書道教室で、年賀状を書く、というお稽古。
山本洋三「飛行機雲」
半紙
●
以前、「一日一書 639」でもこれを書いています。
自分の書いたものですが、何となく、好きな詩です。
原文は以下の通り。
飛行機雲
君はいつも高い靴をはいて
キリンのように歩く
人波から首一つ抜き出た
君の瞳には
街路樹の梢にかたむく
飛行機雲が浮かんでいる
山本洋三「哀しきピラニア」全文
半紙
●
原文は以下通り。
哀しきピラニア
アマゾンの奥の
干あがった川床を
ガチガチ歩いているのはピラニアです
昔は
馬もかじったし
人間の血も飲んだけど
今食べるのは
中身のないタニシだけです
といっても
胃も腸もないのですから
食べたことをそのままポロリと
排泄して
それで食べたことになると
思っているのは
ピラニアだけです
●
これはたぶん、大学1年生のころの作。
依然として、幼稚な表現は消えていませんが
内容は、苦いものがあります。
もちろん、ピラニアは、ぼく自身。
今でもたいして変わっていません。
山本洋三「たにしのなげき」(全文)
●
全文は以下の通りです。
たにしのなげき
カナダモのおいしげる
水そうの中
たにしには毎日お散歩です
──やあごきげんよう
──あらどちらへ
──うんちょっとそこまで
毎日毎日おんなじ景色
たんぼのどじょうがなつかしい
たにしは時々
立ちどまり
ホッとため息つくのです
すると
小さな泡がプクリと生まれ
天井でパチンと消えてしまいます
●
ぼくが高校3年生のときに書いた詩です。
いやはや、何という幼稚さでしょうか。
ぼくの周囲では、松原秀行君(「パスワードシリーズ」で今や児童文学の泰斗)などが
才能あふれる詩を書いて、同人誌に発表していたのですから
こんな詩を書いているぼくなんぞは、もう、身の置き所のない思いでした。
でも、ノートの片隅にこんな詩を書いては、いつか松原みたいな詩を書ける日が来るかもしれない
なんて思っていたのかもしれません。(永遠に来ませんでしたが)
まあ、そんなわけで
ずっと、こんな幼稚な詩には、コンプレックスしか感じてこなかったわけですが
近ごろ、こうやって、「書」とするための「素材」にしつつ
改めて読むと、この詩などは、案外「いけてる」って思ったりもするわけです。
受験勉強の真っただ中にあった当時
勉強部屋に置いてあった水槽を見ながら書いたのですが
「水槽」に閉じ込められた「たにし」は
まさにぼく自身であったわけですし、
「たにしのなげき」は、もちろん、やり場のない当時のぼくの「なげき」でもあったわけです。
で、今のぼくも、結局、状況としてはあまり変わっていないんじゃないか、
そんなふうに思えるのです。
「時間」という「水槽」の中で
「毎日毎日おんなじ景色」を眺めている。
「なげき」は「泡」となって、水面にのぼっていくけれど
「天井」で、虚しく消えていってしまう。
「たんぼのどじょう」は、今ごろなにをしているのでしょうか。
って、そもそも「たんぼのどじょう」は誰なんだろう?
冬(甲骨文字)
●
この字については、白川静が次のように詳しく解説しています。
象形。編糸の末端を結びとめた形。
甲骨文字・金文の字形は末端を結びとめた形であるが、
のちその下に「氷」(原文では「人」を縦に2つ重ねた文字)を加えて冬になった。
冬がその音を借りる仮借(かしゃ)の用法で四季の名の「ふゆ」の意味に用いられるようになって、
糸の末端を示す糸へんを加えた終の字が作られた。
冬は終のもとの字である。
なるほど~。
それに、冬は四季の「終わり」だし。
背景の写真は、去年の冬に撮った三渓園の池です。