日本近代文学の森へ 251 志賀直哉『暗夜行路』 138 お栄という女 「後篇第四 一」 その2
2023.11.24
お栄は、お才に誘われて天津に出かけたのだが、商売はうまく行かなかった。お才にだまされたというわけでもないが、お才も気が咎めたか、お栄が大連に引き上げたあとも、またやってくるように言ってきたが、お栄はもうその親切が信じられなかった。
鉄嶺(てつれい)ホテルの女あるじ、増田というのは、男まさりのしっかり者だという噂はお栄もかつてお才から聞いていたが、この女が最近土地の検番と喧嘩し、一つは意地から自力で別に検番を作る事にし、前から多少知合いだったお才ヘ手紙でその事をいって寄越た。お才はそれを直ぐお栄の方へ知らして来た。
四、五人の芸者に間に合うだけの衣裳を持ち、それを《もとで》に何処かで芸者屋を開こうとしているお栄には、実にこれは渡りに船の話だった。勿論二つ返事で乗って来るものとお才は思っているに違いなかったが、お栄はそれも断ってしまった。
これが大連とか京城とかの話ならば嬉しいのだが、近頃のように病気をしていると一層気が弱くなり、鉄嶺まで入込んで行くのが、益々内地と縁遠くなるようで心細い、折角の親切を無にするようだが、鉄嶺へは行きたくない。そしてこの大連も今の所いい話もなさそうなので、そのうち京城へ行こうと思う。少しでも内地に近づきたく、もし京城の方にいい話でもあったら、その時はぜひ知らしてもらいたい、と書いた。
天津、大連、京城と、今から思うとずいぶん遠いところだが(といっても、飛行機に乗れないぼくにとってだけの話かもしれないが)、この頃はずいぶんと気軽に移動している。当時は朝鮮は日本の統治下にあったわけだから、当然なのかもしれないが、こうした地理感覚は、時代が変わると、なかなか実感できない。
お栄も苦労ばかりだが、こうして女一人「外地」で生きて行く姿は、たくましくも思える。
その後またお才から、もし京城に行くなら警部で野村宗一という知人がある。それに頼めば万事便宜を計ってくれるだろう。もし行く場合は此方から手紙を出しておこうと言って来た。
お栄は早速その手紙を出してもらう事を頼んだが、隔日に瘧(おこり)の発作が来、塩酸キニーネで漸く治めている時で旅行はまだ暫くは出来そうもなかった。そしてぐずぐずしている内に盗難に会い、唯一の《もとで》としていた芸者の衣裳幾行李かを荷作りのままそっくり持って行かれてしまったのである。
お栄はその時落胆もしたが、何となく清々した気持にもなった。もう内地に帰るより仕方なく、信行に頼んで旅費を送ってもらい、直ぐ帰るつもりだったが、もう再び来る事はないと思うと、少しは見物もしたく、朝鮮を廻って帰る事にした。一つは船の長いのもいやだった。
暢気と言えば暢気な話である。「外地」で「たくましく」生きるといっても、頼めば少なくない金を内地から送ってもらえるのだ。たしか300円を信行から──といっても、結局は謙作が出したのだが。当時の300円といえば、今なら150万から300万ぐらいにあたるわけで、これだけの金をもらえるなら、朝鮮見物だって平気でできる。そういう金を、ホイホイ出せる謙作も、金持ちのお坊ちゃんだといえば、身も蓋もないが。
お栄は、病気(マラリア)がよくなると、京城まで来たが、お才の手紙にあった野村宗一を訪ねると、ここでもう一度商売を始めたらどうかと勧められた。
警部の野村が何故こんな事をいったかよく分らない。しまいに腕力でお栄を自由にしようとした、その下心がその時からあったのか、あるいは単に軽い親切気からそんな風に勧め、同居している内にそういう気になったのか、お栄の話では謙作には見当がつかなかった。が、とにかくお栄はそれでまた其所へ腰を下ろしてしまったのだ。
この章の初めの方の書き方では、客観的な叙述だったが、ここで、これまでのお栄の経緯が、お栄の話によるものだということが、明らかになる。まあ、当然なのだが。
それにしても、お栄というのは、どうにも捉えどころのない女である。内地へ帰ると言って、300円を送ってもらったのだから、さっさと内地へ帰ればいいのだ。それなのに、ずるずると居座ってしまう。
で、「下心」って何なのか。
「食料は払っていたんですけど、とにかく厄介になっていると思うから、町のお使もなるべく私が行くようにしてましたし──京子という五つになる女の児があって、小母さん小母さんってよく懐(なつ)いているもんですから、私も可愛くなって、お使の時はいつでも連れてって、翫具(おもちゃ)やお菓子なんか買ってやってたんですけど、それがどうでしょう。──野村がおかみさんの留守に私に変な事をしようとして、しまいには腕ずくでかかって来たから、私は野村を突飛ばしてやったんです。すると、丁度其所へ入って来た京子が、何にも分らない癖に、小母ちゃん、馬鹿馬鹿、畜生畜生って泣きながら二尺差しを持って私をぶちに来るんです。それが一生懸命なの。その時は私も何だか、情けなくなって涙が出ましたわ。あんなに可愛がってやり、むこうもよく懐いていて、やはり他人は他人ですわね。そういう時には本気になって親の加勢をしようとするの。腹が立つやら、おかしいやら、情けないやら……。でも親子というものはいいものだと私は自分がその味を知らないせいか、つくづくそう思いましたよ」
お栄は自分の年にも恥じたし、よくしてくれる野村の妻にも気の毒で、事を荒立てる気にはならなかった。そして翌日なるべく穏かにこの家を去った。
たしかにこれは、「下心がその時からあった」のか、「同居している内にそういう気になった」のか、分からない。分からないけれど、男っていうのは、どうしようもないものである。
このエピソードでは、「親子」の情が、さらっと、しかもくっきり描かれていて、胸を打つ。志賀の筆が冴えている。
謙作はお栄の話を聴きながら何となく愉快でなかった。近頃の自分の生活とは折り合わぬ調子が気持をかき乱した。彼は放蕩をしていた頃にも、そういう場所の空気に半日以上浸っていると、いつも息苦しくなり、憂鬱になり、もっと広々した所で澄んだ空気を吸いたいという慾望にかられた。今彼は丁度そういう気持になった。切(しき)りと京都の家──直子の事が想われた。
彼はお栄が不検束者(ふしだらもの)になっていなかった事を嬉しく思った。要するに、いい人なのだ、ただ人間にしっかりした所がなく、その時々の境遇に押流されるのがいけないのだ、そういうお栄を一人放してやった自分が無責任だったとも顧(かえりみ)られた。
かつて彼はお栄の止(と)めるのも諾(き)かず、一人尾の道に行き、幾月かして、からだも精神もヘトヘトになって帰って来た時、お栄から、「脊せましたよ。もう、これから、そんな遠くヘ一人で行くのはおやめですね」といわれた。
その同じ言葉を今彼はお栄にいってやりたかった。そして彼はそれを彼自身の言葉でいった。
「貴女は馬鹿ですよ、少しも自分を知らないんだ。一本立ちでやって行こうなんて、柄でもない考を起こしたのが間違いの原(もと)ですよ」
しかしお栄の将来をどうしていいか、彼には分らなかった。自分が結婚を申込んだという事さえなければ、当然自家(うち)へひき取り、一緒に暮らしたかった。また、その事があったとしても直子が意に介さないなら、そうしたかった。しかし少しでも直子がそれに拘泥(こうでい)するようなら、きっと面白くない事が起りそうだ。多少でもそういう点で絶えず直子が何か思うようなら、それは避けねばならぬ事だと考えた。
ここが肝心な箇所。謙作自身のお栄への思いが、精密に、正直に書かれている。
お栄の話から流れ出てくる「気分」が、「近頃の自分の生活とは折り合わぬ調子」であることに、気持ちがかき乱される。謙作は、そういう気分から解放されたいと思ってあがき、直子との結婚によって、ようやくそれを成就した。直子との生活には「澄んだ空気」が流れているのだ。
しかし、お栄は、「時々の境遇に押流される」ことはあっても、野村を突き飛ばす気概があった。「フシダラ」ではなかった。それが謙作を喜ばせた。そして、その喜びは、お栄に対する謙作の深い愛を、あるいはお栄の謙作に対する深い愛を確認させることとなった。
お栄が自分にかけてくれた言葉を、今度は「自分の言葉」で、お栄にかける。なんだかとてもほっとするシーンだ。
しかし、そのお栄をどうすればいいのか。謙作は、お栄を自分の家に引き取りたいと考える。けれども、自分とお栄との過去のいきさつ、そしてそれを直子がどう思うかへの不安は、謙作を逡巡させる。
お栄が実の親であれば、なんら問題はない(ということもないが)が、かつて「結婚を申し込んだ」という間柄である以上、ここでそういう考えが浮かぶこと自体があり得ないことだ。それでも、なお謙作は、そこに拘る。
ここまで来ると、謙作がほんとうに愛していたのは、直子ではなくて、お栄だったのではないかと思えるくらいだ。
なんとなく、先ほどの「京子」のエピソードが重なってくる。お栄は「やはり他人は他人だ」と思うわけだが、ここに当てはめると、「他人」なのは直子だ。お栄は「親」ではないが、ある意味「親以上」の存在だ。直子が逆上して、謙作に殴りかかったら、お栄は「馬鹿馬鹿!」と言って、直子を「二尺差しを持って」ぶちに行くだろう。そんな気がする。