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日本近代文学の森へ 246 志賀直哉『暗夜行路』 133 「歴史的現在」 「後篇第三  十九」 その1

2023-07-19 11:05:20 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 246 志賀直哉『暗夜行路』 133 「歴史的現在」 「後篇第三  十九」 その1

2023.7.19


 

 赤ん坊の病気は、いよいよのっぴきならない事態に進展していく。


 赤児はほとんどひっ切りなしに泣き続けた。眉間に太い皺を作って、小さい脣(くちびる)を震わしながら「ふぎゃあふぎゃあ」というように泣く。その声が謙作や直子の胸を刺した。そうして絶えず聴いていると、偶々(たまたま)泣き止んだ時でも、耳の底からその声が湧いて来た。往来へ出る。其所(そこ)はもう自家(うち)から泣声の聴こえぬ遠さなのに、不意にそれが聴こえて来たりした。


 赤児の泣き声は、謙作と直子の胸を刺す。この短い文章で、赤児の様子と、それに対する親の気持ちが実に見事に描かれている。

 特に、「……耳の底からその声が湧いて来た。」と書いてきて、その後に、なんの接続詞も説明もなしに「往来へ出る。」といった書き方は、神業だ。凡庸な作家なら、「謙作は我慢ができなくなって、思わず往来に出た。」などと書くところだ。そんな余計なことは書かずとも、「往来へ出る。」ではなくて、「往来に出た。」と書いてしまうだろう。この「出る」と「出た」では大きな違いがある。

 この「出る」は、いわゆる「歴史的現在」というものだと高校時代に教わったが、ふ〜んと思っただけで、まあ、過去の出来事を今のことのように書く、ということね、ぐらいにしか認識しなかった。その後も、この用法について詳しく調べたことはないが、今では、いろいろな研究があるのかもしれない。

 ぼくは文法学者じゃないから、勝手に考えてみる。「……耳の底からその声が湧いて来た。」の後に、「往来に出た。」でも、ちっともかまわないし、むしろ自然だ。それを「往来に出る。」と書くとどうなるか。あくまで「感じ」だが、こう書くと、表現がぐっと一人称的になる。「……耳の底からその声が湧いて来た。」を読んでいるときは、読者は、ああ、謙作も直子も辛いだろうなあと、わりと客観的に事態を眺めているわけだが、そこへ「往来に出る」となると、いきなり、読者は「謙作化」しちゃう。つまり、謙作の立場になってしまう、ということだ。

 それじゃ、その前の、「『ふぎゃあふぎゃあ』というように泣く。」はどうなんだと言えば、やっぱりここでも、読者は「赤ん坊化」こそしないけど、赤ん坊のそばにいる謙作や直子の耳になってしまう。

 簡単にいえば、表現がダイナミックになるということだ。

 昔の作家は、文章修行のために、よく志賀直哉の文章を書き写したものだということを聞いたとき、何をバカなことをと思ったものだが、今改めてこうして細かく読んでみると、その頃の作家の気持ちがよく分かる。


 「オイ、如何(どう)したらいいかー如何すればいいのか」余り烈しく泣かれる時に謙作は思わず、こんな独りごとをいう。こういう場合の癖だった。が、実際如何しようもなかった。
 赤児の声は段々に嗄(しゃが)れて来た。とうとうしまいに顔ばかり泣いていて、声は出なくなった。これは赤児には苦痛の表明の二つを一つにされたようなもので、不憫(ふびん)な事だった。が、まわりの者には絶えざる刺激の泣声が聴こえなくなっただけでもいくらか助かった。直子の乳は幸に止まらなかった。赤児もそれほど苦みながら、乳だけは思いの外、く飲んだ。まわりの者はそれに希望を繋(つな)いでいたが、十日経ち、二週間経つ内に、やはり蜂窩織炎(ほうかしきえん)を起こしてしまった。


 赤ん坊の声がとうとう出なくなったことを、「赤児には苦痛の表明の二つを一つにされたようなもの」と考える謙作は、やっぱり不思議な人だ。「どうしたらいいか」とオロオロする一方で、こんな分析をすることができるなんて。

 声が出なくなった、ということは、赤ん坊の衰弱を意味するのに、それを、赤ん坊は不憫だが、「まわりの者」は「助かった」というのも、不人情といえばそうだが、それが人間というものだということはまた確かなことだ。

 そういう意味では、謙作という人間は(あるいは志賀直哉という人は)、現実にオロオロしながらも、徹底したリアリストであったということだろう。

 

 


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一日一書 1734 寂然法門百首 82

2023-07-09 10:59:27 | 一日一書

 

人命不停過於山水


瀬をはやみいはゆく水もよどみけり流るる年のしがらみぞなき
 

半紙

 

【題出典】『往生要集』大文一

 

【題意】 人の命の停(とど)まざること、山の水よりも過ぎたり。

人の命が停滞しないのは、山の水に勝る。


【歌の通釈】
流れが速くて岩を行く水も淀むのだよ。しかし流れる年はそれを止める柵はないのだ。

【考】
どんなに速い川の流れも滞ることがある。しかし流れる時間を止めるものなどどこにもない。題に言う通り、人命の流れの速さは山川に勝るのだ。

(以上、『寂然法門百首全釈』山本章博著 による。)

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★人命のはかなさは、繰り返し歌われてきたが、改めて身にしみる歌である。

 


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「失われた時を求めて」を読む 4 「世界」と「わたし」 《第1篇 スワン家の方へ(1)第一部 コンブレー》 その4

2023-07-03 15:04:01 | 「失われた時を求めて」を読む

「失われた時を求めて」を読む 4 「世界」と「わたし」 《第1篇 スワン家の方へ(1)第一部 コンブレー》 その4

2023.7.3


 

われわれのまわりに存在する事物が不動の状態にあるのは、それがそれであって他のものではないというわれわれの確信のなせる業であり、つまり、それらを前にしたときのわれわれの思考の不動性が、それらを不動の状態に置いているのかもしれない。

 


 この後、目覚めの感覚について、具体的で精密な描写があるのだが、それはそれとして、「われわれのまわりに存在する事物が不動の状態」が、ひとえに、「それらを前にしたときのわれわれの思考の不動性」に依拠しているというのは、思考するに足る問題だ。

もっとも、こういうことについては、哲学などの分野ですでに散々言及されてきたところだろうから、いまさら哲学の素養のないぼくがああだこうだと考察を重ねてもなんの意味もないだろう。意味もないけど、やっぱり考えたくなるのも事実で、おもえば、昔から、不思議でならないのは、このことなのだ。

 以前どこかに書いたようにも思うが、小学生の低学年のころだったか、こんなことを言った記憶がある。「コオロギはリーリーと鳴くと言うけど、実際にはコオロギはリーリーと鳴いているのかどうかは、分からない。リーリーと鳴くというのは、それが人に耳にリーリーと聞こえているからであって、すべての人が同じようにリーリーと聞こえているかどうか分からないわけだから、コオロギがリーリーと鳴くとは言えないのだ。」──まあ、言葉はずいぶんと違っていただろうが、主旨はこんなことだった。親は、この子は変なことを言うねえと、驚いたのか呆れたのか、感心したのか、心配したのか知らないけれど、いずれにしても、「客観的事実」と「認識」の関係を問題にしているように思えて、小学生にしては「できた」発言だったのではなかろうか。あるいは、どこぞで仕入れたネタだったのだろうか。

 今思えば、あまり「認識」に重点を置きすぎると、世界がバラバラになっちゃうから、まあ、「われわれのまわりに存在する事物」っていうのは、自分の思考に依拠してるわけじゃないと思うけれど、しかしまた、自分がこの世に存在しなくなったら、世界の事物は果たして存在するのかという問いに、オレが消えちゃうんだから、世界も消えたと同じことじゃないか、いや、オレにとっては世界は存在しなくなるんじゃね? という、いわば「独我論」の誘惑は常にある。しかしまた、オレがいようがいまいが、世界は変わりなくあるに決まってるじゃねえかというのが常識的感覚ってもので、たぶん、そっちのほうが正しい。しかし、しかし、正しいからといって、楽しいわけじゃない。

 生まれてからこの方、この目で見、この耳で聞き、この肌で感じ、この鼻で嗅ぎ、この舌で味わってきたからこそ、「世界」はぼくの前にあるいは中に存在したのであって、「ぼくを通じて」以外の方法で、存在した「世界」なんて、これっぽちもない。とすれば、ぼくが消えたあとに、「世界」は確かに存在し続けるだろうが、「ぼくが経験した世界」はことごとく滅びる、というのもまた否定しえない事実である。

 プルーストが、こんなことを言うのも、プルーストにとっての「世界=われわれのまわりに存在する事実」とは、プルースト自身が「体験した世界」以外のなにものでもなかったからだろう。自分の体験からはずれた「世界」は、プルーストにとっては、意味のない世界だったのだろう。

 なんて勝手に言ってもいいのかどうか知らないが、ぼくにはそう見える。

 ひるがえって、ぼくにとっての「世界」とは何か。昔からジコチュウだと言われもし、自認もしているぼくだが、だからというわけではないが、やっぱりぼくにとっての「世界」というのも、「ぼくが経験した世界」以外にはない。連日報道される戦争や災害のニュースを見て、心は激しく動揺するけれど、ニュースを見ただけでは、経験したことにはならない。

 といって、現地へ行ってこの目で見なければ経験したことにはならないというわけでもない。「経験した」と言えるには、世界の果ての出来事でも、そのことを、我が身の中に心理的にでも取り込んで、それを我が事として生きねばならない。分かりやすくいえば、「身につまされる」感じを少なくとも持たねばならない。あるいは、傷つかねばならない。

 けれども、そんなことは、これだけ情報の多い時代では、ほとんど不可能なことで、それを律儀にやっていたら、一日たりとも身が持たない。だから現実問題としては、怒濤のように押し寄せるニュース・情報のほとんどを、「他人事」として、やりすごす。そうしなければ、生活していくことなどできないのだ。

 かくて、「われわれのまわりに存在する事物が不動の状態」が、ひとえに、「それらを前にしたときのわれわれの思考の不動性」に依拠しているのではないか、というプルーストの言い分は、「ぼくはいつもぼくであって、その変わらないぼくが、感じ取る世界こそ変わることのない世界であるはずだ、いや、あってほしい。」という、切ない祈りのようなものになる。

 それが「祈り」だというのは、プルーストが、自分の「不動性」を信じ切れないからであって(信じているなら、こんな小説は書かないだろう)、生まれてから今に至るまで、自分は今の自分と「同じ」自分であるはずなのだから、その「自分」が「思い出す」時間あるいは世界は、少なくとも自分にとっては「意味のある世界」あるいは「輝かしい時間」であるはずだ、いや、あってほしい、というのがプルーストの切実な願いであり、また、この「失われた時を求めて」という小説を書いた動機でもあったのではないかということなのだ。

 現役教師のころ、中学生に向かって、「世の中を大きく二つに分けるとしたら、何と何か?」って聞いたことがある。その時、中学生は「男と女」とか、「見えるものと、見えないもの」とか、「触れるものと、触れないもの」とかいろいろ答えたんだろうが、ぼくの答は「自分と自分以外」というものだった。たぶんに、「独我論」めいた答だが、「自分」と「自分以外」は、「存在の仕方」が根本的に違うことは確かだ。まあ、そんなことをなぜ中学生に言ったかも、忘れてしまったが、生徒はかなり驚いていたように思う。

 「自分っていうのは、実は、かなり面白い、独特な存在なんだよ。」というようなことを、鷲田清一的な文脈で言ったのかもしれないし、そうじゃなかったかもしれない。とにかく、三田誠広じゃないけど、「僕って何?」は永遠の課題で、プルーストも結局のところ、その問題をめぐってえんえんと書き続けたのかもしれない。


 それから、またべつの姿勢の記憶がよみがえる。壁が大急ぎでべつの方向に移動すると、そこは田舎のサンルー夫人宅で私に与えられた寝室だった。これは、まずい、もう十時にはなっている。夕食は終わってしまったにちがいない。どうやらうたた寝をして、寝過ごしてしまったらしい。うたた寝は毎晩のことで、サンルー夫人と出かけた散歩からもどり、燕尾服に着替える前のことなのだ。長い年月が経ってしまったがコンブレーでは、どんなに帰宅が遅くなっても、私の窓ガラスには赤い夕映えが見えていた。ところがタンソンヴィルのサンルー夫人宅で送っているのは、すっかりべつの生活で、日が暮れると散歩に出て、昔は陽光をあびて遊んだ同じ道をいまや月明かりに照らされてたどるという、べつの楽しみがあるのだ。そんなわけで私がタ食の正装に着替えるのを忘れて寝てしまった部屋は、私たちが散歩の帰りに遠くから見ると、闇に浮かぶただひとつの灯台さながらランプの灯りに照らされていたのである。
 このような想起のうずまく混沌とした状態は、きまって数秒しかつづかなかった。多くの場合、いっとき自分のいる場所が不確かなので、その元凶であるさまざまな推測のひとつひとつも区別できなかった。それはキネトスコープなる映写器で馬が走るのを見ても、つぎつぎと提示されるコマをひとつずつ取り出せないのと同じである。それでも私は、これまでの生涯で住んだ部屋を、あるときはひとつ、またあるときはひとつと想いうかべ、目覚めにつづく長い夢想のあいだについにはすべての部屋を想い出したのである。

(原注)キネトスコープ=一八九一年、エディソンが発明。映画の先駆的形態。箱のなかを覗くと連続写真の映像で対象の動きが再現された。

 


 眠れない夜に、次々と想起される断片的なイメージ。その一コマ一コマに、幸福な時間が詰まっている。けれども、それをしっかりと捉え、味わうことができない。

 「キネトスコープ」に次々と提示されるコマをひとつずつ取り出せない、という比喩は見事だ。

 

 

 

 


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