日本近代文学の森へ 249 志賀直哉『暗夜行路』 136 運命 「後篇第三 十九」 その4
2023.9.26
赤ん坊は、懸命の治療もむなしく、死んでしまう。
この赤ん坊の死に至るまでの経緯は、読むのも辛いほど詳しく描かれている。あくまで謙作の目を通して描かれているのに、そこに感傷の入る余地がない。謙作は苦しむが、その目は涙に濡れることなく、どこまでも澄んでいて、その死を見つめている。
もちろん、謙作は、現実のすべてに直面できるわけではない。むしろ、肝心なところで逃げようとするのだ。
いよいよ赤ん坊が、死ぬか生きるかの手術に向かおうとするとき、謙作は、立ち会いを拒否する。
謙作はK医師が食塩注射の支度をする手伝いなどをしていた。しかし彼は自身手術に立合う気にはなれなかった。恐しかった。
「かまいませんか?」
「ええ、かまいません」こうK医師にいわれ、彼は庭へ出てしまった。手術着を着た若い外科医が縁側でシャボンとブラッシで根気よく手を洗っていた。
間もなく皆病室へ入って行った。謙作は直子のいる部屋の方へ行った。
「お立合いにならないの?」直子は非難するような眼附をしていった。
「いやだ」謙作は顔をしかめ、首を振った。
「可哀想だわ、そりゃあ、可哀想ですわ」
「Kさんがいいっていったんだ」
「そう仰有(おっしゃ)ったかも知れないが、誰も血すじが行っていなくちゃ、可哀想よ。じゃあ、お母さんに行って頂きましょうか」直子は傍(そば)に坐っていた母を顧みた。
「はい」そういって母は直ぐ出て行った。
謙作はまた庭を病室の方へ歩いて行った。障子を〆切(しめき)った中からは時々医者たちの低い話声と、ちょっとした物音がするだけで、勿論、声の全く潰(つぶ)れてしまった赤児の声は聴こえて来なかった。謙作は急に不安に襲われた。もう死んでしまったんだ。そう思わないではいられなかった。彼はじっとしていられない心持で庭を往ったり来たりした。ベルが、頻りにその足元に戯れついた。
直子は謙作を冷たいと思っただろうが、ぼくには謙作の気持ちがよく分かる。「男というものは」という言い方はよくないかもしれないが、やっぱり、男はこういうとき、ダメなものなんだとつくづく思う。その点、直子の母は、即座に「はい」といって、病室に入っていく。すごいなあと思う。
謙作が病室に入らないので、事態は、「音」だけで描写される。「医者たちの低い声」「ちょっとした物音」、そして「聴こえない『潰れてしまった』赤ん坊の声」。──短い文章だが、ここに流れる「長い」時間がありありと感じられる。そうした果てしないような時間の中に、謙作の「不安な時間」が組み込まれる。
少時(しばらく)して、障子が開いて、林が顔を出した。亢奮し切った可恐(こわ)い顔をしていた。謙作を見ると、
「どうぞ、直ぐお乳を上げて頂きます」そういって直ぐまた障子を〆めてしまった。
「助かった」謙作は思った。彼は急いで直子の部屋に行き、
「オイ。直ぐお乳……」といった。
「よかったの?」直子は立ち上がりながらいった。
「うむ」
直子は急いで縁を小走りに行った。林が血のついた綿やガーゼを山に盛った洗面器を隠すように持って風呂場へ急ぐのが見えた。
謙作が行った時には病室は綺麗に片附いていた。K医師が赤児に酸素吸入をかけていた。直子は側に坐って泣き出しそうな顔をしてそれを見ていた。
「どうもなかなかえらい膿でした」K 医師は顔を挙げずにいった。
「…………」
「食塩注射と酸素で、どうか取止(とりと)めましたが、しかしよく堪えて下さいました」
謙作はK医師に代って、酸素をかけてやった。赤児は疲れから、よく眠入っていたが、その顔は眉間に八の字を作り、頬はすっかりこけ、頭だけがいやに大きく、まるで年寄りの顔だった。赤児は眼を閉じたまま急に顔中を皺(しわ)にして、口を開く。苦痛を訴えるには違いないが、もう全く声がなく、泣くともいえない泣き方だった。それを見ると、これが助かるとはとても思えなかった。しかし直子が乳首を持って行くと、これはまたどうした事か、死んだようになっていた赤坊が急に首を動かし、直ぐそれへ吸いつくのだ。それは生きようとする意志、そういう力をまざまざと現わしていた。が、それも余り長くは続かなかった。赤児は充分飲む前にまた眠りに落ちて行った。
看護婦林の「亢奮し切った可恐い顔」「血のついた綿やガーゼを山に盛った洗面器を隠すように持って風呂場へ急ぐ」姿、などに、手術の有様が想像される。
そして、謙作が入っていった「綺麗に片附いていた」病室に、緊張感が余韻のように漂っている時間が流れる。すべてが見事だ。
この後、数日におよぶ治療が行われるが、赤ん坊は衰弱していくばかりで、謙作は、こんなに苦しむなら、少しでもはやく苦痛から解放させたいとすら思うのだった。
彼は今は、もう死ぬと決ったものなら、少しでも早く苦痛から逃がれさせたいという気さえしていた。しかしこの考は赤児が生きよう生きようとする意志を現わす時に僭越な済まない考だとも思われた。しかし医者たちもとても六ヶしい事を明瞭にいってい、彼自身見ても何所(どこ)に希望を繋いでいいか、分らないほどひどい様子を見ると、赤児のなお生きよう生きようとする意志が彼には堪らない気がした。
「死ぬに決った病人でも、死に切るまでは死なさないようにしなければならないんですか。生きてる事が非常な苦痛になってる場合でも」
「仏蘭西(フランス)と独逸(ドイツ)で考が違います。仏蘭西では権威ある医者が何人か立会って、家族の者もそれを希望した場合、薬でそのまま永久に眠らす事が許されているのです。ところが独逸ではそれが許されてないんです。医者としては最後の一秒まで病気と戦わねばならぬという考なんです」
「日本は何方(どちら)です」
「日本はまあ独逸と同じ考なんですが、考というより医学が大体独逸をとってるからでしょうが、それはまあ何方にも考え方の根拠はありますわな」
「医者の判断が例外なしに誤らないという事が確かなら、仏蘭西流も賛成ですがね……」
「それは数ある中では何ともいえませんからな」
謙作と外科医とがこんな事を話し合った翌日、赤児は発病後一卜月でとうとう死んでしまった。赤児は苦みに生れて来たようなものだった。
この安楽死の問題は、いまだに決着をみていない。フランスとドイツの差ということは、知らなかった。
葬儀は簡単に済ませ、遺骨は花園の霊雲院という寺に預かってもらった。この死にいちばんこたえたのはやはり直子だった。
赤児の死で一番こたえたのは何といっても直子だった。その上、産後肥立たぬ内に動いた事が障り、身体がなかなか回復しなかった。謙作はまだ一度も直子の実家へ行っていなかったし、神経痛で寝ている伯母の見舞いを兼ね、二人で敦賀へ行き、それから、山中、山代、粟津、片山津、あの辺の温泉廻りをして見てもいいと思った。しかし直子の健康がそれを許さなかった。それに、直子は心臓も少し悪くし、顔にむくみが来て、眼瞼が人相の変るほど、腫れ上がっていた。医者はその方からも、温泉行は以(も)っての外だといった。
直子は毎日病院通いに日を送っていた。
赤ん坊の死を描く筆致とは違って、ささっとスケッチするように、直子の現状を描いている。こんなところに、
「敦賀、山中、山代、粟津、片山津」といった地名が列挙されるのも、どこか新鮮だ。暗い病室から、いきなり温泉地の空気のなかに気持ちが解き放たれるように感じる。
で、謙作はどうだったか。
謙作は久しく離れている創作の仕事に還り、それに没頭したい気持になったが、まだ何かしら重苦しい疲労が彼の心身を遠巻きにしているのが感ぜられ、そう没頭は出来なかった。彼の感情は物総てに変に白々しくなった。ちょうど、脳に貧血を起こした人の眼にそう見えるように、それは白らけてしか見えなかった。彼は二階の机に向い、ぼんやり煙草ばかりふかしていた。
どうして総てがこう自分には白い歯を見せるのか、運命というものが、自分に対し、そういうものだとならば、そのように自分も考えよう。勿論子を失う者は自分ばかりではない、その子が丹毒で永く苦しんで死ぬというのも自分の子にだけ与えられた不幸ではない、それは分っているが、ただ、自分は今までの暗い路をたどって来た自分から、新しいもっと明かるい生活に転生(てんしょう)しようと願い、その曙光を見たと思った出鼻に、初児の誕生という、喜びであるべき事を逆にとって、また、自分を苦しめて来る、其所に彼は何か見えざる悪意を感じないではいられなかった。僻(ひがみ)だ、そう想い直して見ても、彼はなおそんな気持から脱けきれなかった。
直子の状況は、身体の不調を中心に描かれたが、謙作のほうは、精神的苦悩の面で語られる。
思えば、そもそもの出生が、稀にみる不幸であったともいえる。それにまつわっての、最初の結婚話の破綻。さらに、お栄への恋とまたその破綻。自暴自棄になってもおかしくない境遇にいながら、やっとのことでつかんだ直子との結婚と、子どもの誕生。そこに「曙光を見た」と思った謙作を襲った苛酷な「運命」。
「自分は今までの暗い路をたどって来た自分」というところに、「暗夜行路」という題名の芽生えがあるようだ。
このまま、謙作の運命への思いを書き継げばいくらでも書いていけるのに、志賀直哉は、そうせずに、次の行で、こう書いて、筆をおく。
霊雲院は衣笠村からそう遠くなかったから、謙作はよく歩いてお参りをして来た。
この短い一文で、「暗夜行路」後篇「第三」は終結する。