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木洩れ日抄 93 「義務としてのエッセイ」──「課題エッセイ」を始めます

2022-11-30 17:11:02 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 93 「義務としてのエッセイ」──「課題エッセイ」を始めます

2022.11.30


 

 作品社の「日本の名随筆」全100巻を長いこと所持してきたが、手に入れてから20年以上たっても、ほとんど読むこともなかった。で、本棚の整理もあって、思い切って「自炊」した。「自炊」したからといって、読むようになったとは限らないが、それでも、「自炊」している最中に、断片となったページをパラパラと読んだりしているうちに、それぞれのテーマにそって、実に多彩な観点から書かれた文章の面白さに、あらためて心を動かされた。

 それと同時に、自分だったら、こういうテーマを与えられたとして、どんな風に書くだろうと、ふと思った。学校の生徒じゃなあるまいし、ましてやエッセイストでもないのだから、テーマを与えられて書くなんてことは現実にはないわけだが、仮にそんなことがあったという前提で、書いてみたら日頃の退屈さもまぎれるだろうかと思ったわけである。

 「日本の名随筆」本巻の100巻は、「万葉」3巻を除いて、残りの97巻が、すべて漢字一字のテーマが割り振られている。第1巻「花」、第2巻「鳥」、第3巻「猫」、第4巻「釣」、第5巻「陶」、といった案配で、これが97並ぶわけである。

 この中から、自分で書けそうなテーマを選んで書くというのもアリだろうが、しかし、それではなんだかツマラナイ。先生とか編集者とかから「書け」と言われる場合は、こっちの都合のいいテーマんばかりとは限らない。とても書けそうもないテーマだってあるだろう。そういうのにもちゃんと対応しなきゃプロじゃない。もちろんぼくはプロじゃないから、そんな対応能力なんてなくてもいいのだが、まあ、仮にプロだとしたらどうだろう。書けそうもないことについて、なんとか書いてしまうといった技量も大事ではなかろうか。

 などと、考えているうちに、まあ、とにかく、「日本の名随筆」の巻の順番に、テーマを与えられて、強制的に書けと言われたと想定して、書いてみようかと、半ばマゾヒスティックな気分となってきた。

 これは、もしかしたら、在職中、生徒に対して「作文コンクール」なんてものを実施したタタリなのかもしれない。なにしろ、コンクールの当日に、いきなり「題」を発表して、80分以内に原稿用紙3枚書けなんて無理難題を、毎年ふっかけてきたわけで、それでも、生徒はケナゲにもなんとか頑張って文章をひねくりだしたものだ。まあ、もちろん、時間のほとんどをおしゃべりで過ごし、残り10分ほどで、「書けない」苦しみを書いておしまい、なんていく不届き者もいないではなかったが。それが彼らの人生にとってどんなプラスになったやら検証してないから知らないが、恨みだけはかったことは事実で、その恨みがたたったのに違いない。まあ、しかし、それならそれでいい。罪滅ぼしはしなくちゃならぬ。

 ところで、さっき、「日頃の退屈さもまぎれるだろうか」などと書いたが、実際にはそれほど退屈しているわけでもないのだ。それというのも、自分で自分の首を絞めるような「企画」を作ってしまって、その対応に日々四苦八苦しているからである。

 その一つが「一日一書」としてブログで始めたシリーズで、最初のうちは、ほんとうに一日に「一書」連載するつもりだった。それも、自分の書というよりは、自分が好きな書を紹介するという意味あいだったのに、それもだんだんネタが尽きてきて、自分の書が中心となり、それもだんだん飽きてきて、つい出来心で、長男の著書「寂然法門百首」を1首目から100首目までを順番に書くことにしてしまった。一年ぐらいで終わるつもりが、3年経っても終わっていない。もちろん、一日にひとつアップというのもとうに有名無実となっている。

 「日本近代文学の森へ」というシリーズも、最初は、明治期の短篇小説を読んでいたのだが、そのうち、志賀直哉の「暗夜行路」になったら、これがぜんぜん進まず、119回も書いているのに、まだ、半分を過ぎたあたりという始末だ。もっとも、これは、はやく終わることをそもそも目指しておらず、とにかく、重箱の隅をつつくように、表現や言葉にこだわって、ゆっくりじっくり読むことをモットーとしているので、別に苦にしているわけでもない。

 そんなふうに自分を縛っているから、そっちに心理的にせっつかれこそすれ、のんびりとした「老後」を楽しんでいるイトマもないというのが実情なのだ。

 だから、その上、こんな強制的な随筆なんてやめておいたほうがいいに決まっているわけだが、しかし、すべてをやりおえて、もう何もすることはないという状況は、いっけん理想的にみえて、あまり現実的ではない。もしそれが現実になったとしたら、ぼくみたいな貧乏性の人間は、堪えられないだろうと思う。

 まあ、そんなわけで、いろいろ迷った挙げ句のことだが、これから、無謀な連載を始めることとする(と、宣言する)。他のエッセイと異なることを明示するために、「課題エッセイ」というシリーズ名とする。色気のないネーミングだが、「義務としてのエッセイ」なんだから、色気のでようはずもない。

 次回は、そういうことでテーマは自動的に「花」である。どうなることやら。1回書いて、もうやめた、ということにならなければいいのだが。

 


 


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一日一書 1728 寂然法門百首 76

2022-11-27 15:04:30 | 一日一書

 

未嘗不以仏性義経懐

 

たまゆらの心かくればすむべきを身に持ちながらいかが忘れん
 

半紙

 

【題出典】『金剛錍』湛然序

 

【題意】 未嘗不以仏性義経懐

未だ嘗て仏性の義を以て懐に経ざるはなし


【歌の通釈】
ほんの少しでも仏性を心に掛ければ心は澄むはずなのに、仏性を身につけていながらどうしてそれを忘れるのだろうか。 
 

【考】
我が身にも仏性つまり仏となる可能性があるのに、それを忘れて過ごすことを悔いた歌。
 

(以上、『寂然法門百首全釈』山本章博著 による。)


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木洩れ日抄 92 劇場の機知 劇団キンダースペース「家出うさぎ」そして「Room」をみて

2022-11-24 10:20:02 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 92 劇場の機知──劇団キンダースペース「家出うさぎ」そして「Room」をみて

2022.11.24


 

 井上ひさしは、その名作「父と暮せば」で、死んだ父を舞台に登場させた。そのことで、娘の美津江の内面が見事に可視化され、観客に大きな感動を与えることができた。

 井上は、「演劇的空間」とは「舞台でしかつくることのできない空間や時間」だとして、その「演劇的空間」を成立させる要素として「劇場の機知」ということを挙げた。美津江の内面の苦悩をどう描くかというときに、演劇ではその「機知」を存分に使って、「実際にはいない者」を舞台に登場させるという手があるというのだ。

 この「劇場の機知」という言い方が、いまいちよく理解できなかったので、舞台芸術に詳しい友人に「劇場の機知」って、分かりやすく言い換えると何? と聞いたところ、「それは、舞台に生の人間が存在するということだ。」と明快に答えてくれた。

 この「父と暮せば」に関していえば、小説でも、死んだ父を登場させて、美津江と会話させることはできる。しかし、どんなに巧みに描こうとも、それはあくまでフィクションの域を出ない。昔、昔、あるところに、、、といった昔話と同じように、現実にはありえない話として展開されるほかはない。

 けれども、これが「演劇的空間」つまりは、「舞台」で表現されるとなると、話は違う。実際には死んでしまって姿の見えないはずの人間が、「生身の人間」として「舞台」に登場する。俳優が演じているとはいえ、それが「生身の人間」であることには変わりはないのだ。

 しかし、それもやっぱりフィクションであり、小説におけるフィクションとなんら変わりはないのではないかと言われるかもしれない。しかし、「言葉によって生み出される人間」と「生身の人間」は、まるで違うものだ。舞台に存在する「俳優」は、その役柄を「演じている」と同時に、いやおうなく、俳優である人間そのものである。俳優は、当たり前のことだが、いつもその二重性を担ってそこに存在する。

 そういう意味では、「俳優」というもの自体が、まさに「ドラマ」そのものなのだ。「演じる役」と「俳優自身」との間にある矛盾・軋轢が、そのままドラマであり、そういうドラマを抱えた俳優同士が、ドラマを作りだしていく。このドラマが、小説には、ない。このドラマこそが、まさに、「劇場の機知」なのである。

 今回の原田一樹作「家出うさぎ」は、この「劇場の機知」を縦横に使って描かれた傑作だ。何も知らない観客は、二人の登場人物が、どういう関係にあり、どういう存在なのか分からないままに、ドラマに引き込まれていく。「父と暮せば」では、その冒頭で、すぐに父がすでに死んだ人間だということが明快に示されるが(それに観客が気づくかどうかは別として)、「家出うさぎ」では、そうしたことはない。ただ、丁寧に積み重ねられるセリフの「きしみ」によって、次第に、ああ、これはどちらかがもう死んでいるんだな、と理解されていく仕組みになっている。(これも、勘のいい観客はすぐに気づくのだろうが)。

 前半部のそうした苛立たしい曖昧さは、やがて後半部で、死んだ娘と、その死を受け入れられない母という構図が一挙に明らかにされ、迫真のドラマが展開される。それは、井上ひさし風に言えば、結局は母親の一人芝居なのだが、それを「劇場の機知」によって、明快なドラマとして展開している、ということになる。

 愛する者の死に出会ったとき、人はなかなかそれを受け入れることができない。それはもう、窮極のドラマだといっていい。親の死ならともかく、子どもの死という場合、その困難はおそらく筆舌に尽くしがたい。そのことを、日々の残酷なニュースでぼくらは目にし、耳にしている。いったい残された人は、その後の生をどう生きていけばいいのだろうと、しばし呆然としながらも、ぼくらは次のニュースに目を、耳を移していく。いかざるを得ない。

 「家出うさぎ」という芝居は、そのことに、じっと目を据えて、とことん追究した芝居だ。原田さんは、若書きだから、目を背けたくなると言っているが、作者にしてみればそういう気分になるのは致し方ないとはいえ、観客は決してそうではない。残された人間の心のありようを、そして、おそらく先だった人間の心のありようまでをも、正確に、誠実に追究していく舞台の展開に、息を飲んで引き込まれた。心に突き刺さる感動の舞台だった。

 思えば、これが、キンダースペースの本公演ではなく、「ワークユニット中間発表公演」(注:「ワークユニット」=キンダースペースが主宰する、意欲ある演劇表現者のための研修の場。)であったということに改めて驚かされる。「客演」として参加した劇団員の丹羽彩夏と、すでに数々の舞台で活躍している富永禎子の熱演は、まことに見もので、完成度の高い芝居として、呆れるほど忘れっぽいぼくにも、長く印象に残ることだろう。

 同時に上演された「Room(より第三話)」も、三枝竜の冒険的な演出で、実に面白い舞台に仕上がった。佐藤眞於の初々しい演技も新鮮だったが、特に、添田和弘の、押しつぶしたような発声によって繰り出されるセリフが、ユーモアに富んでいて、なんども笑ってしまった。こういう笑いも、原田戯曲の大事な要素で、こういう芝居をもっと見たいと思った。

 二つの芝居を見ていて、ふと、なぜか「織物」のことを思った。繊細なセリフを、丁寧に織り続けることで、できあがる「織物」。「家出うさぎ」の絹のようなしっとりとした肌触り、「Room」の麻のような荒々しい肌触り、それぞれの感触を味わいつつ、西川口を後にした。

 


 

 

 

 

 

 

 


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日本近代文学の森へ 232 志賀直哉『暗夜行路』 119  「不幸」の予感  「後篇第三  十三」 その3

2022-11-23 13:54:34 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 232 志賀直哉『暗夜行路』 119  「不幸」の予感  「後篇第三  十三」 その3

2022.11.23


 

 文学なんて分からないほうがかえっていいのだと、以前にも謙作は直子に言ったことがあるわけだが、五条の橋の古い台石を直子の伯父さん(N老人)が譲り受けて、お茶室の踏み石にしたというようなことから、話題が、お茶のことになったときに、五条の橋を渡りながら、また、それを言うのだった。


 「貴方もなかなかお茶人なのね。今日のお買物を見てもそうらしいと思ったわ」こんな事をいって直子は笑った。
 「兄さんはどうなの?」
 「兄さんも私もお母さんの子ですもの、そういう方は一向いけない方よ」
 「その方がいい。若い人のお茶人はあまりいいものじゃないよ」
 「貴方のは何でも解らない方がいいのね。文学も解らない方がいいし、風流も解らない方がいいし」
 「本統だよ」と謙作はいった。「文学が解ったり、風流が解ったりするという事は、一種の悪趣味だ」
 「妙なお説ね。私、それも解らないわ」直子は大きな声をして笑い出した。謙作も笑った。直子はそれを覗き込むようにして、「やはりそれも解らない方がいいの?」といって自分でも堪らなそうに笑いこけた。
 「馬鹿」そして謙作も思わず、こんな言葉を口に出した。


 直子に、文学なんて解らないほうがいいんだと以前に言ったのは、妻がなまじ文学に詳しかったりすると、自分が文学に集中できないというようなエゴイスティックな観点からだとなんとなく思っていたのだが、どうもそればかりではないようだ。

 「文学が解ったり、風流が解ったりするという事は、一種の悪趣味だ」というのは、文学や風流が「悪趣味」だということではなくて、「文学」にしろ、「風流」にしろ、「解った」と思うことが「悪趣味」だということだろう。

 そういうものを「解った」と思い込んで、「解っている人」と自分を規定して疑うことなく振る舞うということ、それこそが「悪趣味」なんだということだ。文学にまだ無知な直子が、急に「文学が解った女」なんかになられたら目も当てられない。むしろ「解らない」という自覚を持っていてほしい。そういう自覚をもって、文学なり風流に接することが、文学や風流に対する礼儀だということだろう。文学も風流も、いわゆる「通人」のものではなくて、あくまで、「解らないという自覚をもった素人」が憧れ、尊敬する対象であり、到達する目標でもあるはずだ。そういう思いが謙作、そして志賀直哉にはあったのではなかろうか。

 

 二人は橋を渡ると、其所から四条まで電車で行き、菊水橋という狭い橋の袂から蠣船(かきぶね)に行った。謙作には尾の道以来の蠣船である。で、彼にはあの頃の苦しい記憶がちょっと気分を掠(かす)めて通ったが、しかしそれから被われるにしては今の彼は余りに幸福だった。一つはいる場所の雰囲気がまるで変っていた。あの薄暗い倉庫町の蠣船とは此所(ここ)は余りに変っている。前に祇園の茶屋茶屋の燈(あか)りがある。四条のけばけばしい橋、その彼方(むこう)に南座、それらの燈りがまばゆいばかりにきらきらと川水に照反(てりかえ)していた。

 


 「蠣船」って何だろうと思って調べたら、ちゃんとWikipediaに載っていた。牡蠣は、牡蠣フライなら好きだが、生牡蠣は絶対に食べたくない。2、3度食べて、おいしかったけど、知人や生徒で、生牡蠣にあたった例を何度も見たので、それ以来、食べる気にならない。この「蠣船」では、生牡蠣は供されたのだろうか。

 尾道の「蠣船」にのったころの謙作は、苦しい思いを抱えていたのだが、その気分が甦りそうになるけれど、謙作の今の「幸福」な気分が、それを押さえ込んでしまう。しかし、チラッと思い出されたその嫌な気分が尾を引いたのか、謙作は、この後、かつての栄花やお政の芝居のことを思いだし、それを話題にしてしまう。小さい気分の波が、やがて中くらいの波を起こし、そして、やがてクライマックスの大きな波へと増幅してゆく過程を、志賀直哉は叮嚀に描こうとしている。

 蠣船の周辺の街の描き方も、簡潔だが、油絵のような印象で、見事である。

 

 「懺悔という事も結局一遍こっきりのものだからね」彼はこんな事をいった。「二度目からはもう最初の感激はないんだから、懺悔の意味はなさないと思うよ。それを芝居で興行して歩くというのだから無理もない話だ。無論懺悔の意味は少しもないね」
 彼はそれよりも、現在、罪を犯しながら、その苛責のため、常に一種張りのある気持を続けている栄花の方が、既に懺悔し、人からも赦されたつもりでいて、その実、心の少しも楽しむ事のないお政の張りのない気持よりは、心の状態として遥かにいいものだと思うというような事をいった。
 「そうでしょうか? 私、悪い事をしても、いわない間は、それは苦しいの。だけど、それをいってしまうと本統にせいせいしますわ」
 「あなたの悪い事と、お政や栄花の悪い事とは一緒にならないよ」
 「異(ちが)うの?」こういった直子の言葉の調子が謙作には如何にも無邪気に響いた。
 「そりゃあ、異うよ。あなたのはいいさえすれば誰れでも赦せる程度のものだし、お政や栄花のはそう簡単には行かないだろう。あなたのはいって直ぐあなたがそれを忘れた所で誰れも何とも思わないが、悪い事によっては懺悔したらそのままその気持を持ち続けていてくれなければ困るというようなのがあるだろう。直ぐせいせいされたらいい気がしないよ」
 「誰れがいい気がしないの?」
 「誰れがって……悪い事をされた人が……」
 「執念深いのね」
 「懺悔もいっそ懺悔しなければ悔悟の気持も続くかも知れないが、してしまったらかえって駄目だね」
 「そんなら、どうすればいいの」
 「…………」謙作は不意にいい詰まった。彼にはふと亡き母の事が想い浮んだ。彼は陥穴(おとしあな)に落ちたような気がした。そして、口を噤(つぐ)んでしまった。二人は暫く黙って歩いた。五、六歩行った時に、
 「もうそんな話、やめましょう。ね?」と直子も何か不安な気持に襲われたかのようにいった。直子は謙作の母の事は聞いていた。が、それがその時、想い浮んだのではないらしかった。ただ何となく気配が彼女を不安にしたらしかった。そして、
 「何か、もっと気持のいいお話ないの? 気持のいいお話をして頂戴。……ねえ、私、そんなお話よく解らないのよう」殊更甘えるような調子にいって、その丸味のある柔かい肩で押して来た。
 「何でも解らないね」謙作は笑った。「解らないといえば讃められるかと思って……」
 「そうよ。私、何にも解らないから、わからず屋よ。いいこと。貴方もその方がいいんでしょ」
 間もなく二人は軽い気持になって北の坊の寓居へ帰って来た。

 


 ここは重大な伏線となっている。直子がこの後大きな過ちを犯すことになるわけだが、その過ちを、謙作がどう受け止め、どう対処していったか、ぼくはまだ読んでいないから分からないわけだが、(高校生の時に一度読んだが、もちろん、ぜんぶすっかり忘れている。)ここで謙作が言っている、「悪い事によっては懺悔したらそのままその気持を持ち続けていてくれなければ困るというようなのがあるだろう。直ぐせいせいされたらいい気がしないよ」という言葉は、実に重苦しい響きをもっている。結婚式をあげたばかりの謙作が、妻に向かって言う言葉としては、あまりに重く、息苦しい。

 悪いことをした以上、勝手に懺悔されたって何にもならない。本人はそれでさっぱりスッキリするかもしれないが、そんなものはされた方にしてみれば、なんの役にも立たない。悪いことをした者は、とことん最後まで苦しみ続けてくれなくては、困る、気が済まない──そんな気持ちは、誰でもが抱く思いだ。けれども、まだ「何にもしていない」直子は、そんな人間のどうしようもない気持ちのありようを、いきなり提示されても、「そんなら、どうすればいいの」と言うしかない。どうして、幸福な今、そんなことを謙作が言い出すのか、直子は理解に苦しむわけだし、謙作自身も、理解できないだろう。けれども、謙作は、この「幸福な今」の向こうに控えている「不幸」の予感におびえているのかもしれない。

 

 

 

 

 


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一日一書 1727 寂然法門百首 75

2022-11-11 15:51:08 | 一日一書

 

由妄念故沈生死

 

夏引きのいとふべき世にまとはれしこの心ゆゑかきこもりける
 

半紙

 

【題出典】原拠不明。

【題意】 由妄念故沈生死

妄念に由(よ)るが故に生死に沈む

妄念によってこの輪廻の世界に沈む。


【歌の通釈】
夏に紡ぐ糸に巻きつかれるように、厭うべき世の中に縛られた。この縛られた心ゆえに、世の中に引きこもっているのだよ。

 

 【参考】行方なくかきこもるにぞひき繭のいとふ心のほどは知らるる(金葉集二・恋下・四七五・待賢門院堀河)

 

【考】
離れるべき世に対する執着ゆえに生死の輪廻を繰り返すことを嘆いた歌。特に糸に巻きつかれたような愛の妄執からは逃れ難い。「糸(繭)」を中心とした縁語仕立ての歌で、【参考】に挙げた、堀河の一首に倣っている。
 

(以上、『寂然法門百首全釈』山本章博著 による。)

 


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