日本近代文学の森へ (213) 志賀直哉『暗夜行路』 100 小説の力 「後篇第三 八」 その1
2022.3.16
謙作が京都駅に降り立つと、S氏が出迎えにでていた。電報を打っただけなのに、そんなふうに出迎えてくれるとは思っていなかった謙作は、「小さい自尊心から色々拘泥していた自分」を恥じた。それは、自分の方から会いに出かけるのは、「呼び出されていく」ようで、謙作の自尊心を傷つけたからだ。育ちがいいんだね、やっぱり。
翌日、N老人(これから会おうという女性の祖父)に会うこととなった。
翌日約束の時間にS氏は訪ねて来た。そして二人は直ぐ近い東三楼へ行く事にした。
謙作は余りに社交馴れない自分がいくらか不安でもあった。しかし前夜よく眠っていたし、気分はよかった。
女中がS氏の名剌を持って入ると、何時も河原からばかり見ていた老人の細君が、その日は常よりいい着物を着て、玄関へ出て来た。
「さあ、どうぞ」細い薄暗い廊下を先へ立って歩きながら、「えらい、むさくろしい所で……」などといった。
一重羽織を着たN老人が河原の方を背にして、きちんと坐っていた。謙作はいつもの癖で袴も穿かずに来たが、それがちょっと気になった。
「初めまして、……」老人は瘠せた身体に似合わぬ幅のある、はっきりした声を出した。
「このたびはこちらにお住いやそうで……」こんな風にいわれると、謙作はただ、
「ええ」と答える。後は大概S氏が要領よく続けてくれるのである。
謙作は様子では窮屈らしくなっていたが、気持はもっとずっと楽だった。彼はN 老人がそれとなく自分をじろじろと見でもしそうに予想して来たが、そういう所は少しもなく、むしろそれを避けると思われるほどに見なかった。
割りに質素な食事が運ばれ、女中でなく、細君自身お酌をして廻った。が、酒は誰れも余り飲まなかった。
「東三楼」というのは、N老人と女が逗留していた宿で、その縁側に座っている老人と女を、謙作は河原から見て、女を見初めたわけである。
今まで河原の方からしか見たことがなかった老人や細君を、今度は、逆の方向から見ている。「一重羽織を着たN老人が河原の方を背にして、きちんと坐っていた。」という描写は、シャープな映像だ。光の関係で、おそらくは顔も着物もシルエットめいているのだろうが、それがとても印象的だ。
細君の着物が「常よりいい着物」だということも、謙作がどれだけ細密に河原から眺めていたかを思わせる。
そして、それらの「反映」として、自らの着物が気になるのだ。
「老人は瘠せた身体に似合わぬ幅のある、はっきりした声を出した。」という描写もいい。声というものは、時としてその人の人格まで表すものだが、「幅のある声」は、その人格の深み、そして「はっきりした声」は、その知性を感じさせる。
老人が謙作を「じろじろ」見ることがないということも、その人格を見事に表現している。初めてみる、孫の婿となる男、それも不自然な出生を持つ男に対して「品定め」をするような態度を微塵も示さないということは、出来そうで出来ないことだろう。これは、いわば教養というものだろう。
話は極く普通の世間話しかしなかった。山崎医学士の噂などが出た。敦賀の漁業の話から、昔は大概塩魚にして出したもので、それを貯蔵しておく倉が沢山あって、維新前の事、筑波山の武田耕雲斎一味のものが、東海道を通れぬため、北陸を廻って、京都へ入ろうとする所を、敦賀で捕え、その塩魚を入れる倉へとじ込めた事があるというような話を老人はした。日のささぬ、じめじめした倉で、それに塩気が浸込んでいるから、浪士の人たちは皆、《しつ》にかかり、それが身体中に弘まって、その様子が実に見ていられなかった。……
「おい、ちょっとその袋を持って来い」N老人は謙作の背後(うしろ)の違い棚を指し、話を少時(しばらく)きった。
「御免やす」細君は謙作のうしろを通り、その袋を取って老人の前へ置いた。古代紫という色が、実際いい具合に古びた羅紗の「火の用心」のような袋だった。老人は中から眼鏡や財布やマッチや小刀や磁石などを出してから、
「この根付けが、その時の浪士で、佐々木重蔵という磐城相馬藩の男でしたが、世話になったというので、記念にくれた物です、……」こういってその袋を二人の前へ出した。
「ははあ……」S氏はちょっと見て、直ぐ謙作へ渡した。水牛の角にしてはもっと肌理(きめ)の細かい割りに軽い質のもので、応挙の絵に見るような狗児(くじ)を四、五疋かためて、彫ってある。
「その男なぞも話すと、なかなかしっかりした男でしたが、可哀想に寒さに向って、段々に、皆死んでしまいました」
謙作は自分が一週間ほど前に見た夢を憶い起こし、自分の場合幾分、愛嬌味のある反逆人だったが、それでも覚めてまで変な恐怖が残った事を想い、そういう連中が暗い、じめじめした塩魚の倉で、全身《しつ》に悩まされ、寒さに向って一人一人仲間が死んで行くのを見ている時の気持を考えると、ちょっとかなわない気がした。
最初その連中は福井に隠れていて、福井なら大丈夫のつもりでいたのを、そういう時代で福井でもはっきりした態度が取れず、おためごかしに領内を立退かせ、敦賀で捕えさしたのだという。
「あの頃の事を考えると、この先どうなる事か、まるで、分りませんでしたからな」と老人はいった。
その日結婚の話は誰れの口からも出なかった。それは謙作にも気持がよかった。そしてS氏が帰りかけた時、老人は、
「お近うござります。如何です」と謙作だけを止めた。
謙作は老人の好意を嬉しく思った。それは普通のお世辞でなく、本統にもう少しいてもらいたいらしかったからで、謙作は残る事にした。
N老人は、孫娘と結婚したいという謙作と直接会って、どういう人間かを確かめたかったのだろうし、謙作としても、自分の出生問題について、寛大な考えを示してくれたN老人に会いたいと思ったわけだろうが、実際的な問題は、結婚が成立するかどうかということだったはずだ。しかし、この「会見」で、結婚の話が「誰の口からもでなかった」。そのことを謙作は「気持ちがよかった」と感じる。
結婚とはまったく関係のない、維新のころの経験談を、しかも、決して気持ちのいい話ではない経験談を、えんえんと話す老人に、謙作は親しみを感じたということだろう。しかも、その老人が、「会見」終了後も、残って話そうと誘ってくれた。それが謙作には嬉しかったのだ。
老人が語る維新のころの経験は、それはそれで、おもしろい。読者もおもわず引き込まれてしまう。「朝敵」となってしまった、磐城相馬藩の武士たちの悲劇が、具体的に描かれていて、興味深い。志賀はこの話をどこから仕入れたのだろうか。
老人の話というものは、ときに、いや、実にしばしば、とりとめのない繰り返しとなって、聞く者をうんざりさせるものだが、こうした体験談は、歴史そのものを「生」なものとして提示してくれる貴重なものであることもある。
志賀直哉が、この話を、このN老人に語らせているのは、実際に聞いたからなのか、それとも、他で聞いた(あるいは読んだ)話を挿入したのかは分からないが、話の筋からすれば、こんなに詳しい話は必要ないわけで、「作品」としての「完成度」あるいは「純度」を高める要素にはならない。けれども、こういう「雑談」をはさみ込むことで、「作品」の「厚み」あるいは「深み」がでる。これから妻にしようとする女性の背後に、敦賀という土地と、明治維新からの時間の層が加わるからだ。
小説というものは、「物語」だけで成り立つのではなくて、そこに、ある特定の「時間」と「空間」を閉じ込め、あるいは定着することによって成り立つのだろう。それは、作者が意識しようとしまいと、必然的にそういうことになる。それが、小説の、あるいは文学の、魅力であり、「力」なのだ。