へとへとになって、書きつづけた私も、ほつとした。そこで、この次ぎは、出来れば、話も、筆法も、少し変へてみるつもりである。


 ぼくも、ほっとした。


 しかし最後に「出来れば、話も、筆法も、少し変へてみるつもりである。」とあるからには、宇野は、どんな話も、筆法も自由自在だったのだろう。やっぱり天才である。

 数年前のことだが、気鋭の芥川龍之介研究者と飲んでいたとき、芥川より宇野浩二のほうがよっぽど天才だったし、生きてる当時は宇野のほうがずっと人気があったんだと教えてくれた。ただ、芥川は「羅生門」や「トロッコ」などが国語の教科書に載り続けたために、こんなに国民的な作家になったけれど、宇野の作品は教科書には載りませんからねえ、と言っていたような気がする。たしかに、宇野浩二の文学は、教科書向きではない。まあ、どんな文学が「教科書向き」なのかは、それはそれでまた別の問題なのだが。

 

 

 

 


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木洩れ日抄 100 大阪の「お粥さん」

2023-01-25 10:22:52 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 100 大阪の「お粥さん」

2023.1.25


 

 宇野浩二の随筆「大阪」は、さすがに食い物については特に詳しく語っていて、読んでいて倦むことを知らない。こんなに細かい知識は、他の文章ではそうそう手に入るものではないし、この文章も今では「宇野浩二全集」以外では読むことができないようなので、長くなるのを承知で紹介したい。(今回は、漢字は新字に改めて引用する。)

 「色色の食い道楽──大阪人の食意地のこと」と題した文章は、次のように始まる。


 俗に『京の着だふれ、大阪の食ひだふれ』といふが、これは京都人が着物のために財産をつぶすとか大阪人が食物のために財産を傾けるとか云ふ意味ではない、また、俗に『京の着道楽、大阪の食道楽』と云ふ意味でもない。これから述べようと思ふのは、さういふ言葉に似て非なるもの、さういふ言葉に似て近いもの──主として、大阪人の食意地(くひいぢ)といふやうな題目で、思ひ浮かぶままに書いてみよう。──


 このことからして新鮮だ。「食いだおれ」という言葉はよく聞くのだが、その意味をちゃんと考えたことはなかった。あったとしても、宇野の否定している「大阪人が食物のために財産を傾ける」あるいは傾けかねないほど、食物に金をかける、というような意味で考えていたと思う。しかし、宇野は「食意地」という言葉を持ち出す。それが、この後を読んでいくと、実にぴったりなネーミングなのだ。

 金をかけるのではなくて、安くて旨いものをとことん追究するという情熱、といったらいいだろうか。

 

 大阪人は『京の着道楽』の例として、京都の人は滅多に豆さん(大阪人──殊に大阪辺の女は、どういふ訳か、豆と芋と粥に限つて「さん」を附ける。)を食べない。それは、豆を食べるには一つづつ皿から口に運ばねばならぬ、そのために着物の袖口が痛むから、と云ふのである。併(しか)し、これは京都人が着物を大事にするといふ譬で、却つてこんな事を云ふ大阪人の方が、豆さんやお芋さんやお粥さんを好んで食べてゐることを白状してゐるのかも知れない。何故なら、豆の事は暫らく傍(そば)において、生粋の大阪人は毎朝、東京人及び東京に住む人が毎朝かならず味噌汁を常食にするやうに、朝飯に粥を食べ、冬になるとその粥に芋を入れる習慣があるからだ。併し、この朝飯に粥を食べるのは、大阪ばかりでなく、私の知る限り、河内、和泉、大和(或ひは山城)の人たちは大抵朝飯に粥を食べてゐる。物識(ものしり)の話に依ると、大阪の粥と、河内の粥と、和泉の粥と、大和の粥は、同じ粥でも、それぞれ特徴があると云ふ。それは本当で、私は、和泉の粥だけは、和泉の岸和田は母の里でありながら、知らないが、大阪は勿論、河内の粥も、大和の粥も、一通り食べたが、何処の国の粥も茶粥(番茶を煮出した汁で炊いた粥)である点では一致してゐるやうであるが、大阪のは普通で、河内の粥が一番まづく、大和の粥は一番特徴がある。それは大和の粥だけが『大和粥』といふ名を持つてゐることでも分る。
 『大和粥』の炊き方は、先づ大きな釜に水を殆(ほとん)ど一ぱい入れ、その中に、番茶を入れた布切の袋を入れて煮る、程よく茶の味が出た時分に茶袋を取出すと共に成るべく少量の米を入れる、その米は、ざつと研いだのにかぎる、つまり糠が残ってゐる方がいいので、釜の蓋を明けたまま、番をしてゐる者が、始終杓子で掻き交ぜながら、根気よく炊く、さうして「顔がうつる」(水七分米三分の割だから)と云はれる『大和粥』が出来あがるのである。この粥を、大和の在所では、朝たべ、昼前たべ、昼たべ、御八(おやつ)にたべ、晩たべする。これは普通の粥より水分が多いから腹にもたれないからでもあらう。つまり、『大和粥』といふ名が特にあるのは、粥そのものが普通のと変わつてゐる上に、このやうに粥を不断に食べる習慣があるからであらう。──


 この後も、粥をめぐるエピソードが続くわけだが、「粥」でこれほど多くのことが語られるということに驚いてしまう。

 横浜の下町に育ったぼくには、粥というものは、病気のときに食べる「お粥」か、「おじや」以外には知らなかった。(「おもゆ」とか「くずゆ」というものも病気のとき食べた、もしくは食べさせられた。)つまりは、お粥と病気は切っても切り離せないもので、したがって旨いものであるはずもなく、毎度の食事にはもちろん食べたことなぞない。

 大人になってから、鍋を食べたあとの「雑炊」というものがあるのを知ったが、これとても、旨いことは旨いが、汚らしい感じがして実はあんまり好きではないのだ。

 もっと大人になってからは、中華街で供される「中華粥」なるものがあることを知ったが、これも数回食べたことはあるが、常食にはほど遠いし、第一、家では作れない。

 それが大阪では、常食で、しかも、大阪と、河内と、和泉とでは、粥の味が違うというのだから驚く。それを「一通り全部食べた」という宇野という人にも驚くが、粥にそんなにも「地域性」があるものだろうか。あるものだろうか、なんて間抜けな感想を述べてもしょうがない。あると言ってるのだから、あるのであろう。

 「大和粥」の説明にいたっては、おもわず笑ってしまう。宇野という人は、どうも、物事を克明に説明しないと気が済まない性格らしく、自分が岸和田に住んでいたころの長屋の説明をするのに、どうも言葉では説明しきれないといって、図を描いているくらいだ。「大和粥」の作り方をそんなに詳しく説明する必要があるとも思えないのだが、知っていることはとことん説明しないと気が済まないのだ。

 でも、この説明のおかげで、今でも誰でもが「大和粥」を作ることができる。しかし、この「大和粥」なるものは、どうみても、旨そうではなくて、宇野も旨いとかまずいとか言わずに「一番特徴がある」としか言わない。きっとまずいのだろう。「顔がうつる」なんて、まるでスープで、「腹にもたれないから」一日中食べることができるのは確かだろうけど、一日中食べなきゃ腹がいっぱいにならないのだろう。大和の貧しさを意味するとしか思えないのだが、そんなことを言ったら大和の人に怒られるだろうか。

 まあ、今でも、奈良の食べ物は旨くないというのは、ぼくにとっては何度も経験したことで、それなら、「大和粥」のほうがマシだろうと思ったりもする。

 今までぼくが食べてまずかったもののベストスリーに、奈良が2件はいっている。一つは、大学時代に長谷寺の近くの食堂で食べた「ラーメン」と、20年ほど前に法隆寺に行った帰り、大和郡山駅の近くの食堂で食べた「冷やしうどん」である。(参照「奈良はまずい」)この二つは、この世のものとも思えぬまずさであった。「大和粥」を知らなかったのはうかつだった。

 ぼくは昔からあまり食べ物については興味がなく、どちらかといえば、食べずにすませたらどんなに楽だろうかなんて考える方だったから、今でも日々の生活で、旨いものを追究する姿勢はほとんどないのだが、そんなぼくからみると、大阪人の「食意地」は、途方もないものに見えるのだ。

 宇野は、この後、「食通」についての考察をしてから、大阪の蒲鉾についての説明に入っていくのだが、それはまた次回のお楽しみ。

 宇野浩二に乗っかってると、どこまでも、いつまでも、書ける。

 

 

 

 


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木洩れ日抄 99 もっさりした名前

2023-01-24 15:02:46 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 99 もっさりした名前

2023.1.24


 

 宇野浩二の随筆集に、「大阪」(昭和11年刊)というのがあって、こと細かに、大阪について語っていて無類におもしろい。「宇野浩二全集」第12巻所収の「大阪」の小題を並べてみると、「木のない都──昔のままの姿」「さまざまの大阪気質──或ひは大阪魂の二つの型」「色色の食道楽──大阪人の食意地のこと」「様様の大阪風の出世型」「様様の大阪藝人」となっていて、そのひとつひとつが異常といっていいほど詳しいので、大阪ってずいぶんと変だなあなどと、横浜を出て暮らしたことがないぼくなんか常々思ってきたわけだが、へえ、そういうことかあと、1ページ読むごとに讃嘆である。

 全部紹介したいくらいだが、この中の「様様の大阪風の出世型」に出てくる小林一三に関しての、彼が創始した宝塚歌劇団についての一くだりを紹介しておきたい。宝塚歌劇団の女優の名前に関してである。

 まずは、宇野浩二自身の感想はこうだ。ちなみに、宇野浩二は少年時代の14、5年を大阪の岸和田で暮らしているが、生粋の「大阪人」ではないと自分を規定している。

 


 小林が最も力を入れてゐる少女歌劇について云ふと、先づ彼女等の名は、慣れると何でもないやうであるが、併し、天津乙女、雲野かよ子、春日野八千代、宇知川朝子、美空(みそら)暁子などといふ、大阪言葉で云ふと、《もつさり》した名ばかりである。この《もつさり》した感じは彼女等の不断の服装や髪形にも現れてゐる。それは、私の見た範囲では、女学生とも女工ともつかない服装、(委(くわ)しく云ふと、銘仙の着物に羽織、それに橄欖(オリーブ)色の袴を胸高に着け、裾は白足袋がすつかり見えるやうに穿いてゐる、)さうして髪は大抵思ひ切つて短く切りそれを男のやうに分けてゐる。それが彼女等を『女優』と呼ばずに『生徒』と云ひ習はす所以であらう。

《  》は傍点部をあらわす

 


 宝塚歌劇団の女優の名前に関しては、ぼくもずっと違和感を感じ続けてきた。もちろんとっくに慣れてしまって、え? この人、元宝塚だったの? って思う人もいるわけ(例えば黒木瞳、例えば月丘夢路・・・)で、宇野も「慣れると何でもないやうである」と言っている。「慣れると何でもない」のだが、よく考えてみると、なんじゃこりゃ、よくこんな名前を臆面もなくつけるよなあと思わずにはいられなくなるのである。

 なんじゃこりゃと思っても、なぜそういう名前なのかについては、深く考えたことはないのだが、そこに「大阪」があるというのである。

 ちなみに、宇野が傍点付きで言っている「もっさり」は、関東では今でも使わない言葉だが、「やぼったい」「あかぬけない」という意味らしい。

 宇野は生粋の大阪人ではないからといって、大阪に通じているとされる大阪人ならぬ谷崎潤一郎をひいてくる。『私の見た大阪及び大阪人』(昭和7年初出)から。

 


 先きに述べた少女歌劇の女優の名に就いて、谷崎潤一郎は次ぎのやうに述べてゐる。
 「大阪式のイヤ味を諒解するのには、あの寶塚少女歌劇の女優たちの藝名を見るのが一番早分りであると思ふ。たとへばあの中のスタアの名前に、天津乙女、紅千鶴(くれなゐちづる)、草笛美子(よしこ)、などゝ云ふのがある。かう云ふ名前の附け方はいかにも大阪好みであって、こゝらが東京人から見て大阪人の感覺が一本抜けてゐるやうに思はれる所である。兎に角東京の女優にはこんな垢抜けのしない、一源氏名のやうな、千代紙のやうな、(中略)そして又一と昔前の新體詩のやうな、上ツ調子の名を持つてゐる者は一人もあるまい。」

 


 関西が好きで、関西に移り住んだ谷崎潤一郎だが、根が東京人なのだろうか、宝塚歌劇団の女優の名前には強烈な違和感を感じているわけである。

 その名前を半ば罵倒するかのように並べた比喩がおもしろい。「一源氏名のやうな」は、確かにそうだ。次の「千代紙のやうな」は、なるほど千代紙というのはそういうものかと気づかされる。とにかくきれいにきれいにと作った紙だということだろう。(その後の「中略」のところにどういう比喩があったのか知りたいが。)いちばん興味深いのは「一と昔前の新體詩のやうな」だ。「新體詩」というのは、近代文学史では必ず出てくる、明治の初期に出現した新しい詩のことだが、谷崎にとっては、その「新體詩」が、宝塚の女優の名前のようだと感じているわけである。

 これは、当時の(昭和11年ごろ)文学状況の中で、「新體詩」がどのように受け取られていたかをリアルに伝えてくれている。そのすぐ後には、「上ツ調子の名」とあって、「新體詩」の表現や言葉が、「上ツ調子」であるという認識にもつながっていることが見て取れる。

 谷崎は、自分の大阪好き、関西好きも顧みず、宝塚の女優の名付けをくさしたのだが、ここに宇野はもう一人の、「大阪人」を連れ出してくる。宇野と親しかった画家の鍋井克之である。鍋井克之は、大阪生まれで、宇野によれば「生粋に近い」大阪人であるらしい。(この画家のことを、今日まで知らなかった。)

 

 この一節に封して鍋井克之は次のやうに評してゐる。
 「あの文章(谷崎の『私の見た大阪及び大阪人』)中最も私に興味のあつたのは、寶塚少女歌劇女優の藝名を非難した点であるが、なるほど、天津乙女、草笛美子、また紅千鶴の諸嬢の藝名は大阪人である私にも一寸背中がむずむずした感じは昔からしてゐた。が、これ等の藝名は大阪式にいへば道理のたたぬものではなく、従って不成功ではない。人を押しわけても成功せねばならぬ努力家としての大阪人が、一番人の記憶に便利な藝名をつけるのは尤もなことで氣恥しいとは考へてゐられないのである。現に数多い女優の中から天津乙女等を谷崎が呼び上げることが既に成功であるといふ風に大阪人は考へたがるのである。ものの名を東京式に表面美しくつけないのが大阪式である。(中略)大阪の商業主義は、名を一聞してその内容がぴつたりと来るやうでないと承知しない。『あんまの瓶詰』とか『びつくりぜんざい』は一目すぐ内容が分るのである。東京の大衆的しるこ屋は皆『三好野』となってゐるが、これを大阪の『びつくりぜんざい』(大阪のぜんざいは東京ではしるこ)と比べると物の名をつける大阪式の心持がよく分る。大阪のお茶屋の名が富田屋とか大和屋とかで場末の木賃宿にも同名のある不粋なのに比べると、なるほど東京のは松葉とか蔦紅葉とかいふ風な昔の新體詩好みの優しい物慾のない名になつてゐる。谷崎氏はこんな名なら東京人の人氣に適するといふのであらうか。つまり東京は物質的に成功しない所以である。」

 


 つまり、宝塚の女優の名前が「もっさり」していて、「背中がむずむずした感じ」を持っているのは、ひとえに、「人を押しわけても成功せねばならぬ努力家としての大阪人」の気質がしからしむるところだというのだ。売れるためには、とにかく人に覚えてもらわなければならぬ。そのタメなら恥じも外聞もないというわけなのだ。

 なるほどそういう意味では、吉本新喜劇の役者たちの名前も「もっさり」している。その点では宝塚と同列なのだ。

 そして、ここでも興味深いのは、「松葉とか蔦紅葉とかいふ風な昔の新體詩好みの優しい物慾のない名」というところだ。「物慾のない名」という表現は初めて目にしたが、これは、「生きるためのエネルギーに乏しい名」というような意味ではなかろうか。

 そんな乙にすました言葉を並べて、粋をきどっている(ちなみに、「粋な」を、東京では「イキな」と読むが、大阪では「スイな」と読むのだと宇野は言っている。)うちに、「物質的」には成功しない──つまりは儲からない──のが東京だというわけである。

 現代の世の中は、西も東もごちゃまぜで、こんな東西比較は無意味のように思われがちだが、しかし、案外世の中変わっていないもので、こんな比較を読みながら、こころのどこかで、そういえば、とか、そうだったのか、とか、いちいち頷いたりしている自分がいることも確かだ。

 

 

 

 


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木洩れ日抄 98 庭の幸せ 【課題エッセイ 5 庭】

2023-01-23 14:11:11 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 98 庭の幸せ 【課題エッセイ 5 庭】

2023.1.23


 

 この「課題エッセイ」も、最初は、「日本の名随筆」の順番に書いていくつもりだったが、さすがにそれはキビシイ。前回、前々回の「猫」とか「釣」とかは、ぼくの領分じゃないから大変だった。大変なことは最初から分かっていたけど、だからこそチャレンジしがいがあるんじゃないかと思っていたが、やっぱり、自分で自分の首を絞めたところで、ストレス以外の何ものでもないし、そんなストレスを好き好んで抱え込む必要がどこにあるのかと、馬鹿らしくなった。

 「100のエッセイ」と題して、エッセイを週1回書くことに決めて、その第1回目を書いたのが、1998年の3月で、その時は、毎回800字と厳密に決めて、一字たりとも越えないことにしたわけだが、それは、ひとえに、文章を書く練習だったからだ。800字でどれだけのことが書けるか。そして、どれだけオリジナリティーのある文章を書けるかを、試したかった。だから、当たり前のことはなるべく書かないようにしたし、文章的にも技巧を凝らした。(というほどのものじゃないけど。)しかし、800字というのは、おそろしく短くて、いつもなんか物足りなかったので、20編目ぐらい書いたあたりから、1000字以内に変更した。これでようやく書きたいことがほぼ書けるようになった。(と言ってもいい文章が書けるようになったわけではない。)

 この1000字という枠の中で、2011年の3月まで書き続けた。そこで、東日本大震災が起きた。687編目(第7期・88)がその時のことを書いている。(「どうなるのだろうか」)この非常事態に、週1回などと悠長なことを言っていられなくなった。混乱と不安の中で、書かずにはいられなくなった。だからもう翌日には書いた。(「大災害の中で」)1000字なんて、どうでもよくなった。書きたいだけ書いた。練習はもう終わったのだ。

 それ以来、週1回、1000字以内という枠は撤廃した。そしてそのまま連載を不定期に続け、2016年9月25日に、1000編に到達したというわけだ。

 その後は、もうエッセイの連載は止めようと思ったのだが、なんとなく物足りなくて、「木洩れ日抄」として、再出発した。まあ、このエッセイの連載にも、こんな歴史がある。変更、変節の歴史だ。だから(というのも変だが)、「日本の名随筆」の順番どおりで書くと決めても、それを止めて自由に選んで書くと変更しても、何の問題もないのだ。問題を感じるとしたら、ぼくの中にある変な「律儀さ」だ。そんなものはとうに捨てたと思いたいのだが、なかなかどうして頑固なものだ。

 さて、今回選んだテーマは「庭」である。これなら書くのは簡単だ。ぼくは今までの人生の中で、幸か不幸か、「庭のない家」には一度も住んだことがない。ぼくは植物が好きだから、庭があるということは「幸」には違いないのだが、昔から腰痛持ち(今も腰が痛くて、さっきマッサージを受けてきたばかりだ。)なので、庭の手入れが大変で、それが「不幸」にあたる。しかし、とにかく、庭があると、いろいろな楽しみがあるし、生まれ育った横浜の中心地の家にも、それなりの庭があり、父がそこでいろんな植物を育てていたので、思い出もたくさんある。

 というわけで、書きたいことは山ほどある。けれども、そのすべてを書いていたら、いくら1000字という枠を撤廃しているからといって、10000字も書くわけにもいかない。ただでさえ、近ごろのぼくの書くものといったらダラダラと長くて、昨今のウエブ記事の常識を遙かに超えるから、読者がちっともついてきてくれないのだ。

 だから、簡単に書く。あの東日本大震災の翌日、庭に出たときの印象が今でも強く心に残っている。なにか、空気がすっかり入れ変わってしまったような空のもと、わが庭に、フキノトウが出ていたのだ。ああ、こんな大災害が起きているのに、自然はまったく変わらずにこうして営みを続けているんだと、この後、さまざまな震災を振り返る文章の中で繰り返されてきた感慨が、その時のぼくの心にも湧いたのだ。

 庭があって幸せだったと、その時、確かに思ったはずだ。

 

 

 


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一日一書 1730 寂然法門百首 78

2023-01-16 13:43:56 | 一日一書

 

我今衰老

 

置く霜の老いの末葉(すえば)にかかるまで跡とどむべきこの世とやみる
 

半紙

 

【題出典】『法華経』52番歌題に同じ。

 

【題意】 我今衰老

私は今、衰え老いて


【歌の通釈】
枯れた葉末に霜が置くように、白髪となりいつまでも老いながらえて、生きるべきこの世であろうか。 

【考】
生きながらえて老いても、執着、欲望は尽きることはない。老いの恥を知れと言った。『徒然草』七段の「命長ければ恥多し。」を思い起こさせる。
 

(以上、『寂然法門百首全釈』山本章博著 による。)

 


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