「失われた時を求めて」を読む 4 「世界」と「わたし」 《第1篇 スワン家の方へ(1)第一部 コンブレー》 その4
2023.7.3
われわれのまわりに存在する事物が不動の状態にあるのは、それがそれであって他のものではないというわれわれの確信のなせる業であり、つまり、それらを前にしたときのわれわれの思考の不動性が、それらを不動の状態に置いているのかもしれない。
この後、目覚めの感覚について、具体的で精密な描写があるのだが、それはそれとして、「われわれのまわりに存在する事物が不動の状態」が、ひとえに、「それらを前にしたときのわれわれの思考の不動性」に依拠しているというのは、思考するに足る問題だ。
もっとも、こういうことについては、哲学などの分野ですでに散々言及されてきたところだろうから、いまさら哲学の素養のないぼくがああだこうだと考察を重ねてもなんの意味もないだろう。意味もないけど、やっぱり考えたくなるのも事実で、おもえば、昔から、不思議でならないのは、このことなのだ。
以前どこかに書いたようにも思うが、小学生の低学年のころだったか、こんなことを言った記憶がある。「コオロギはリーリーと鳴くと言うけど、実際にはコオロギはリーリーと鳴いているのかどうかは、分からない。リーリーと鳴くというのは、それが人に耳にリーリーと聞こえているからであって、すべての人が同じようにリーリーと聞こえているかどうか分からないわけだから、コオロギがリーリーと鳴くとは言えないのだ。」──まあ、言葉はずいぶんと違っていただろうが、主旨はこんなことだった。親は、この子は変なことを言うねえと、驚いたのか呆れたのか、感心したのか、心配したのか知らないけれど、いずれにしても、「客観的事実」と「認識」の関係を問題にしているように思えて、小学生にしては「できた」発言だったのではなかろうか。あるいは、どこぞで仕入れたネタだったのだろうか。
今思えば、あまり「認識」に重点を置きすぎると、世界がバラバラになっちゃうから、まあ、「われわれのまわりに存在する事物」っていうのは、自分の思考に依拠してるわけじゃないと思うけれど、しかしまた、自分がこの世に存在しなくなったら、世界の事物は果たして存在するのかという問いに、オレが消えちゃうんだから、世界も消えたと同じことじゃないか、いや、オレにとっては世界は存在しなくなるんじゃね? という、いわば「独我論」の誘惑は常にある。しかしまた、オレがいようがいまいが、世界は変わりなくあるに決まってるじゃねえかというのが常識的感覚ってもので、たぶん、そっちのほうが正しい。しかし、しかし、正しいからといって、楽しいわけじゃない。
生まれてからこの方、この目で見、この耳で聞き、この肌で感じ、この鼻で嗅ぎ、この舌で味わってきたからこそ、「世界」はぼくの前にあるいは中に存在したのであって、「ぼくを通じて」以外の方法で、存在した「世界」なんて、これっぽちもない。とすれば、ぼくが消えたあとに、「世界」は確かに存在し続けるだろうが、「ぼくが経験した世界」はことごとく滅びる、というのもまた否定しえない事実である。
プルーストが、こんなことを言うのも、プルーストにとっての「世界=われわれのまわりに存在する事実」とは、プルースト自身が「体験した世界」以外のなにものでもなかったからだろう。自分の体験からはずれた「世界」は、プルーストにとっては、意味のない世界だったのだろう。
なんて勝手に言ってもいいのかどうか知らないが、ぼくにはそう見える。
ひるがえって、ぼくにとっての「世界」とは何か。昔からジコチュウだと言われもし、自認もしているぼくだが、だからというわけではないが、やっぱりぼくにとっての「世界」というのも、「ぼくが経験した世界」以外にはない。連日報道される戦争や災害のニュースを見て、心は激しく動揺するけれど、ニュースを見ただけでは、経験したことにはならない。
といって、現地へ行ってこの目で見なければ経験したことにはならないというわけでもない。「経験した」と言えるには、世界の果ての出来事でも、そのことを、我が身の中に心理的にでも取り込んで、それを我が事として生きねばならない。分かりやすくいえば、「身につまされる」感じを少なくとも持たねばならない。あるいは、傷つかねばならない。
けれども、そんなことは、これだけ情報の多い時代では、ほとんど不可能なことで、それを律儀にやっていたら、一日たりとも身が持たない。だから現実問題としては、怒濤のように押し寄せるニュース・情報のほとんどを、「他人事」として、やりすごす。そうしなければ、生活していくことなどできないのだ。
かくて、「われわれのまわりに存在する事物が不動の状態」が、ひとえに、「それらを前にしたときのわれわれの思考の不動性」に依拠しているのではないか、というプルーストの言い分は、「ぼくはいつもぼくであって、その変わらないぼくが、感じ取る世界こそ変わることのない世界であるはずだ、いや、あってほしい。」という、切ない祈りのようなものになる。
それが「祈り」だというのは、プルーストが、自分の「不動性」を信じ切れないからであって(信じているなら、こんな小説は書かないだろう)、生まれてから今に至るまで、自分は今の自分と「同じ」自分であるはずなのだから、その「自分」が「思い出す」時間あるいは世界は、少なくとも自分にとっては「意味のある世界」あるいは「輝かしい時間」であるはずだ、いや、あってほしい、というのがプルーストの切実な願いであり、また、この「失われた時を求めて」という小説を書いた動機でもあったのではないかということなのだ。
現役教師のころ、中学生に向かって、「世の中を大きく二つに分けるとしたら、何と何か?」って聞いたことがある。その時、中学生は「男と女」とか、「見えるものと、見えないもの」とか、「触れるものと、触れないもの」とかいろいろ答えたんだろうが、ぼくの答は「自分と自分以外」というものだった。たぶんに、「独我論」めいた答だが、「自分」と「自分以外」は、「存在の仕方」が根本的に違うことは確かだ。まあ、そんなことをなぜ中学生に言ったかも、忘れてしまったが、生徒はかなり驚いていたように思う。
「自分っていうのは、実は、かなり面白い、独特な存在なんだよ。」というようなことを、鷲田清一的な文脈で言ったのかもしれないし、そうじゃなかったかもしれない。とにかく、三田誠広じゃないけど、「僕って何?」は永遠の課題で、プルーストも結局のところ、その問題をめぐってえんえんと書き続けたのかもしれない。
それから、またべつの姿勢の記憶がよみがえる。壁が大急ぎでべつの方向に移動すると、そこは田舎のサンルー夫人宅で私に与えられた寝室だった。これは、まずい、もう十時にはなっている。夕食は終わってしまったにちがいない。どうやらうたた寝をして、寝過ごしてしまったらしい。うたた寝は毎晩のことで、サンルー夫人と出かけた散歩からもどり、燕尾服に着替える前のことなのだ。長い年月が経ってしまったがコンブレーでは、どんなに帰宅が遅くなっても、私の窓ガラスには赤い夕映えが見えていた。ところがタンソンヴィルのサンルー夫人宅で送っているのは、すっかりべつの生活で、日が暮れると散歩に出て、昔は陽光をあびて遊んだ同じ道をいまや月明かりに照らされてたどるという、べつの楽しみがあるのだ。そんなわけで私がタ食の正装に着替えるのを忘れて寝てしまった部屋は、私たちが散歩の帰りに遠くから見ると、闇に浮かぶただひとつの灯台さながらランプの灯りに照らされていたのである。
このような想起のうずまく混沌とした状態は、きまって数秒しかつづかなかった。多くの場合、いっとき自分のいる場所が不確かなので、その元凶であるさまざまな推測のひとつひとつも区別できなかった。それはキネトスコープなる映写器で馬が走るのを見ても、つぎつぎと提示されるコマをひとつずつ取り出せないのと同じである。それでも私は、これまでの生涯で住んだ部屋を、あるときはひとつ、またあるときはひとつと想いうかべ、目覚めにつづく長い夢想のあいだについにはすべての部屋を想い出したのである。
(原注)キネトスコープ=一八九一年、エディソンが発明。映画の先駆的形態。箱のなかを覗くと連続写真の映像で対象の動きが再現された。
眠れない夜に、次々と想起される断片的なイメージ。その一コマ一コマに、幸福な時間が詰まっている。けれども、それをしっかりと捉え、味わうことができない。
「キネトスコープ」に次々と提示されるコマをひとつずつ取り出せない、という比喩は見事だ。