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日本近代文学の森へ 273 志賀直哉『暗夜行路』 158  大山は近い!  「後篇第四 十二」 

2024-12-02 21:04:33 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 273 志賀直哉『暗夜行路』 158  大山は近い!  「後篇第四 十二」 

2024.12.2


 

 応挙寺で、美術の世界に遊んだ謙作は、その晩は鳥取に泊まった。

 

 その晩、謙作は鳥取に泊った。此所(ここ)では幅一里長さ七里に亘(わた)る海岸の砂原にあるという大擂鉢(おおすりばち)、小擂鉢(こすりばち)それから多鯰(たね)ヶ池というその砂原に添うた小さな湖の見物を勧められたが、何里かを俥に揺られて行くのが、もう億劫で、絵葉書を買って済ました。


 「絵葉書を買って済ました」というのがおもしろい。観光地の絵葉書というものは、まだ写真の普及していない時代、旅の思い出として買うものと思っていたが、そういう「使い道」もあったのか。そういえば、最近では、観光地の絵葉書というものは、どうなっているのだろうか。まだ売っているのだろうか。まだ買う人がいるのだろうか。観光地へ、近頃とんと行かないので、その辺のことがよく分からない。

 晩飯の給仕の女中が、その地の伝説などを真面目に話すのを謙作は聞きながら、明日の天気を気にしていた。


 謙作は翌日の天気模様を気にしながら寝た。もし雨なればもう一日何所(どこ)かへ泊らねばならぬのが今は少し面倒になっていた。東郷池の東郷温泉なども面白そうに思われたが、それよりも早く、涼しい大山に登り、延び延びした気持になりたかった。
夜中、駿雨の音を聞いて、彼はこれならばかえってあしたはいいかも知れぬと思った。


 翌日は果たしていい天気だった。謙作は九時の汽車に乗った。帝国文庫の「高僧伝」を読んだり、小泉八雲に思いを馳せたりしながら、大山を目指した。ここでは引用しないが、その土地の伝説などに興味を示したりする部分がけっこう細かくて、前回の美術についてのように、なくてもいいような叙述が続くが、そうした知識はどこから仕入れたのだろうか。志賀は、大山に実際に行って、「取材」したのだろうか。それともかつて旅行したことがあり、その抜群の記憶力を頼りに書いているのだろうか。ちょっと知りたいところである。たぶん、そういう研究もあるだろうが、今は先を急ぐ。

 やがて、「外の景色」が、謙作の気持ちに変化をもたらすようになる。


 上井(あげい)、赤崎(あかさき)、御来屋(みくりや)。彼は汽車の窓から飽ず外の景色を眺めて来た。盛夏の力というようなものが感ぜられ、彼は近頃に珍しく元気な気持になった。二尺ほどに延びて密生した稲が風もないのに強い熱と光との中に揺れて見えた。
 「ああ稲の緑が煮えている」彼は亢奮(こうふん)しながら思った。
 実際稲の色は濃かった。強い熱と光と、それを真正面(まとも)に受け、押合い、へし合い歓喜の声をあげているのが、謙作の気持には余りに直接に来た。彼は今更にこういう世界もあるのだと思った。人間には穴倉の中で啀合(いがみあ)っている猫のような生活もあるかわりに、こういう生活もあるのだと思った。今日の彼にはそういう強い光が少しも眩しくなかった。

 


 まず、冒頭の地名の列挙がすばらしい。どんなところか何の説明もないのに、読んで心地よいリズムがある。大岡信の「地名論」みたいだ。地名が、地名の列挙によるリズムが、謙作の心の躍動につながる。

 そして「二尺ほどに延びて密生した稲が風もないのに強い熱と光との中に揺れて見えた。」そして、「ああ稲の緑が煮えている。」という極端な表現。──まるでゴッホである。

 これまで、この小説にこんなにも明るい、生命感に満ちた表現は一度も出てこなかったような気がする。全体にもやがかかったような、陰鬱な空気の中で、息もできないような生活が続いてきた。直子との結婚以来、子どもの死、そして直子の過ちと謙作の思いも寄らぬ残酷なふるまい。その後の直子との心理的な確執。そこからなんとか脱出して旅に出た謙作は、やっとこの景色に出会えたのだといっていい。
大山は近い。


 大山という淋しい駅で汽車を下りた。車夫を呼んで訊くと、大山まではなお六里あるとの事だった。それも俥で行けるのは初めの三里で、あとは徒歩で行くのだという。
 「それじゃあ直ぐ出かけましょう。俺(わし)は分けの茶屋で何か食わしてもらえばいい」
 これから六里の道を一緒に行くという事が既に彼らをいくらか親(ちか)しくしている感じだった。
 謙作は俥に乗った。
 「日は長(なげ)えが、何しろ半分からはずっと登りだからね」
 前に遠く、線の立派な大山を眺めながら謙作はこの炎天にこの車夫があすこまで荷を運ぶかと思うと不思議な気がした。
 「上はよほど涼しいだろうね」
 「そりゃあ涼しい。昔はこの辺の氷といやあ、みんなあの山の雪を持って来たものだ。 冬、積み重ねておいたのを夏になって、切り出して来るのだ。俺(わし)は若い頃、その人足をやっていた」
 狭い通りで子供たちが騒いでいた。人取りのような遊びで、子供たちはそれに夢中で、なかなか俥をよけなかった。
 老車夫は丁度其所(そこ)に落ちていた細い竹の枝を拾うと、子供らの頭をちょいちょいと叩きながら行った。
 「老ぼれ」「阿呆」子供たちは毒づいていたが、老車夫は笑いながら、手の届く子供の頭は一々叩いた。

 


 すがすがしい情景描写だ。子どもが老車夫をからかうさま、老車夫が子どもの頭を竹の枝で笑いながら叩いていくさま。こういうところは、何度もいうが、志賀はほんとにうまい。短編の「真鶴まで」を思い起こさせる。

 老車夫とも打ち解ける謙作の気持ちもよく伝わってくる。


 間もなく、その狭い通りから急に広い道へ出た。路幅は六、七間、両側に軒の低い家が並んでいた。それが一層この道を広々と、また明るい感じに見せた。三叉(みつまた)に竹竿を渡し、それへ白い無闇と長い物が一杯掛けてあった。片側半分ほどは軒並それだった。干瓢(かんぴょう)だという。
 「干瓢にしちゃあ幅が広いな」
 「まだ乾かねえからさ」
 「名物にでもなっているのか」
 「なに、名物というほどじゃあない」
 馳けたり、歩いたり、二人は気楽にこんな話をしながら行った。
 三里来て、其所(そこ)からはもう俥は通わなかった。老車夫は俥を百姓家に預け、麻縄で荷を背負った。謙作は麻帷子(かたびら)の裾を端折(はしょ)った。
 道から細い坂を登ると、上は広々した裾野だった。最近まで軍馬養成所になっていたか、広々した気持のいい場所だった。一体大山は馬市でも名高い所だという。
 二人はゆるい傾斜の原をゆっくり歩いて行った。


 狭い通りから広い道に出た感じが、とてもいい。これも、謙作の心の解放を示唆しているかのようだ。

 中に「三叉」という言葉が出てくるが、懐かしい。我が家ではこれを「さんまた」といい、洗濯物を吊り下げた竹を物干しに持ち上げるのに使っていた。Y字型をした道具である。決して植物の「ミツマタ」ではないから注意。

 老車夫との掛け合いも、ますます親しみの度合いをましている。こんなに素直な謙作は、初めてみる思いがする。

 これで、「十二」は終わるが、話はそのまま「十三」へと連続していく。

 

 

 

 

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