Yoz Art Space

エッセイ・書・写真・水彩画などのワンダーランド
更新終了となった「Yoz Home Page」の後継サイトです

日本近代文学の森へ (170) 志賀直哉『暗夜行路』 57  「呪われた運命」 「前篇第二  六」 その4

2020-09-28 16:38:48 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (170) 志賀直哉『暗夜行路』 57  「呪われた運命」 「前篇第二  六」 その4

2020.9.28


 

 兄信行の手紙はつづく。


 俺はお前がそういう呪われた運命のもとに生れたと聴いた時、随分驚きもし、暗い気持にもなった。そして同じ同胞(きょうだい)でどうしてお前だけが別に扱われているのかという漠然とした子供からの疑問も解けた。そして俺はこの事はお前もきっと今は知っているに違いないと考えていた。長い間には何かでお栄さんがそれを知らさない事はあるまいと思ったし、それでなくてもお前自身そういう疑問を起したかも知れないと考えていた。ところが愛子さんの事で、お前が全くそれを知らずにいる事を知って実は俺も不思議に感じたのだ。俺は今日お栄さんと会ってこの事でも感心した。お栄さんは父上との約束を守ってお前に話さなかったのだ。「可哀想でそんな事、いえませんわ」とお栄さんはいっていられた。あるいはそれが本統かも知れない。しかし何れにしろ、この長い年月、遂に饒舌(しゃべ)らなかったという事は普通の女にはなかなか出来難い事だ。
 今になっていうが、愛子さんとの事も、調わない原因は全く其処にあったのだ。先方のお母さんは一方お前に同情していながら、いざとなると、其処までは出来なかったらしい。これはしかし慣習に従って考えるああいう人としては仕方がない。


 信行は、謙作がこのことを知っていると思っていたというのだ。その理由として、お栄がきっと謙作にしゃべっただろうと思ったからだということを挙げている。けれども、お栄は、「父上との約束」を守って謙作には話さなかったのだ。信行は、「普通の女にはなかなか出来難い事だ」というが、男にだってなかなかできないことだ。

 昨今、「女はすぐに嘘をつきますから」みたいなことを言って炎上している女がいるが、この信行の発言だって今なら炎上ものだ。ここでは「普通の女はすぐにべらべらしゃべる」ということを前提としてしまっている。「男は口がかたい」なんて、幻想以外の何ものでもない。とりわけおしゃべりが大好きなぼくのような男は、こういうことを、じっと黙って墓場までもっていくなんてことはできそうもない。

 女か男かは別として、こんな重大な秘密を、お栄が守り通したということはやはり立派である。それはお栄が「口がかたい」という以上に、やはり謙作への愛情が深かったからだろう。お栄にとっては、なんといっても、謙作は息子のような存在なのだ。

 この小説の冒頭あたりから出てくる「愛子とのこと」の顛末の不可解さは、ここに至って一挙に解消するわけだが、謙作の出自がこうしたものだったとしても、愛子は謙作の義理の従姉妹にすぎないわけだから(愛子の母は、謙作の母の姉妹だが、血はつながっていない。愛子の母は、謙作の母方の祖父母の養子である。)、結婚するには問題はないわけだが、「慣習に従って考えるああいう人」たる愛子の母は、「呪われた運命」の元に生まれた謙作に「同情」しつつも、「不義の子」である謙作と娘の結婚は認めるわけにはいかないと考えたのだろう。

 

 あの時俺はお前が少しもそれを知らずに一人苦しんでいるのを見て、これは苦しくても知らさねばならぬという気持にもなった。今いわなければきっと後でお前に怨まれるとも思った。しかし一方では実に知らしたくなかった。姑息といえば姑息な気持だ。それを知ったお前が、ただでも苦しんでいる上にまたそれで苦しむ事も堪らなかった。それから亡き母上のそういう事を暴露する事もつらかった。その上に一番俺に問題だったのはお前が小説家である以上、もし知れば、そしてその事で苦しめばなおの事、きっそれがお前の作物に出て来ないはずはないと思ったからだ。こういうとお前の仕事に如何にも理解がないと思うだろうが、俺としては今更に母上のそういう過失を世間に知らして、今、漸く老境へ入られようとする父上にまた新しく苦痛を与える事が如何にも堪えられなかったのだ。父上が独逸でその事を知られてからの苦しみ、そしてその苦しみから卒業されるまでの苦しみは恐らく想像以上に違いない。その古傷を再び赤肌にする、これは考えても堪らない事だ。これは全く俺の弱い所から来た考かも知れない。実際俺は段々年寄って行かれる父上をどういう事ででも苦しめるのは非常にこわいのだ。

 


 信行の苦悩のほどが忍ばれる。とくに問題なのは、謙作が小説家だということ。謙作は苦しめば苦しむほど、このことを小説に書くだろう。直接には書かなくても、なんらかの影響が出るだろう。それをもし父上が読んだらどう思うだろうか。そう信行は考えるのだ。

 小説家といっても、いろいろある。こんな私事を小説には書かない小説家だってたくさんいる。けれども、謙作は、最初から「私事を書く小説家」として設定されているのである。

 志賀直哉は、いわゆる「私小説作家」とは簡単には言えない作家だが、本格的な「私小説作家」ともなれば、周囲の者は、自分のことが書かれるんじゃないかとヒヤヒヤものだったのではなかろうか。親戚などたまったものじゃない。ずいぶん前にどこかで読んだのだが、尾崎一雄(だったかなあ)が小説を書くのに難渋していたら、奥さんが、「私が病気になりましょうか?」って言ったという話がある。まあ、ことほどさようだから、「私小説作家」の評判が悪いのも無理はない。

 謙作に知らさなかった自分を「弱いところから来た考」だとしながらも、信行は、次のようにも書くのだ。

 


 しかし同時にお前にも非常に済まない気でいた。殊にお前のような仕事をする者に、その者の持って生れた運命を故意に知らさずにいるというのは悪い事に違いない。愛子さんの事があった時にもお前がどうしても愛子さんを貰いたい、といい張ったら、出来るだけの事をして掛合って見て、それでもし駄目なら、その時は仕方がない、本統の事を打明けてお前に断念してもらおうと思ったのだ。ところが、幸にお前が思いきるというので実はほっとしたのだ。
 神戸の叔母さんが俺にそれを打明けた時に「呪われた運命」というような言莱を使った。そして俺もそんな風にやはり考えていたが、後には段々お前の運命をそういう風に考えるのは少し邪気のある小説趣味から来た考え方だと思うようになった。今後来るお前の運命がそのために必ずしも呪われると決った事はない。総てが無邪気に順調に進んだならば、そういう風にして生れた事も呪われた事にはならないのだ。俺は気軽に考えようとした。総ては過ぎ去った事だ。過去は過去として葬らしめよ。そして新しくよき運命を拓いて行けばいいのだ、と思った。ところがやはり愛子さんの事などではそれが祟ったので、少しは変な気持にもなった。しかしそれとてもそう大きく考える必要はないと思っていたのだ。が、今度お前のいい出した事で、もしそれをお前が押し通せば、これは少し危険だというような気がして来たのだ。そういう事が二重になる。それがとなく恐ろしい気がしたのだ。
 お栄さんが、いうのも、他の理由はとにかく、致命的にそれを否定される所は、そういう事が二重になるのを恐れてなのだ。

 


 「お前のような仕事をする者に、その者の持って生れた運命を故意に知らさずにいるというのは悪い事に違いない。」と信行は言う。

 小説家という者は、自分の生まれた運命と対峙し、引き受け、それを創作に生かしていくべきものではないかと、信行も思っているということだ。小説家ではない信行も、そのように小説家というものを考えているということは、やはり注目しておきたい点だ。

 「呪われた運命」というふうにばかり考えるのではなく、過去は過去として、「新しくよき運命」を切り開いていけばよい、という信行の考えは、おそらくこの後の謙作にも影響を与えていくのだろう。この後の謙作を襲う「運命」を考えると、そんな気がする。

 それはそれとして、この謙作の出生の秘密は、祖父と母の密通というただならぬ事態であることも事実で、その祖父の妾と祖父の子である謙作との結婚ということになると、「不義」ではないものの不自然極まることだろう。「そういう事が二重になる」というのは、やはり「恐れる」べきことには違いない。それだけは、お栄としても絶対に容認することのできないことだったのだ。

 信行の長い手紙の末尾はこうだ。謙作への深い愛情が感じられる。

 


 俺は大概の事は賛成したい。実際賛成出来た。しかし今度の事はどうしても俺には賛成出来ない。何か暗いものが彼方に見えている。見す見すにその中へ進んで行くのを見るような気がする。お前のお栄さんに対する気持には同情する。それを不道徳という風には考えない。しかし道義的の批判は別として、何だか恐しい。この感じは軽蔑出来ないもののように俺は思う。
 以上で大概書くべき事は書いた。俺はただこの手紙がお前に、どれほど大きい打撃与えるか、それが心配だ。直ぐ東京へ帰って来ないか。それが一番いい。俺が行ってもいいが、帰る方が早い。しかし俺に来て欲しかったら遠慮なく電報を打ってくれないか。一緒に九州の方へ旅しても面白い。しかしなるべく帰って来ないか。自暴自棄を起すお前でない事は信じているが、随分参る事と思う。何事も一倍強く感ずる性には一層の打撃だ。しかしどうか勇気を出して打克ってくれ。
 お栄さんからは別に返事を出さないはずだ。まだ風邪も本統でないし、しかしお前が帰ればお栄さんは随分喜ぶ事と思う。俺も会いたい。直ぐ帰る事望む。
 こう書いてあった。

 

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一日一書 1660 寂然法門百首 29

2020-09-21 11:54:42 | 一日一書

 

蘭菊擅美

 

 
さまざまに匂ふ籬の秋の花色をも香をも誰か分くべき
 

 

半紙

 

 

【題出典】『法華文句』一・上


 

【題意】 蘭菊擅美  蘭菊美を擅(ほしいまま)にす

  (経文を細かく分析するのは人情であって、)蘭や菊のように(注釈は)思うままにその美を競っている。
 

【歌の通釈】

  様々に匂い咲く垣根の秋の花(細かさを極めた注釈)は、色も香りも(注釈の優劣も)誰が区別できることができようか。
 

【考】
25番歌に続き、煩雑な注釈をテーマにしたもの。蘭や菊がその美を競うように、我も我もと細かく注釈を付す。その多くの注釈を、垣根に咲き乱れる秋の花(蘭菊)にたとえた。


(以上、『寂然法門百首全釈』山本章博著 による。)


なるほど、経文じゃなくても、たとえば自分の好きな詩などには、どうしても「注釈」を加えたくなるものだ。

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩歌の森へ(20) 室生犀星 蝉頃 ──2階の詩人

2020-09-21 08:39:32 | 詩歌の森へ

詩歌の森へ(20) 室生犀星 蝉頃 ──2階の詩人

2020.9.21


 

 蝉頃(せみごろ)


いづことしなく
しいいとせみの啼きけり
はや蝉頃となりしか
なつのあはれに
いのちみじかく
みやこの街の遠くより
空と屋根とのあなたより
しいいとせみのなきけり


 この詩について、村野四郎はこんなふうに書いている。

 

 犀星の詩の真骨頂は、何といっても、深い人間性をこめた美しい官能的な抒情性でしょう。どの抒情詩の底にも、切実な人間性が、銀線のように緊張してふるえています。
 ここにあげた詩「蝉頃」でも、そうです。貧しい二階借りの失意の青年の胸にひびいてくる初夏の蝉のこえは、哀切をきわめています。
 そのころ、上京した彼は、本郷、小石川あたりの貸間を転々、食えない生活に喘いでいました。おそらく洗い晒しの浴衣姿の、うらぶれた膝をかかえて、ひとりさみしく遠い夏のこえをきいていたにちがいありません。


 室生犀星は、ぼくが大学の卒業論文で扱った詩人である。なかでもこの詩が収められている「抒情小曲集」は、その論文の中心だった。だから、この詩もぼくはよく知っているつもりでいたのだが、久しぶりに村野四郎の「現代詩入門」を読んでいて、この村野の指摘にびっくりしてしまった。

 どこにびっくりしたのかというと、「二階借りの失意の青年」の「二階借り」という部分だ。そうか、このとき犀星は、2階にいたのか! と、驚いたのだ。

 今まで、何度となくこの詩は読んできたのに、詩人がこの時「2階にいた」ことには思い及ばなかった。この詩の中には、どこにも「私は2階にいた」とは書かれていない。それなのに、どうして「2階にいた」と言えるのか。それはひとえに、「空と屋根とのあなたより」によるわけだ。

 遠くから蝉の声が聞こえてくるのだが、その「遠く」は、「空と屋根とのあなた」なのだ。「空のあなた」ではない。「空と屋根のあなた」なのだ。空が見える。そして、その下には屋根が見える。つまり、詩人は「2階」から見ているのだ。

 屋根と屋根が狭苦しくつらなる東京。そのどこかの家に間借りをする。となれば、どこかの家の2階だ。窓を開けても、狭い空の下には、えんえんとうす汚い屋根がつらなっている。
若い犀星は、詩人として生きるために東京に出てきては、挫折して故郷の金沢に引き返し、引き返してはまた上京するということを繰り返していた。その中から「故郷は遠きにありて思ふもの」の詩も出来た。この詩もその延長線上にある。

 ぼくが大学生のころは、いわゆる「分析批評」がはやっていて、詩の言葉だけで解釈することがよしとされ、その詩を書いた詩人の伝記的事実を解釈に持ち込むことは嫌われていた。けれども、こういう詩では、やはり犀星の人生と重ねないと、ほんとうのところは味わえない。

 木造家屋の2階は、暑い。そして大抵は狭い。個人の住宅で、間貸しをするとなれば、こうした2階に部屋に決まっている。そんな部屋にぼくは住んだことはないが、友人も、息子も住んだ。そういう部屋をぼくはよく知っている。知っているといっても、そこに住んで孤独を味わったわけじゃない。ぼくも、一度でいいから、そんな部屋に住んで、人生の寂寥を味わっておくべきだったなんてことを今になって思うのだ。

 「せみの子をとらへむとして/熱き夏の砂地をふみし子は/けふ いづこにありや」というのは詩人の幼少時への思いだ。あんな純粋だった子ども時代は、いったいどこへ行ったのか、という思い。犀星の場合は、「純粋な子ども時代」なんて甘いことは言っていられない。継母の虐待におびえる地獄の日々。そんな少年犀星を慰めたのは金沢の豊かな自然だった。

 それゆえにこそ、都会で聞く「蝉」の鳴き声は、限りなく郷愁を誘い、こころを慰めるどころか、かえって孤独を深める。そんな蝉の鳴き声を「しいい」と表現する。

 村野四郎も言っている。「この詩の抒梢の中心は何といっても、「しいい」と表現された蝉の声の音色とリズムにある。」と。「しいい」と表現されるこの蝉は、村野四郎も言うごとく「ニイニイゼミ」だ。それは「はや蝉頃となりしか」とあるとおり、東京で一番先に鳴くセミは、ニイニイゼミだからだ。(ほぼ同じ頃にヒグラシも鳴き始めるが、これは朝と夕方に「カナカナカナ」と鳴くので、明らかに異なる。)

 このニイニイゼミの特徴的な鳴き声を「しいい」と表現する犀星にはほんとうに感心するが、それは犀星にとって自然が、けっして単なる外部の環境なのではなく、犀星の内部世界に深く根ざしているからこそできることなのだ。

 「犀星と自然」がぼくの卒論の主要テーマだったのだが、もういちどそこに立ち返って、犀星の詩も読み返してみたくなる昨今である。

 

 

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一日一書 1659 むべ 五百旗頭欣一

2020-09-20 15:51:21 | 一日一書

 

五百旗頭欣一(いおきべ・きんいち)

 

むべ

 

半紙

 

 

五百旗頭欣一(大正2年-昭和53年)

姫路市生まれ。大正15年に上京し、旧制本郷中学(東京都豊島区駒込)を卒業。昭和15年頃より詩を書き始め、戦前からいくつかの詩誌に作品を発表。処女詩集は「かへり花」(詩叢社、昭和18年発行)。自作の詩を自刻自摺の版画で飾ったり他の詩人や画家の詩集・画集の木版を担当したりと、詩人としてだけではなく木版工芸家としても活動していた。

 

 

たまたまこの詩人のことを知って、古書で手に入れた詩集「郷里」の巻頭の詩。

全文は以下の通りです。

 

 

むべ

 

むべが
紅く照つて
たれてゐるのを

ひとつもらつて
たべた

くろい種がぱらぱらつゞいて、
なにか冷たい
氣がして

よく味はゝれなかつた

主人がいかゞですと
問うた、
私は何も云へずに
たゞうれしかつた。

 

 

「ムベ」という植物は、アケビに似ていますが、その実はアケビのように割れません。

昔我が家にも植わっていて、たくさん実をつけたものですが、

食べられるとは知らず、毎年捨てていました。

そういうわけで、ムベは親しみの深い植物です。

 

それんしても、人からもらってムベの実を食べたけど

あんまりおいしくなかったのだが、

なんだか嬉しかった、というこの詩ですが

どこか不思議な感触があります。

 

「ムベ」の紅く熟した実のイメージが鮮やかなのに対して

その実の中が、「くろい種がぱらぱらつゞいて、/なにか冷たい/氣がして」

それで「よく味はゝれなかつた」というところが、どういうことなのか曖昧です。

 

この曖昧さが大事なところ。

 

「くろい種がぱらぱらつゞいて」いるというのは、味が悪かったということではないでしょう。

ひょっとしたら、なにか気持ちが悪くて、味わっている余裕がなかったということかもしれない。

 

紅く照っている実と、中身の黒い種のつまった様子の対比によって

「ムベ」の実の、存在感がぐっと増しているようにも思います。

 

そんなこととも知らずに、「ムベのある家の主人」は

「どうですか? うまいですか?」なんて聞いてくる。

「ああ、おいしいです。」なんていう口から出まかせも言えず

黙ってお辞儀をしたのだろうか。

ムベを気前よくもいでくれた主人への感謝の気持ちに変わりはなかった、

という、詩人の誠実な人柄が伺えます。

 

 

 

 

 

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩歌の森へ(19) 萩原朔太郎・「帰郷」

2020-09-18 15:10:58 | 詩歌の森へ

詩歌の森へ(19) 萩原朔太郎・「帰郷」

2020.9.18


 

  帰郷

             昭和四年の冬、妻と離別し二児を抱へて故郷に帰る

 

わが故郷に帰れる日
汽車は烈風の中を突き行けり。
ひとり車窓に目醒むれば
汽笛は闇に吠え叫び
火焔(ほのほ)は平野を明るくせり。
まだ上州の山は見えずや。
夜汽車の仄暗(ほのぐら)き車燈の影に
母なき子供等は眠り泣き
ひそかに皆わが憂愁を探れるなり。
嗚呼また都を逃れ来て
何所(いづこ)の家郷に行かむとするぞ。
過去は寂寥の谷に連なり
未來は絶望の岸に向へり。
砂礫のごとき人生かな!
われ既に勇気おとろへ
暗憺として長(とこし)なへに生きるに倦みたり。
いかんぞ故郷に独り帰り
さびしくまた利根川の岸に立たんや。
汽車は曠野を走り行き
自然の荒寥たる意志の彼岸に
人の憤怒(いきどほり)を烈しくせり。

 


 最初の妻と別れ、二人の子どもを連れて、故郷に帰ったときの心境がここにあるわけだが、実際に帰郷したのは7月だったらしい。けれども、この詩では「冬」としている。やっぱりこの悲痛さには「冬」がふさわしい。

 演歌に典型的だけど、失恋して旅に出るのが、真夏だとどうにも具合が悪い。「津軽海峡冬景色」が「関門海峡夏景色」だと、傷ついたこころが簡単に癒やされてしまいそうだ。「悲しみ本線日本海」ならいいけど、「悲しみ本線瀬戸内海」じゃ、なんのことやら分からない。

 この詩を引いて、詩人の辻征夫がこんなことを書いている。

 

前橋へ行くなら、厳寒の候を選んで行くべきだと主張したのは私である。うららかな春の日にも、夏の盛りにも私は行きたくない。できれば最も陰鬱な月、雪が降りしきっているかもしれない二月に行きたい。(中略)とにかくなにがなんでも、初めての前橋には、寒さをついて、気合いを入れて行くべきなのだ。それでなければ私は、前橋には行かない。

「私の現代詩入門」

 

 なんだか、ひとりで息巻いているが、たまたま居酒屋にいた詩人の仲間と急に前橋に行こうという話がまとまって、じゃあ、いついくかという段になり、辻がこう息巻いたというわけである。結局、一月末と決まって行ったのだが、記念館も「質素」で、ちょっとがっかりして「詩人というのはやはり、作品の中にしか生きていないのだという自明のことをもう一度考え」た、とある。

 ぼくも今まで何度も前橋行きを企てたことがある。いや、企てた、まで行かず、行きたいと思ったというレベルだ。でも、結局行っていない。といって、辻征夫みたいに、「厳寒じゃなきゃ行かない」なんて思っているわけでもない。むしろ、そんな寒い時には絶対行きたくない。でも、どうせ行くなら辻征夫みたいな悲壮な演出をしなきゃもったいないとも思うのだ。でも、そんな過剰に悲壮な演出で出かけても、肩すかしをくわされるんなら、行かないほうがマシだとも思ってしまう。

 まあ、いくら過剰に悲壮な演出をしてみても、赤の他人が朔太郎の心境になれるわけではないし、たとえなれたからといってさしたるトクがあるとも思えない。「砂礫のごとき人生かな!」の思いは、程度の差こそあれ、ぼくにも理解できるけれど、朔太郎の思いの深さには到底達することはできないし、到達したくない気もする。

 そういう気がしながらも、どうしてぼくは、「厳寒の時」にわざわざ出かけたいなどという辻の言葉に共感するのだろうか。

 なんか、カッコいいってことかもしれない。現実としてはぜんぜんカッコいいわけじゃないのに、なんだか、あこがれる。悲壮趣味なんだろうか。

 「まだ上州の山は見えずや」なんて、車窓の景色を眺めながら呟いてみたい。若いころの朔太郎が、「みずいろの窓辺」に向かって、「うれしきこと」を思おうなんて言っていた朔太郎が、こんなさびしい呟きをするに至ったなんて痛ましい限りだが、朔太郎の「夢」と「挫折」をとことん「窓辺」で味わってみたいなんて思うのだ。

 何と言っても、この「上州の山」っていうのがいい。「上州の山」といえば赤城山がまず浮かぶが、赤城山といえば、国定忠治だ。やっぱりカッコいい。

 これが、「越後の山」だと、なんか落ち着いてしまって迫力がない。犀星の「越後の山もみゆるぞ/さびしいぞ」(寂しき春)が思い出されて、しんみりしてしまう。「上州の山」だと、「赤城の子守歌」から威勢のいい「八木節」まで聞こえてきそうだ。カッコいい。

 実際をいえば、妻が男を作って子ども置いて家を出てしまったので、故郷に子連れで帰るという、男としては実に情けない仕儀なのだが、それがこともあろうに「カッコいい」なんて誤解されるのは、ひとえに、言葉のせいだ。この何だかよく分からないが、やたら威勢だけはいい文語のせいだ。そのいわゆる「悲憤慷慨調」の言葉が、情けない現実を、妙に「美化」してしまっている。一種の自己陶酔なのかもしれないが、こういう「美化」をすることで、辛うじて現実に耐えているといった風である。

 空疎といえば空疎だ。現実を直視していないと言えばそれまでだ。けれども、朔太郎は、この空疎な言葉の羅列で、現実に刃向かっているともいえる。いわば空砲で、それは現実のたとえ一片でも変えることはできないけれど、自分を鼓舞し、前進させることはできる。やけっぱちの泥酔みたいなもので、その鼓舞も前進も、いっときのもので、自身を救うことはできないが、それでも、何もしないよりはマシだ。激しい二日酔いは残るだろうが、それでも、生きてる実感はあるのかもしれない。

 かくして、詩は、空砲として鳴り響く。詩の中の言葉をいくら分析してみても、そこからは何も得られない。その空疎な言葉は、そんな言葉を吐かせる朔太郎という人の心の中の暗闇を指し示し続けるだけだ。

 

 

 

 

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする