北原白秋
昼ながら幽かに光る蛍一つ孟宗の藪を出でて消えたり
半紙
拾薪設食
おぼつかな嶺の薪を拾ふ間に苔の洞にや煙立つらん
半紙
【題出典】『法華経』32歌に同じ。
【題意】 拾薪設食
薪を拾って、食事を準備した。
【歌の通釈】
いったいどういうことか、山で薪を拾っている間に、苔の洞に煙が立つとは。
【考】
前歌と同様に、仏が阿私仙に仕えていた時の場面。「薪」は冬の題として詠まれるもので、また洞の煙を詠むのも冬の歌題の「炭がま」を念頭においての表現である。これも仏の阿私仙のもとでの誠心誠意の行を、冬の情景として詠んだもの。
(以上、『寂然法門百首全釈』山本章博著 による。)
日本近代文学の森へ (176) 志賀直哉『暗夜行路』 63 怒りの「正しさ」 「前篇第二 八」 その2
2020.11.22
信行の手紙は続く。
そして夜おそく、(―つは父上と会うのがいやだったので)帰って来ると、二十八日出しのお前の手紙が来ていた。俺はそれを読みながら、さすがお前らしく、参りながらも、その苦みから抜け出す路を見出そうとする気持に感心した。本統に随分苦しかった事と思う。しかしその苦みにまた添えて今度のような問題をいってやらねばならぬ事を考えると俺は全く気が滅入ってしまった。のみならず、俺はお前がお栄さんに対する申出をまだ断念してないのを見ると、これはもしかすると今度の問題でお前がその決心を一層堅くしはしまいかという不安を感じた。不安といっては済まぬ気もするが、実際俺にはそれは不安だ。お前のためにも不安だが、父上がそれから受けられる苦痛を考えると、変に不安になる。俺は本統に自分の無力を歯がゆく思う。全く板ばさまりだ。もし自分に力があればこんな事もどうか出来る事かも知れない。しかし俺にはどうする事も出来ない。父上は父上の思い通りに主張される。お前はお前の考に従って何でもしようとする。両方それは正しく、両方に俺はよく同情出来る。が、さて自分の立場へ帰って、それを考える時に、俺は本統にどうしていいか分らなくなる。
信行の「不安」は、結局は、父への配慮からくることがわかる。信行は「板ばさまり」だという。父も謙作も頑固で、自分の思いを貫こうとするが、信行には貫くべき「自分」がない。ただ父を苦しませたくない。あるいは、父と衝突したくないのだ。
信行はどうしていいか分からない。
全く俺は臆病なのだ。二、三年前一年ほど家を持たした事のある或る女とも、約束しながら、しまいに俺はそれを破ってしまった。これは恥ずべき事とは思うが、とても承知するはずのない父上との衝突が考えてもいやだったからだ。衝突はいいが、俺が勝ったとしても父上がそれで弱られる事を考えると、俺にはそれを押してやる気にはなれない。幸にその女も簡単に納得したからいいようなものの、こういう事はお前としては考えられない事かも知れない。それからお前がたつ前日にもちょっといったが、俺は今の生活をどうかして変えねばならぬという気を随分強く感じている。精しい事は長くなるから書けないが、あの時お前は「それなら直ぐ会社をよしたらよかろう」といったが、それすら俺には出来ない。今更にこんな事を書くまでもないが、どうして、こう弱いか自分でも歯がゆくなる。
どうしていいか分からないので、自分の弱みを書く。「家を持たした事のある或る女」との「約束」って、愛人だった女との結婚の約束ということだろうが、それも、父との衝突がいやでその約束を破ってしまう。そんなに父と衝突したくないのなら、最初から家など持たせなければいいじゃないかということだが、そんな理屈が問題なわけではない。信行は、とにかく自分の恥をさらすことで、自分の弱さを口実にして、謙作にお栄との結婚を諦めさせようとしているわけだ。なぜ、そんなに謙作とお栄との結婚を嫌がるのか。ほんとうに父のことを思ってなのか。どうもそれだけではなさそうだが、その辺ははっきりしない。そして、結論を述べる。
そこで仕方がない。俺は俺の希望を正直に書く。出来る事なら、どうかお栄さんの事を念(おも)い断(き)ってくれ。これは前の手紙にも書いた通り、必ずしも父上を本位にしていうのではない。その事は何故かお前の将来を暗いものとして思わせる。そしてなお出来る事なら、この機会に思い切ってお栄さんと別れてくれ。これは後になれば皆にいい事だったという風になると思う。それはお前の意地としては、なかなか承知しにくい事とは思う。が、それをもしお前が承知してくれれば吾々皆が助かる事だ。俺は俺の過失に重ねて、こんな虫のいい事をいえた義理でない事をよく知っている。が、俺の希望を正直現わせばこういうより他ない。
ここに至って、信行の「希望」がいったい何を願ってなのかがさっぱり分からなくなる。「必ずしも父上を本位にしていうのではない」というわけだが、じゃあ、「何故かお前の将来を暗いものとして思わせる」との言葉通り、謙作の将来を思ってのことなのかと思うと、「もしお前が承知してくれれば吾々皆が助かる事だ」と言う。「吾々皆」って誰なのか。「吾々皆」がどう助かるというのか。
要するに、信行や父や、その他の親族が、この結婚を快く思っていない。親族の恥だと思っているということだろう。世間から非難されるようなことを謙作にしてほしくない。それが本音であろう。
こうやって信行の気持ちを謙作側から見ていると、信行のずるさばかりが目に立つわけだが、しかし、世の中ってこんなもんじゃなかろうかという気もするのだ。何かをしようとすると、決まって反対するヤツがいて、ああだこうだと理由をつけてくる。それがどこかすっきりしなくて、どうして反対なのかが分からない。いろいろ挙げてくる理由を分析しても、どこに焦点があるのか分からないままだ。しかし、反対だという意志だけは、妙に強固で、揺るがない。その訳の分からない「反対」の奥の奥にあるものは、結局はエゴイズムだと思うのだが、それが絶対に表面には出てこないのだ。
そう考えると、信行の場合は、そのエゴイズムが比較的みえているので、まだカワイイとも言えるのかもしれない。
さて、謙作は、この手紙を読んでどう思ったのか。「不快」に決まっているが、まあ、見てみよう。
謙作は漸く、この彼には不快な手紙を読みおわった。そしてやはり彼は何よりも父の怒りに対する怒りで一杯になった。しかも彼は自分の怒りが必ずしも正しいとは考えなかった。同様に父の怒りも正しいとは考えられなかった。
とにかく彼は腹が立った。愛子の事に、「そういう事は自分でやったらいいだろう」と変に冷たくいい切った父が、何時か彼には浸み込んでいた。そしてその時はそれをかなり不快に感じたが、段々には彼は「それもいい」という風に考えるようになった。それ故、今度の場合でも父が不快を感ずる事は勿論予期していたが、それほどに怒り、それほどに命令的な態度を執るという事は考えていなかったから、何となく腹が立って仕方なかった。
謙作の、あるいは志賀直哉の面目躍如だ。いきなり「不快な手紙」と来る。しかしその後の「怒り」は複雑だ。
謙作はまず「父の怒りに対する怒り」を感じたわけだが、その自分の怒りと父の怒りの「正しさ」を信じられない。それは、まず父が「不快」には思うだろうとは予想していたが、そんなに怒るとは思っていなかったということがあるらしい。父の激怒は、謙作には「意外」だったのだ。なぜ、そんなに怒るんだろう。関係ないでしょ、あんたには。愛子との結婚の件も、勝手にしろと冷たかった父だから、そんなふうに激怒するとは思っていなかったというのだ。
改めて考えてみる。自分の女房を寝取った父親が囲っていた妾と、女房が父親との間にできた子どもが結婚するということに対して、「ふざけるな!」って怒ることがそんなに「意外」なことだろうか? 話が複雑すぎて、感情も込み入りすぎて、ぼくだったら、もうどう反応していいか分からないってところだけど、取りあえず、「ふざけるな! なにやってんだ! おまえたちは!」ってぐらいは思うだろうと思う。それを細かく分析すれば、謙作は、父にとっては、淫乱な女房の子どもで、したがって女房の同類で、その父の父はまさに淫乱な唾棄すべき男で、その男が妾にしたお栄だって淫乱な女で、つまりは、淫乱な女房の息子が、淫乱な親父の淫乱な妾と結婚だって? って話になる。やっぱり、「怒る」でしょ。それは。誰に対して、というのではなくて、そうした状況そのものに腹が立つ。激怒する。人間として当然という気がする。
だからこそ、謙作は父の怒りに対する自分の怒りが「正しい」とは思えないわけだ。けれどもまた父の怒りも「正しい」とは思えない。それは、少なくとも自分のお栄に対する愛情には一片の淫乱さもないと信じているからだ。
しかしである。そもそも、自分の出自が分かったあとに、なお、謙作はお栄と結婚することに拘っているのはなぜなのかということが気になるのである。信行はそれは「意地」だというのだが、もちろん、謙作にとってはたぶん意地ではない。お栄に対する愛情は、一緒に生活しているうちにごく自然に生じた愛情なのだと思われる。もうすこし実情に即したことを言えば、一緒に暮らしているうちに謙作はお栄に情欲を感じるようになった。その情欲を満足させるためには結婚しかないと思った、ということもある。もちろん情欲だけの問題ではないが、やはりそのことは大きいし、それは前にはっきり書かれていたことだ。
しかし、そうだとしても、自分が祖父の子であることを知った今、その妾であったお栄と結婚することにためらいを感じるほうが普通だろう。それを諦めないというところに、謙作の不思議さがある。自分の愛情が純粋であればそれで十分で、その他のことは考慮の余地はないということなのだろうか。そうだとすれば、ずいぶん子どもっぽいことではある。
そういう謙作に対して、ああ、もうやめてよ、これ以上ゴチャゴチャするの。もうほんとにメンドクサイよ。勘弁してよ。という信行の気持ちも痛いほど分かるわけである。
ここで謙作がお栄とさっぱり縁を切って別れてくれれば、「皆が助かる」というのも確かなことで、いっそ読者も助かるっていいたいところである。
それにしても、怒りが「正しい」か「正しくない」かを考えてもしょうがないのではなかろうか。そういう「分別」を離れたところに怒りは生じるもので、だからこそまた怒りは純粋であるともいえるのだ。確か三木清がそんなことを言っていたように思うのだが。
王勃
「送杜少府之任蜀州」より
海内存知己
天涯若比隣
半切四分の一 × 2
●
初唐時代の王勃(おうぼつ)の五言律詩の一節で、
中国では非常に愛されている詩句のようです。
全文は以下のとおり。
送杜少府之任蜀州
城闕輔三秦 風烟望五津
與君離別意 同是宦遊人
海内存知己 天涯若比隣
無為在岐路 兒女共沾巾
【書き下し文】
杜少府(としょうふ)任に蜀州に之(ゆ)く
城闕(じょうけつ)三秦(さんしん)を輔(ほ)とし 風烟(ふうえん)五津(ごしん)を望む
君と離別の意 同じく是れ宦遊(かんゆう)の人
海内(かいだい)知己(ちき)存す。 天涯比隣の若(ごと)し。
岐路に在(あ)りて、兒女(じじょ)と共に巾(きん)を沾(うるほ)すを為す無(な)けん。
【口語訳】
君はこの長安城を去って、これより風烟はるかな蜀の地に赴任してゆかれる。
君と別れる悲しさも、互いに士官の身であれば、会うては離れるのもやむを得ぬさだめであろう。
四海の内に、君という知己があると思えば、たとえ身は各々天の一方に離れても、隣にいるも同然だ。
分かれ路に望んで、女子供のように、涙で巾をうるおすようなことはすまい。
《新釈漢文大系 唐詩選 目加田誠著》による
日本近代文学の森へ (175) 志賀直哉『暗夜行路』 62 父の激怒 「前篇第二 八」 その1
2020.11.15
謙作はあの手紙から受けた衝撃からなかなか立ち直れない。元気になったかと思うと、参ってしまうということを繰り返した。
謙作は牡蠣の中から出てきた小さい真珠を咲子(姪)に送った。咲子の礼状と一緒に兄の信行からも手紙が届いた。この手紙がまた波乱を起こすのだった。
信行はこう書きだしていた。
困った事が起った。俺はお前に済まない事をしてしまった。自分の浅慮からお前に思わぬ不快と迷惑を与える結果になった事をあやまらなければならない。俺はその事で生れて初めてといっていい位烈しい衝突を父上とした。その結果はやはり思わしくない。
信行は、確かに父親とは衝突することなく暮らしてきた。その信行が父と「生れて初めてといっていい位烈しい衝突」をしたというのだ。
それは、信行が、謙作の結婚の意向を父に話してしまったからだった。父に直接話したのではなく、母に話したのだが、それが父に伝わってしまった。父は激怒した。
最初俺は何がそれほどに父上を怒らしたか解らなかったほどだ。俺はそんな父上を初めて見た気がした。「そんな事は断然ならんから。お栄は今から直ぐ解雇してしまえ」こんな風にいわれた。今になれば、俺にも父上の気持はよく解る。何がそれほど父上を激怒させたか、それを想うと、涙が出て来る。それは、お前に対する怒りでも、お栄さんに対する怒りでもない。そういう間違った事(この言葉は父上の言葉だが)に対するそれは激怒なのだ。が、俺はその場にあって、其処まではつい考えられなかった。
自分の妻がこともあろうに自分の父親と関係して子どもまで出来たことだけでも許せないことなのに、しかもそれをなんとか我慢して許したのに、その父親の妾だったお栄とその不義の子どもが結婚したいと言い出したなんてことを聞いて、ま、それもまたよかろう、なんて言う男がいるだろうか。「何がそれほどに父上を怒らしたか解らなかった」と信行は言うわけだが、この鈍感ぶりにはびっくりする。
信行は初めて見る父の激怒にすっかりうろたえてしまったが、すぐにこれは謙作に対して申し訳ないことになったと気づいて、なんとかお栄を「解雇」するなんてことは思いとどまってほしいと父に訴えたのだが、それがまた父を激しく刺激した。
「貴様までがそんなことをいうか」父上は机の筆筒を、いきなり俺の膝の前へたたきつけられた。その時筆箇の底にあったペン先が、どうしたはずみか一本畳へささった。俺はそれを見詰めながら、これはとても今話した所で駄目だと思った。それでも俺は、「そんな事を仰有(おっしゃ)っても、謙作が承知しますまい」といった。「いや断然それは俺が許さん」と父上はいわれた。仕方がない、俺はそのままその場を切り上げたが、後で亢奮が少し静まると、初めて俺には父上の気持がハッキリ映って来た。俺は何年ぶりかで泣いた。そして自分でつくづく馬鹿だと思った。俺の浅慮は一度にお前やお栄さんに思わぬ迷惑をかけ、父上には漸く忘れかけた苦痛を呼び起してしまったのだ。どうか俺を余り責めないでくれ。いうまでもなく、それは全く悪意からではなく、浅慮からの過失だったのだ。
筆筒を投げたらその筆筒の底にあったペン先が畳のうえに突き刺さった、というのが、なんともリアルだ。ペン軸についたままのペン先が突き刺さったのではなく、ペン軸についてない、「筆筒の底にあったペン先」が突き刺さったのだ。普通ではまず考えられないことだ。その畳に突き刺さったペン先を「見つめながら」、信行はこりゃだめだと思ったという。どうしようもない父の怒り。言葉にならないほどの父の怒りと痛み。それが畳に突き刺さったペン先によって形象化している。見事としかいいようがない。その鋭い怒りと痛みを前にしては、信行の謝罪の言葉も力を失う。
信行はその後も、ことの次第をくどくどと書き連ねる。同じ晩に父に会ったときも、父の言い分は変わらなかったこと。そしてその言い分を自分は承知してしまったこと。その言い分とは、
表面上の理由はこうだ。お前がそうして尾の道にいる以上、別に東京に家を持っている必要はないし、お栄さんとしても、永久に一緒にいるはずの人でないのだから、早く一人になって、生涯安心の道を立てた方がいいだろうというのだ。で、お栄さんのためには父上は前からそのつもりでいたように、二千円だけの金をあげるというのだ。俺は二千円ばかり、今時どんな商売をするにしても足りはしないから、五千円位出して頂きたいといったのだ。父上はなかなか承知されなかったが、しまいに三千円だけ出すという事になった。こんな事まで書くのはお前の気を悪くする事に違いない。しかし万々一、お前の気持が変って、これを承知する場合がないともいえないので、こんな事も決めたわけだ。
つまりお栄の「解雇」は、二千円の手切れ金で解決しようというのだ。信行はそれを五千円にしろと要求したが、結局三千円でまとまったという。こんなこと、謙作が気を悪くするに決まってるって思いながら「万々一、お前の気持が変って、これを承知する場合がないともいえないので、こんな事も決めたわけだ。」なんていうのだ。
ずいぶんと失礼な話ではないか。父が二千円でどうだ、って言ってきたら、冗談じゃないですよ。謙作がそんな金を受け取ると思いますか? って反論すべきところだろう。それもできないで、じゃあ五千円、じゃあ三千円、って、いったい何なの? ってことだ。
とにかく三千円で話はまとまったので、信行はお栄に「報告」に行った。
だから、俺のはむしろただその報告に行ったのだ。──そこで露骨にいえばこういう事になる。父上の命令的ないい条は、それを認める認めないは実はお前たちの勝手なのだ。ただ認めないとなると、お栄さんの受取るはずの金を請求する事はちょっと困難になりそうだ。これだけだ。俺はその事も、少し露骨だったがお栄さんにハッキリいったのだ。しかしお栄さんはそれに対し、何もハッキリした返事はされなかった。無論大した金ではないが、お栄さんのような境遇の人にとって、そう冷淡ではいられなかったに違いない。お栄さんからすれば、自身お前と結婚しようとは思っていないから、早晩お前が誰かと結婚した場合、別れる事に変りはないと考えられるのが本統らしい。ただそれは時期の問題だ。今、直ぐ別れるか、他日かという。しかし金の方は今なら受取れるが、他日では駄目だとなると、これは問題が変って来る。それ故お栄さんは自身のこれからを考えれば、父上のいわれるように今お前と別れるのがいい事にもなるのだが、またまるで異(ちが)う気持から、今お前と引き離される事は随分つらいらしく、それは俺の眼にも見えた。
この文面では、いったいお栄は金が欲しかったのか、欲しくなかったのか、まるで分からない。信行が「無論大した金ではないが、お栄さんのような境遇の人にとって、そう冷淡ではいられなかったに違いない。」と推測するだけだ。(それにしても何という慇懃無礼な言い草だろう。)その推測にのっとって、さあ、すぐに別れるか、ぐずぐず引き延ばすのか? すぐに別れれば三千円だ、伸ばせばゼロかもしれないぞ、と脅しているようなものだ。
そもそも、いきなり金の話を持ち出すのが下卑ている。そんなことは後回しで、お栄の気持ちを聞くことこそ第一ではないのだろうか。信行の気持ちはとにかくお栄を追い出すことに向かっているわけである。
お栄の答は、分からないということでしかなかった。
「私には解りませんわ。何事も貴方と謙さんにお任せ致します」こうお栄さんはいわれた。実際そうとよりお栄さんとしたらいえない事だ。結局ハッキリした事は何も聴かずに帰って来たが、お栄さんはお前がまだ尾の道にいるようならば、一人でこんな家住んでいるのは贅沢過ぎるから、とにかく最近、もっと小さい家に引越したいと、それを頻にいっておられた。で、俺もその事は賛成して来た。
信行の手紙はまだこれで終わりではない。謙作とお栄の結婚についてどう自分は思っているのか、などということを更にくどくどと続ける。その内容は、要するに、お栄との結婚は諦めてほしいということに尽きる。その詳しい内容については次回。