日本近代文学の森へ 272 志賀直哉『暗夜行路』 157 自分の「外」へ! 「後篇第四 十一」 その2
2024.11.10
直子、お栄、お仙、それに赤ん坊の4人を残して、謙作は旅立った。
直子との関係修復、もっといえば、これからの直子のとの生活を立て直すための旅なのだから、深刻な気分が謙作の心を閉ざしているかと思いきや、なんだか、やっと家庭から解放されたといったのびのびとした気分の謙作だったようだ。
志賀直哉の得意な自然描写が、存分に生かされている。
嵐山(らんざん)から亀岡までの保津川の景色は美しかった。が、それよりも彼は青々とした淵を見ると、それに浸(つか)って見たかった。川からきりたった山々の上に愛宕(あたご)が僅(わず)かにその頂を見せていた。彼はいつも東から見る山をもう西から見ていた。そして彼の頭には瞬間衣笠の家が遠く小さく浮かんだ。
綾部、福知山。それから和田山へ来て、漸く夏の日が暮れた。
彼はその晩、城崎(きのさき)へ泊る事にして、豊岡を出ると、車窓から名高い玄武洞を見たいと思っていたが、暗い夜で、広い川の彼方に五つ六つ燈火を見ただけだった。
謙作が乗った列車は、山陰本線を走った。歴史を見てみると、様々な紆余曲折を経て、京都駅〜出雲今市駅が全線開通したのは、明治45年だという。今さらだけど、明治という時代は、猛烈な勢いで、国の形を変えていったわけだ。
以前、岩野泡鳴のいわゆる「四部作」を読んでいたときも、北海道の鉄道がすでに縦横に敷かれていた様子が描かれていてびっくりしたものだが、昨今の廃線につぐ廃線の状況をみるにつけ、時代というものが、なにやらわけのわからないものとして頭の中に渦を巻くような印象がある。
この冒頭の一節も、美しい。保津川沿いの車窓を、ぼくも一度見たはずなのに、その記憶がない。「青々とした淵を見ると、それに浸(つか)って見たかった。」という謙作の気持ちもよくわかる。「愛宕」というのは、落語「愛宕山」に出てくるあの山であろう。京都では愛宕山に登るという遊びがあったのだ。落語では、幇間が旦那や芸者と一緒に登る様子が生き生きと描かれている。その愛宕山が見える、ということについては、謙作の頭の中にそうした芸者たちとの遊びの思い出も含まれているのかもしれない。
「彼はいつも東から見る山をもう西から見ていた。」と簡潔な表現で、列車の移動を語り、「そして彼の頭には瞬間衣笠の家が遠く小さく浮かんだ。」と、我が家との思いがけない心理的な距離を示唆する。「衣笠の家」は、すでに、謙作の心から「遠く小さ」いものとなっているのだ。
城崎では彼は三木屋というのに宿った。俥で見て来た町の如何にも温泉場らしい情緒が彼を楽(たのし)ませた。高瀬川のような浅い流れが町の真中を貫いている。その両側に細い千本格子のはまった、二階三階の湯宿が軒を並べ、眺めはむしろ曲輪(くるわ)の趣きに近かった。また温泉場としては珍らしく清潔な感じも彼を喜ばした。一の湯というあたりから細い路を入って行くと、桑木細工、麦藁(むぎわら)細工、出石焼(いずしやき)、そういう店々が続いた。殊(こと)に麦藁を開いて貼った細工物が明るい電燈の下に美しく見えた。
城の崎といえば、当然小説「城の崎にて」が思い浮かぶわけだが、実際に志賀直哉が城崎温泉で事故(山の手線に跳ねられた)後の療養にあたったのは、大正2年のことだから、志賀は10年以上も前の記憶を辿って書いていることになる。志賀の記憶力はものすごかったらしい。
特に、「麦藁を開いて貼った細工物が明るい電燈の下に美しく見えた。」というような細密な描写は、まるで今見ているように描かれている。これを、実際に見たことがないのに想像力だけで書くということはできることではない。「一の湯というあたりから細い路を入って行くと、桑木細工、麦藁(むぎわら)細工、出石焼(いずしやき)、そういう店々が続いた。」という部分だって、10年以上も前のことを、写真を撮ったり、メモしたりということなしに、ちゃんと覚えているというのは驚異的だ。
しかも、こうしたリアルな描写は、この小説の展開上、ほぼ意味がない。なくても、ちっとも困らないのだ。というか、あることにかえって違和感さえある。これでは、まるで、のんきな紀行文ではないか。直子のことはどうしたのか? 心配じゃないのか? って思う人もいるだろう。
けれども、城の崎に来た以上、そこがどんな町で、どんな産物があって、どんな雰囲気だったのかというようなことを、きちんと正確に、しかもくどくなく、描くという姿勢を、志賀直哉は決して崩さない。
小説のストーリーだけを追いかけて読むなら、こんな部分は余分なところで、むしろわずらわしいだけだ。しかし、「暗夜行路」のストーリーは、すでに分かっている。(いちど読んでいるからだけど。)けれども、ストーリーからはずれる横道みたいなところが、案外おもしろいのが「暗夜行路」である。
宿へ着くと彼は飯よりも先ず湯だった。直ぐ前の御所(ごしょ)の湯というのに行く。大理石で囲った湯槽(ゆぶね)の中は立って彼の乳まであった。強い湯の香に、彼は気分の和ぐのを覚えた。
出て、彼は直ぐ浴衣が着られなかった。拭いても拭いても汗が身体を伝って流れた。彼は扇風機の前で暫く吹かれていた。傍(そば)のテーブルに山陰案内という小さな本があったので、彼はそれを見ながら汗の退(ひ)くのを待った。大乗寺(だいじょうじ)、俗に応挙寺(おうきょでら)というのがあった。それは城崎から三つ先の香住(かすみ)という所にある。彼は翌日其所(そこ)へ寄って見ようと思った。子供から応挙の名は聞いていたが、その後、狗子(くし)や鶏や竹などの絵を見て彼は少しも感服しなかった。第一円山派(まるやまは)というものにほとんど興味を持たなかったが、再びこの辺へ来るかどうか分らぬ気がしたので、寄って見る気になった。
此所が暑いのか、その晩が暑いのか、何しろ蒸暑くて彼は寝つかれなかった。この湯は春秋、あるいは冬来てかえっていい所かも知れぬと思った。
翌朝起きたのは六時頃だった。彼は寝不足のぼんやりした頭で芝生の庭へ出て見た。直ぐ眼の前に山が聳え、その山腹の松の枯枝で三、四羽の鳶が交々(かわるがわる)啼いていた。庭に、流れをひき込んだ池があり、其所には青鷺が五、六羽首をすくめて立っていた。彼はまだ夢から覚めないような気持だった。
湯船が深くて「立って彼の乳まであった」というところは、一度だけ行ったことのある道後温泉の本館の湯を思い出す。あんな深い湯に入ったのは初めてだったので驚いたけど、西の方の温泉では普通のことなのだろうか。
しかし、やっぱり観光気分だね。直子との関係が崩壊寸前だから、なんとか気持ちを切り替えるために、直子としばらく離れるという決心をした謙作にしては、その「切実感」がない。「衣笠の家」なんて、とっくに謙作の心の中から消えてしまっているかのようだ。
しかしまたこうも考えられる。謙作にとって、「切実」な問題は、「自分」をどう変えていくかということなのだが、それは、「自分自身」のみを見つめていても解決のできない問題でもある。「自分」を「自分」が見る、考察するということ自体、どだい無理な話なのだ。どこまでいっても堂々巡りでしかない。そんな経験を、ぼくも、若い頃したような気がする。
「自分」の問題の解決は、「自分」の「外」からやってくる。関心を「自分」ではなくて、「外」に向けることの大事さを、大昔、加藤周一が言っていたような記憶がかすかにあるが、定かではない。誰が言っていようが、おそらく、それは正しいのだ。
謙作の「観光気分」は、謙作が旺盛な好奇心を持っていて、「外」のものからの刺激を敏感に受けるところから醸し出されているのかもしれない。それならば、一見「意味のない」自然描写にも、深い「意味」があることになるだろう。そして、この後に続く「応挙寺」の美術品に対する鑑賞・批評も、ストーリーからははずれているが、謙作の審美眼、趣味といったものを詳しく語ることで、遠回りながら謙作の「自分」変革に一役買っていくのかもしれない。
十時頃の汽車で応挙寺へ向う。香住駅から俥で行った。
応挙の書生時代、和尚が応挙に銀十五貫を与えた。応挙はそれを持って江戸に勉強に出た。その報恩として、後年この寺が出来た時に一門を引き連れ、寺全体の唐紙へ揮豪したものだという。
応挙が一番多く描いていた。その子の応瑞(おうずい)、弟子では呉春(ごしゅん)、蘆雪(ろせつ)もあり、それぞれ面白かった。
応挙は書院と次の間と仏壇の前の唐紙を描いていた。書院の墨絵の山水が殊によく思われた。如何にも律気な絵だった。次の間は郭子儀(かくしぎ)、これには濃い彩色があり、もう一つは松に孔雀の絵だった。
呉春の四季耕作図は温厚な感じで気持よく、蘆雪の群猿図は奔放で如何にも蘆雪らしく、八枚の右の二枚は構図からも描法からも、為事(しごと)を投出してしまったような露骨な破綻を見せていた。酒に酔った蘆雪が眼に浮び、呉春との対照が面白かった。
応挙の模写という禅月大師(ぜんげつだいし)の十六羅漢が未完成のまま庫裏の二階に陳列してあった。
沈南蘋(なんちんびん)の双鷲図(そうしゅうず)、浪の間に頭を出している岩の上に雌鷲が足を縮め、両翼を開き、脊(せ)を低く首をめぐらし、雄鷲を見上げながら立っている。上の岩に真直ぐに立って雄鷲が強い眼差でそれを見下している。雌鷲の子を生むための本能が如何にも露骨に描き出され、そしてそれを上から強く見下している雄鷲の態度も謙作には興味があった。
「もう他には……?」謙作は背後に立っている小坊主を顧みた。
「まあ、絵はこんなものですが、この他に左甚五郎が彫った竜というのが屋根にあります」
二人は庫裏から下駄を穿いて、戸外へ出た。戸外は何時(いつ)の間にか曇っていた。二人は本堂を左へ廻った。石段から一間ほど登った所にちょっとした平地がある。其所から、入母屋破風(いりもやはふ)に置かれた大きな丸彫の竜を望んだ。竜の写実だと思い、彼は軽いおかしみを覚えた。
「これは実物大ですね」そういって笑ったが、小坊主には通じなかった。
「おお、降って来た」
仰ぎ見た謙作の顔に大粒な雨があたった。
「この竜が雨を呼んだのだ」彼はこんな笑談(じょうだん)をいいながらまた庫裏の方へ還って来た。
これで、「十一」は終わるのだが、こうしてえんえんと書かれている美術鑑賞は、読者には、冗長とも思え、あるいは難解とも思えるだろう。あるいは、当時の読者は、こうした一種のディレッタンティズムをも喜んだのだろうか。あるいは、これを読んで、なるほどなあと思えるほど、美術的な教養があったのだろうか。
それは知るよしもないが、今この部分を読んで、ある程度の図柄を頭にイメージできる人はそう多くはないだろう。けれども、現実からはもっとも遠い美術の世界に、これだけの興味関心をもって入り込んでいけるというのは、謙作にとっては大きな救いでもあるのだ。自分の「外」に出て行けるからだ。そのところを心にとめておきたい。