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日本近代文学の森へ 271 志賀直哉『暗夜行路』 158  妙な「出発」  「後篇第四 十一」 その1

2024-10-23 14:01:24 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 271 志賀直哉『暗夜行路』 158  妙な「出発」  「後篇第四 十一」 その1

2024.10.23


 

 謙作は、いよいよ「出発」することになった。伯耆大山に行くことは決まっているが、それ以上の細かい計画があるわけでもない。きままな「旅」だ。

 しかし、「普通の旅とは心構えが異(ちが)う」旅なので、出発前のやりとりが「何となく妙」だった。そのやりとりはこんな風に始まる。


 謙作はいよいよ旅へ出る事にしたが、普通の旅とは心構えが異うだけに出発際が何となく妙だった。
 「何時(なんじ)でもいいんだ。どうせ一日で山までは行けないんだから……」彼は出来るだけ暢気らしい風をしてこんな事をいっていた。彼は旅行案内を見ながら、
 「三時三十六分鳥取行か。もしそれに遅れたら五時三十二分の城崎行でもいい」
 「缶詰や何かお手紙下されば、直ぐ明治屋から送らせますから……」
 「まあ、なるべく、そういうものを取寄せずに、むこうの物で間に合わそうよ。なまじ、都の風が吹いて来て、里心がついては面白くない。そういう意味で、なるべく用事以外、お互に手紙のやり取りはよそうじゃないか」
 「ええ。……それでももし貴方に書く気がおでになったら下さればいいわね。もしそういう気におなりになった時には」
 「そうだ。それはそれでいい訳だが、そんな事をいってしまうと、お前がそれを待っていそうでやはり窮屈になるね」
 「それなら、どうでもいいわ」


 「何となく妙」なんてものじゃない。すごく妙だ。

 そもそも、初めて謙作が「大山」に行くと言い出してから、この出発の日まで、何日経ったのか、その間に、直子とどんなやりとりがあったのかについては、まったく説明がない。いきなり章を「十一」と変えて、「謙作はいよいよ旅へ出る事にしたが」と始める。

 直子は、この謙作の「大山行き」について、どう考え、どんなことを言い、どう「納得」したのか、まるで分からない。とにかく、謙作は行っちゃうのだ。乱暴だよね。謙作がというより、作者が。

 何時の列車でもいいということを、「出来るだけ暢気らしい風をして」いう謙作は、内心は決して「暢気」ではない。相当の覚悟があるらしいのだ。それが徐々にあかされるわけだが。

 「明治屋」は、1885年(明治18年)に横浜で創業された老舗だが、このころには、京都にも支店があったのだろう。「缶詰」も、贅沢品だったころの話だ。

 そういう直子の思いやりも、謙作は断る。なんでも自分でやるから、気にするなというのだ。しかも、手紙のやりとりすらよそうと言う。「もし貴方に書く気がおでになったら」を繰り返す直子があわれである。そのすがるような直子の申し出に、謙作は、「そうだ。それはそれでいい訳だが、そんな事をいってしまうと、お前がそれを待っていそうでやはり窮屈になるね」と言う。謙作は、どこまでも縛られたくない、自由でいたいのだ。

 「お前がそれを待っていそうでやはり窮屈になる」というのは、気持ちとしてはよく分かるのだが、家でいつ帰ってくるのかわからない直子の不安と、謙作の「窮屈」を比べたら、だれが考えたって、直子の不安のほうが重大に決まっている。それでも、謙作は、自分の「窮屈」を排除したい。自由気ままでいたいのだ。

 「それなら、どうでもいいわ」という直子の投げやりな言葉に、直子のため息が聞こえる。この人には何を言ってもダメなんだ。家で待つ私のことなんか、これっぽっちも考えてはくれないんだ……。

 で、いったい何のための「自由」なのかといえば、自己改造のためだということになる。


 「お前は俺の事なんか何にも考えなくていいよ。お前は赤ちゃんの事だけ考えていればいいんだ。俺も赤坊が丈夫でいると思えば、非常に気が楽だよ。迷わず成仏出来るというものだ」
 「亡者(もうじゃ)ね、まるで」と直子は笑い出した。
 「実際亡者には違いないよ。その亡者が、仏様になって帰って来るんだ」
 「たち際に縁起の悪い事を仰有(おっしゃ)るのね」
 「これほど縁起のいい事はないさ。即身成仏、といってこのまま仏様になるんだ。帰って来ると俺の頭の上に後光がさしているから……。とにかく、俺の事は心配しなくていいよ。お前は自分の身体に気をつけるんだ。それから赤ちゃんを特に気をつけて」
 「つまりおんばさんになった気でね」
 「おんばさんでも母親でもいい。とにかく、暫く細君を廃業した気になっていてもらいたい。未亡人になった気でもいい」
 「貴方はどうしてそういう縁起の悪い事をいうのがお好きなの?」
 「虫が知らすのかな」
 「まあ!」
 謙作は笑った。実際彼は今日の出立を「出家」位の気持でいたのだが、そういう気持をそのまま現して出るわけには行かなかった。丁度いい具合に話が笑談(じょうだん)になったのを幸い、そろそろ出かける事にした。花園駅から鳥取行に乗る事にした。

 


 自己改造どろこではない。「即身成仏」なんだという。

 もちろんこの辺りは冗談半分なのだろうが、いきなり「迷わず成仏出来るというものだ」というのは、いくらなんでも飛躍がすぎる。直子が、どうしてそんな縁起の悪いことばかり言うのかと言う気持ちもよく分かる。謙作の内部思考においては、いろいろあって至った結論なのかもしれないが、そんなことを言われた直子は戸惑うばかりだ。

 それでも、その「冗談」を直子は「亡者ね、まるで」と笑う。

 「亡者」とは、「金の亡者」などと使われるときの意味とは違い、仏教語の元の意味、「①常識的な考えにとどこおることを否定する人。とらわれを捨てた人。②死んだ人。死者。また、死んだ後に成仏しないで魂が冥土に迷っているもの。」(日本国語大辞典)の方の意味で使われている。特にここでは②の意味だ。

 謙作は、「亡者」としてこの世界に生きているのだが、なかなか「成仏」できない。でも、この「旅」で、「成仏」してくるというのだ。つまりは、「即身成仏、といってこのまま仏様になるんだ。帰って来ると俺の頭の上に後光がさしているから……。」ということになる。

 極端な話である。「頭の上に後光がさしている」謙作を、直子は想像することができるだろうか。しかも、謙作にとっては、まったくの冗談ではなくて、むしろ謙作は、「今日の出立を『出家』位の気持でいた」というのだから、その本気度は、かなりのものだといっていい。

 しかし、直子からすれば、自分の過ちを本当に心から赦して欲しいと願っているだけなのに、それができないからといって、「出家」するって、いったいどういうことなの? って思うはずだ。何日も家をほったらかして、何十日後だか、何ヶ月後だかしらないけど、帰ってきたら「後光がさしてる」男なんて、直子が望んでいる夫ではなかろう。

 なにもかも、謙作と直子は食い違っている。というか、謙作は、直子に根本的に「関心がない」のだ。

 謙作が、直子の過ちに深く衝撃を受けて傷ついていることは確かだ。しかし、直子も同じように傷ついて苦しんでいるのだ。その直子のことを謙作は真剣に考えようとしない。ただ、自分が変われば、「仏様」になれれば、直子も救われると思っているのだろう。しかし、それとても怪しい。謙作は、とにかく、自分が変わりたい、仏様になりたい、それだけなのかもしれない。

 直子のことを気に掛け心配していることは確かだろう。しかし、「お前は自分の身体に気をつけるんだ。」と言ったその直後に、「しかし、それから赤ちゃんを特に気をつけて」と、すぐに話が「赤ちゃん」に移って行く。その挙げ句には、「おんばさん(*乳母のこと)でも母親でもいい。とにかく、暫く細君を廃業した気になっていてもらいたい。未亡人になった気でもいい」というのだ。

 「母親」でも「乳母」でもいいから、とにかく「赤ん坊」をしっかり育てろ、「細君(妻)」なんて廃業して「未亡人」になったつもりで、「赤ん坊」を育てろという。しかし、直子は、謙作の「妻」として、悩み苦しんでいるのだ。謙作との「関係」が問題なのだ。

 そのことが謙作にはまったく分からない。直子に「未亡人」になったつもりでいろというのは、突き詰めれば、離婚して子どもだけはちゃんと育てろといっているに等しい。離婚しないで、「別居」するのは、直子との夫婦関係を立て直すためだろう。そういう相手に、「暫く細君を廃業した気になっていてもらいたい」とは、なんという言い草なのだろう。バカヤロウとしかいいようがないよね、まったく。

 バカヤロウなんて言う前に、百歩ゆずって、謙作の思いに寄り添ってみれば、謙作は、とにかく、今までの自分のままではダメだと痛切に思っているのだ。何とかして、この癇癪持ちで、独善的で、エゴイズムの塊のような「自分」を根本的に改造したい。どのように改造するかは、分からないけれど、この「旅」でそのきっかけでもつかみたい。そういう思いでいっぱいなのだ。それが、言ってみればこの小説全体の大きなテーマでもある。

 しかし、問題なのは、謙作の「自己改造」という作業の中に、直子という存在がいっさいの関わりを拒否されているということだ。直子が軽はずみとはいえ、過ちを犯した以上、謙作に赦されようが赦されまいが、直子自身の「自己改造」もまた必要となるだろう。直子の場合は、謙作ほどの強烈な自我を持っていないから(持っていないと謙作はみなしているから、と言い換えてもいい)、「出家」なんて大げさなものにはならないにしても、直子なりに自分のあり方を探る必要があるだろう。それは、直子個人というよりは、「妻としての直子」の作業となるだろう。場合によっては、そこで直子は大いに変わっていく、あるいは成長していくかもしれないし、その可能性はおおいにある。けれども、謙作には(あるいは志賀直哉にはと言ってもいいかもしれない)、その視点がないのだ。少なくともここまででは。

 謙作によって、拒絶され、放り出された直子は、この後、どう変貌するのか、あるいはしないのか、注目に値するところである。


 「もう送らなくていいよ。なるべく簡単な気持で出かけたいから」
 お栄が茶道具を持って出て来た。
 「三時に家を出ます。──それからお前、仙に俥をいわしてくれ。三時」
 「もう少し早くして御一緒に妙心寺辺まで歩いちゃ、いけない?」
 「この暑いのに歩いたって仕方がないよ」
 「…………」直子はちょっと不服な顔をして、台所へ出て行った。
 「また、先(せん)みたように瘠(やせ)っこけて帰って来ちゃあ、いやですよ」お栄は玉露を叮嚀(ていねい)に淹れながらいった。
 「大丈夫。何も彼(か)も卒業して、人間が変って還って来ますよ」
 「時々お便りを忘れないようにね」
 「今もいった所だが、まあ便りはしないと思っていて下さい。便りがなければ丈夫だと思ってようござんす」
 「今度は三人だから淋しくはないが」
 「赤坊を入れて四人だ」
 「そうそう。赤ちゃん一人で二人前かも知れない」
 「鎌倉へは手紙を出しませんからね。あなたから、出来るだけ何気なく書いて出しといて下さい。余計な事を書かずに」
 お栄は点頭(うなず)いた。
 謙作は茶を味いながら、柱時計を見上げた。二時を少し廻っていた。
 直子が赤児を抱いて出て来た。まだ眠足りない風で、顔の真中を皺にしながら、眼をまぶしそうにしている。
 「お父様の御出発で、今日は感心に泣かないわね」
 「その顔はどうしたんだ」謙作は笑いながら指先で赤児の肥った頬を突いた。
 「もう少し、機嫌のいい顔をしてくれよ」
 赤児は無心に首をぐたりぐたりさしていた。
 「医者は如何なる場合にも病院のを頼めよ。近所の医者は直謙の時でこりごりした」
 「ええ、そりゃあ大丈夫。第一病気になんぞさせない事よ」
「今のうちはお乳だけだから、心配はないが、来年の夏あたりは何でも食べるようになるからよほど気をつけないとね」お栄は直子に茶をつぎながらいった。
 謙作は風呂場へ行って水をあび、着物を更えた。そして暫くすると、俥が来たので、大きなスーッケースを両足の間に立て、西へ廻った暑い陽を受けながら一人花園駅へ向った。

 


 こうしたくだりを読んでいると、だれにも屈託がないように思える。「出家」するような悲壮感はない。

 とくにお栄とのやりとりは、ごく自然で、今さらながら、謙作とお栄の親密さに驚かされる。「また、先みたように瘠っこけて帰って来ちゃあ、いやですよ」なんていうお栄のセリフは、まるで古女房のそれである。直子とお栄とはうまくいっているようだが、こんな会話をそばで聞いている直子の気持ちは、ほんとうのところどうなんだろうか。

 直子は、妙心寺あたりまで一緒に行ってもいいかと聞くのだが、謙作は、「この暑いのに歩いたって仕方がないよ」といって冷たく拒絶する。お栄に対する親密な言葉づかいとはまるで違う。(まあ、お栄は、謙作にとっては母親みたいな存在だから、ぞんざいな口のききかたはできないわけだが。それにしても……)

 「暑い」とか、「仕方がない」とかいうことではない。これから二人で物見遊山しようっていうわけじゃないのだ。直子は、少しでも一緒に歩いて、いい気持ちで送りだしたいのだ。けれども、謙作は、直子は邪魔で、一刻でもはやく一人になりたいといったふうだ。別に急ぐ「旅」でもないのに。

 直子は「不服な顔」をするが、それ以上の反応はない。やっぱり諦めているのだろう。

 お栄は「今度は三人だから淋しくはないが」と言っているが、家に残るのは、直子とお栄と──一瞬、もう一人は誰だ? って思ったけれど、「仙に俥をいわしてくれ」という言葉があった。そうだ、お仙もいたのだった。赤ん坊もいれて4人。これからどう暮らしていくのだろう。

 

 


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日本近代文学の森へ 270 志賀直哉『暗夜行路』 157  「別居」へ  「後篇第四 十」 その2

2024-10-09 11:39:51 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 270 志賀直哉『暗夜行路』 157  「別居」へ  「後篇第四 十」 その2

2024.10.9


 

 直子は、どうしたら謙作に「ほんとうに赦してもらえるのか」を考えているのだと言う。謙作が、口では「お前を憎んでいない。赦している。」と言いながら、ぜんぜん行動が伴わないばかりか、走り出した電車から突き落とすなどというとんでもないことをしたのだから、もっと謙作を非難してもいいはずなのに、そんなことを考えていると言うのだ。
その直子に対して、謙作は、意外なことを言い出す。


 「お前は実家(さと)に帰りたいとは思わないか」
 「そんな事。またどうして貴方はそんな事を仰有るの?」
 「いや。ただお前が先に希望がないような事をいうから訊(き)いて見ただけだが……とにかく、お前が今日位はっきり物をいってくれるのは非常にいい。お前が変に意固地な態度を示しているので、此方(こっち)から話し出す事が今まで出来なかった」
 「それはいいけれど、私の申上げる事、どう?」
 「お前のいう意味はよく分る。しかし俺はお前を憎んでいるとは自分でどうしても思えない。お前は憎んだ上に赦してくれというが、憎んでいないものを今更憎むわけには行かないじゃないか」
 「……貴方は何時(いつ)でもきっと、そう仰有る」
 直子は怨めしそうに謙作の眼を見詰めていた。


 いきなり「実家(さと)へ帰りたいとは思わないか」というのは、唐突すぎる。直子はどうしたら赦してもらえるのかと考えているところなのだ。話がみえない。だから直子もびっくりする。それに対して、謙作は、聞いてみただけだと言葉を濁してから、直子がはっきり物を言ってくれるのは「非常にいい」と、実に「上から目線」の言葉を発する。

 なにが「非常にいい」だ! その前に、まず謝れ! って今の、朝ドラの視聴者ならSNSに書き込むことだろう。ふざけるな謙作! 消えろ! とかね。

 しかし、こういう時代だったのだ。謙作がまずは素直に謝ることが肝要なのに、自分が謝れなかったことを、直子の「意固地な態度」のせいにする。くどいようだが、謙作は、あの事件について、一度も直子に謝ってないのだ。時代とはいえ、ひどい。

 そのうえ、謙作は、屁理屈を並べる。「憎んでいないものを今更憎むわけには行かない」なんて、ただの言葉遊びでしかない。「俺はお前を憎んでいるとは自分でどうしても思えない。」というのがその理屈の根拠になっているのだが、どうしてそこまで「自分」が信じられるのだろうか。

 おそらく謙作は、「自分」の心の闇を覗くのが怖いのだ。「自分」というものに疑いを持つことができないのだ。それは、「自分」はどこまでも、「立派な自分」でなければならない、あるいは、そういう自分でありたいと強く願って生きてきたのだ。だから、今回のような、直子の過ちが、自分にどんな衝撃を与えようとも、「そんなこと」で、妻を「憎む」というような浅はかな「自分」ではありたくない。そんな「自分」は、許せない。そういうことではなかろうか。

 直子の「貴方は何時でもきっと、そう仰有る」という言葉からも分かるように、謙作は、いつでもそうして「立派」であるべき「自分」を守ってきたのだ。

 直子に怒って、直子を殴り、悪罵を浴びせかけ、徹底的に糾弾するといった「自分」はありえない。「自分」はそんなありきたりの男じゃないんだという矜持。

 しかし、謙作も、考えてはいるのだ。しかし、その「考える」方向がなんか違う。

 

 謙作はそれは直子のいうように実際もう一度考えて見る必要があるかも知れないと思った。
 「それにしてもこの間の事をそういう風に解すのは迷惑だよ。とにかく、俺たちの生活がいけないよ。そしていけなくなった原因には前の事があるかも知れないが、生活がいけなくなってから起る事がらを一々前の事まで持って行って考えるのは、それはやはり本統とは思えない」


 「この間の事をそういう風に解すのは迷惑だよ」と謙作は言うのだが、「迷惑」とはどういうことなのか。オレはお前のことを憎んでいないし、赦している。電車から突き落としたのは、癇癪の発作にすぎないんだから、その原因がお前の過ちにあるとお前が解釈するのは、オレには「迷惑」なんだ、ということだろうが、なんていう勝手な言い草だろう。「迷惑」だろうがなんだろうが、直子にはそうとしか思えないんだし、端からみても(たとえばお栄から見ても)そうとしか考えられないんだから、直子のそういう解釈を「迷惑」だといって非難する筋合いではないのだ。

 だから直子はこう反論する。


 「私は直ぐ、そうなるの。僻み根性かも知れないけど。それともう一つは貴方はお忘れになったかも知れませんが、蝮(まむし)のお政(まさ)とかいう人を御覧になった話ね。あの時、貴方がいっていらした事が、今、大変気になって来たの」
 「どんな事」
 「懺悔という事は結局一遍こっきりのものだ、それで罪が消えた気になっている人間よりは懺悔せず一人苦んで、張(はり)のある気持でいる人間の方がどれだけ気持がいいか分らない、とそう仰有ったわ。その時、何とかいう女義太夫だか芸者だかの事をいっていらした」
 「栄花(えいはな)か」
 「その他(ほか)あの時、まだ色々いっていらした。それが今になって、大変私につらく憶い出されるの。貴方はお考えでは大変寛大なんですけど、本統はそうでないんですもの。あの時にも何だか貴方があんまり執拗(しつこ)いような気がして恐しくなりましたわ」

 


 直子は自分のことを「僻み根性かもしれない」というが、そんなことはない。ごく普通の感覚だ。そして、直子は、かつて謙作が言っていたことを心に深く刻んでいたのだ。

 懺悔して赦された気になってのうのうと生きて行くより、一生罪を背負って生きて行くほうがえらい、みたいな話を謙作がしたことが、トゲのように直子の心にひっかかり、それが、今傷として膨らんできたのだ。その謙作の考え方、感じ方を自分に当てはめたとき、直子は慄然として、自分はあの栄花みたいに、一生罪を背負って生きていかねばこの人は認めてくれないんだろうかという恐怖を感じたのだ。そして、そういう謙作の心根を「執拗(しつこ)い」と表現した。

 この「執拗い」という言葉は、時としてとても強烈に響く。ぼくもなんどかこの言葉を投げつけられたが、そうとう腹が立ったものだ。まして謙作だ。

 


 謙作は聞いているうちに腹が立って来た。
 「もういい。実際お前のいう事は或る程度には本統だろう。しかし俺からいうと総ては純粋に俺一人の問題なんだ。今、お前がいったように寛大な俺の考と、寛大でない俺の感情とが、ピッタリ一つになってくれさえすれば、何も彼も問題はないんだ。イゴイスティックな考え方だよ。同時に功利的な考え方かも知れない。そういう性質だから仕方がない。お前というものを認めていない事になるが、認めたって認めなくたって、俺自身結局其所へ落ちつくより仕方がないんだ。何時だって俺はそうなのだから……。それにつけても生活をもう少し変えなければ駄目だと思う。もしかしたら暫く別居してもいいんだ」
 直子は一つ所を見詰めたまま考え込んでいた。そして二人は暫く黙った。
 「……別居というと大袈裟に聞こえるが」謙作はい<らか和らいだ気持で続けた。「半年ほど俺だけ何所(どこ)か山へでも行って静かにしてて見たい。医者にいわせれば神経衰弱かも知れないが、仮りに神経衰弱としても医者にかかって、どうかするのは厭だからね。半年というがあるいは三月(みつき)でもいいかも知れない。ちょっとした旅行程度にお前の方は考えてていい事なのだ」
 「それは少しも僻(ひが)まなくていい事なのね」
 「勿論そうだ」
 「本統に僻まなくていい事ね」直子はもう一度確めてから、「そんならいいわ」といった。
 「それでお互に気持も身体(からだ)も健康になって、また新しい生活が始められればこの上ない事だ。俺はきっとそうして見せる」
 「ええ」
 「俺の気持分ってるね」
 「ええ」
 「暫く別れているという事は、決して消極的な意味のものじゃないからね。それ、分ってるね」
 「ええ。よく分ってます」

 


 やっぱり怒った。そして開きなおる。「俺からいうと総ては純粋に俺一人の問題なんだ。」と。ここはほんとうに一貫している。とにかく「オレ一人」の問題だ。お前は関係ない。スーパーウルトラエゴイストなのだ。

 「お前というものを認めていない事になるが、認めたって認めなくたって、俺自身結局其所(そこ)へ落ちつくより仕方がないんだ。」というのは、謙作の、本質なのだろう。しかし、「其所(そこ)へ落ちつくより仕方がない」という「そこ」とはどこなのだろう。「寛大な俺の考と、寛大でない俺の感情とが、ピッタリ一つになってくれさえすれば」が、「そこ」なのだろう。

 「考え」と「感情」の乖離。「考え」のほうは、きわめて近代的な「自分」の捉え方で、いわゆる「近代的自我」に関する「理想」である。しかし、「感情」のほうは、近代もなにも関係なく、「癇癪の発作」として暴走してしまう。そこをどう折り合いをつけて、調和させていくか、それが謙作の唯一の「問題」であり、そうである以上「オレ一人の問題」であるほかはない。

 そこにおいては、直子という「他者」を「認めない」ことになっても仕方がない。「他者」との「関係」において「自分」を形成していこうという発想は、謙作にはないのだ。

 なんの脈絡もなく発せられたかにみえて「実家(さと)に帰りたいとは思わないか」という謙作の言葉は、ここに至って、今はやりの言葉でいえば「回収」されたことになる。(「栄花」の話も、「回収」だね。)

 直子は「僻まなくていい事なのね」と何度も念を押す。つまりこの「別居」が、自分のせいであると考えなくてもいいのね、ということだ。謙作は、「勿論そうだ」と答えるが、直子もそこをもう疑うことができない。アホらしくて疑う気にもなれなかったのかもしれない。

 最後の「ええ。よく分かってます」にしても、謙作の思いへの心からの同意ではなくて、一種の諦めの言葉であろう。

 二人は別居することとなった。お栄は尾道でのことを持ち出して反対した。けれども、あのときは「仕事」で、今度は「精神修養」と「健康回復」が目的だからと説得した。

 

 「何処へ行く気なの?」
 「伯耆(ほうき)の大山(だいせん)へ行こうと思うんです。先年古市(ふるいち)の油屋で一緒になった鳥取の県会議員がしきりに自慢していた山だ。天台の霊場とかで、寺で泊めてくれるらしい。今の気持からいうとそういう寺なんかかえっていいかも知れない」

 

 お栄の問いにそう謙作は答えた。

 心に深く傷を負った直子をおいて、謙作は、「伯耆大山」に向かうというのである。勝手な話である。

 それなら、直子も、メンドクサイ謙作なんて捨てて、さっさと実家に戻ったほうがいいと思うのだが、直子はそうしない。謙作は、大山で、なんらかの心の解決を得て、直子は、この人についていこうと思うというのが、結末だったはずだが、ふたりの心の変化がどのように描かれるのか、心して読んでいきたい。ぼくは、謙作より、直子の心境の変化により興味を感じるのだが。

 

 

 


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木洩れ日抄 113 ポップコーンと映画

2024-10-08 20:12:46 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 113 ポップコーンと映画

2024.10.8


 

 近頃、ほとんど映画館に行っていない。見たい映画がないわけじゃない。むしろ山ほどある。けれど、2時間、映画館の座席に座っていられる自信がないのだ。トイレの問題である。年をとったからということもあるかもしれないが、けっこう昔からこれが問題だった。2時間を越えるともういけない。あと30分がどうしても我慢できずに、席を立ってトイレに走ったことが何回もある。

 なんていう映画だったか、タルコフスキーだったか、誰だったか覚えていないのだが、最後の方で、えんえんと葬式だかなんだかの行列がゆっくり踊りながら進むシーンがあって、そのときもう限界となってしまって、トイレに走っていったのだが、帰ってきたらまだその行列のシーンが続いていたということがあった。それならそれでいいのだが、進行の早い映画だと、やっぱり困る。

 で、2時間越える映画は行かないことにしたが、そのうち、2時間越えない映画も行かなくなってしまって、今に至るわけである。

 トイレだけではない。割と最近行った映画館では、場内はガラガラなのに、すぐ近くに座った若い男が、上映中ず〜っと、ポップコーンを食べていて、気になってどうしようもなかった。いったいどうして映画を見ながらポップコーンを食べるのだろうか、と長いこと疑問だったのだが、あれは、映画館が収益を上げるためだということをどこかで読んだ。あれを売らないとやっていけないというのだ。そんなことってあるだろうか。しかしまあ、ポップコーンっていうヤツは、ほんの少量のコーンが大量のポップコーンに変身するわけだから、綿菓子と同じで、ボロもうけの商品であるから、頷ける話ではある。

 そういえば、ぼくが子どもの頃の映画館では、映画の合間に(もちろん3本立てとか2本立てだったので)、「おせんにキャラメル〜」とかいって、売り子が歩いていたものだ。キャラメルはともかく、おせんべいは音がうるさかっただろうが、ポップコーンのように長持ちしないから、「音害」は少なかったかもしれない。

 あの頃は、映画館の中はもちろん「禁煙」なんかじゃなかったから、映写機から一筋流れる青っぽい光には、タバコの煙が得も言われぬ渦模様を描いていて、映画の中身より、そっちにうっとりしていたのかもしれない。

 今じゃ映画館も、1本終わると外へ追い出される世知辛さだが、ぼくが大学生のころは、ロードショーであっても、何度でも見ることができた。だから映画が始まって1時間も経ったころに入って、終わりまで見て、そのまま座っていて最初から見て、あ、ここからは見たというところで外へ出るということもずいぶんあった。それでちゃんと見た気分になれたのだから不思議である。ネタばれなんてもんじゃない。

 最初から入ったのに、2度見たことも何度もある。ぼくが大学生当時、つまり、1970年前後は、特にイタリア映画がやたら元気で、パゾリーニやら、ビスコンティやら、フェリーニやらといった大御所の新作が続続と公開された。映画館は、日比谷にあった「みゆき座」とほぼ決まっていた。パゾリーニの映画なんて、一度見ただけじゃさっぱり分からないものがあって、「テオレマ」などは、その最たるもので、2度見た。それでも分からなかった。

 その最後のシーンときたら、主人公の男が、駅で突然全裸になって、両手を挙げて叫びながら歩いていくというもので、最前列で見ていたぼくの隣に座った若いサラリーマン風の男たちが画面を指さして大声でゲラゲラわらったのをよく覚えている。そのシーンは、砂漠を裸で歩いていく男とモンタージュされるので、意図はむしろ分かりすぎるのだが、そこまでの展開がワケ分からないので、男たちがゲラゲラ笑ったのも、しょうがないかもしれない。

 しかし、そんなことより、あの「みゆき座」が、最前列まで埋まるほど人に溢れていたことが、むしろ驚きをもって思い出される。パゾリーニなんぞという、今からすれば、超マニアックな映画監督の作品でさえ、みんな、サラリーマンも学生も、押しかけたのだ。あの熱気は、いったい何だったのだろう。

 パゾリーニを、ポップコーン食べながら見てるヤツなんて、どこにもいなかった。そんなもん食べてる暇はなかった。あの頃は、みんな映画を食べていたのだ。

 


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木漏れ日抄 112 『光る君へ』──みとれてしまう

2024-10-05 14:33:24 | 木洩れ日抄

木漏れ日抄 112 『光る君へ』──みとれてしまう

2024.10.5


 

 『光る君へ』を見ていて、一番感じるのは、とにかく画面がキレイだということ。昨今のテレビの性能のせいもあるけど、とにかく美しいの一言だ。

 誰かがどこかに『光る君へ』のよさは、「画面の明るさ」だということを書いていたけど、同感だ。ほんとは、当時の部屋の中などは、薄暗かったに違いない。御簾(みす)なんかおろしたら、電灯を消してカーテン閉めきってるようなもんで、部屋の奥なんてどうなってるかわからないほど暗くて、人の顔なんかよく分からなかったろう。まして、やんごとなき天皇のご尊顔など、うすぐらさの中にぼんやり見えた程度じゃなかろうか。

 それが、一条天皇など、その超イケメンのお顔が、まるでレンブラント光線にでも照らされているかのように(これも誰かが言っていたっけ?)、やわらかく、しかも、はっきりと見える。照明スタッフの努力の結晶だ。しかも、それがちっとも不自然に感じられない。

 ネット界隈では、きっと、「平安時代の部屋の中ってもっと暗かったんじゃね。」みたいな言葉が飛び交っているに違いない。そういうことをしたり顔にいう輩が最近多いが、じゃあ、当時と同じくらいの明るさ(暗さ)で画面を作ったら、それでいいのかってことだ。そんなの見ちゃいられないだろう。なんにでも、「そのころはそうじゃないだろ」って言わずにはいられないのは、昨今のネット民だが、そんなことより、そんなことは百も承知のうえで、では、どうしたらより美しく、また当時の現実感を再現できるだろうかと考えるところにドラマ制作の醍醐味があろうというものではないか。

 まあ、そうはいっても、けっこう「うるさ型」のぼくだが、かのネット民ほどの違和感を感じないのは、あの明るさが、『源氏物語絵巻』の再現に違いないと思うからだ。『源氏物語絵巻』を見ると、どこにも影なぞない。部屋の隅々までくっきりと見える。あれだ。

 そればかりではない。『源氏物語絵巻』は、斜め上からの構図をとることが多いが、それを意識したのか、ある回で、女房たちの「局(つぼね)」を、真上から移動撮影した。このシーンには驚き、感動した。そうか、「局」って、こういう構造になっていたんだとか、思っていたよりずっと狭くて、隣の女房のイビキまで聞こえてきたんだとかいったことが分かってすごくおもしろかった。この「局」の「思っていたより狭い」ということは、脚本家もびっくりしたのか、確か藤原道綱に、「へえ、ずいぶん狭いんだね。」みたいなセリフを言わせている。ぼくも道綱に共感した。

 このドラマの美術スタッフは、『源氏物語絵巻』とか、その他の絵巻物を丹念に調べ、部屋の構造から、調度品や衣装まで、細かい時代考証をしてそれを丁寧に映像化していてとても貴重だ。いくつかのそうしたシーンを短い動画として、『源氏物語』などの授業で見せたいくらいだ。「図録」などより、どれだけ分かりやすいかしれない。

 庶民の暮らす「郊外」の明るさも印象的だ。(『信貴山絵巻』とかいった絵巻物などを参照しているのだろうか。)「まひろ」が、ひょいひょいと出かける「郊外」では、芸能者たちが藤原氏をおちょくる歌を歌って舞う。それをおもしろがって見物する「まひろ」。貴族たちの住む邸宅の周辺には、そうした「郊外」が広がっていたことも、「室内劇」中心の『源氏物語』ではイメージしにくい。もっとも、「夕顔」の巻などでは、そうした「郊外」にある廃屋が舞台となるのだが、宮廷との物理的な距離感が、なかなかつかみにくいものだ。

 そんな意味でも、平安時代の物語を読むうえで、とても参考になるドラマなのだ。

 光があれば影もある。このドラマの影もまた美しい。「五節の舞」のシーンなどは、光と闇のコントラストが素晴らしく、まさに色彩の饗宴で、思わず見とれてしまった。道長と「まひろ」がともに過ごす月夜の晩とか、石山寺でであった二人が結ばれる夜とか、闇そのものも美しく表現されている。これもみとれた。

 毎回「みとれる」、『光る君へ』である。

 

 

 


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木洩れ日抄 111  劇団キンダースペースレパートリーシアターVol.53「中島敦・光と風の彼方へ」────閃光のような言葉

2024-10-01 21:03:36 | 「失われた時を求めて」を読む

木洩れ日抄 111  劇団キンダースペースレパートリーシアターVol.53「中島敦・光と風の彼方へ」────閃光のような言葉

2024.10.1


 

 昔、まだ教壇に立っていたころ、中学生にむかって、「世界を二種類に分けるとしたら、何と何になると思う?」と聞いたことがある。生徒たちは、「男と女」とか、「陸と海」とか、「生物と無生物」とか、ありとあらゆるものを挙げていたが、「全部違うよ」と、ぼくは余裕シャクシャクで、「答はね、『自分』と『自分以外』だよ。」と言った。生徒はキョトンとしていたが、果たして、そんな独我論的な答が、答と言えるのかどうかあやしいものだ。もっともっと根本的な分類があるのかもしれないが、いまだにぼくはその答を否定することができないでいる。


 「ぼくらは、何でも見ることができるけど、自分だけは見ることができないよね。自分が消滅したら、世界はどうなっているか、ぼくらは知ることもできない。こんなもの、こんなものの『ありかた』って、他にはないでしょ。」みたいなことを得意になってしゃべったような気がする。今となっては、ただただ恥ずかしい。


 「自分」と「自分以外」に、世界を分けるということは、あまりにも「自分」中心すぎる考え方だ。「自分」だけが特別なもので、それ以外のものを並列に置いてしまうということは、「世界の理解」を危うくする。そして、意識の「半分」を「自分」に向ける、つまりは「自分とは何か?」という問題を最高位に設定してしまうところに、いわゆる「近代的自我」の問題があるわけである。

 原田一樹は、この芝居の招待状で、こんなふうに書いている。

 

 近代以降の文学は、「個人」の不安、存在の危うさが共通のテーマでした。少し乱暴な言い方ですが、16世紀のシェイクスピア、イプセン、チェーホフ、漱石、芥川、村上春樹も明らかにそこに創作的衝動の根幹があります。ある意味、中島敦の『山月記』もこの変奏といえます。けれどもその上で、主人公を「虎」にするという運びがあったでしょうか。一人中島敦だけがここに「前近代」という補助線を引いたという気がします。『木乃伊』や『文字禍』はその白眉で、短編ということを差し引けば、今後『ドン・キホーテ』なんかのように、世界文学として再評価されるかもしれません。

 

 ぼくが若いころは「自分」だけが特別な存在だし、その存在のありようは、「自分以外のもの」と、「まったく違う」という意識に捉えられ、疑いもしなかったのだが、数世紀も前から、それこそ「近代」がもたらした最悪の意識なのではないかという不安から多くの文学が生み出されてきたのだ。

 けれども、その不安は彼らの文学によって解消されるどころか、より深刻なものとしていまだにぼくらの心を覆っている。解決の糸口すらないとぼくには思われる。かつてのぼくはその「解決」をキリスト教に求め、信仰にも入ったのだが、自分の意固地な性格も災いして、いまだほんとうの「救い」を得たとはいえない状況にある。

 そういう状況の中で、芝居の終盤に、虚空に向かって放たれたような「私たちもまた、私たちが思う程、私ではありません。」という言葉は、まるで闇を貫く閃光のように輝いた。

 「私」というものは、「私」が思っているほど「私」ではない、という難解な言葉は、ぼくなりに言い換えれば、私たちは、「私」というものが疑うことのできない存在あるいは存在の「ありかた」だと思い込んでいるが、実は、それほど確実なものではないのだ、ということになるだろうか。

 「近代」においては、いかにして「私」を形成するか、いかにして「私」の存在をより崇高なものにするか、といった、「私をどういうものにしていけばいいのか?」が、生きる意味を問うことだった。しかし、もし「私」が、自分が思っているほどたいしたものじゃない、確実なものじゃないということになれば、そんな努力は意味を失ってしまう。別の言い方をすれば、楽になる。いいかげんに生きていけばいい、ということではないにせよ、「自分」が「世界」の半分を占めるという意識は消え、「自分」は「世界」の一部、あるいは断片にすぎない、ということなる。それならいっそ気楽だ。いつもいつも「自分」と対峙して苦しむことはない。もっと感覚を「世界」に向けて解き放ち、生きているという実感を楽しめばいい。

 中島は、そうした生き方を求めて、「前近代」の文学や「脱近代」を目指した文学や(たとえばカフカ。カフカを最初に見いだしたのは中島敦だと言われているらしい。)、老荘思想や、南洋の島の人々の生活にこころを向けた。そこに活路を見いだそうとしていた。しかし、ことはそんなに簡単ではない。「近代的自我」を持ってしまった、あるいは意識してしまった人間が、古代の人のような素朴さに回帰することなど至難のことだ。けれども、たとえ「虎」になろうとも、そこにしか活路はないと苦闘しつつ、中島敦は33歳の若さで死んでいったのだ……

 それが、原田一樹が今回の芝居で描き出した「中島敦」なのだと、ぼくは思う。

 『ある生活』『悟浄出世』『幸福』『無題』『山月記』といった作品を、順番に並べていくのではなく、その核心を剔り出し、他作品のそれと通底させ、そしてもちろん原田自身の考えたセリフや登場人物を加えて芝居として成立させるという困難な作業によって、中島敦の精神の神髄を舞台上に描き出すことを試みた。それが成功だったか、失敗だったかは、だれにも分からない。むしろ、「成功」とか「失敗」とかの概念そのものが、「近代」が生み出したものにすぎないのだ。

 「世界は理解するためにあるのですか?」という女学生の教師に対する問いかけの言葉は、この芝居を貫くもう一つの閃光だ。「理解する」とは、まさに「知性」によるもので、近代以降、多くの人間はこの世界を「理解」しようとして躍起になり、その結果、乱暴にいえば、「科学」が生まれた。今や宇宙の果てでさえ、「理解」されようとしている。いやそれどころか、人間がいなくても「理解」はできるようにすらなっている。読書感想文を、AIが書いてくれる時代だ。

 そのような状況の中で「世界は理解するためにあるのですか?」という問いかけは、ほぼ「世界は理解するためにあるわけはない。」という宣言に等しい。その宣言は、それじゃあ、どうすればいいんだ? という反論を遙か後方に残したまま、疾走する。どうすればいいだと? そんなことは知ったことか。おれが「世界は愛するためにあるんだ。」と言ったところで、おまえたちは、鼻で笑うだけだろう。それが「近代」だったんじゃないか。そしていまなおその「近代」は、亡霊どころか、生き霊として、俺たちにとりついているじゃないか。そう叫びながら、虎になった李徴は闇の中を疾走していく。その疾走感は、中島敦の精神を、坩堝のなかに入れてかき混ぜるような原田一樹の見事な作劇術から生まれたといっていい。

 ぼくはこの芝居を「理解」できたとは言いたくない。「世界」と同じく「芝居」も「理解」されるためにあるのではないからだ。むしろ、この芝居の随所にちりばめられ光を放った中島敦の言葉に、射貫かれ、心揺さぶられた。その言葉を発する役者の声、そしてその「肉体」に、心が震えた。そういうことを前にして、「理解」とは、もはや何ものでもないのだ。

 原田一樹は、中島敦の文学をどう芝居にするのか、ということについて、「まず中島敦が畏れていたことを畏れてみる他はない」と述べている。そうであればなおさら観客は、「理解」や「共感」を早急に求めるのではなく、やはり中島敦と共に、そして戯曲作者と共に、その畏れをじっくりと畏れてみる他はないだろう。そういう意味でも、この芝居の再演をぼくは切に願っている。

 最後に、この芝居によって、中島敦という作家に、今までに感じたことのなかった興味をそそられ、今まで何度も買おうとして買うことのなかった「中島敦全集」を買ったことにまでなったことに、改めて、原田一樹さんに感謝申し上げます。そしてまた、この稀代の意欲作に熱心に取り組み、見事に舞台化を実現した客演の俳優さんとキンダースペースの皆さんの努力に心からの敬意を表します。

 

 

 

 

 

 


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