日本近代文学の森へ (15) 岩野泡鳴『泡鳴五部作(1)発展』その4
2018.5.29
父親の跡を継いで下宿屋の主人になった義雄は、下宿屋の経営は妻に任せて、自分は一階の部屋を自分の書斎としてたてこもる。思う存分そこで文学活動をしようというのである。貧乏だというけれど、家だけはちゃんとある。今からみれば贅沢なものである。その部屋の描写を引いてみる。
田村のお母屋の裏廊下と云ふのは、一直線に五六間ばかりあつて、便所のあるところとは反對の端から、また曲つて四五間ばかりの縁がはが付いてゐる。その鍵の手に當る四疊半が──家の代が代つた時までそこにゐた客を二階へ追ひやつて──義雄の占領するところとなつた。
かどから直ぐ手前が半間の壁で、それから二枚障子がはまるやうになつてゐる。曲つた奧のがは、乃ち、東向きの方は一面に明いて四枚障子となつてゐる。あかりを取るには不足がない筈だが、取りまはしてある庭がたツた二間幅しかないところへ持つて來て、北隣りの寺の池が見える方の境が密接した生け垣になつてゐて、その向ふ側には五六本の杉の木と一本の大きな櫻とが目隱しに並んでゐるし、こちらにも亦二階の家根に達するほどの梅の木が二本ある。
四畳半という狭さで、日当たりも悪そうだが、それでもここにたてこもれば、思う存分勉強はできる。
父が世界のどこかに生きてゐると思へば、まだそれでも何となくたよりにしてゐたのだが、いよいよゐないとなると、義雄は全く孤立で、孤獨なのを感じられる。
孤立孤獨は義雄の趣味でもあり、また主張でもある。それが爲めに落ち付いて古今の書も讀破できた。然しこの頃のやうに滅入つてゐることも少い。○○商業學校──そこへ、六年前に、滋賀縣の中學教師をよして、轉ずる爲め上京して來たのも、死んだ父から云ふと、百日間虎の門の琴平樣へお願ひした結果ださうだが──そこへ英語を教へに行く時間に外出するだけで、あとは、自分の書齋に引ツ込んでばかりゐる。家のものとは話しも碌にしない。そしてたまに口を開らけば、おほ聲の小言だ。
子供などはぴり/\恐れてゐて、父がそとから歸つたのを見ると、直ぐ母の蔭へ隱れてしまう。
「餘り叱るから、かうなんです」と、千代子は訴へた。
「なアに、母の仕つけが惡いのだ」と、義雄は一喝してしまう。
そして渠は食事を妻子と共にせず、朝飯でも晩飯でも獨り自分の書齋で濟ませるのである。
渠は、一度自分が目を通した書物へは、赤鉛筆やむらさき鉛筆で所々へ線を引くのである。そしてそれが記憶を呼び起すしるしになるので、なか/\手離すことをしない。
「おれの妻子は書物と原稿だ。」渠はいつもかう云つてゐるが、通讀もしくは熟讀した書物は積り積つて何百册かになつてゐる。千代子が轉居の問題の起る毎に億劫がるのは、本の爲めに引ツ越し費の過半を取られるからである。
然し行くところとして、家主から子供のいたづらがひどいからと云つては斷わられたり、家賃が餘りとどこほるからと云つては追ひ出されたりすると、その度毎に運び行かれる荷物は、古い箪笥一つとこざ/\した切れを入れた行李三つと臺どころのがらくた道具との外は、すべて書物の包みだ。
「おウ、重い」と、どんな巖丈な人夫でも、それを持ち上げて驚かないものはなかつた。
まあ、ぼくなんかは泡鳴ほどの勉強家でもなかったし、また野心もなかったけれど、それでも数回した引っ越しでの「本の重さ」には参ったものだ。それにしても、泡鳴は、ほんとうに勉強家で、膨大な書物をきちんと読んでいるのだ。
泡鳴の有名な評論『神秘的半獣主義』を読むと(まだ、ほんのとば口だけ読んだに過ぎないが)、その膨大な読書量に圧倒される。「神秘主義」の考察にあたり、参照している作家は、メーテルリンク、エメルソン(エマーソン)、スヰデンボルグ(スエーデンボルグ)、ショーペンハウエルなどに及び、その思想をかなり的確に捉えている様子がうかがわれるのである。まだ翻訳が出ていない本も多かったと思われるから、原文やら英語やらで読んだのかもしれないが、そのためには、妻も子どもも眼中になかったのは、ある意味やむを得ないことであったろう。あるいは、妻子などほったらかしだったからこそ、これらの本を読破できたということだろう。
思えば、この泡鳴の自己中心的な生活態度は、ぼく自身の若い頃のそれであった。特に、教師となったころのぼくは、この「教職」に失望し、何とかこの職業から脱出したいと思ったものだ。そのために、何の役に立つのかもわからないままに、学校から帰っても「書斎」に立てこもり、ひたすら本を読んだり、書き物をしたりしていて、ほとんど妻子をかえりみなかった。(就職の翌年結婚し、すぐに子どもができたのだ。)その時期の妻の苦痛は、後年なんども妻自身から聞かされたが、取り返しのつくものではなかった。だから、こうした泡鳴の生活態度は、身につまされて、ぼくは単純には非難できないのだ。
夫婦喧嘩はどこまでも続く。義雄は相変わらず言いたい放題だが、妻の千代子も言いたいことはちゃんと言っている。
「諭鶴(ゆづる)も、あんな總領息子ぢやア仕方がありません、ね──あなたと同樣、わが儘一方で。」
「おれは親不孝であつたから、自分の子供から孝行をして貰はうとは飽くまで思はないのだ。」
「あなたは」と、千代子は所天〈注:しょてん=夫のこと〉を横目に見て、その方に向つて右の手の平で空を下に拂ひ、「それでいいかも知れませんが、わたしが困ります。」
「お前の困るのアお前の心掛けが惡いからだ。」
「またそんなことを!」千代子は斯う調子に乘つたやうに答へてから自分の育兒の苦心に對して所天がおもてへ出して同情したことが少しもないこと。この末ともまだ長い子供の教育時期を、自分ばかりの手では、本統にどうすることもできないこと。所天のそばにゐられるだけ、まだしも子供と自分は末の望みがあるやうだが、若し皆が一緒に棄てられるやうなことがあると、三人の子に老母をかかへて、どうなつて行くだらうと云ふこと。たとへ、この家だけは子供の爲めに預かつて、この商賣をつづけて行くとしても、さうしたら、田村の方の繼母や弟までの身の上も引き受けなければならないこと。所天の取つて來る金を注ぎ込んでも、たださへ不足勝ちのところへ持つて來て、それが若し出なくなるとすれば、とてもやり切れるものではないこと。何と云ふ因果な身になつたのだらう、今さら、この年になつて、よし棄てられても、よそへ片付くやうなこともできないこと。などを語つた。そしてその顏を所天から反むけ、兩手を繩のやうになつた黒繻子と更紗の晝夜帶の間に挾み、頻りに考へ込んでゐた。が、こちらが餘りに何とも云つてやらなかつたので、立ちあがつて、左りの手に帳面とそろばんとを持ち、右の手で藍地の浴衣の前を直しながら、
「まア、行つてやりましよう、子供が待つてるだらうから。」
「‥‥」かの女の引ツ詰つた束髮や、色氣のない着物が神經質の段々高まつて行く顏を剥き出しにして見せるので、義雄は少しあふ向いて最も侮辱の睨みを與へた。
「その婆々じみたつらを見ろ!」
「あなたに」と、千代子は恨めしさうにして、口のあたりをぴり付かせて、早口に、
「かうされたんですよ。」少しゆツくりして、「あなたのせいですから、こんな」と、顏を突き出し、「お婆アさんでも──」可愛がつて下さいと云ひかけるらしかつた。
「鬼子母神のつらだ!」義雄の叫びが頓狂であつたので、千代子は色を變へてからだを引いた。そして物やはらかになり、
「鬼子母神でも、何でも、わたしは子供には女王のやうなものですから、ね。」
「そんな下らない興味に釣り込まれて」と、義雄は兩肱を机に突いて、見向きもせず扇子を動かしながら、「遂に婆々アになつてしまうのを知らないのだ。」
「あなたも段々ぢぢイじみて來た癖に。」
「そりやア上ツつらのことで──精神は反對に若々しくなつて來た、さ。」
「七つさがりの雨は止まない〈注:七つ下がり(午後4時過ぎ)から降り始めた雨はなかなかやまないことから、四十過ぎ(中年過ぎ)から覚えた道楽はなかなかやめられない、ことのたとえ」〉と云ふのがそのことなら、ねえ──」
「‥‥」そんな警句をどこから覺えて來たと云はないばかりに、義雄は妻の方をふり向くと、千代子は立つたままにやりと笑つて、例の通り、出た齒の上齒ぐきの肉までも見せてゐる。「その表情の卑しさを見ろ!」渠はまたかう叫んで、目を反らした。「もう行け、行け!」
仲の悪い夫婦というのは、こんなものなのだろうか。見ず知らずの他人同士が結ばれて夫婦となって身も心も許しあうのだから、いったんヒビが入ると、とめどなく憎しみ合うことになるのだろうか。
現代なら、こんな状況になったらさっさと離婚ということになるだろうが、千代子の言うとおり、別れた後の困難を思うと我慢するしかなかったのが、当時の女性というものなのだろう。