日本近代文学の森へ (157) 志賀直哉『暗夜行路』 44 プロスティチュート 「前篇第二 三」その2
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2020.6.28
幼い頃の記憶を書いていくことで、小説を書くという謙作の仕事は、初めのうちは順調に進んだが、やがて、それもうまく行かなくなってきた。
仕事がうまく行かなくなるに従って、生活の単調さが彼を苦しめ始めた。彼の一日一日は総て同じだった。昨日雨で、今日晴れたという他は一日一日が少しも変らなかった。彼は原稿紙の一角ごとに日を書き、それを壁へ貼っておいて、一日一日と消して行った。仕事が出来る間はまだよかったが、気持からも健康からも、それが疲れて来ると、字義通りの消日(しょうじつ)になった。誰からも一人になることが目的であったにしろ、今はその誰もいない孤独さに、彼は堪えられなくなった。下の方を烈しい響をたてて急行の上り列車が通る。烟だけが見える。そしてその響が聴えなくなると、暫くして、遠く弓なりに百足(むかで)のような汽車が見え出す。黒い烟を吐きながら一生懸命に走っている。が、それが、如何にものろ臭く見えた。あれで明日の朝は新橋へ着いているのだと思うと、ちょっと不思議なような、嫉ましい気がした。無為な日を送っている彼自身の明朝までは実際直ぐだった。間もなく汽車は先の出鼻を廻って姿を隠す。
ここのところの、列車への思いが面白い。こんなふうに煙をはく蒸気機関車に引かれる列車を自宅から眺めることができるなんて、今から見れば、羨ましい限りだが、まあそんなことはともかく、いかにものろ臭い列車が、明日の朝には新橋に着くということが、「ちょっと不思議なような、嫉ましい気がした。」というのは、気分としてはよく分かる。自分はといえば、「無為な日を送っている彼自身の明朝までは実際直ぐだった。」というわけだから、その差は歴然である。
登山などをしているときにも、こうしたことは感じるもので、重い足を一歩一歩前に出していくということは、ひ弱なぼくには辛くて苦しい以外の何ものでもなかったのだが、それを続けていくと、大きな山を二つも三つも越えてしまう。下山して、その越えてきて道筋を目で辿るとき、なんとも「不思議」な思いにとらわれたものだ。あんなに長い距離を、あんなにノロノロ歩きで踏破できたのかという感慨は、この時の謙作とは逆の心境ではあるが。
これを「継続は力なり」などという教訓に収斂させてはつまらない。無為に過ごす時間は短く、有意に過ごす時間は長いということでもない。尾道でゴロゴロしていた10時間と、列車が新橋まで走っていく10時間は、同じ長さだ。列車が走り続けたということが「継続」ならば、ゴロゴロしていたというのも立派な「継続」だ。
問題なのは、謙作という人間が過ごす時間と、列車が走る時間とが、生み出すものが違うというだけのことだ。列車が生み出す「距離」に匹敵するものを、謙作は生み出したいのだろうが、そんな比較は無意味だ。無意味だけれども、「嫉ましい」と感じる。そこが面白い。
謙作はそれでも、東京に帰ろうとは思わなかった。なんとかこの仕事をし遂げようと決心するのだった。
或る北風の強い夕方だった。彼は何処か人のいない所で、思い切り大きな声を出して見ようと思った。そして市(まち)を少し出はずれた浜へ出掛けて行った。其処には瓦焼きの窯が三つほどあって、それが烈しい北風を受け、松の油がジリジリと音を立てながら燃えていた。強い光が夕閤の中で眼を射た。彼は暫くぼんやりそれを眺めていたが、暫くして海辺の石垣の方へ行って、海へ向ってその上へ立った。しかし彼にはうたうべき唄はなかった。彼は無意味に大きい声を出して見た。が、それが如何にも力ない悲し気な声になっていた。寒い北風が背中へ烈しく吹きつける。瓦焼の黒い烟が風に押しつけられて、荒れた燻銀(いぶしぎん)の海の上を、千切れ千切れになって飛んで行く。彼は我ながら腹立たしいほど意気地ない気持になって帰って来た。
なんだかやけに悲壮感が漂うが、しょぼくれた声しかでない自分に、「腹立たしいほど意気地ない気持」になる。
北風に中で、大きな声を出してみようなんて芝居がかったことを考えたのは、せめて自己陶酔にでも浸りたかったということだろうが、みじめな結果に終わるのも致し方ない。中学生じゃないんだから。
それはそれとして、この海岸の描写は見事なものだ。「瓦焼の黒い烟が風に押しつけられて、荒れた燻銀(いぶしぎん)の海の上を、千切れ千切れになって飛んで行く。」なんて、やっぱり名人芸としかいいようがない。
その名人芸の後で、こんなヘンテコなエピソードが出て来る。
「旦那さん、銭は俺(わし)が出しますけえ、どうぞ、何処ぞへ連れて行ってつかあさい」こんな上手な事をいう百姓娘のプロスティチュートがあった。丸々と肥った可愛い娘で、娘は愛されているという自信から、よく偽りの悲しげな顔をして、一円、二円の金を彼から巻き上げた。
或る長閑(のどか)な日の午後だった。彼は向い島の塩田を見に、渡しを渡って行った帰り、島の向う岸まで出て、日頃頭だけしか見ていない百貫島を全体見るつもりで、その方へぶらぶらと歩いて行った。或る丘と丘との間のだらだら坂へかかると彼は上から下りて来る男と女の二人連れを見た。その一人がそのプロスティチュートらしかった。彼は何気なく竹藪について細い路へ曲った。そして十間ほど行った処で立止り、振りかえって、往来の方を見ていた。その娘だった。派手な長い袖の羽織を着て、顔を醜いほどに真白く塗っていた。そして何か浮れた調子で男へ話しかけながら通り過ぎた。男は中折れ帽を眼深く被った番頭という風の若い男だった。
どうということはないシーンなのだが、ここに出て来る「プロスティチュート」という言葉に躓いた。何のこと? と、英語の不得意なぼくは、すぐに調べたら、「売春婦」のことだったのでびっくりしてしまった。とんまな話だが、まさか「プロスティチュート」なんていう観念的な響きのする言葉が「売春婦」を意味するとは。
そういえば、ちょっと前にJRがキャッチコピーで「デスティネーション キャンペーン」とかいうのをやったとき、「デスティネーション」を「デスティニイ(運命)」の親類だろうと勝手に思って(まあ一種の親戚ではあろうけど)、ずいぶん深刻なキャンペーンだなあと不思議に思ったことがある。
それにしても、なんで志賀直哉は、こんなところで「プロスティチュート」なんて言葉を持ち出したのだろうか。当時のはやりだったのだろうか。大正時代というのは、結構外来語が持てはやされたような気もする。大正時代ではなくても、昭和のころは、「妻」のことを「ワイフ」なんていうオジサンがずいぶんいたけれど、最近はとんときかない。
ところで、この百姓娘の「プロスティチュート」の「偽りの悲しげな顔」にほだされて、「一円、二円の金」を巻き上げられたというのは、どういうことなのか。ただ、可愛そうだから金をくれてやったということなのか、それとも、その「プロスティチュート」と遊んだのか。よく分からない。
分からないけれど、その娘が、他の男と連れだって歩いているところをつけていって、派手な羽織を着ているだの、顔を醜いほど白く塗っているだの、浮かれた調子で話しているだの、となんとなくイチャモンをつけるような書き方に、うっすらと「嫉妬」めいた気分が入っているようにも感じられて、面白い。
「暗夜行路」は長編小説じゃなくて、短編の寄せ集めみたいなものだと言われることがよくあるようだが、それには一理あると思う。緊密な構成をもつ長編小説なら、こんな「プロスティチュート」のエピソードなんていらない。この娘が後で重要な役割を果たすというならともかく、そんなことはなさそうだし。
しかし、こうした不要のようなエピソードの一つ一つが、妙な実感と魅力を持っていることも確かで、たとえば、この百姓娘の「プロスティチュート」を主人公にした短篇は簡単にできそうではないか。そういう想像をかき立てるほど、この「プロスティチュート」の百姓娘は、輪郭がくっきり描かれている。
そういう目でみると、この「暗夜行路」のいたるところに、「短編小説の種」が転がっていることに気づかされるのである。