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【劇評】テネシー・ウイリアムズ『ガラスの動物園』劇団キンダースペース ワークユニット2016

2016-11-13 10:03:50 | 批評

【劇評】テネシー・ウイリアムズ『ガラスの動物園』劇団キンダースペース ワークユニット2016 

2016.11.13


 

 『ガラスの動物園』は初見だった。

 テネシー・ウイリアムズといえば、杉村春子の『欲望という名の電車』の舞台を大学生のころに見た記憶がある。細かいことは忘れてしまったが、アメリカの体臭を感じさせるような芝居の雰囲気はよく覚えている。それと、いくら名女優で、当たり役だといっても、当時すでに還暦を過ぎていた杉村春子が演じるのは無理があるよなあと思ったことも。

 その手のことは山ほどあって、いずれも大学生のころのことだが、中村歌右衛門のお姫様が、どうみても、オバアサンにしか見えなくて気味悪かったとか、勘三郎と扇雀の「おかる寛平」の道行きを歌舞伎座の最前列でみて、あまりの「老醜」に腹をたて、もう歌舞伎なんか見るもんかって思った過去も思い出される。山本安英の『夕鶴』も見たが、これは遠くでみたためか、あまり体の衰えを感じることはなかったけれど、それでも、もっと若い女優にやらせてあげればいいのに、と思ったこともある。(『夕鶴』の「つう役」は、当時は、山本安英にしか許されていなかったのだ。)そう、山田五十鈴の舞台も見ている。日比谷の芸術座だったけれど、舞台に彼女が登場したとき、客席はしずかにざわめいたけれど、セリフがほとんど入っておらず、プロンプターの声がまる聞こえだったのには驚いたものだ。その後、若い頃の山田五十鈴の映画を見て、なんと美しい女優なのだと惚れ惚れしたのだったが、それだけに、あの舞台は「見なくてもいいものを見た」という苦さをともなって今も記憶によみがえる。

 演劇と肉体、ということを考えた、ということだ。

 老いた役は、若い役者でも何とかできる。けれども、若い役は、老いた役者にはできない。いや、できないということはないだろうが、やはり若い役は、若い役者で見たいと、ぼくは思うというだけのことだ。

 今回の『ガラスの動物園』は、若い役者、若いスタッフによって作られた舞台。それ故の未熟さはあるにしても、「若さ」と「熱意」の持つ魅力は十分に発揮されていた。特に、山田都和子と宮西徹昌の二人のシーンは、ドキドキするくらいスリリングな心理劇として見事な完成度だったと思う。足が悪いというコンプレックスを抱えて内向してしまうローラが、ジムのやさしい言葉に徐々に心を開いていく様は、見ていてすみずみまで納得され、共感される演技で、心地よかった。

 アマンダ役の齋藤美那子は、感情の振幅の激しい母親という難しい役への懸命の挑戦だったが、ローラが結局はジムと結ばれないことを知った後の演技に、母の悲しみの痛切さを見事に表現することができた。語り手でもあり、ローラの弟トム役でもある篠村泰史は、よく通るさわやかな声がかえってトムの内面の暗さを表現する邪魔になった感があるけれど、全体を爽やかなトーンに包んでいて好感を持った。

 なんて上から目線で、偉そうなこといってるが、演劇への情熱にあふれた舞台に、老骨も励まされる思いだった。そして、こうやってキンダースペースが次代を担う役者を懸命になって育てていこうとしている姿勢に心からの敬意を表したいと思う。今まで、ワークユニットの公演を見てこなかったけれど、これからは見に行きます。

 そして、今回、特筆すべきは、女優の深町麻子が初演出をしたということだ。キンダーにまた新人演出家が生まれたということで、ほんとうにうれしくてならない。古典ともいうべきテネシー・ウイリアムズの芝居に最初から取り組んだというだけでも壮挙というべきだが、心に沁みてくる芝居に仕立てたことに心からの拍手をおくりたい。今後の大活躍を期待しています。

 


 

 

 

 

 

 

 

 


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【劇評】「座・コスモス」の『イーハトーブ、星と虹と。』──魂の叫び

2016-11-12 10:33:29 | 批評

【劇評】「座・コスモス」の『イーハトーブ、星と虹と。』──魂の叫び

2016.11.12


 

 「座・コスモス」の『イーハトーブ、星と虹と。』を、せんがわ劇場で見た。宮沢賢治の『よだかの星』と『ひかりの素足』の二つの作品が、それぞれ独特のスタイルで演じられた。

 『よだかの星』は、昔、栄光学園の演劇部を設立したとき、自分で脚色・演出して、なかば強引に旗揚げ公演の舞台に載せたことがあるが、そのときは、原作のセリフだけではとうていもたないので、様々な余計なセリフを加え、原作にはない登場人物まで加え、挙げ句の果てに、ラスト近くでヨダカがタカを撲殺するというとんでもない設定にまでして、「ドラマチック」な芝居にするために苦心した。幸い、生徒の熱演もあって、ぼくにとっては、そして結構多くの観客にとっても忘れられない舞台になったのだが、今回の『よだかの星』を見て、まったくといっていいほど(じっくり付き合わせていないので正確なことは言えないが)「原作のまま」で演じて、それで、十分ドラマチックな舞台になっているのに、驚いてしまった。

 「原作に忠実」というのがモットーだということは、キンダーの高中さんから聞いていたので、どのように演じるのか興味津々だったのだが、朗読と演技をバランスよく組み合わせ、チェロとパーカッションの生演奏も加えた舞台は、なるほど、こういう可能性があるんだなあと感心しきりだった。もっとも、作ったばかりの高校生の演劇部では、こんな芸当は望むべくもないわけだから、ぼくの脚色の「無理矢理」な所は、必然的だったとも思ったわけである。

 この後に演じられた『ひかりの素足』とも共通することだが、今回の舞台のキーワードは、「魂の叫び」だったと思う。賢治のこころの深淵にある罪の意識。そこからの救済を懸命に求める心。よだかは、空に向かって飛び続け、太陽や星に救済を求めて叫ぶ。けれども、救済はどこからももたらされない。よだかは、それでも飛び続け、やがて「自分のからだがいま燐りんの火のような青い美しい光になって、しずかに燃えている」のを見るのだが、まるで、それは「求めて飛び続ける」ことだけが、「救済」の条件であるとでもいうかのようだ。

 少なくとも『よだかの星』では、賢治が提示した「救済」は、そのような形でしかもたらされないものだったのではなかろうか。そこに賢治の生きる姿が二重写しになる。あれほど熱烈な信仰に生きながら、賢治は、「悟り」やら「心の安らぎ」やらとは無縁だったように思える。ほとんど絶望と紙一重のところに成り立つ賢治の信仰のありかた。だからこそ、賢治の作品は、現代人の心をとらえて離さないのだ。

 小さなリングのような舞台から声を絞って叫ぶよだかの声は、賢治の「魂の叫び」を現出して見事だった。そして、わがキンダースペースの高中愛美さんの若々しく溌剌とした演技で舞台を盛り上げる姿が、頼もしく誇らしかった。

 休憩を挟んでの『ひかりの素足』は、衝撃的だった。宮沢賢治が大好きだなどと広言しているわりには怠け者で、その半分も読んでおらず、限られた作品ばかりを繰り返して読んできたので、この『ひかりの素足』は、読んだことがなかったのだ。そのせいもあるのだろうか。とにかく、思わず体が震えるほど感動した。

 作品としてはそんなに長いものではないが、その全文(たぶん)を8人で朗読するというスタイル。ひな壇に座ったまま、ほとんど縛られているといった感じで、体の動きを抑制されて、80分近い時間、ほとんど声だけで、言葉だけで、舞台が進行する。鍛え抜かれたベテランの役者さんの声や、若手の実力者の声だから素晴らしいのは当然のことだが、それにもまして、その言葉をつむいだ賢治のすごさが実感された。ほんとうに、賢治の世界はどこまで奥深いのだろう。

 この『ひかりの素足」の言葉の群れを、怒濤のように押し寄せる「声」の中に聴きながら、その中に、ぼくが長いこと親しんできた『青森挽歌』『無声慟哭』『春と修羅』などの詩、そして『銀河鉄道の夜』の中の言葉たちが、ひしめき、うずまいていることを感じていた。初めて耳にする「作品」なのに、それは「聞いたこともない作品」ではなかった。ぼくの心に染み込んでいる「作品」だった。

 そうだ。賢治は、結局、たったひとつの「作品」を書き続けたのだ。たったひとつのことを求め、叫びつづけたのだ。その「ひとつ」が何かを言葉にすることはできない。できないからこそ「ひとつ」であるのだろう。

 『ひかりの素足」では、『よだかの星」とは違って、はっきりと「救済」のイメージがある。身も震えるような地獄のような「厄災」のイメージ。(ほんとに怖くて震えた。朗読がいかに素晴らしかったかという証左だ。)そしてその後にくる目もくらむような法悦のイメージ。安らぎに満ちた極楽のありさま。それが「真実」であることを賢治は心から願っていたのだろう。けれども、それは「客観的な結論」ではない。それが「客観的な結論」なら、賢治はもっと心安らかに生涯を終えることができたはずだ。「救済」を願いながらも絶望し、絶望しながら祈る。やはり、それが賢治の生き方だったのだろう。

 そしてそうであるからこそ、賢治の作品は、賢治の言葉は、今でも、震災という厄災に苦しむ東北の人々を励まし続けているのだ。

 この公演は、「東日本大震災復興支援公演」と銘打たれている。「座・コスモス」の思いは、十二分に達成されていたと思う。心からの敬意と感謝の意を表したい。



 

 

 









 

 


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【劇評】『蜜の味』──あなたならどうする?

2016-06-12 19:52:15 | 批評

【劇評】『蜜の味』──あなたならどうする?

 

2016.6.12


 

 作者のシーラ・ディレイニーのことを何にも知らずに出かけ、始まる直前にパンフレットで、18歳でこの戯曲が書かれたことを知った。見た後で、作者が女性であることを初めて知るほど無知なぼくだったわけだが、ある意味、「まっさらな気持ち」で芝居を見ることができたわけで、それはそれで悪くない。(体のいい言い訳だが。)

 穴蔵のような小さな部屋の中で繰り広げられる人間同士の葛藤が丁寧にダイナミックに描かれる。はやいテンポのセリフによって人間の心の奥底が舞台に現出する様は、スリリングで、見ていて飽きることがなかった。特に、後半は密度の濃い時間が舞台を満たして見事だった。

 それにしても、「ののしりあい」ってどうしてこんなに面白いんだろう。次から次へと悪態が口をついて出てくるっていうのは、やっぱりひとつの文化だ。これは何も西洋の専売特許ではなく、日本だって落語の世界などにはよく出てくる。それなのに、今では、悪態をつこうにも、語彙があまりに貧弱になってしまっている。貧弱な語彙で人を非難すると、人は深く傷つくような気がする。豊富な悪態の語彙は、かえって人の間のスキマを埋めるように働くのかもしれない。

 芝居のラスト近く、さまざまな人間関係の中でもがき苦しみ、最後にどうにも出口がない状況に追い詰められた母親のヘレンが、突然、観客席にむかって「あなたならどうします?」と問いかける。そうか、芝居というのは、こういうセリフがなくても、いつも舞台から観客に向けて「あなたならどうします?」と問いかけているのかもしれないな、ってふと思った。そして同時に、こういう問いかけを率直にするところに、作者の「若さ」(「未熟さ」ではない。「初々しさ」だ)を実感した。

 この作品は「自伝的」なものだというから、作者シーラは、とにかく自分の経験のありったけを芝居にぶち込んで、「私の生活は、こんなふうだったのよ。いったい、あなたなら、こういう時、どうしますか? 教えて頂戴!」って言いたかったのだろう。なんて初々しい戯曲だろう。

 芝居は、何も解決しないまま、いやそれどころか事態は最悪の結末を迎えるかのような暗澹たる余韻を残して幕を閉じるが、その暗闇の中に、「あなたならどうしますか?」というヘレンの言葉が、いつまでも反響しているかのようだった。

 今回は、キンダースペースのアトリエ公演には珍しく、海外もの。しかもキンダーからは「若手」の役者中心の公演。いろいろな意味で、新鮮だった。「若手」とは言っても、実力は十分。もちろん、まだ「発展途上」ではあろうが、真剣な演技への取り組みに心打たれた。客演の白州本樹さん、山本明寛さんは、さすがの存在感で、お二人によって、芝居の厚みと奥行きがぐんと増した。

 というわけで、とにかく楽しめました。みなさん、ありがとう! できることならBプログラムの方も見たかったです。

 これだけの芝居をたった30数人しか入れないアトリエでやるのはもったいない。せめて200人ぐらい入れる劇場での再演を期待したいところ。かなわぬ夢かなあ。


 


 






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【劇評】『フェードル あるいは崩れゆく人々』──言葉の海の中で

2016-02-28 19:25:50 | 批評

【劇評】『フェードル あるいは崩れゆく人々』──言葉の海の中で


2016.2.28


 

 文学というものは、いや芸術というものは、結局のところ「恋」を、「恋」だけを追求するものだったのではないかと、キンダースペースの『フェードル あるいは崩れゆく人々』を2度見たあと、つらつら考えている。

 芸術の追求するものは「美」であって、「恋」は、そのひとつの題材に過ぎないという考えもあるだろう。古今の美術作品や、文学作品がすべて「恋」をめぐって展開されてきたものではないだろうという反論もあるかもしれない。けれども、「恋」を、ただ男女の間の、好きだ、嫌いだの感情として捉えるのではなく、「人間を根底から揺るがす理性を越えた狂おしいまでの情熱」というふうに置き換えて捉えてみれば、すべての芸術の根底に「それ」があることは明白のように思える。男女の「恋」は、ある意味、それがもっとも日常的に、かつ鮮明にあらわれる例だというに過ぎない。

 だからといって、昨今でも巷にあふれかえる「不倫」のひとつひとつが、語るに足りない、くだらない、下世話な話で、文学・芸術の対象たる「恋」とはほど遠い、というわけでもない。いやむしろ、そのひとつひとつの「下世話な不倫」こそが、そこを掘り下げていけば、程度の差こそあれ「人間を根底から揺るがす理性を越えた狂おしいまでの情熱」の鉱脈に触れないことはないだろう。ただ、世間の人やジャーナリズムはことの表層に好奇の目を向けるにとどまり、そこを掘り下げようとしないだけだ。

 スタンダールは、恋愛感情のもつれから実際に起きた発砲事件を素材にして恋愛文学の傑作『赤と黒』を書いた。なんでそんな馬鹿げたことを……と世間が眉をひそめる「色恋沙汰」も、実はそのマグマのような「それ」の小さな発現であることを、スタンダールは知っていたのだ。

 『フェードル』のあらすじは演出の原田一樹のまとめによれば、「古代アテナイの王妃が、王の半年にわたる不在に続く死の知らせに、かつて隠していた恋心を義理の息子に打ち明け、拒否され、王の帰還もあり、自殺を遂げるという話」ということになる。「義理の息子への恋」というのは、それほどありふれた話ではないが、今だって絶対にないというほど稀な話でもなさそうだ。そういう意味では、ありふれた恋にすぎないのだが、戯曲『フェードル』にあふれる言葉は、みな凜として潔く、王女フェードルは言うまでもなく、運命を呪うテゼーの言葉も、「恋敵」たるアリシーの言葉も、奸計をめぐらすエノーヌの言葉も、そしてフェードルの恋を拒絶しながらも父の誤解を解けぬまま死んでいくイポリットの言葉も、それぞれに美しい。

 それは言葉が、人間個人の内部からのみ発せられる薄っぺらな言葉ではなく、神々の支配のもとで「宿命」として発せざるを得ない言葉だからだ。「個人」はそこにはなく、まるで神々の操る人形のように、人間は翻弄され、苦しみ、悩み、絶望し、時に希望する。だからこそ、発せられた言葉は、勝手に人間が更新できない。自分の発した言葉が、神々の「託宣」であるのなら、それを更新することができるのはただ神々だけだからだ。

 「あなたを愛しています」と言ってしまった以上、それを口にした者は、その言葉を生きなければならない。それを人間の側からいえば「覚悟」ということになる。神々の託宣と知りつつ、それを自らの「覚悟」として言葉を発し、それによって傷つき、滅び崩れてゆく。それは「悲劇」だが、そこにあらわれるのは、人間の尊厳であり、高貴さである。立派で非の打ち所のない行為や生き方だけが、人間の尊厳を証しするわけではない。いっけんどうしようもない卑俗な行為でさえ、そこに「覚悟」があるのなら、人間はどこまでも気高い存在として自らを証しすることができるのだ。

 登場人物が何度も口にする言葉。それは「神々も照覧あれ!」だ。この芝居の中の「現代の場面」以外では、どんな行為も「相手の顔を見て」のものではない。「相手の顔色を伺い、世間の評価を気にした」行為こそ、卑俗な行為だ。そうではなくて、「神々の照覧」を意識しての行為こそが「覚悟」のうえの行為であり、それがあれば、どんな行為でも卑俗なものとはならないのだ。

 今回の舞台では、下手よりに「現代の空間」が設置され、そこでは、現代の男女の「卑俗な恋愛」あるいは「恋」ともいえないほどやるせなく退廃した「恋」の様相が生々しくリアルに演じられた。古代の王妃の高貴なる「道ならぬ恋」の対極にあるような、救いのない卑小な世界である。けれども、最後にフェードルが毒をあおいで死んでいく傍らで、金属の容器に睡眠薬を落とし続ける「現代の女」の姿を重ねるとき、そこに永遠に変わらない「恋する人間」の姿をやはり見る思いがしたのだった。

 フェードルは神々の胸に抱きとられたのだろうか。それは分からないが、そこには「絶望の果ての希望」がたぶんある。それは、「罪」はフェードルにあるのではなく、神々の意志によるものだからだ。神々の意志を「宿命」として受け入れ、それを迷うことなく生きることがどうして「罪」でありえよう。考えてみれば、現代に生きるぼくらの「生」も、どこかでそうした「宿命」の影を帯びているのではなかろうか。ただ、それをぼくらが感じるには現代はあまりにも「薄っぺらな言葉」があふれている。神々は死んだ、のではなく、ぼくらのその軽薄な言葉の背後に追いやられているだけなのかもしれない。

 しかし、そのように考えたとしても、ぼくら現代人が、神々を生き生きと肌で感じることはもはやできないことも事実だ。「神々も照覧あれ!」と現代の空に向かって叫ぶことのできる者はいないだろう。そういう意味では、ぼくらはやはり神々を失ったのだ。それなら神々を失った「現代の女」に、果たして「希望」はあるのだろうか。

 あるとすれば、神々を失った現代の我々が、どこに言葉の「根拠」を求めるかということにかかってくるだろう。「根拠」は、もはや人間を越える大きな存在たる「神々」に求めることはできない。「覚悟」は、個々の人間の心の中でしか生まれない。その「覚悟」によってこそ、言葉はほんとうの力を再び持つことになるのかもしれない。

 現代ほど困難に満ちた時代はないけれど、いつの日か、そのようにして生き返った言葉が、言葉のはるか向こうにある「なにか」を指し示し、その「なにか」に到達することがあるかもしれない。それをこそ、演劇はいつも求めているのではないだろうか。

 『フェードル あるいは崩れゆく人々』を見終わってから、ずっとこころに漂う思いはこうしたことだ。実にとりともめないけれど、ぼくもまた、「なにか」を求めて、言葉の海に溺れそうになりながら、手探りしつつ言葉を紡いでみることしかできない。


 今回の『フェードル あるいは崩れゆく人々』の舞台は、まさに言葉の大海だった。幕開きの暗闇に流れる波の音は、その言葉の海への誘いであり、それが導くままに、およそ2時間あまりの時間、その言葉の海に首まで浸かるという稀にみる幸福な時間を味わったのだった。

 「詩劇」という上演しにくいジャンルの芝居を、「言葉の海」として舞台に現出させることに成功したのは、原田一樹の傑出した構成・演出のゆえであったことは言うまでもないことだが、言葉を舞台空間に解き放ち、観客に届かせる技倆を、確実に我がものにしたキンダーの俳優たちに負うところも非常に大きい。幾度となく繰り返し真摯に上演を続けてきた「モノドラマ」での修練の結果ともいえるだろう。それに加えて、客演の伊藤勉(文化座)、渡辺聡(俳優座)の好演があいまって、稀にみる上質な舞台となったことを喜びたい。更に、見事な照明と音響効果もこの舞台の成功には欠かせなかった。この舞台にかかわったすべての方々に、心からの感謝をこめて、惜しみない拍手を送りたい。


 



 








 

 

 

 

 


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劇団キンダースペース「全俳優によるモノドラマ 12月」──苦闘こそがすべて

2015-12-20 10:44:52 | 批評

劇団キンダースペース「全俳優によるモノドラマ 12月」──苦闘こそがすべて

2015.12.20


 

 「朗読のようで朗読でない。一人芝居のようで一人芝居でなない。それは何かとたずねたら、モノドラマ、モノドラマ。」って、「豊竹屋」だけど、まさに、モノドラマは、原田一樹によって、その特異なジャンルを確立したといっていいだろう。けれども、原田自身は、ジャンルを確立したなどという意識は微塵もなくて、それはひとつの「方法」の模索なのだとしてこんなふうに言う。

「方法J は自ら手を伸ばし、苦しんであえいで格闘してようやく自分のものとして手に入れられるものです。理解すれば誰にでもできるというのは、方法ではなくて単なる「やり方」です。古い考え方かもしれませんが、結局、舞台の出来を支えるのは、どれだけ苦闘したかということに尽きる気がします。

 一編の小説の中にある「ドラマ」とは何か。あるいは小説のどこに「ドラマ」を見出すか。そこに始まり、脚本を作り、舞台にのせる。その一連の過程にどのように取り組むのか、そこに「苦闘」がある。

 「ドラマ」とは、つまるところ葛藤である。問題は、どこにその「葛藤」を見出すかということだろう。水戸黄門と悪代官の対立は、分かりやすすぎて「葛藤」とはいえない。「葛藤」とは、もともと、葛や藤のつるがもつれたりからんだりすることをいうのだから、もつれようがない対立は実はドラマとは言えないのだ。これがもし、印籠を掲げる水戸黄門が、権威によりかかる自分の生き方に疑問を抱いたり、刃向かってくる悪代官にもカワイイ家族があろうなどと推察したとしたら、その時はじめてドラマが始まるのだ。

 つまり、葛藤は、多くの場合、心理的な問題として現れてくるということだ。

 太宰治『燈籠』・『犯人』・『喧嘩次郎兵衛』、向田邦子『花の名前』、山本周五郎『ゆうれい貸家』、林芙美子『幸福の彼方』。これが、今回のモノドラマのラインナップ。お恥ずかしいことに、ぼくはこのうちどの作品も読んだことがなかった。だから、「素」で観たわけだ。それぞれの中に、さまざまな葛藤があり、その葛藤を、そのこんぐらかった葛や藤のツルのような心を役者が演じる。たったひとりで。そこに妙味がある。葛藤が、どこまでリアルに、どこまで立体的に舞台の上に立ち現れるか、それが、「苦闘」の中身だ。

 ぼくは、役者も、演出家も、十分に「苦闘」していたと思う。その「苦闘」に見合うだけの受容がぼくにできたかどうか覚束ないが、十分に楽しめたことだけは事実だ。

 芝居そのものの中にある葛藤が、切実に実感を伴って伝わってきた芝居もあれば、演じる役者の中にある葛藤が直に伝わってきた芝居もある。あるいは、その両者が同時に伝わってきたり、どれがどれといちいち指示することはできないが、その様がおもしろかった。

 そして、モノドラマは、常にその元となった作品へと観た者を導いてくれるという功徳がある。太宰はともかくとして、山本周五郎、林芙美子といった、すでに若い人には(いや、老人にも?)読まれなくなっている(ひょっとしたら向田邦子も?)作家を「再発見」させてくれる。それはとても有り難く、貴重なことだ。

 三枝竜は初めての演出。そして、役者も、高中愛美と鐘淵だいが初のモノドラマ出演と、若い力が力強く芽を吹いているのが頼もしい。ベテラン陣も、安定した演技の中にも、それぞれの「苦闘」を秘めて、模索している。ますますこれからの「モノドラマ」への期待が高まるばかりだ。

 考えてみれば「モノ・ドラマ」という名称そのものが既に「葛藤」である。ここに、原田一樹の言う「演劇の本質的なもの」が隠れているのかもしれない。

 そして更に考える。ぼくは、42年も教師をしてきたが、教育というのもひとつの「方法」を探る「苦闘」であるべきではなかったのかと。そういう方法意識は、ぼくには特になかったが、しかし、どこかで「方法」を探って足掻いてきたような気もするのだ。そしていつも教壇でひとりでしゃべってきたのも、考えてみれば「モノドラマ」だったのかもしれない。

 そんなことを思うのも、今の若い先生たちが、ともすれば「方法」ではなくて、「やり方」を求めているように思えてならないからだ。「理解すれば誰にでもできる」授業の「やり方」を求めていては、「授業というドラマ」は深まらない。

 「教える者」と「教わる者」との対立、「分かる」と「分からない」との対立、「こうすべき」と「ああすべき」との対立、「若さ」と「老い」の対立など、ありとあらゆる対立葛藤を「授業」も含んでいる。その葛藤をこそ教室に浮かび上がらせ、そこに踏み込んでいく「方法」としての授業。そんなものを考える。もう授業をする義務もなくなったからこそできる、勝手な妄想である。

 そんな妄想まで膨らませてくれた、キンダースペースの「モノドラマ」に改めて感謝したい。


 


【パンフレットに掲載されている原田一樹さんの文章です】

 

初の独り立ち


モノドラマは、今年で、ほぼ15年目を迎えます。「ほぼ」というのは、モノドラマが初めからモノドラマであったわけではないからです。当初はただ上演の一形態として俳優一人が登場するだけの芝居をまとめて企画していました。それが何回かの稽古と、様々な劇場や会場での公演を迎える中で、俳優たちの演技の積み上げ方、それ以前の台本の整え方、演出における空間の設定の仕方、演出の方向と俳優の空間の把握、居方、動き方についての考え方が、いわゆる一般的な会話劇とは大きく異なり、しかも演劇であることの本質を求められているということに気づき、ようやくモノドラマの方法を意識したということがあるからです。もちろん、その方法を完成したなどというつもりも、そんな思いも微塵もありません。演劇を続けるということは、つまりはその方法を最後まで探り続けるということに他ならないからです。
とはいえ、今回は三枝竜がキンダースペースの演出家としてほぼ初めて、モノドラマの演出に挑戦しています。もちろんこれまでもそういう機会はありました。が、合同の企画であったり原田が横からいつでも文句を言える所にいたりしたので、本人は不本意ではあったでしょうが、その影響は消えなかったと思います。
「方法」は自ら手を伸ばし、苦しんであえいで格闘してようやく自分のものとして手に入れられるものです。理解すれば誰にでもできるというのは、方法ではなくて単なる「やり方」です。古い考え方かもしれませんが、結局、舞台の出来を支えるのは、どれだけ苦闘したかということに尽きる気がします。
その葛藤を含め、今回の舞台をご覧いただければ幸いです。


監修/原田一樹 〈石川県七尾にて〉


 



 






 

 


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