日本近代文学の森へ 260 志賀直哉『暗夜行路』 147 強烈なエゴイズム 「後篇第四 六」 その2
2024.5.7
千本の終点からは楽に乗れた。(その頃其処が終点だった。)戸外(そと)も夕方のように灰色をしていたが、電車の中は一層薄暗く、その上、蒸々して、長くいると、嘔気(はきけ)でも催しそうに思われた。
実際暫くすると、彼は湿気と《人いきれ》から堪えられなくなった。そして烏丸の御所の角まで来ると、急いで電車を飛降り、其所の帳場から人力に乗換えた。
岡崎の下宿では玄関に立つと、偶然二階から馳け降りて来た末松と向い合った。
直子の告白を聞いてから、家にいたたまれない思いから、謙作は末松に会いにいったようだ。
朝家を出る時も、「南風は生暖かく、肌はじめじめし、頭は重かった。」とあるように、謙作の心の中の状況は、湿気の多い空気や「人いきれ」と、それに対する謙作の肉体の反応によって描かれる。
こうした描き方は、普通のようにも思えるが、また志賀直哉独特のものにも思える。というか、こうした描き方は、志賀の「発明」じゃないかという気がする。検証はしてないけど。
謙作の「嘔気(はきけ)」は、電車の中の「蒸し蒸し」した空気によって催されるが、しかし、もちろん謙作自身の心の葛藤から生じていることも確かなのだ。末松に会ったときも、
謙作はその路次を出た。道の正面に近く見える東山は暗く霞み、その上を薄墨色の雲が騒しく飛んでいた。変に張りのない陰気臭い日だった。
という情景描写がある。謙作の内面が、風景そのものになっている趣である。それに続いて、一見なんのつながりもないような光景が描かれる。
公園の運動場で自転車競争の練習をしている若者があった。赤色のシャツ、猿股の姿で、自転車の上に四ツ這いになり、頭を米揚機械のように動かしながら走っていた。向かい風では、上体を全体右に左に揺り動かし、如何にも苦しそうだが、再び追い風に来ると、急に楽になり、早くなる。謙作は往来端に立ち、少時それを眺めていた。
末松が出てくるのを路地で待っている間に見た光景なのだが、どうしてこういう光景をここに書き入れる必要があったのか、不思議だ。自転車の練習をしている若者の姿に己の姿を投影したのか、などというのはうがち過ぎの読み方だろうけれど、それ以外に、この光景を書き込む必然性が見当たらない。
しかし、小説は論文ではない。「必然性」、つまりは「論理性」によって展開しなければならないということはないのだ。見えたから書く、それでいい。それでいいのだが、ただ、これはフィクションだ。だから、志賀直哉が「見た」というような単純なものではなく、作者志賀直哉が、謙作にこういう光景を「見せている」わけで、やっぱり、「それは何故?」と問いたくなるのもまたやむを得ない。
この奇妙な行動をする若者が、謙作の内面のなにかを語っている、というのではなく、内面に葛藤を抱えて吐き気すらおぼえている謙作が、この若者になぜか興味をもって、「少時それを眺めていた」という「事実」(フィクションの上での事実)が大事なのだ。「なぜ眺めていたのか」という問いはこの場合意味がない。「何故か」は分からないけど、「なにかを見つめてしまう」ということは、ぼくらの生活の中でよくあることだ。そして、「なぜか」が分からないまま、妙にその光景が長く心に止まり続けるということもまた多いものだ。
末松は、道具屋で見つけた「藤原時代の器」をいつか見てくれと謙作に言うのだが、謙作は、興味を示さない。
大津からの電車に乗る事にし、広道(ひろみち)の停留場で、其所のベンチに二人は腰を下ろした。
「下らない奴を遠ざけるのは差支えないが、時任のように無闇と拘泥して憎むのはよくないよ」末松は突然こんな風に水谷の事をいい出した。
「実際そうだ。それはよく分っているんだが、遠ざける過程としても自然憎む形になるんだ。悪い癖だと自分でも思っている。何でも最初から好悪の感情で来るから困るんだ。好悪が直様(すぐさま)此方(こっち)では善悪の判断になる。それが事実大概当るのだ」
謙作の「悪い癖」は、この小説全体を通じて描かれているが、それを端的に謙作自身の自覚として語る重要な部分だ。
「何でも最初から好悪の感情で来る」、そしてその「好悪の感情」がすぐに「善悪の判断」になる。それは、この「暗夜行路」の至るところでお目にかかってきたことだ。謙作は、それを「悪い癖」だというながら、「それが事実大概当るのだ」と結論する。
そして、このことを巡って、以下末松との議論が展開する。これは、むしろ謙作の内部の「自問自答」というべきものだろう。
「それは当ったように思うんだろう」
「大概当る。人間に対してそうだし、何か一つの事柄に対してもそうだ。何かしら不快の感情が最初に来ると、大概その事にはそういうものが含まれているんだ」謙作は昨夜水谷が停車場へ来ていた事、それが不愉快で、知らず知らず糸を手繰って行った自身の妙な神経を想った。
「そういう事もあるだろう。しかしそれを過信していられるのは傍(はた)の者には愉快でないな。何となく脅かされる。──少なくともそれだけに手頼(たよ)るのはいかんよ」
「勿論、それだけには手頼らないが……」
「気分の上では全く暴君だ。第一非常にイゴイスティックだ。──冷めたい打算がないからいいようなものの、傍の者はやっばり迷惑するぜ」
「…………」
「君自身がそうだというより、君の内にそういう暴君が同居している感じだな。だから、一番の被害者は君自身といえるかも知れない」
「誰れにだってそういうものはある。僕と限った事はないよ」
しかし謙作は自身の過去が常に何かとの争闘であった事を考え、それが結局外界のものとの争闘ではなく、自身の内にあるそういうものとの争闘であった事を想わないではいられなかった。
「つまり人より著しいんだ」と末松がいった。
謙作はこれまで、暴君的な自分のそういう気分によく引き廻されたが、それを敵とは考えない方だった。しかし過去の数々の事を考えると、多くが結局一人角力(ひとりずもう)になる所を想うと、つまりは自分の内にあるそういうものを対手に戦って来たと考えないわけには行かなくなった。直子の事も解決は総て自分に任かせてくれ。お前は退(ど)いていてくれ、今後顔出しするのは邪魔になる。──自分が直ぐこれをいったのは知らず知らず解決をやはり自身の内だけに求めていた事に初めて気がついた。実際変な事だと思った──
「自身の内に住むものとの争闘で生涯を終る。それ位なら生れて来ない方が《まし》だった」そんな意味をいうと、末松は「しかしそれでいいのじゃないかな。それを続けて、結局憂(うれい)なしという境涯まで漕ぎつけさえすれば」といった。
大津からの電車はなかなか来なかった。
*《 》は傍点部を示す。
「暗夜行路」の中核となる重要な部分だ。
「好悪の感情が善悪の判断」となってしまう謙作は、その「癖」を、「自分の中の暴君」と呼ぶ。(実際にこの言葉を発したのは末松だが)その「暴君」を、末松は「非常にイゴイスティック」だという。しかも、その「暴君」は、謙作自身ではなくて、謙作の中に「同居している」というのだ。
そして謙作は、こんなことを言う。「自身の内に住むものとの争闘で生涯を終る。それ位なら生れて来ない方が《まし》だった。」
痛切な述懐である。謙作は、自分の生涯をそんなふうに眺めている。なにか、切ないほどの実感がある。
人生は、所詮、「自身の内に住むものとの争闘」ではないのか、と、読むものに反省を強いるからだ。もちろんぼくにとってもそれはあてはまる。それが何かということは、謙作の場合のようにはっきりと言語化できないが、たしかに、自分の中に「どうしようもないもの」があって、それを否定したり、ある時は妥協したり、まれに肯定したりしてかえってまた酷い否定感情に陥ったり、そんなことを繰り返す人生だったなあと今にして思う。で、結局、その「決着」はついていない。「決着」がつかぬまま「生涯を終わる」ことになりそうだ。
それでも、鈍感なぼくは、「それ位なら生れて来ない方がましだった。」とは思わない。「それ位」でも、「生まれてきてよかった」と思えるくらいの、それこそ「境涯」に達しつつあるような気がする。しかし、それも「気がする」程度で、末松がいうように、「それを続けて、結局憂なしという境涯」には到底達しそうにないのである。
それはそれとして、直子の告白を聞いた謙作が、何と言ったかが、初めてここで明らかになる。それは驚くべき言葉だった。引用を繰り返す。
直子の事も解決は総て自分に任かせてくれ。お前は退(ど)いていてくれ、今後顔出しするのは邪魔になる。
謙作は、こんなことを言った自分自身を「変なことだ」と言っているが、「変」どころか、「非常に変」だ。
「直子の事」というのは「直子の過ち」のことだ。責任は直子にある。だからその「解決」は、まずは直子がどうするかにかかっているはずだ。それなのに、謙作は、直子の過ちについての「解決」を、自分「だけ」の問題として考えている。事実としては、「直子だけ」の問題でもなく、「直子と謙作の間」の問題なのだ。
「お前は退いていてくれ、今後顔出しするのは邪魔になる。」とは、なんというエゴイズムだろうか。これはオレだけの問題だ。オレが「妻に裏切られた」という事実から何をどう感じるかを、いや、感じることが「善悪」に直結してしまうオレをどう乗り越えるかを考えなければならない。そこにはもう、お前の存在はいらない。邪魔なのだ。オレだけに、取り組ませてくれ。そういう思いなのだろうが、これを言われた直子は、いったいどう思ったのだろうか。
過ちを犯した直子への「憎しみ」すら入る余地のないエゴイズム。直子にしてみれば、「憎まれ」「ののしられ」たほうがどんなに楽かしれない。憎しみ、憎悪を受け止めてこそ、直子の悔い改めは始まるだろう。その果てにあるのが謙作の「赦し」だったら、直子はどんなに救われるだろう。
しかし、「お前は邪魔だ」と謙作は言う。直子はこの問題から、除外されてしまったのだ。
つまり、それほどまでに謙作の衝撃は大きかったということだ。それは、謙作の出生の秘密にも密接にかかわる問題だったからだ。自分が祖父と母との間に生まれた「不義の子」だということが、謙作のこれまでの人生すべてを覆い尽くす暗雲だった。謙作の強烈なエゴイズムも、この暗雲から生まれでたのではないかと思うほどだ。
その暗雲から、直子との結婚でなんとか脱出できたと思ったのに、またもっと深い闇に包まれてしまったわけだから、謙作にしてみれば、もう直子どころではない。あっちへ行ってろ、オレは一人で戦う、そう言いたくなるのも、ある意味もっともなのだとも思える。
この強烈なエゴイズムから、謙作はどのようにすれば「憂なしという境涯」に辿りつくことができるのだろうか。その過程をこれから志賀直哉は書いていこうとしているのだろうが、果たしてそれはどんな過程なのだろうか。